月に舞う桜
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★合計19冊 123. 一穂ミチ『きょうの日はさようなら』 124. 翔田寛『黙秘犯』 125. 大山誠一郎『赤い博物館』 126. 東野圭吾『犯人のいない殺人の夜』 127. 染井為人『正体』 128. ジョン・ロールズ『政治的リベラリズム 増補版』 129. 東野圭吾『天使の耳』 130. 小笠原慧『あなたの人生、逆転させます 新米療法士・美夢のメンタルクリニック日誌』 131. 坂木司『仔羊の巣』 132. 小笠原慧『風の音が聞こえませんか』 133. 江國香織『抱擁、あるいはライスには塩を(上)』 134. 江國香織『抱擁、あるいはライスには塩を(下)』 135. 東野圭吾『マスカレード・ゲーム』 136. 東野圭吾『ある閉ざされた雪の山荘で』 137. 染井為人『鎮魂』 138. 梶井基次郎『檸檬』 139. 東直子『春原さんのリコーダー』 140. 川内美彦『尊厳なきバリアフリー「心・やさしさ・思いやり」に異議あり!』 141. ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
※数字は1月からの通し番号
先月から読んでいたロールズの『政治的リベラリズム』をどうにか読み終えた。が、私の頭では、ほとんど理解できなかった……。『正義論』もかなり難解だったけど、『政治的リベラリズム』に比べれば『正義論』のほうが理解できたかもしれない。 今月は、小説をたくさん読んだ。 染井為人の小説は始めて読んだが、『正体』がとても良かった。死刑判決を受けた少年死刑囚が脱獄して逃亡するというストーリーは、映画『逃亡者』の二番煎じ感が否めないといえば否めないけれど、逃亡先でのエピソードはいまの日本の様々な社会問題を突きつけるものだった。オリンピックという華々しさの影にある劣悪な労働環境、デジタルタトゥー、田舎の男尊女卑と嫁に押しつけられる介護、新興宗教、介護施設の人手不足、そして司法と死刑制度の問題。 それから、主人公が逃亡先で名乗る偽名がどれも、現実の冤罪被害者の名前を模していて、そこに著者の並々ならぬ思いを感じた。 あとは、川内美彦の『尊厳なきバリアフリー』も良かった。車椅子ユーザーである著者が、日本のバリアフリー施策が障害者の人権と尊厳のためでなく「やさしさ」や「思いやり」の話にすり替えられており、いかに「使えない」ものになっているかという現状を、自身の体験と法律の条文をまじえて語っている。車椅子ユーザーである私にとっては、目新しい内容は特にないけれど、どうして私が日々尊厳を削られるような思いで暮らす羽目になっているのかがよく分かる。これは障害当事者ではなく、健常者が読むべき本だ。
9月9日の日記に書いた、ホームと電車の隙間・段差を縮小する対策によって却って面倒なことになっている件に関連して。
A駅に行く用事があった。 A駅で隙間・段差縮小対策が実施済みか分からなかった(最新情報がJRのサイトに載っていない)ので、問合せセンターに電話した。 10分ほど待たされ、A駅はすべてのホームで2カ所ずつ対策実施済みとの返答。 が、実際に行ってみると、私が使うホームはまったく対策がされてなかった。 偽情報を掴まされて、すんげぇ驚いたよね。 しかも、帰るとき、下車駅であるB駅では自力降車できると分かっていたから「B駅に連絡しなくていいから乗るときだけ介助してほしい」とA駅で頼んだら、降車駅に連絡しないと乗せられないってさ。 そういうときに限って、降車駅であるB駅に電話が繋がらないし(電話に出ないらしい)。 こちとらB駅では何度も単独で乗降したことがあって、駅員に頼まなくても問題ないと分かってるんだわ。でも、連絡してからじゃないと乗せられないって。 いったい何のための隙間・段差縮小対策なの?
念のため言っておくと、JRにだって、まともな駅員さんはいる。 でも、いかんせん、会社の運営方針(の根底にある考え方)が障害者を舐めてる。 ちょっと電車が遅れただけで申し訳ございませんとアナウンスするくせに、障害者は何十分待たされても当然と思ってやがる。
とある支援機関で面談だった。前回の面談はコロナ禍前だったので、もう3年ぶりくらいだろうか。
昨今、ホームと電車の隙間・段差を縮小する対策が進んでいるけれども、乗車駅と降車駅で同じ位置が縮小対策されていないと意味がないし、JRはどの駅のどの位置に対策を施しているかの最新情報をサイトに載せていないので、かえって面倒なことになっている……という話をした。 「ホームと電車の隙間と段差を順次、解消していってるじゃないですか」と話し始めると、何と、「え、そうなんですか?」と返ってきて、びっくりした。私はその先の話をしたいのに、そこから説明しなきゃならないのか。 障害者の支援機関を称するなら、障害者まわりのあれこれをきちんと把握しておいてほしい。 相手が支援者でない一般人なら全然構わないし、一から説明するのもまったく嫌ではない。でも、障害者支援の人なら職業上、前提は共有しててほしい。話の前提を共有できてないと分かると、話すのも疲れてしまう。
あの支援機関は、具体的に何をしてくれるのか、いまいち分からない。登録してる意味あるのか? と疑問を持ちつつ、まあ繋がりを作っておけば損はないだろうとも思って、ずるずると関係を続けている。
ここ数年、子どもの頃に奪われた時間を取り戻すような生活をしている。 それでも、奪われた貴重な時間は絶対に取り戻せない。幼児期には幼児期にしかない、小学生時代には小学生時代にしかない時間がある。 時間を奪われなければあの頃に出来ていたはずのことは、もう絶対にできない。大人になってからでは取り戻せない。
なぜ、あんな小さな頃から、あんなにまで時間を奪われなければならなかったんだろう。 なぜ、あんな小さな頃から、毎日毎日、一日中頑張ることを強いられねばならなかったんだろう。 なぜ、あんな小さな頃に、自分にまったく責任のないことで、あんなにまで尊厳を踏みにじられ、怒り狂われ罵倒されなければならなかったのだろう。
なぜ、と問うても、納得のいく答えなんてあるはずもないけれど。
日々降り積もる怒りは、どこへ行くのだろう。 雪のようには溶けやしない。溜まっていく一方だ。 体内の花粉の量が許容量を超えたら花粉症を発症するというが、怒りの蓄積が許容量を超えたらどうなるのだろう。
2022年10月07日(金) |
またもや、こんな扱われ方 |
集団接種会場で新型コロナのオミクロン株対応ワクチンを打った。 誘導スタッフがことごとく、私ではなく介助者に向かって説明するので、危うくブチ切れそうだった(こらえたが)。 接種するのは私だけで、付き添いで来た介助者は打たないと分かっているのに、あの態度は何なんだろう。説明に対して私が頷いたり返答したりしても、そのあともずっと介助者の顔ばかり見て説明を続ける。それも、たまたまスタッフの一人がそういう態度だったのではない。何人もが、それ。 そこに私が存在するから説明が必要なのに、まるでそこに私は存在していないかのような扱われ方だ。
私は、コミュニケーションの相手と見なされていない。 もしくは、説明を理解できる人間と見なされていない。 もしかすると、一個の人格を持った主体とも見なされていないのかもしれない。
こんなことは、これまでに何回も何回も何回も経験した。だからといって、慣れるわけはない。 日本人女性の平均寿命からいうと、私はまだ人生を折り返してもいない。 死ぬまでにあと何度、同じような目に遭わないとならないんだろう。もういいかげん、こんな人生から解放してほしい。
日常生活の基本的なこと(移乗、更衣、排泄、食事の準備、入浴など)に介助が必要な人生だと、独りで丸一日を過ごすことが不可能だ。 この先、死ぬまでずっとそうなのだと考えると、ぞっとする。 (私が生きているうちに、人間並みに介助ができるロボットは開発されないだろう)
独りで丸一日を過ごすことが不可能なのは、配偶者と生涯添い遂げなければならないとか、子育て中だから独りの時間がないといったような、自分で何か人生を選択した結果、そうなったのではない。 私はただ、生まれさせられただけだ。
何がぞっとするって、これが解決できない事柄であり、生きている限りこれだということだ。 今は家族がいる。もし家族がいなければ、ヘルパーを頼んだり施設に入ったりしなければならない。どのみち、同じことだ。
今日は、家族が出払って、ほんの2時間弱だが家に独りでいられる時間があった。 この時間が永遠に続けばいいのにと、心底願った。 静かな家の中で、お腹も空かず、トイレに行きたくもならず、疲れもせず、ただ独りでずっと本を読んで過ごせればいいのに。死ぬことが許されるその日まで。
けれど、そんな独りの時間はすぐに終わってしまうのが現実だ。 私は、日常生活全般に介助がいるから、誰かしらと関わらなければ生きていけない。それは、ものすごく面倒くさく、疲れることだ。
死ぬまで、丸一日を独りで過ごすことが不可能な人生、本当にぞっとする。
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