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■ 春の闇とくちなし
くちなしのかおりがすきだといったひとがいた。 わたしの記憶では、くちなしのにおいは春の闇と濃厚にむすびつく。 むかし、くちなしがある庭に面したへやにすんでいたわたしの夜は、 毎春そのすぐれた香気でみたされた。 目をとじていても花の白さがまぶたにうかんでくる自己主張のつよい かおり。それでいて、闇の色にはけっしてそまらない純白の花を咲か せる日本・中国原産の常緑低木。 雨あがりの夜にはいっそう濃厚で、官能的に薫ってきた。 水で濡れた土のスパイシィなにおいと混じりながら。 白いノースリーブのワンピースの女の子が、春の闇のなかでひとり遊 びしているような印象。 ひんやりとした夜気につつまれたような、少女のエロス。 まだ、ことばで愛をつたえる術【すべ】をもたない、それでいて、感 覚的には官能の喜びを十分しっているような幼い女の子のイメージ。 そのひとは、晝のくちなしがすきだといっていたのだけれど、 いったいどんなイメージをもっているのかなぁ? 噎せかえるような、そしてちょっと淫靡なエロティシズムにみちてい る印象のこのかおり、わたしはとうてい太陽のしたで楽しむ気にはな れないのです。閨の中で芳らせたい、堪能してほしいかおり。 いやらしいなんていわないでください。 でも、お気にいりのくちなしの香水も「水にうかぶガーデニア(西洋 くちなし)」=清楚さやみずみずしさ、をイメージして調香されてい るのだった。 もしかしたら、エロスとはほどとおいかおりなのかも。 あすは、春の闇とくちなしのかおりをまとって出社します。 足りないのはことばだった。(中略) 生き延びるために−−わたしは厳密に、精確に自分の意志をつたえようとする。 懸命に努力する。そのためにことばを欲する。(中略) 詩、ことば。 だが、それだけでも足りない。 言葉を超えた感覚による伝達というものを、わたしは実践した。 たとえば、嗅覚。 においに託してなにかを告げること−直戴的【ちょくせつてき】に。 言動が誤解されるのならば、わたしの存在やわたしの感情といったものは 漂わせた馨りで受けとってもらおう。 (古川日出男『アビシニアン』2000、幻冬社) くちなしの花言葉は、とてもうれしい・わたしはあまりにもしあわせです・ 清浄無垢・夢中・優雅 。
2005年03月15日(火)
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