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2001年04月30日(月) (fake 007 岡田光玉の真実)

田光玉の真実



光記念館の真実(4)――偽りの教団史 No: 5675 [返信][削除]

投稿者:崇教インサイダー 03/04/05 Sat 22:16:20
 光記念館に展示されている教団史は、昭和20年終戦から、昭和34年立教までが空白となっている。この間の史実は、以下の書籍で得ることができる。

[1] 新宗教辞典 東京堂出版 S59.9初版
 上越教育大学教授 松野純考編著

[2] 新宗教事典 H2.3.10初版 発行:弘文堂
編集:國學院大學日本文化研究所助教授 井上順孝
   明治大学商学部教授 孝本貢
   関西学院大学社会学部助教授 対馬路人
   国立民俗学博物館助教授 中牧弘允
   東洋大学社会学部教授 西山茂

[3] 新宗教教団・人物事典 H8.1.30初版 発行:弘文堂
編集:「新宗教事典」に同じ

[4] 神道人物研究文献目録 H12.3.30初版
編集:國學院大學日本文化研究所 発行:弘文堂

 それでは各文献に記載された内容を紹介する。

1. 岡田光玉
 [1] 201頁
 昭和十八年インドシナ戦線に配属されたが、重症のカリエスを発病して帰国。当時、世界救世教の有力信者だったことがある。
 [2] 840頁、[3] 380頁
 戦後、世界救世教に入信して教団の有力信者になっている。
 [4] 140頁
 世界救世教の有力信者を経て、昭和三十四年に世界真光文明教団の前身であるL・H陽光子友乃会を設立する。
 【研究書】
  笠原一男『現代人と仏教―親鸞・蓮如・新興宗教の七人の教祖たち』評論社、1971。
  猪野健治・梅原正紀・清水雅人『民衆宗教の実像―十二人の教祖たち』月刊ペン社、1972。
  畑中幸子編『現代のこころ−崇教真光』旺文社、1987。
  『アカデミア』人文・社会科学57、1993。

2. 岡田恵珠
 [2] 840頁、[3] 381頁
 本名・甲子(こうこ)。神名・聖珠。昭和四年(一九二九)一二月一六日−−
 世界真光文明教団の創始者である岡田光玉の養女。
 初代教え主の死後、二代教え主の就任をめぐる裁判に敗訴し、昭和五三年新たに崇教真光を設立。

3. 世界真光文明教団
 [2] 475頁
 世界救世教の支部長をしていた光玉は、昭和三十四年(一九五九)、五日間の人事不省から覚めると「天の時到れるなり。起て、光玉と名のれ。手をかざせ。厳しき世となるべし」との神示を受け、L・H陽光子友乃会を設立して活動を開始、翌年宗教法人となった。

<上記書籍の図書館での所蔵状況>

岐阜県内の公立図書館 http://www.library.pref.gifu.jp/oudan.htm
 [1] 県立、恵那
 [2] 県立、関、美濃加茂、大垣、池田
 [3] 県立、可児、白鳥、海津、池田
 [4] 県立

全国の大学・研究所の図書館
 [1] 117個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN0079840X
 [2] 291個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN04347570
    82個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN11093993
 [3] 161個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN13693823
 [4] 74個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA46403053

 結論的には、光記念館になど行かなくても、最寄の公立図書館で事典類を調べれば、正確な知識が身につくわけだ。こんな博物館ははっきりいってインチキだ。岐阜県登録博物館は取り消されて当然である。
 なお井上順孝氏は現在、国学院大学神道文化学の教授である。
 http://www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/




立教の疑問? No: 3866 [返信][削除]

投稿者: 03/01/05 Sun 00:44:02
「神示」により立教し、教義を構築して行ったと伝えられていますが、それと同時期に、岡田光玉による、情報収集には余念がなかった事実があります。
崇教真光で伝えられている部分では、朝な夕なに神からのお告げを書き留めて行ったと伝えられているにも関わらず、他宗教を調べ上げていた。
そして出来上がった教義は、誰が見ても寄せ集めと分かる内容になっている。
岡田光玉が情報収集をする理由が見えて来ない。
立教時の近辺を取り巻く環境からも、意図的に作られた教団で有ることは確かに思える。
本山建設までの間には、組み手に掛かる負担は相当なものであり、分裂した双方の権力争いに、組み手達が巻き込まれた形にもなっていたようだ。
崇教真光の2代教しえ主、恵珠に至っては、宗教的知識に関しては皆無に等しかった。
光玉の死後、恐怖に怯えていた恵珠を周囲が持ち上げ煽り、見事にお登りさんに仕立て上げたと言われている。
信者数を稼ぐ為の、苦肉の策と言うところだろう。
残された分裂派同士で、適役を奉り上げたと言う事のようだ。
ここまで来ると、下らない権力争いに気付く組み手達が、更に分裂を始めた。
分裂に関しては、現在も続けられているようで、各道場レベルでの分裂騒ぎも絶えない。
当然、月始祭や大祓祭ではゴーストライターが存在し、光玉の録音テープに続いて、恵珠の棒読み教示には呆れたものだった。
隠しようのない事実が明らかにされる一方で、深く洗脳した信者達が教団を擁護する事まで計算に入れていたとも思われる。
過去の教団関係者が口を割る事で、明るみに出た情報を覆す事は出来ないだろう。
それらを如何に知られる事なく運営して行くかが、崇教真光の教勢拡大に繋がると思う。
それらを知りながらも、残れる組み手も居るようですけど。(笑)




「無私の愛よ永遠に」平成二年刊 −たま出版、瓜谷社長の証言−

たま出版に瓜谷社長は初期の真光組み手であり、光玉のとの経緯を「無私の愛よ永遠に」平成二年刊に於いて書き残している。

(瓜谷氏の超宗教・超宗派への道の提言に対して)
以下引用

〔前略〕

顕著な真光の業の実績などにより信者が増えるに従い、やはり通常の宗教セクトと同じような団体を形成し、数ある新興宗教団の一つとしてひたすら信者数を増やすという量的拡大の道を歩み始めた。

間もなくS界真光文明教団という麗々しい名称の下に宗教法人の認可が降りた。 そしてしばらくは世田谷区にある自宅兼事務所で布教活動を行なったが、本部になる殿堂の建立の計画がされ、東横線沿線の格好な土地が求められ、その建設が始まった。 その着工に先立つ地鎮祭の時、私も妻もその式に列席した。 式の途中、何故か物凄い突風吹き、周囲に張られた式幕が風で吹き飛ばされそうになった。 妻はこの余りにも強烈で、突然の風が、何かの予兆だと言い、本教団の前途が波乱に満ちたものであることを示すものと私に語った。

そしてこの予言は的中した。 本殿ができたのが昭和四十三年三月、その後教団自体は大いに伸びたが、初代教主O師(光玉の事)はその六年後、昭和四十九年六月、この本殿で、突然の急死をしてしまった。 その直後から後継者をめぐって二人の人物がそれぞれの正当性を主張し譲らず、遂に裁判まで持ち込まれ、その決着に五、六年を要した。 その結果一方が名称を変え、同じ教義の下に、同じ初代教主をいただいて、宗派活動をするようになり今日に至っている。 間もなく正式名称継承した方の教団から、第三代を名乗る人物が現われ、別派をつくり三つの教派に分裂してしまっている。

思うにこれはあらゆる宗教セクトが陥る宿命的な運命である。 宗教の時代はとっくに終わっているのに、現世的な名誉や財産に捉われ、神の経綸を説きながら、自らはそれを実践できないでいるこの悲喜劇が多く繰り返されている。 ああ何と悲しむべき現象であろうか。

この立派に殿堂が建つ前後よく妻と語りあったものである。

「これからの人を教化する宗教あるいは精神運動の場はすべからく幕舎でなければならぬ」そのように神(妻の)から授かったと彼女は何度も私に語ったことがあるが、私もその通りだと思った。 こういう点では不思議なことに、二人は必ず意見が一致し、何の葛藤もなくお互いの心中を語りあうことができた。

この本殿の建立が始まった頃、本来なら幕舎であるべき所なのにという思いと、万時に宗教セクトをますます強化し信者の拡大に走るその姿と、主神の代行者よろしく自らを特別神聖化して行くO師(光玉氏の事)の行方に、これではついていけないとの思いがつのった。 そしてある日二人で世田谷の本部に伺いO師(光玉氏の事)に面会した。 その時二人は信仰を離れることを決意はしていたが、いきなりそこまで言うのは、多年導きいただいた教主たる師に礼を失すると思い、その時は取りあえず、道場長、その他幹部的な役をいただいていることを辞したい旨お願いした。

師は顔色を変え、いつもの温顔がきびしくなった。 師は静かに信仰をやめかねない二人の態度に、もしこの信仰を去れば、それなりの罰や祟りがないとは言えない。 またこれから何かにつけ神の庇護を受けられなくなると、翻意を促すように告げた。 厳しい一瞬であった。 入信間もなく訪れた二階にある神殿のあるご本部の日本間である。 師の言葉は、決意の決まったわれわれ二人には空しかった。 しかし温情ある師から受けた現世的恩義は忘れることはできない。 それは感謝せねばならないし、その気持ちは十分あった。

そして師は、その豊かな霊感を見抜いて、妻に、もし将来あなたが、霊的な指導者として独立するなら援助は惜しまない。 だからもうしばらくここで修行を続けなさいとも語った。 しかしそれは妻が最もなりたくないことで、心中はとんでもないことと思ったが、その場ではその過分なお言葉に、最大級の謙遜な気持ちをこめて、師にその好意を感謝しつつも、はっきりご辞退申し上げた。 このような妻には人一倍強い霊感、霊能を持っていながら、これで信者を集めたり、これを仕事にするようなことは全然念願になかった。 やはり本質はあくまで精神世界的な、一求道者であった。 その意味では二人は文字通り、同じ道を歩む互いにかけがえのない同志であった。

このような一幕があって、折角本部殿堂ができたというのに、二人は次第に足が遠のいていった。 どんな立派なものであろうと、いや立派で堂々たる殿堂である程、二人には何の魅力もない空しいものしか思えなかった。

〔後略〕

<注> 

教団を去れば神の守護が受けられなくなる、罰や祟りがないとはいえない...と、教祖の岡田光玉氏自身が言っている。それ故、現在の真光系教団もこの体質を受け継いでいると言えよう。




Re: あれ?(天杖) Prev: 2169 / No: 2178 [返信][削除]

投稿者:  02/11/11 Mon 00:05:25
> 岡田光玉氏の立教前の経歴をあれこれ誹謗中傷される方々がおられます。
> 少なくとも立教時のエピソードは大勢の人達が立ち会った「天杖」でスタートします。
> 近年でも崇教真光の大祭でご来賓に、政治家と同様に宮司さんを初めとする宗教界の
> 方々が断然多いのも、本エピソードに起因しているように存じます。
>
今となってはそれらの人々を金で踊らせてる可能性があるのも事実です。
救世教の経験を生かして立教した事は間違いないのですからそれらを隠蔽すると言う行為が何を意味するのか分かりそうなもんですけどね。
他教団に対抗する為には教祖の絶対権威が必要だった訳です。
政治家や軍隊関係に太いパイプを持っていた岡田光玉が何を重い立教したのかは今までの教団の経歴と生前の光玉自身の身成を見れば分かると思います。
全身に一流を纏い宝飾品で飾り付けた容姿は誰が見ても人救いの為の姿では無かった筈です。
大げさな口調に派手な格好。
あれは正しく胡散臭い詐欺師の容姿その者だと記憶しております。

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Re: あれ?(天杖) Follow: 2239 / Prev: 2207 / No: 2234 [返信][削除]

投稿者:2139 02/11/12 Tue 23:10:31
>何か絡まれるようなご質問が続くので、

私が源伸さんに絡んでいるかのように見えたと言うことでしたら謝罪致します。申し訳ありませんでした。

私の質問は真光という教えに対する一般的な疑問であり、頂きましたお答えでは、だれも納得、満足できないものですので、満足がいくまで十分な質問をさせて頂いている次第です。別に源伸さんに対して悪意の感情を持って質問を申しているのではありませんので、なにとぞ誤解無きようお願いします。


>貴兄は救世教の信者ですか? それとも真光の組み手
>ですか?

私は、「真光の教義と光玉氏の過去の矛盾に疑問を持つ多くの者のうちの一人」であり、「しかし源伸さんなら、誰もが納得のいく回答を呈示してくれるだろうと期待していた者」です。これ以上のプロフィールはこの質疑応答には不要だと思います。私にも源伸さんのプロフィールは、この質疑応答に必要ありません。


ではここまでの議事録を残します。一応一つの結論を出してあります。

           = = =

昭和34年の神示は捏造品であると言われている。なぜなら
  光玉氏は昭和24年ごろから 昭和32年まで手かざし宗教である
  世界救世教に所属しており、 神示として教えていることは
  すべて救世教の教えとそっくりであり、世間から見ると
  単なる焼き直しにしか見えない。
  しかし、光玉氏は過去の経歴を隠して自分のオリジナルで
  あるかのように言っている。
  
  問題点は二つあり、一つは光玉氏は本当の経歴を教義から
  隠している事。もう一つは、神示と本当の経歴に矛盾があること。


  これを一つ一つ別々に解明していきたい。


Q1  そもそも、光玉氏は、なぜ世界救世教との関係を隠したのか?その霊的意義、信仰的意義はどこにあるのでしょうか?

A1 本スレで岡田光玉氏に直接講義をいただいたという方が以前に発言されておりました。よく救世教や他の教団で勉強されていたことは語られていたそうです。

Q2 はい、それでは、光玉氏が立教して間近なころはそういう問答もあったとします。つまり隠していなかったとします。しかし現在は、真光から発行されているあらゆる教えの中に救世教の 文字がない、いかなる段階の講習を受けても光玉氏が世界救世教に在籍し布教をしていたということを教えていないと聞いています。つまり今は隠しているのです。

なぜ、昔は明かしていたことを、今は隠しているのでしょう。その霊的意義、信仰的意義はどこにあるのでしょう。

A2 隠しているのではなく、敢えて言っていないだけだと思いますが。

結論 「言わなければいけないことを敢えて言わない」ことを世間では隠している、といいます。最初に書きましたとおり、昭和34年の神示そのものの真偽が疑われている最大の問題点である光玉氏と世界救世教との関係は、たとえ聞かれなくても言わなくてはいけないほどのことだと思うんです。

正直申し上げて、源伸さんからこれ以上の返答を頂くことは不可能でしょう。源伸さんは、これほどの重要事である世界救世教と岡田光玉氏との関係を、どうやら「大した問題ではない」と思っておられるようだからです。

今回の質疑応答では、世界救世教と光玉氏の関係については何一つ解明することは出来ず、源伸さんが普通の人と違う非常に個性的な価値観の持ち主であることだけが分かった次第です。おそらく「インチキ勲章」の件も、さして重大なことと思っておられないのでしょう。せっかくこの件をまともに返答して頂けるかと期待しておりましたのに、とても残念です。

我々が必要な物は、教祖の経歴と神示の矛盾を、とても重大なことであるという正しい認識が出来る方から、教義としてなぜそのようなことになってしまっているのかという明確な返答です。残念ながら源伸さんは、それがお出来になる方ではありません。私としては、同件を真剣に返答してくださる方がこの掲示板に現れるまで、これらの質疑応答を保留することにさせて頂きます。

源伸様、おつきあい頂きありがとうございました。




Re: 原伸は Prev: 1844 / No: 1855 [返信][削除]

投稿者: 02/10/27 Sun 01:24:53
> 光玉が救世教の幹部であったことも、大道場クラスの古参の組み手は知っている。もう70過ぎのおばあさん組み手だが、「救い主様って救世教にいたの」と聞くとちゃんと答えてくれる。古参の組み手は事実として知っている

当然のことだが、救世教の中でも真光の教祖が教団にいたことは常識。
高齢の人の中には直接の知人もいるわけだしね。
救世教の信者にとって「真光の教祖は昔救世教に所属していた」
ということは、例えば日本人にとって「昔、平賀源内という発明家が
日本にいた」というのと同程度くらいの常識だね。

>> 特に「暴かれた真光を読め!」と繰り返す輩は要注意です。
>> どうして、日本人でも入手困難な立教前のエピソードや写真を、海外組み手
>> が容易に入手できたかと考えると、極めて不自然だということです。

源伸がいっつもこればっかり言っているけど、
これは実はさほど不自然でも希少な情報でもなくて、岡田光玉が
所属していた救世教の博愛教会というところの責任者は海外布教
担当でもあり、それを支援して外国に渡った人たちも当然その弟子たちで、
つまり海外では博愛教会所属者と会うのは比較的簡単なわけ。
で、博愛教会の中では岡田光玉のような存在は特に常識であり、
その人が昔のアルバムをひっくり返せば岡田光玉が写っている写真
もあった、というただそれだけのこと。

つまり岡田光玉にとって運の悪いことに、追求の火の手が
上がったのが海外からで、岡田光玉が救世教で所属していた
教会も海外担当だった。だから嘘が海外からばれた。と、
こういうことでした。悪いことは出来ないね。


2001年04月29日(日) (fake 008 岡田光玉の真実)




光玉の真実 Follow: 656 / No: 651 [返信][削除]

投稿者:しろ 02/08/08 Thu 02:22:32
547 :名無しさん@1周年 :02/08/08 00:42
私は救世教関係の者ですが、岡田光玉氏の救世教時代
について私が直接、間接的に関係者から聞いて知った
ことをここでまとめてお伝えしておきたいと思います。

岡田光玉氏が性的な問題を起こして救世教を破門された
という事に関して、これはおおよそ正しく、一部誤解が
あるようです。

世界救世教の浄霊では、始めは治療的に触診などを
していたのですが、昭和25年頃から体に手を触れない
ことが原則の浄霊に変わりました
(昭和25年12月27日 「浄霊法変わる」)

ところが岡田光玉氏は、手を触れない浄霊法の時代になっ
た昭和二十八年のある日の浄霊中に、意図してか誤っ
てか、相手の女性の体に触ってしまったということがあった
らしく、女性が悲鳴をあげ、布教所が騒然となったそうです。この
トラブルと、それまでの浄霊中の霊的現象に非常に興味を
持っていたことをあわせ、岡田氏はこの時点で、専従布教者を
解雇された、すなわちクビになったということらしいの
です。破門をされたのではなく、解雇されたのです。

だが、単に教団からの雇用を解かれただけで信者をやめ
させられたわけではないので、岡田氏は
しばらく一般信者として参拝などを続けていたようです。
というのは、教祖が亡くなったのが昭和30年で、その後
二代教主様が就任されましたが、昭和32年頃まで、岡田光玉氏が
聖地参拝に来て二代様のご講話を聞いていたという目撃証言が
あるからです。

私は真光の教義を詳しく知っているわけではありませんが、
時々掲示板に掲載される用語などを見ると、教祖の影響とは
別に、救世教二代教主様の影響があることもうかがえます。

岡田氏は、霊がかりに興味を持ったことと、そして
女性の体に触ってしまったことで解雇されたことから、
霊と自由に話をすることが出来、相手の体を触れる
ことが出来る真光をおこしたのでしょう。

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548 :名無しさん@1周年 :02/08/08 00:59
547の追記です。

>浄霊中に、意図してか誤ってか、相手の女性の体に
>触ってしまったということがあったらしく、女性が悲鳴をあげ、
>布教所が騒然となったそうです。

世界救世教には、腎臓部分や肩、首などを触られても
悲鳴を上げるような文化があるわけではありません。
これは当然、女性が悲鳴を上げるような場所を
光玉氏が触ったという意味です。

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光玉の真実2 No: 654 [返信][削除]

投稿者:しろ2 02/08/08 Thu 03:05:45
失われた過去ログのコピペです。
光玉に関することが書いてあります。
何をいってるのか、ちょっとわからないところもありますが、
光玉が幾度か裁判沙汰を起こしたことなどが述べられています。

−−−−−−ここから−−−−−−−−

【タイトル】心霊医学会 No: 1180
【 名前 】仲村 光
【 日付 】2001/11/09 18:27:33

岡田光玉は昭和三十三年結成された岡田道一の主宰していた「心霊医学会」の理事を務めていた。

 岡田道一の著書、「霊癒の科学」には賛同者として岡田聖玉の名が掲載されている。

金井南龍主宰、神理研究会「さすら」
その一
金井 石田先生ネ、、、、岡田○○ね、、、話が横に飛んで済まないのですが、何千から何万という具合に信者が増え出すと、、、信者が二ケタか三ケタ位のとき、酒席で一緒に軍歌など歌ったときには、嘗っての軍人のときのスナヲさを裸になってサラケ出しましてネ、、、コイツ、、、好いとこあるわい、、、なんて思ってたんですか、、、いつしか「生き神様」の「積分人間」になって了うと、無学文盲ならソレで押し通せますが、彼は高級将校で理性のカケラがあったでせう、、、それで、、、絶対自己の矛盾撞着を感じていたんですネ。 その統一の場とは死でしたよ、、、

石田 馬鹿と気狂い、、、は長生きすることに、、、

その二
世の中宗教裁判位六ヶ敷しいものはない。 ということを奥弁護士は其の体験からして云われている。 氏の懐旧談は中々蘊蓄に富んで居るのである。
二木博士(岡田道一の間違い)創設の心霊医学会に奥さんと家内(金井)さんは好く理事としてその名の如く隣り合って座ってたものである。

「彼、わしの顔は、人間であるならば、マトモに見られたものでないのに、、、」「狐霊(どうぶつ)だからシャーシャーしてますよ」

これは岡田光玉理事のことについての二人の囁きである。 物価統制時での岡田氏の違反や、彼の女性関係での破廉恥行為に対する数度の裁判沙汰のとき、奥弁護士は岡田の弁護を、両人とも熱海の救世教での顧問弁護士と支部長、知己(チカヅキ)以来、岡田氏の裏切り独立営業での度重なる裁判沙汰で、引き受け、岡田の戸籍を汚させなかった。
(原文、漢字の誤りの他、そのまま)

−−−−−−−終わり−−−−−−


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茂吉もろくなもんじゃない。 No: 657 [返信][削除]

投稿者:しろ2 02/08/08 Thu 04:38:49
【タイトル】「暴かれた真光」「崩壊しつつある真光の基礎」補足資料「中島氏の悶死」 No: 4247
【 名前 】ジャイアント馬場清晴
【 日付 】2002/04/25 20:58:13

「暴かれた真光」のうち3.Mahikari's Crumbling Foundationsに関する事項。
岡田光玉がいた救世教の天国会の会長、中島氏及びこのときの世界救世教の置かれていた概況について。

8/12,9/12「崩壊しつつある真光の基礎」
「資料:世界救世教の文献;岡田仲道(光玉)氏に関する記述が見られる。

私は天国会移籍後、西荻窪の支部で助手をしておりましたが、そこに岡田仲道氏が支部長として赴任してきました。四十八歳の岡田氏は(略)私は遂に意を決して中島先生に指導を求めました。先生は「岡田にやらしておきなさい」(以下略)」

*先ずこれは岡田48歳というなら、昭和24年頃の天国会。

9/12「中島先生:天国会の会長。岡田茂吉氏が大本教在籍当時から茂吉氏の弟子として仕えた。中島氏は大本教時代より霊的事象に関心が強く、それに光玉氏も強く影響を受けているようである。」

「崩壊しつつある真光の基礎」には、岡田光玉の天国会在籍当時の集合写真や、軍人時代と随分顔が変わったなと思える変遷の写真、またグリーンウッド氏が富田秘書課長より送られた質問の回答も出ており、発掘的な資料集といえる。

では、この昭和24・25年は、世界救世教はどんな状況に置かれていたか?
先ず世界救世教とは呼ばれていない。観音教といっていた。
そして脱税事件で「第二の璽光尊」として当局の追及を受けていた時期である。
光玉は、そういうさなかに天国会に在籍していた。

以下は「真相」1949(昭和24年)3月号「右翼につながる観音教の仮面を剥ぐ」。
「真相」1950(昭和25年)1月号「特集日本の黒幕、観音教の黒幕
”お光さま”をトリコにした男」から、岡田光玉のいた観音教の記事を紹介。

なぜ、紹介するかといえば、岡田甲子の出自について、
「暴かれた真光」では「井上ファミリーの出」となっているが、
観音教のファミリーといえる中で井上姓は井上茂登吉が先ず該当するが、
このような大幹部の血縁者が、はっきりせずに光玉の妾というのが、果たして
有り得るだろうか?という疑問を投げかける材料としたい。

さて、1949・3月号の書き出しは、
「あら稼ぎするおひかり様」と小見出し。

「昨年(1848年)12月はじめ頃『脱税と政治献金』の疑いで
 大蔵省査察部と法務庁特別審査局が観音教追求の活動を開始して以来、
 都下の各新聞は一斉に日本観音教の教祖岡田茂吉の正体について書き立てた。」

*「真相」には当時「第二の璽光尊」と騒がれた観音教の岡田茂吉の療法は、
「茂吉が大本教へ行く前に」鈴木美山という心霊学者が、
大正末期「健全哲学の学会」を開いたころ入門して習った「哲理療法」が芽をふい
た療法であると調べている。

「真相」

「大本教が邪教として当局の弾圧を受けた時、岡田茂吉はいち早く転業して、昭和10年半蔵門近くに日本観音会を設立。岡田仁斎となのる。
哲理療法では患部には手を体にふれずに病気を治すというのが
「医師類似行為取締法」に引っかかって禁止。
それなら指先でも触れればよいだろうとばかりに指圧療法をはじめた。
しこたま蓄財し、昭和19年熱海市東山1712に、
山下汽船の社長・山下亀三郎がもっていた別荘を70万円で買取。ここを本拠に
全国的布教網を拡大。
ついで同年、箱根山強羅1500の藤山雷太の別荘を買って神山荘と名づけ、
詣でる善男善女をスッ裸にして療法を行うのでハダカ・ショウの異名をはせた。」

「この商売はすごくもうかるとみえて、しだいに当局の注目するところとなった。
何しろ表面は指圧療法なので当時の特高が得意のスパイをもぐらせても、
用意周到な岡田はついに引っかからず、邪教として検挙しようと力んだ特高に
一泡ふかせたものだ。」

「そこで運よく終戦となり、世はあげて民主自由のはきちがえ、その上特高警察
解体ともなれば、天下晴れて岡田は思う存分に無知な愚者の弱味につけ込み、
こんどは「日本浄化療法」と銘打って宣伝これつとめた。
岡田の説くところによると、日本浄化療法はフランス起源の磁気療法(?)と
同じだそうで、熟練の結果人身にある磁気を強力に集中して手から患部に放射する。
これによって人体内の毒素を溶かして目やに、鼻汁、痰、または小便となし、
体外に出してしまうというのだが、霊験あらたかな「おひかり様」の療法を受けて
可愛い女房と子供をムザムザ殺した男もあるから、
インチキ宗教といわれても仕方あるまい。
前熱海駅長三尋木某もその一人であるが、
それでもまだ熱烈な信者で他人に療法をすすめてまわっているから、
良識のある人間には理解ができそうにもない」1949・3




軍人勅諭 No: 424 [返信][削除]

投稿者:ジャイアント馬場清晴 02/07/25 Thu 16:32:10
岡田光玉以下、真光幹部。世界真光文明教団代表役員地位保全事件にて
証言をした幹部、友森清春、石毛省三、松平定堯らは
陸士34期の元陸軍将校である。
軍人勅諭に基づけば、軍人たるものは、軍人勅諭という鉄の掟に生き死にするのが士官学校の教育ではなかったのか。
八月十五日放送の詔書に続き、
二十五日には、陸海軍人に対して勅語が渙発されたという。
艱苦に耐え荊棘を拓き、戦後復興に力を致さんことを復員将兵は諭された。
戦後、男はもう統率できないから、巷の貧しく無学な婦女子から金を出させ、
金持ちになることが、果たして艱苦に耐え荊棘を拓いたことになるだろうか?
金につまずいたのではないか?
宗教法学会報題5号(1986、11)には、教祖用の御霊の写真が出ているが、
西洋人の頭部が横向きにレリーフされた図柄である。
解説として「これは実は、アメリカの1866年の、
金貨を首飾りにしたようにみえます。
しかし実は、これは金貨そのものではないので、中が開くのです。
これはスイス製の高級時計なのです。
スイス製の時計の中に、先代(岡田光玉)の書いたその「聖」という字
が入っている。それがご神体なのです。」
と大野正男弁護士の解説。
さて、陸軍士官学校では伝統的に、
明治11年第1回の卒業式から、卒業式には原則として天皇が
行幸され、優等生に御下賜品を賜った。
恩賜品は、その時期によってさまざまであったが、
のちには銀時計に統一された。

高級時計。
それは士官学校卒業生にとっては、優等生が頂く銀時計を連想させるものではないか。それ、高級時計を賜る方は、当時にあって、陸海軍の統帥権を司る絶対的権威。高級時計を自分が次の代に授与するという光玉の試みは、
自分が天皇陛下の真似をした気分を演出してくれる気配が無いとはいえない。
それが光玉の場合、アメリカ金貨をかたどったスイスの高級時計。




[1333]教祖と裁判 by.A 2002年05月23日(木) 05時30分

20日読売新聞では、松本被告は弁護団の接見に応ぜず、反証方針の打ち合わせにも「何のご用ですか」と言い放ち、接見室にすら姿を現さなかったという。
「何のご用」と言ったって。
消えた「手かざし宗教の真実」に崇教真光の岡田光玉と、この教祖に手をやいた弁護団ではなく、この場合弁護士さんのやりとりが、なんと心霊研究雑誌に出ている。ということが話題になっていた。そのまま出したほうが誤解がないと思う。
01/11/19「さすら」について
「さすら」は東京の早稲田にある「日本心霊科学協会」で閲覧できます。
一部については、貸し出しも出来ると思います。
01/11/19
Re:心霊医学会
「さすら」は神道研究の学術誌で、たとえば國學院大學の図書館にも蔵書があります。このような書誌にこのような記事がのるとはおどろきです。
(このような記事とは、次段の奥一夫弁護士の談話のこと。神道研究家の紹介に数々の質問が。)*新着順に投稿を並べたので↓が最初。
01/11/17
>>金井南龍主宰、神理研究会「さすら」この文献についてもう少し詳しく教えてくださらないでしょうか。国立国会図書館などで閲覧できるでしょうか。
「さすら」は国会図書館に架蔵されていますが、あの文章が何年何月号か明かしたくありません。資料が破戒隠滅される可能性が有るからです。
私が引用した部分は、奥一夫といい救世教の顧問弁護士をしていた人でした。
既に故人ですが、東京弁護士会の副会長をしていた事も有ったようです。
心霊医学会は今では存在しないようです。岡田道一と二木健三が中心になって発足したようです。岡田道一がずっと理事長をして、二木健三が初代会長、二代目会長が小川勇でした。
(「さすら」に出ている奥弁護士の記事とは↓)
01/11/09
岡田光玉は昭和三十三年結成された岡田道一の主宰していた「心霊医学会」の理事を務めていた。
岡田道一の著書、「霊癒の科学」には賛同者として岡田聖玉(*光玉の別名)の名が掲載されている。
金井南龍主宰、神理研究会「さすら」
その一
金井 石田先生ネ、、、、岡田○○ね、、、話が横に飛んで済まないのですが、何千から何万という具合に信者が増え出すと、、、信者が二ケタか三ケタ位のとき、酒席で一緒に軍歌など歌ったときには、嘗ての軍人のときのスナヲさを裸になってサラケ出しましてネ、、、コイツ、、、好いとこあるわい、、、なんて思ったんですが、、、いつしか「生き神様」の「積分人間」になって了うと、無学文盲ならソレで押し通せますが、彼は高級将校で理性のカケラがあったでせう、、、それで、、、絶対自己の矛盾撞着を感じていたんですネ。その統一とは死でしたよ、、、
石田 馬鹿と気狂い、、、は長生きすることに、、、

[1334]1333「さすら」続き by.A 2002年05月23日(木) 05時46分

世の中宗教裁判位六ヶ敷しいものはない。ということを奥弁護士は其の体験からして云われている。氏の懐旧談は中々薀蓄に富んで居るのである。
二木博士(岡田道一の間違い)創設の心霊医学会に奥さんと家内(金井)さんは好く理事としてその名の如く隣り合って座ってたものである。
「彼、わしの顔は、人間であるならば、マトモに見られたものでないのに、、、」
「狐霊(どうぶつ)だからシャーシャーしてますよ」
これは岡田光玉理事のことについての二人の囁きである。
物価統制時での岡田氏の違反や、彼の女性関係での破廉恥行為に対する数度の裁判沙汰のとき、奥弁護士は岡田の弁護を、両人とも熱海の救世教での顧問弁護士と支部長、知己(チカヅキ)以来、岡田氏の裏切り独立営業での度重なる裁判沙汰で、引き受け、岡田の戸籍を汚させなかった。
(原文、漢字の誤りの他、そのまま)

[1335]問題の多い教団の行方と現状 by.A 2002年05月23日(木) 06時39分
真光の創設者、岡田光玉を呆れながら尻拭いをしてやった奥弁護士の談話を「さすら」から。岡田光玉死後、今度は教団の遺産争いで、実態の真実をよく熟知する人は大野正男弁護士。(宗教法第5号論文)とバトンタッチ。
もともと女性関係はじめ問題があった教祖の始めた団体だが、それがリックロスのところで、オウムとリンクのきなくさい関係。
信者の現状といえば、例えばこんな訴えも出ていた。
2000/08/21 子羊
オヤジが崇教真光に入り、おみたままでもらってしまった。
「ごくびじっそー」と一日じゅううるさいし、
何かというと怒り出すのでこまってます。
どうしたらいいでしょうか?
2000/08/21
>子羊くん
親父さんいくつよ?
なんでそんなもんに入れさせちまったの〜
2000/08/25
オヤジはソイ祭りだといって、先祖の位牌や仏壇を焼いて、川にながしてしまいました。
おかしな祭壇を高い金で買わされて一日中明かりつけっぱなしです。たばこに火をつけてお供えしています。消すと激怒します。
足のまがったスズメに「おしずまい、おしずまり」と言って「手かざし」をしたら、足が治ったそうです。
あと、駐車場でヤー公の車に接触して傷つけたのに、2万円の示談ですんだのは「おみたま」のおかげだといって道場で体験談を得意になって発表したようです。

こういう人がいるのに「真光関係者集合」!!板では、
01/11/19
真光はよく、自分たちは皇室関係者と親しいとうそぶいていましたが、
本当に宮内庁に電話して事実関係を確かめたら、
「そんな人たちは知りませんし、皇室と真光は何の関係もありません。」
とあっさり否定された。
勝手に皇室ストーカーしてただけなのねえ。

オウム真理教問題掲示板
http://www.makani.to/~kito/bbs/index.htm?brd=2




晩年の岡田光玉は宗教者には似つかわしくない贅沢に溺れ、金銀財宝を身につけていたという批判の声もある。だからこそ、せっかくの真光の業がありながら、天寿をまっとうすることなく、73歳で病没してしまったというのである。

初代教え主亡き後、分裂した両派にゴタゴタ騒ぎが絶えないことは、結局のところ、教団幹部連中に教団を率いる資格などないという事実を物語るものといって差し支えあるまい。

新興宗教教祖のウラの裏がわかる本 P165 早川和廣 ぴいぷる社 1988.11.25




803 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 02/01/13 10:41

書評 「新興宗教の正体」 早川和広著
あっぷる出版社(千代田区猿楽町2-5-2 小山ビル2F TEL 3294-3780)

 「岡田良一氏は戦時中に山梨県大月市に疎開したが、
そこで井上甲子さん(S4.12.16生)と出会った。
世話になったのが彼女の実家の2階である。
彼女は当時大月市民病院の看護婦をしていた。
良一氏はそこで世界救世教を知り、戦後に救世教を頼って上京した。」
 他にも同書には、教団分裂時のことが公平な観点が描かれている。
10年近くにわたる裁判と中傷合戦に嫌気が差して去っていった信者も
多いとある。

生年月日がほんまなら、72才ですな。



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