Leben雑記
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2006年02月24日(金) 忙しいと暗い…

 相手に何も求めないっつうのは、どういう状況なんだろうね。
 イライラしたりむかついたりするのは、等しく、状況が自分の想定した理想と異なるときに感じるものだけれども、だとすると、それら感情が他人に向いてしまうときというのは、つまりは、他人の行動や考えが自分の思ったとおりにならないからなんだね。とするとだ、他人にイライラしないホトケのようなお人は、つまり他人に何も期待しないこととイコールだ。それは友達でいながらして可能なことなのかなぁ。他人を決め付けないこと、これが僕の対人に関するポリシーというか理想なワケだけれども、それは可能なのかなぁ、と。
 他人を決め付けるというのは、アイツはこういう人間で、コイツはこういう人間…という具合の決め付けのこと。相手を予想してしまうこと、とも言える。これは具体的にはとても難しいことで、ふと言ったことがこのポリシーに反してしまっていたりする。「今日ヒマ?」と一言言ったとき、自分の中で(その相手に察せられることがなくとも)、コイツは大抵この日はヒマだ、といった予想を前提に言ってしまっていたら、それは失礼に値する。
 普段はそんなののカタマリのクセにね。嫉妬とか、遠慮とか、わきまえとか…。それらは、ともすると良いものと見られたりもするけれど、その本質において今挙げてるポリシーには反するものだ。そのことを忘れるのはとても危険なことだね。
 と言いながらまた、遠慮から、皆に手伝ってとメールが打てない俺…。

 どうせ誰も手伝ってくれねーよ、と非難したい感情が、実際手伝ってもらってはそのエネルギーをぶつける対象を失うことを恐れている…と、表現することも可能かもね。心が構造的悪者を定立しようとしている…。それは、実際どんな人間がその位置を占めるかが問題なのではなく、自身の平安と憂さ晴らしのために必要な構造的役割。
 あるいはまた、自分のコトを誰も考えてくれないことへのイライラ?
 あるいはもっと単純に、断られたら凹む…というだけなのかも(笑)。


2006年02月21日(火) フーフー!

 もおダメだ。
 構造主義がどうたらいってられる状況じゃない。
 俺の今と卒業後の構造のために頑張らないと。
 フェミニズムとか社会性がなんとかとか、やたら自分の役にはたたなそうなこと考えてる場合じゃないわ。フーコーとか言うな。ウザイ。フーフー言うなって! ネコか!

 そおいえば最近、ボードのせいで下火になっていたオシャレへの欲望が再燃してきた。忙しくてボードいけなくなってきちゃったしね。パスマガ(地方のファッション雑誌)を読んでは、まだ見ぬジーンズに思いを馳せてみたり。いろいろ小洒落たメーカーが最近多いですね。リーバイスとエドウィンしかもってなかったあのころは一体!? 今時代は、アールジーン! オベリスク!! カスタムカルチャー!!! ユニクロ!!!!  ……アレ?

 いや、ユニクロを馬鹿にしちゃいけない。あそこの靴下はすばらしいね! 結構丈夫よ? まったくやる気のない無地靴下よ? ゆってて気づいたけど、俺ユニクロで服は買ってないじゃん? 全然オシャレ評価になってないじゃん? たぶん靴下とボード用の防寒着(ヒートテックとかボディテックとかいうやつ)のためにあるブランドだね。まあ! なんてオシャレなブランドかしら!!

 絶対就職したらスーツオシャレする。スゴイ高いと思うけど、する。したい。そんでちょとカッコいい男になる。彼女欲しい。←


2006年02月20日(月) 恋愛の社会性

 恋愛の社会性――ホモ・セクシュアルを手引きとして

 例えば、バナナを売りたい人がいて、バナナを買いたい人がいたとしたら、両者の間には流通が生じるだろう。この例で重要なのは、流通の成立にはお互いの役割が不可欠であるということ。売り手はその買い手を特定して欲しているのではない。売り手はバナナを買いたいと思っている買い手を欲する。それは無論、逆についても言えるだろう。
 つまり、その円環は、同じルールに属するそれぞれの役割を担うもの同士の間でのみ作動する、と言えよう。異種のルール同士の間では、円環――流通は、そう簡単には成り立たない。
 (明日へ残す言及ポイント:レヴィ・ストロースの問題)

 本音を言おう。おおっぴらにはあからさまな差別的発言を控えている常識人たちも、また、もちろん、さして常識も持ち合わせていない者――僕のような――でも、ホモ・セクシャルの問題に関しては多くを語りたがらない。少し余談だが、クラスメートY・Mは、かわいらしくも素直で単純に、ホモ・セクシュアルを「気持ち悪い!」と言っていた。その場の誰が実はそうであるかもわからないのに、彼女は声高に言ったものである。われわれの中に、ホモ・セクシュアルに対する抑えようのない偏見が存在すること、これは押さえておくべき点である。
 そして、もしもそれが、単なる無関心の故でないとしたら? 彼らに対し思わず向けていた猜疑の目が、自分とは違う趣向の持ち主に向けられる無知の念とは、異なる源泉から生じるものであるとしたら?
 以下のように仮定してみるのは、おそらく興味深い問題へわれわれを導いてくれる。ホモ・セクシュアルは新たに出てきた傾向であるから、それは、“既存の何か”を打ち壊すだろう。なぜなら、新たな勢力は、必ずほかの勢力の只中で生じてくるからである(実在空間の理屈)。既存の何かとは、端的に言って従来どおりの異性愛(ヘテロ・セクシュアル)のカタチであろう。それは個人の自由の問題には抵触しない、なぜなら、ホモ・セクシュアルの人間がどれだけ増えようと、そうでない人には何のかかわりもないはずだからである。とすればこのように言えよう、われわれは、今まで成り立ってきた社会の常識としての異性愛が崩壊するのを嫌っている。


 少し視点を転じて、このようにも言えるだろう。すなわち、われわれがほとんど意識せずに担っている性差は、ほとんどの場合において、社会の基盤として存在する。つまりそれは、一般的にジェンダー(社会的性差)として語られているもののことであり、実際この概念に当てはまる現象は非常に多い。
 例えばそれが、前回・前々回と書いてきたような、われわれの中にある行動の受動・能動的傾向である。引っ込み思案な女の子がいとおしく見えたり、あるいは、リードしてくれる男性が頼もしく見えたりといったことは、ジェンダーの故である。つまり、それは相手の社会性に対する好意にほかならず、言わば、流通における買い手が売り手を求めるのと同じ原理である。
 恋愛の社会性。


2006年02月16日(木) 最近ウツ気味

 普段、何気なく話す友達のほとんどが女の子なんだけど、なんでだろ?
 いや、女の子の友達がいるのは、たぶんそれなりにシアワセなことだし、ソコに対して何か文句があるわけじゃないんだ。
 なんで、男の友達の割合が少ないんだろ…?
 いないわけじゃないんすよ。むしろ、へたな奴よりは、確実に男友達も多いとは思う。でも、自分で、ああ、この人はほんとに友達だなと思える人のほとんどは、女の子なんだよね…。
 ツルむのが嫌いっていうのはある。「たいてい二人でいる」みたいな関係の女の子たちがいたりするけれど、男でそれをやったら相当キモいだろうなとか、思う。今までにもそう思われたりしたけれど、思われた瞬間から、一緒にいないようにと意識してしまったりする。そういうところがいけないのか。
 なんか、女の子と話してると、女の子達は同性の相談できる友達というのをとても大事にするから、自分にそういう相手がいないことがふと不安になったりする。M・Hが聞いたら、そんな不安を覚える男を、おぞましいと言いそうだが(笑。

 これはとても素直な実感。ただ、少しでもパフォーマティヴに、言わば“公理”を言い出せば、「一人でいることが基本姿勢」と、まっさらな本音で言える。でも、現実のレヴェルは公理で動いているわけではなくて、いろいろな定理を疑うことをせずルーチンな思考で使いこなしていかなきゃいけない。だからこそ、考えることなしに生きていくことが可能なんであり、しかも公理からは導かれえない間違った式を定理と信じて使ってしまったりもしてしまう。
 今、とても難しく感じる、この僕流の「根本を忘れず」は、もしかしたら次のステップへの道程というわけではないのかもしれないね。これをずっと意識していることが僕の目指す大人ってもんなのかも。これを、いつかは意識せずとも当たり前にできるようになるなんて、信じてはいけないのかもしれない。

 ああ…、最近こんなんばっか。
 思ったとおりにパフォーマンスできない。
 暗くてダメだね、今日は。
 最近ボードも行ってないし。


2006年02月15日(水) メールの保護を解除

 最近、携帯のメールボックスの中のメール保護してあったメールを、解除してまわってた。何日かして何気なく過去の受信メールを眺めていたら、解除し忘れていたらしいメールが連続で3個ほど見つかって、そしてそれこそが僕が解除したいと願っていたメールで、ほとんど顔をそむけんばかりにして解除した。早く流れていってくれと今は思ってしまう。だからといって削除する勇気はないんだけど。
 暗い性格だなと思うわ。後で読んだとき、自分の何がそうさせたのかが一目で分かるように、ちゃんと書いとこうか。冷静になれたとき、次はその失敗を繰り返さないように。
 自分がなんとも思われていないのがショックだった。
 それなりに大事な、友達だとかですら。


2006年02月14日(火) フェミニズムと、身のまわりの女の子

 僕のたいていの女の友達は、エスコートしてくれる男が好きという。あるいは、あからさまにそう見える。彼女たちと食事に行くときの七面倒くささといったら! 少しは何か提案してよ、と思う。せめて、それじゃヤダとか、〜系がいいとか。
 となれば、この間のここにも書いたM・Hが図らずこぼした「女々しい男が好き」という意見(そう言ったときの彼女はとてもかわいかった)も、おそらくは一般的にはマイノリティであろう。
 それに対する分析の用意があまり整っていない今、この男と女の現状を生み出した原因について、深く追求することは避けよう。また、前回の内容にしても、それが絶対だといいたいのではなく、あくまで一つの意義としてこういう言い方もできるという程度の意味合いしかない。アレは分析と呼べる代物ではないことをここで強調しておこう。


 少なくとも今、女は受身であることが多く、受身でいることを求められ、男は能動的であることが多く、能動的であることを求められる。
 浅田彰が以前、フェミニズムの意義は現状のロジックの上に「男>女」の図式があるものを転倒させて、「男<女」の図式にすることにあるわけではないといったことが思い出される。本当の意義は、そもそもそれら図式を成立させるためのパラダイム、ここで比喩的に言えば、>、<といった記号を用いたパラダイムでなく、等号(=)を持ち出すような新たなパラダイムで両項を比べることができるようになることである。
 上野千鶴子が意図的・戦略的に行なっているような男の代わりとしての女の台頭を進めるフェミニズムにわれわれは注意しなければならない。本当に重要なのは、どちらかが優位に立つような仕組み“それ自体”を壊してゆくことにある。具体的に言うと、男の仕方で男が優位にいたのが今までであったとすれば、上野千鶴子が推し進めるのは男の仕方で女が優位に立つということである。それは間違っている。「男の仕方」というものを根本的に疑うことが必要になる。つまるところ、土俵自体を疑うこと。パラダイム自体をいったん崩してしまうこと。そのためには既存のロジックと常識を疑うだけの批判的視点が重要になる。
 これは少し僕には荷が重いが。


2006年02月13日(月) 社会的性差を無くそうとすることのひとつの意義として

社会的性差を無くそうとすることのひとつの意義として。


典型的反駁例:
 多くの女性は、そのことを表に出すか出さないかにかかわらず、男性のエスコートを期待するものらしい。たとえばそれは、デートの段取り決めであるとか、典型的なところではプロポーズをどちらかするかとか。このことは、女性の男性への受身的態度である、と言うことができるが、それよりもより的を得た表現は、女性の男性への依存であると言うことだろう。
 他者への働きかけは、どのようなものであれ、自身の希望と反する反応が相手から返ってくるかもしれないという不安が付きまとう。それは、望ましくないことなのだから、他者への働きかけはある意味リスクに他ならない。女性の受身的態度は、このリスク回避のためであると捉えるのが妥当だろう。
 それでいいのかな、女性諸君?
 余談だが、女性が気の変わりやすいものとして描写されるのも、実際は、男性とその点について差があるからというよりもむしろ、女性のほうがより男性からの働きかけを多く受ける構造があるため、男にとってはそのように見えるというだけの気がする。


あまり反感を買われないであろう反駁例:
 女性にとっては――無論それは男性にとってもだが――、男性からの提案に対して応える形で受身的に接し、付き合っていくことは、たしかに“楽”なことだろう。
そのような女性の性質を責める前に、こういうことは言えはしまいか。すなわち、男性の側からすると、あれこれと提案してくる女性よりも、自分の提案に対してマルバツで答えるような女性のほうが扱いやすいだけなのだ、と。つまり女性はこの点で、男にとっては非常に都合がよい。女性から、自分にとってクリティカルな批判をされたり、意見を言われたり……そういうことにヒステリックに怒り狂う男性がいたりするが、これはそのことのよい証拠だろう。
 つまり、ある種の男性からすると、女性というのは常に自身に影響を与えてくる存在であってはならず、せいぜい自分が相手に影響を与えるだけであり、また、そのような相互影響関係の希薄さが、むしろ二人の関係を安定にする、といえるだろう。
 であるから、新人類とでも言うべき、「軟弱な男」である、女性からの影響も自分が相手に与える影響と同程度に重視するタイプの男というのは、古風な女性には嫌われるが、むしろ前衛的で積極的で劇的である。なぜなら、そのような二人の関係は、相互に影響を与え合うために極めて不安定であるからだ。
 むろん、それこそが新たなタイプの男の求める関係なのだが……。

 2005年11月14日


2006年02月11日(土) ヘーゲルの「高次の認識」と、実在の条件としての無矛盾

 とある授業のレポートとして出した、先生へのお手紙。つまりヌルいこと書いても単位あげますよ、という授業に出したレポート。書き上げるまでの所要時間は40分くらい。2006/02/10作成。つまり昨日。

 感想です。
・ヘーゲルの考え方
 弁証法というのは、一般的に言われているように、ヘーゲルが自ら正・反・合からなる方法論として、いろいろな論を組み立てるときに使用しているのだと思っていました。ところが講義では、ヘーゲルがむしろ自分の哲学の全体の構想として弁証法的運動を想定していて、それによって哲学を全体性へと至らせようと考えているのが明確に示されていたように思います。
 講義後半でやった、懐疑論と、カントの二律背反のような論をまとめて、懐疑論と呼んだ上で、それらが持つ命題とその反対命題(例えば、「教師である」と「生徒である」)の両方を同時に成立させ(例えば、「教師でありかつ生徒である」)、より高次の認識を得ようとする思考が、ヘーゲルの弁証法の例なのだと思います。

・疑問に感じたところ
 ただ、少し疑問なのは、この例での「教師でありかつ生徒である」は、字義通りに受け取って、教師と生徒を時間差をつけて成立させるなどといった方法を無視して考えた場合、明らかに矛盾なのですが、そこらへんはどうなのでしょう。無矛盾性が実在するための条件であるとすれば、このときヘーゲルが高次の認識と呼ぶそれは、決して実現されません。それは概念としてのみ存在する、とは言えますが、しかし、人の中に、人の考えとしては存在できないと思います。
 なぜか。まず、無矛盾性が実在するための条件であると言うのは、矛盾の定義「相反する二つの事柄が同時に成り立つこと」から考えて当然のことだと思います。物質として存在するためには、必ず、無矛盾でなければならないと思います。例えば、端的に「ある物質Aがそこにある」と「ある物質Aがそこにない」は、同時に成り立ちません。同時に成り立つためには、二つの文章が示す「A」あるいは「そこ」という言葉の意味が双方で異なる必要があります。それはすでに命題を変えたこととイコールです。なので、繰り返しになりますが実在の条件として無矛盾が絶対です。
 そしてつぎに、これが人の考えとしては存在できないのはなぜか、という点についてですが、これは少し精緻な表現をする必要があります。矛盾は存在可能です。たとえば、相反する二つの命題をただ紙に書いてみれば、矛盾は生じます。ただし、今のうちに踏み込んで言ってしまうと、矛盾とは無意味性なので、この並べられた二つの命題はなんら意味をもたなくなると思います。
 思考はすべからく、アタマから外部へと移した時点で、時間と空間の属性を失うように思います。それゆえ、お互いに矛盾する二つの命題はそこに並列して並べることができるのです。時間と空間の属性を維持するような場にある限りにおいて、矛盾は不可能です。そのような場とは、つまりは人の中、すなわち思考・感情・心です。あるいは単純に、物質の世界です。たとえば、「怒っている」と「怒っていない」は、同一の人の中で同時に成り立つことがありません。例えば、「Aがある」と「Aがない」は同一の時間と空間を前提する限りにおいて成り立つことがありません。

 以上のことから、ヘーゲルの言う「高次の認識」が、有意味な概念として考えることができるのかどうかが、いまいち僕にはわかりません。それが概念として考えることができるように感じるのは、概念化という思考法の持つタマネギ構造によるもの――すなわち、捉え直し――によって、無意味な概念をさらに概念化しているからであるように思えて仕方がないのです。
 至らない考え&練ってない文章ですいません。これで終わります。


2006年02月10日(金) 自我・意識の統一の問題

 ある均一な概念は、それ以外であることができない、というのが心の非論理性の論拠であった。とすれば、こうは言えまいか。

 「主観を一つだけ想定する必然性はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい、それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている「諸細胞」の一種の貴族政治? もちろん、たがいに統治することに慣れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?
 主観を多数とみなす私の仮説。」
                    ニーチェ『権力への意志』490,ちくま学芸文庫


 われわれが思考や感情を持つとき、それらはすでに結果である可能性がある、ということだろう。というのは、「諸細胞」のあいだの「協調や闘争の」結果、である。われわれが実は不明確に持つ感情や思考は、矛盾することもありうるかもしれない。ただし、僕はこう主張しよう。不明確でないような、つまり己が己を統一体として認識する明確な自我は、そこへ至るまでの経緯がどうであれ、最終的に単一であるから、無矛盾である。
 このへんに、感情と冷静な思考との違いがあるのかもしれない。人々が感情というとき、それは明確な外縁を持つはっきりとした思いであることは少ない。例えば、「誰々に対する何々という感情」という具合にクリアに示すことが難しい類の曖昧模糊としたものも感情に含まれるからだ。


2006年02月09日(木) 自己分析

 自分の感情の出所を明らかにすること。
 あるときに、自然的に湧き上がってくるように感ずる感情でも、必ずや自分の中にすでにある価値観や考え方をバックグラウンドにして発生している。もしも自分で気に食わないと思う自分自身の行動、言葉、苛立ちがあったのなら、その発生について言及してみることは良いことだ。なぜそうしたのか、なぜ言ってしまったのか、なぜイラついたか。そこには必ず自分で意識することがなかった、その意味で異様で醜い自分の隠れた特性が浮かび上がるだろう。それは今まで自分の行動や言葉を無意識のうちに制限し成立させていたものだ。それを取り除くのかどうかはその後考えればよい、少なくとも、それを発見できた時点で、自分の自由度は大きく向上する。
 精神分析の第一歩。自己分析とはこのことだ。


2006年02月08日(水) 夜中モードで

 友達と話してた。友達なのかな。とにかく、三人で午前3時半まで。
 社会に出て数年…みたいな状況以上でない限り、やっぱり年齢の差というのは大したものなんであって、普段年下としか話さない僕にとっては、同じ年の人間と話すことは、それなりに、おお! と思わされるものがあった。いや、もう一人はいつもどおり年下なワケだが。
 単純な話。たぶん、自分が考えもしないことを口にしていて、むこうはそのことを少し考えたことが今までにあった、ただそれだけのことなんだろう。それでも。
 単純に年齢を比べられないこと。すごしてきた時間の、その密度の差。それは経験に対して考える時間があったかどうかが意外とクリティカルであること。僕は暇な二年間を人よりも多くすごし、おそらくそのことはそれなりに見えないところで意味を持っていて、しかしほかの人はその分がない、というか、その二年間分はこれから体験していくであろうということ。
 自分を見ることができる、と過信するのはやめよう。それは、僕に言わせれば論理的に批判することによってしか表出することがない。つれづれに思い悩んでみても見えてくるものではない。自己批判、忘れないように。


2006年02月07日(火) めんどくさがらずに、ね

 最近本を読まなすぎる。いくない。
 思考のレヴェルが日常段階に落ちているのは事実だ。それも仕方ないのかもしれない。大学に入ったばかりのころと比べれば、そういったアクチュアルなことを考えなければいけない時期に来ているのだから。それにしても。それだけなのか。違う気もする。
 釣られてしまっているんだろうか。みんなに? 彼らを知る前はあれほど分かっていたこと、すなわち、本を書いているような人たちに対し思考を挑戦させるべきであって、日常的に出会う人たちに対し思考を実践することに意味がないということ――そしてホントにそんなことをしてしまっていては、相当ウザイ奴なのだが(笑――を、どうも最近失念してしまっている。
 いったん距離をおいてみても良いのではないか。それこそが正しいのだと言うのではなく、単に試みに。もしも単に自分を取り巻く状況がアクチュアルだから本を読まなくなったり思考に没入することがなくなったというのなら、みんなと距離をとることで判明する。自分に迫る問題にだけは距離をおくことができないから。
 局面を区別できるようになろう。本を読む時間、みんなと遊ぶ時間、自分の将来を考える時間、そして実践する時間。スキルとして必要なことだ。


2006年02月06日(月) 非論理性2

 久しぶりだけど、イキナリ前回の続き。

 心の非論理性はおそらく事実だが、その原因については以下のように考察可能だろう。これは細かく言及可能な問題なので、今回は矛盾に陥らない原因について言及する。この部分だけ取り上げると論理的であることになってしまうので…。

 もともと論理性とは概念、属性などの同一性の問題と関連している。というのは、等号で結ぶことが可能なのは、同一のもの同士だからである。とすると矛盾は、相反する二つの事柄が成り立つことを言うのだが、これは、概念、属性について同一であるもの二つが相反することがないために、通常は起こりえない。本来同一でないはずのものを不当に等号で結んだ場合、それが一般的な矛盾である。例えば、数学の問題で式を展開してゆく過程で誤った式を等号でつなげてしまったときのように。(「1+1=3」1+1と3は本来別のものだが、誤って同一のものと認識した。これが矛盾である。)

 心は普通、己自身が“一なるもの”であることを確信している。自分のほかに自分自身が存在する、などと本気で信じる人はいないだろう。試みにそう考えてみることはできるとしても。しかしこういうと次のような反論があるかもしれない。多人格の問題。しかしこれとても“心は”という部分に着目すれば上記の核心を揺るがすことはない。ひとつの体に多くの心が存在するだけのことである。心という概念は、それ自体同一性を維持している、というか、己がそうであると信じている。
 これがために、感情や心の問題として、「相反する二つの事柄(感情や心)が同時に成り立つことはない」と言えよう。

                           ※
 最近週末は必ずスノーボードに行ってる。ワンエイティは、目線が重要だね。ようやく分かってきた気がする。踏み切り前に体と目線を後ろのほうへ先行的に移動させておくと回りやすい。そんな短い日記。


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