【保存版】光玉の勲章はインチキ勲章
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2001年05月31日(木) (fake 009 真光業の真実 )

光業の真実



信者を嵌める欲望の神々(5) No: 5776 [返信][削除]

投稿者: 03/04/10 Thu 19:38:09
「信者を嵌める欲望の神々:新興宗教を告発する」  田中一京著 青年書館1989.11

『世界真光文明教団』(132-136頁): 宗教に没頭すればするほど金を注ぎ込み、生活は悲惨になっていくのに教団は知らんぷり

 私の本が書店に出て間もない頃、便箋三枚に小さな字でびっしり書かれた匿名の手記が寄せられたので、原文のままその内容を紹介してみよう。

 前略、突然名前も書かず、このような文面を差し上げる失礼をお許し下さい。

 私は、先生の書かれた『新興宗教・金儲けと権力争いの実態』という本を読み、新興宗教の姿というものがやっとわかったような気がしました。それで以前私が入信しておりました『世界真光文明教団』の熱心な信者でもあり、私の友人でもありますYさんの生活の様子をありのままにお知らせして、機会があれば多くの人に教団の実態を知っていただき、宗教の本質を考えるための参考にしていただければと思いペンをとりました。
 私は現在三十三になる一男一女の子供を持つ家庭の主婦でございます。私は約一年前長男が遊んでいて怪我をしたとき、友人の勧めで世界真光文明教団へ入信しました。現在はやめておりますが、たった一年足らずで信心をやめたのにはそれなりの理由があったからです。
 その理由といいますのは、実は、私に入信を勧めてくれた友人の女性Yさんの生活状態を見たからですが、Yさんのことをお話する前に、私が教団に入ったときのことを簡単に記します。
 教団に入信するには、まず最初に三日間の初級研修というのを教団の地方道場で受けなければなりませんが、この時教団へ“おみたま料”というお礼金の一万円を必ず払わなければなりません。そして毎月道場の運営費として五百円払うことが決められております。しかし、それは最低必要なお金で、そのほかお参りする都度五千円、一万円とお金がいりますし、研修も中級・上級に進めば進むほど万のつくお金がかかります。
 聞くところによりますと、最低必要な定められたお金以外は各々信者の皆さんの自由な意思といいますか、自分の気持ちから教団に寄付するという形で納められているようですから、道場によって多少の違いはあるようです。しかし、いずれにしましても、教団が最初説明する数倍のお金を取られることは間違いありません。いかに教団が信者からお金を吸い上げているかということがわかるかと思います。

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信者を嵌める欲望の神々(6) No: 5777 [返信][削除]

投稿者: 03/04/10 Thu 19:39:09
(続き)
 さて、私の友人で信者のYさんは、都内の小さな会社に勤めている30歳の女性なんですが、もともと関西の方から上京してきて、現在独りでアパート住まいをしています。Yさんは、教団の信者でなければ絶対に結婚しないというほど熱心な信者で、教団のため現在も一生懸命活動をしています。彼女の性格は素直で真面目な、どいらかといいますと無口な方で仕事も熱心にすることはしていたのですが、宗教に凝りはじめてからというもの頑固になったといいますか、素直さがなくなり、まるで人が変わってしまったのです。
 彼女の給料は月額の手取りで約13万円ほどですが、それにもかかわらず、彼女はどうも三度の食事を満足にとっていないようで、最近特に頭痛がする、めまいがする、体の調子が悪いといっては仕事を休み、道場へ行っては手かざしを受け浄霊をしてもらっているのです。私の経験から言わせてもらえば、あんなことで絶対に治るはずはないのですが、彼女は熱心な信者ですから言わせてもらえば、あんなことで絶対に治るはずはないのですが、彼女は熱心な信者ですから自分の信仰が足りないからだと思い込んでいるのです。
 私は、このままだと彼女が栄養失調で倒れるのではないかと思い、見るに見かねて何度か意見をしたのですが、一向に私の言葉を聞こうとせず、逆に信心をやめた私に敵意さえ示すほどです。
 彼女の手は荒れて夏でも霜ぶくれのように赤く腫れています。
 そこで彼女の実生活を聞いていただきたいのですが、それは質素で、現在住んでいるアパートは六畳一間で家賃が1万5千円。共同便所に共同炊事場といった環境のところに住んでいます。
 部屋の中にはファンシーケースと鏡台があるだけで、他に家具らしいものはほとんどありません。
 彼女の一ヶ月の生活費を簡単に計算してみると、一日の食事代が600円、朝食抜きで昼食は月のうち半分は抜いていますし、食事をする場合でも最高250円まで。夜の食事もインスタント物かよく使っても350円までです。ですから一ヶ月の食事代は最高で1万8千円程度です。
 それに風呂代や光熱費が1万円そこそこ、その他諸々の雑費を入れても一ヶ月5万円くらいの生活をしており、他にほとんどお金を使うことはないようです。もちろん衣類や化粧品などは一切買いませんし、いつも他人からもらった服を着ているといった具合です。
 月々もらう給料から必需品を除いても、毎月8万円くらい残るはずなのですが、それを貯金するのならともかく、それとなく本人に聞いてみると、自分の食べる物や着る物まで切り詰めて残したお金を、ほとんど教団へ注ぎ込んでいるらしいのです。
 こうして書きますと、本人がいいと思って納得づくでしていることだから、他人がそこまで首を突っ込む必要はないとお叱りを受けるかもしれませんが、一人の友人として見て見ぬふりはできないのです。宗教団体というのは、こんなに信者の生活を苦しめていても平気なのでしょうか。もちろん、本人はそれが一番いいことだと思い込んでいるのですから、所詮私一人の力でどうこうすることはできません。しかし、彼女のような例はいくらでもあると思うのです。
 神を信じ宗教に没頭すればするほど苦しい生活を強いられます。こんな矛盾したことが許されていいのでしょうか。教団では信心すれば幸福になると教えます。でも実際にはそれと反対のことが行われている。これが教団の実態なのです。
 私が言いたいのは、宗教に凝りすぎると本人の気持ちがだんだん閉鎖的になって、自分と同じ宗教を信じている者しか信用しなくなり、一人二人と友達を失い、しまいには彼女のように自分のすべてを犠牲にして、それが当然のことのように思い込んでしまうのです。
 彼女の場合を見ますと、いつもにこにこしていたのに、最近では変に理屈っぽくなって楽しく話したり、接することがほとんどなくなりました。こんな状態を目の当たりに見ますと、宗教というものが怖く思えてなりません。
 教団としても多くの信者の私生活を把握することは不可能だと思いますが、信者の実生活を知らずして、単に口先だけで幸福を説いてもそれはまやかしの教えだと思うのです。綺麗事を並べ立て、弱い立場の信者から容赦なくお金を吸い上げ、信者の生活を平気で犠牲にする信仰が本物の信仰なのかどうか皆さんに考えていただきたくペンを取った次第です。
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信者を嵌める欲望の神々(7) No: 5778 [返信][削除]

投稿者: 03/04/10 Thu 19:39:41
「新興宗教被害と悩み解決法」 田中一京著 青年書館 87.11
105-110頁
<神や霊の存在を絶対視すぎて自我や理性を失っている>
 信者心理の特徴として、神や神の意思を伝える教祖、あるいは教団の教えには絶対に逆らえない面がある。しかし、だからといって自己の意思をすべてねじ曲げてまで従順になる必要はないのだが、現実を見てみると宗教に洗脳され盲信している信者は理性を失い、自己の信奉する宗教教団の意のままに操られ、動かされているといっても過言ではない。
 信者が信仰に没頭し、宗教精神を享受しようとする姿勢そのものは決して間違った行為でも、他からとやかくいわれる筋合いのものでもないが、ただ、神や教祖教主の教えを絶対視するあまり、正常な考え方ができなくなってくると、少々事情は違ってくる。
 そこで、理性を失っている信者のどこに危険性が内在しているのか、病気を治したいばかりに教団の言葉を信用し、宗教に洗脳されている信者の宗教意識を見てみることにしよう。
 『私は世界真光文明教団の信者です。私が入信したきっかけは、ある日突然、おなかが千切れるのではないかと思うほどの激痛に襲われ、救急車で病院へ運ばれました。そのとき医者の診断は「上部尿路結石」ということでした。
 私はすぐ入院させられ、病院で出してくれる薬を飲み治療を続けていました。そんなとき「病気というのは、薬を使うと一時的に症状を押えることはできるかもしれないけれど、それは治ったと錯覚しているだけでほんとうには治っていない。病気はもともと霊魂と肉体のバランスが崩れたときに起きるのだから、浄霊しなければ完全に治ることはない」と他の信者から教えてもらったのです。
 私は手術をしなければ治らないと思っていました。そんなとき手術をしなくても“真光の業”で痛みを止め、病気が治せると聞かされすぐその真光の業を受けたのです。
 病院のベッドの上で信者の人達から“手かざし“を毎日受けました。そして私も「主の大神様」に、痛みを和らげてください、手術せずに病気を治して下さいと真剣に頼みました。
 そうするうちにだんだん痛みもとれてきたような気がしてきたので薬を飲むのをやめ、親の反対を押し切って退院し、通院するかわりに毎日教会へ通いました。
 今もときどき痛みはありますが、主の大神様が御浄霊して下さり、必ず病気は治るといってくれていますからその言葉を信じています……』
 と、千葉県松戸市に住む元店員のSさん(22歳)は語る。
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信者を嵌める欲望の神々(8) No: 5779 [返信][削除]

投稿者: 03/04/10 Thu 19:40:10
(続き)
 特定の神に仕え、宗教の教えを受け、それを絶対と思い込んでいる信者に対しては、なるほど神の啓示や教祖の言葉は絶対であり侵すことのできない神聖なものであるといえよう。
 だが、洗脳された信者以外のものから見ると神や教祖の言葉は決して絶対ではあり得ないし、当然のことながら、それほど神の絶対性というものは信用していない。なぜなら、この世の中に唯一つ絶対神といわれる神々がどれほど多く存在しているか、また、唯一つ絶対神と崇める神々の力というものがどれほどあやふやなものであるか、信者自身が少し冷静になって宗教の現実を見ればわかることである。
 ではもう一例「崇教真光」に洗脳されている信者の話を紹介して、どこに問題があるのかを考えてみたい。
『御み霊をいただき神組手(信奉者)になって真光の業を覚えれば、誰でも病気を治すことができる。ただ、そのためには初級真光研修を毎月1回、3日間だけ受けなければならない。その講習を受けて神組手(信奉者)となり、陽光子(信者)となれば、手の平から真光を発することができる。
 私達が“施真”(手かざし)すれば、不思議な現象が起きてくる。たとえば急に下痢をしたり熱を出したりするが、これはクリーニング現象(肉体の浄化作用)といって、人間の体の中に蓄積された毒素が“真光の業”によって、外へ排出されるために起きる現象だからまったく心配ない。
 それより、施真によって精神的にも肉体的にも健康になるんだから、こんなありがたいことはない。教え主さまの力というのはそれほどすごい。どんな病気でも治すのだから……。
 病気で苦しみながら病院通いをして、なおかつ薬づけにされている未組手(非信者)の人達のことを思うと、ほんとうに可哀想だ。
 だから私達は教え主さまの御教示を生活の糧、信仰の糧として、できるだけ多くの未組手の人達に“真ぼえ”(声をかけ勧誘すること)したいと思っている。
 崇教真光の不思議を知らない人達は、こうした話をしても信じようとしないばかりか「施真だけで病気が治るはずはない」と疑ってかかる。しかし、誰が何といっても実際に治るから不思議なんだ。
 病院で医者に診てもらうより“真光の業”の方がよほど信用できる。こんなありがたい教えを否定したり、知らなかったりする人達はほんとうに不幸だと思うね。
 実際に、私自身が真光の業で胃にできた悪性の腫瘍を治してもらい、その奇跡を体験しているんだから、これほど確かな証拠はないだろう……』
 と、東京都世田谷区に住む自由業の後藤さん(41歳)は説明する。
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信者を嵌める欲望の神々(9) No: 5780 [返信][削除]

投稿者: 03/04/10 Thu 19:40:39
(続き)
 この事例は、現信者の宗教姿勢、および洗脳された状態や考え方を如実に示しているものであるが、もちろんこれとは反対に、病気が治るからと入信を勧められ、真光の業を受けたが病気は治らなかったと不満を漏らし、騙されたと訴えてくる信者が多いことも見逃してはならない。
 ここで例示した二人の信者の考え方は、猛進した信者の特徴を端的に現しているものであるが、神や霊というものをあまりにも絶対視しすぎて、自我意識を失っているところに大きな問題を抱えており、近代的医療行為を否定するといった危険な考え方を持っていることがはっきりわかるであろうし、その部分がもっとも危惧されるところである。
 われわれ人間社会の中における宗教の存在価値というものは、諸々の悩みを持つ者に対し精神的に導き、その苦労を和らげ取り除きながら立ち直らせるところに宗教の価値観、あるいは本来の使命が存在するはずだ。
 つまり、病気治しに限定して考えると、近代医療の実績を認めたうえで、その医療行為と並行しながら、精神面から患者の意気を高揚し貢献していくというのが宗教行為の本筋である。
 言い換えるならば、その宗教行為を信者自身が良識と節操をもって世のため人のために役立たせるのであれば、信仰を治療の一分野として利用することは何ら問題はないし、逆に治療効果も十分期待できると思う。
 だが、頭から近代医療を否定する姿勢、そこに問題があるのだ。つまり、宗教上の教えを絶対視するあまり、盲信的になった信者が医療は害悪といった考え方を他に押し付けたり、医療の社会における貢献度を認めようとせず、ただやみくもに否定するという態度を取り続けるならば、それは完全に宗教の使命や役割を履き違えていると考えなければならない。そこのところを宗教に洗脳された信者はわからないから、いろいろな社会問題を引き起こすのである。
 こうみてくると、神を絶対と信じる理性を失った信者の考え方や行動が、いかに危険で偏った考えに陥っているか、あるいは洗脳された信者の偏向した考え方が社会的に受け入れられないものであるか、つまり、自己の信奉する神の教えだけが正しいと思い込んでいる信者は、自我意識を失うことによって、同じ宗教の教えを受ける者以外の意見には耳を傾けなくなり、ますます気持を閉鎖させてしまう。
 そこに反社会的、反人道的な行為を平然と行う元凶が生まれてくる要因があるように思えてならない。


2001年05月30日(水) (fake 010 真光業の真実 )

Re: 源さんと世界真光組み手さんへ Follow: 5658 / Prev: 5592 / No: 5645 [返信][削除]

投稿者:彦 03/04/01 Tue 01:20:23
私は昔組み手でした。初級研修を受講したのは今から26年前。受講する前の、子供の時にも(昭和47年)父に連れられて武道館で行われた秋季大祭に参加し、間近で初祖の姿を体験しています。

でも、いまは組み手ではありません。一言では申せませんが、教団を取り巻く人間関係のゴタゴタに愛想尽きたからです。

教義の批判は書いても感情的になって聞いてもらえないでしょうから書きません。だが、一つだけ言わせてください。

> 死んだ後の事がわかるから、真光組み手になることが大切だと信じれるん
>ですけどね。死んだ人が幽界通信で死後の世界の事を語ってくれるからだよ。
> その例として・・
> 「この神様は素晴らしいから絶対真光をやめないでくれ」
> 「わしは生きてる時は真光を全く信じてなかったけど、今死んでみて、組み手の
> 言う事が本当だったとわかったよ。わしは否定して後悔してる」
>
> ↑このような言葉が幽界通信で通告してきたんだよ。

私の通っていた道場でも同じようなことはありました。また、私も手かざしを通していろいろな体験があります。もちろん、手かざしの奇跡も知っております。手かざしでの奇跡も知っております。でも、この霊界通信(お浄め中の浮霊のことでしょう)を私は素直に信じません。

なぜなら、私には霊能力がないのでこの浮霊して話している方が本当に亡くなった方が話しているのか、確かめられないからです。故人をずっと見ていた動物霊が本人になりすまして語っていたとしても、普通の人間である組み手には判別不可能じゃないですか。

私が頻繁に通っていた頃、「霊に興味を持ってはいけない」「霊のしゃべることは信じてはいけない」と何度もいわれました。だが、真光を批判する掲示板をいろいろ読む限り、現在はそんな指導はなくなったみたいですね。これは非常に危険です。実際、上野道場で分裂騒ぎがあったときも、霊の話す事を信じて動いていたからです。

私は縁があってある著名な霊能力者と知り合ったのですが、その方は守護霊を瞬時に見抜く力があります。「あなたを守っている人は2代前の方で名前は○○さんです」というように具体的に、そしてその霊能者に話してもいない先祖の名前を語り、生前の容姿や性格なども正確に説明します。その方が言うには、守護霊を侍だとか歴史上の人物だとかいう霊能者は偽物だ、といいます。ほとんどの方は自分と縁があった数代前の先祖が守ってくれているそうです。そして、本当の霊能力があるなら、霊の名前とか生前の容姿とか性格までもわかるといいます。ちなみにその方に真光のことを尋ねても、あまり良いことは話しませんでした。

話が脱線しましたが、真光の最大の問題は、霊能力のない人たちが浮霊した人を霊査することです。本物の先祖なのか動物霊なのか見分ける能力もない人たちが、霊と会話し判断していくことは非常に危険です。

これでは、教団が霊そのものに操られていくだけです。霊媒信仰と批判されても反論できないと思います。

天変地異がやってくる、という言葉も今では虚しく思います。

私は信仰は持ち続けます。それは特定の教団に所属するのではなく、神仏に対して畏敬の念を持ち続けるという意味においての信仰です。

あれだけ本物だ、と信じていた真光の、最近のことを知るにつけ悲しくなります。神仏は存在しても、宗教団体は所詮、人間の集まる集団であり、さまざまなエゴがあり対立するだけです。

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源信さんへ Follow: 5662 / Prev: 5658 / No: 5661 [返信][削除]

投稿者:彦 03/04/04 Fri 03:02:52

お返事ありがとう。

> それから本スレでも以前にかきこしましたが、霊能力者は凡人よりも少し多くが
> 見えるのですが、逆に自分が見えていることが全てだと過信してしまうところが
> 最大のウイークポイントになっているようです。(某霊能力者の名言)
> 彼らの発言は断定的ですが、参考程度に聞いておく位で丁度良いでしょう。

私の知り合いの霊能者は正式の僧籍を持つ人で、とても謙虚な方です。一度美術館に仏像を見に行ったときがあったのですが、さすがに仏像については専門家でその詳しい説明とその真摯な姿勢に、気がつくと会場中の人がその人を中心に大きな輪をつくっていました。人を引きつける魅力に溢れた方です。そして断片的な物事はいいません。わかることははっきり言うけれど、わからないことははっきりわからないといいます。

開眼供養した数珠か否かを瞬時に見抜き、仏像やご神体の波動を感じる能力をもった方が真光のことをよく思わないのはどうしてなんでしょうか?もし真光が本物なら、多くの霊能者が褒め称えるのではないでしょうか?

源信さんのレスを読んで思ったのですが、源さんのほうが断片的なものの捉え方をされているように思いました。

> ようは霊が離脱して永年の不幸現象が解消するか否かという点で自ら判断
>するしかないように思います。

これは単に本人が思いこむだけで、本物かどうかの証明にはならないですよね。

私がいいたいのは、霊が見えない人間が霊のせいだとか安易にものごとを決め付けてしまっていいものか、ということなんです。初代教祖が在命時ならともかく、いまの真光には霊をはっきり見分けられる能力のある人は皆無でしょう。崇教にも文明にもいないんですよ。双方どちらの2代目もその能力はないはずです。なぜなら月始祭の教示でよくわかります。

> 初級研修でも、「自分と縁があった数代前の先祖が守ってくれている」
>という事に近い内容だったと思います。

私はおそらく源さんより古い組み手で教団の書籍を読んだ量では勝っていると思います。昭和40年代の書籍も読んでいます。なぜなら大学生の時、週1回夜間何かあったときのために道場に泊まり込みをしていました。そのときにいつも道場にあった本を読んでいたからです。昭和50年代はまだまだ初代が存命中の本がすぐに読めたのです。

数代前というだけで、実際は浮霊した霊が話さないと、何代前かも、その誰かもわからないわけでしょ。守護霊は先祖だけとは限りませんよ。先祖と縁があった友人が守護霊になることもあるし、全く違う他人がなる場合もある。

> 私の場合は入信の10年以上前からの持病がいくつも解消したので、
>Aの方だったと判断しました。

病気が治る宗教は真光以外にもあります。奇跡が起きたからといってそれで真実の教えというわけではないのです。それに第一、病気が治ることと霊がしゃべることが本当かどうかは別問題です。

私が組み手だったとき、ある道場とお清め所が中心になって分裂が起きました。そのとき分裂した方(あえてその教団名は書きませんが、いまでも真光系として存在します)の組み手が道場でお浄めをしていると、初代の岡田光玉氏の霊が泣きながら浮霊したのです。そして

「崇教は間違った方向に進んでしまっている。私は神界にはいけず幽界で苦しんでいる」

といいました。(実話です) ようするに普通の人と同じ幽界にしか行けなかったということを話したのです。

その分裂した方でも手かざしで霊は出てくるし、真光と同じ手かざしの力があったようです。

おそらく源さんは「その霊は初代とは違う霊だ」と思うことでしょう。その霊が泣きながら語った内容が本当だったら、その時点で真光は崩壊するから。その霊が本物なのか偽物なのかも、証明できないのです。

源さんの

> 私の場合は入信の10年以上前からの持病がいくつも解消したので、
>Aの方だったと判断しました。

この論理を使うならば、この霊が岡田氏と判断することもできます。実際、分裂した方の手かざしも同じような奇跡があるのですから。

真光をはなれてもう20年近く経ちますが、現在の真光は私が一番熱心に活動していた昭和50年代よりも、教団が歪んでしまったようです。

岡田光玉(救い主)氏が「くれぐれも自分が死んだ後、自分を神のように祭ることだけはやめてほしい。人物崇拝は絶対ダメだ。神さまだけを祭りなさい」と話していたのに、崇教はその後、道場に写真を飾り参拝の時に拝むようになったではないですか。挙げ句の果て、世界総本山ができた後、高山に救い主を記念する館もつくってしまった。

分裂した方に浮霊した霊が話したことは、崇教が初代の言葉を忘れて祭り上げていることを考えると、本当のことかもしれません。

私はマスコミに勤めていて、オウムの取材をしたことがあります。

上九一色村では信者と話をして議論もしました。批判に一切耳を貸さない態度、自分たちが絶対だと思う姿勢、すべてを自分たちの都合よくとらえる姿は、現在の真光と似ています。

信仰から離れないとそれがわからないのです。何を書いても源さんは信じないでしょう。だが、信仰は個人の自由なので信じる信じないは源さん個人の問題です。

私が一番真光にいいたいのは、天変地異が起きるから、といって大学進学や仕事を辞め信仰にのめり込んでいった人たちを教団はどう考えているのか、ということです。ローマカトリックが偉大なのは、過去の過ちをバチカンが自ら謝罪するからです。

あれだけ20世紀末に天変地異が起きて日本人は1割も残らないといっていたじゃないですか。

余計なことを一つだけ書かせてください。

>私の知人の精神科医は催眠術もかけれますが、シーちゃんのような思い込み
>はしていなかったようです。 ふー。

たとえ、議論が白熱しても、相手の感情を損ねるようなこと相手の人格を攻撃することを書いてはいけません。ディベートにおいて相手の人格を攻撃した方が負け、ということがいわれています。

どんなに腹がたっても

>ふー

など、書いたら、真光の組み手はやっぱりすぐ感情的になる、とすべての人が思うことでしょう。

確かにここの掲示板は真光に対して否定的なのですから、あなたが攻撃されるのはしかたがありません。あなたを詐欺師呼ばわりするのもちょっと行き過ぎだと思うし、あなたが怒るのも無理はありません。

だが、どんなにひどい言葉をぶつけられてもそれでムキになった時点であなたの信仰はそんなものだ、とこの掲示板を読んでいる人は判断するのです。

信仰を持つ者は謙虚になるべきです。真光を離れた今でも「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という真光が好んで教団誌に書いた言葉をいまも私は真実だと思っているのです。

いささか書き過ぎました。お詫びします。

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そうかなさんへ Follow: 5667 / Prev: 5662 / No: 5666 [返信][削除]

投稿者:彦 03/04/05 Sat 01:21:14
御指摘していただいたことには一理あります。

だが、

>宛ら、霊能者と云う特殊能力者は、権威と人格的評価を具わらなければ
>霊能者であることを認めないと云う主張に聞こえます。
>霊能者と人格性はどう関わりがあるのかと云う点、

御指摘されたことですが、ちょっと私の言いたかったこととずれがあります。

>逆に自分が見えていることが全てだと過信してしまうところが
> 最大のウイークポイントになっているようです。

というウイークポイントがその方にはなく、むしろ過信と反対で謙虚な人だ、ということを言いたかっただけです。

>知識としての謙虚さが
>ない”、と指摘してるに過ぎないわけです。

私は霊の存在を否定していません。知識としての謙虚さという理屈っぽい言葉で考えたことはありませんが…。。

>わたしが考える「謙虚」とは、宗教としておのれが主張していること、もしくは
>信仰の根拠が、知識としての根拠ではなく、単なる思い込みであることを素直に
>認める姿です。

私がいう謙虚さとは素直に反対意見に耳を傾け、もう一度自分の信じているものが本当に正しいのか考えて欲しい、ということです。知識の根拠とかそんな難しいことは一切考えていません。

いずれにせよ、それよりも、私が霊能者のことを書いたためこの掲示板本筋が横筋に外れる様になりうな危険があるので、私は発言を控えます。

真光への疑問を書いても、霊のことを書けば同罪として徹底的に攻撃される掲示板のようですから、私はこの掲示板の最初に書いてあった「何でも書いてください」という言葉に騙されました。


2001年05月29日(火) (fake 011 真光業の真実)

信者を嵌める欲望の神々(1) No: 5528 [返信][削除]

投稿者: 03/03/22 Sat 21:23:21
「信者を嵌める欲望の神々:新興宗教を告発する」田中一京著 青年書館1989.11

『崇教真光』(92-98頁):身体に取り憑いてる霊を手かざしによって取り除き病気も治ると言われたが、まったく効果がなかった

 崇教真光を信仰する若い信者の中には、手かざしによる病気治しに疑問を抱き、更には霊魂や動物の憑依霊などを恐れながら信心を続け、悩みぬいた末に自分では結論が出せずに相談に訪れる人が意外に多い。まず埼玉県大宮市の元スナック経営者S.Aさん(34歳)の話を聞こう。
『私は3年前交通事故に遭い、それからずっと頭痛に悩まされ苦しんでいたとき、崇教真光の信者であるKさん(29歳・女性)に病気を治してあげますと言われ、数回私の家へ来ていただいて手かざしを受けました。それから二、三度同じことを繰り返した後、Kさんの家へ遊びに行ったとき説明会(真光説明会)を聞きに行きましょうと熱心に誘われ、Kさんが通っているという東京・六本木にある道場へ連れて行かれ、そのまま一万五千円払って入信しました。
 私は入信するまでかかりつけの医者に薬をもらいその薬を飲んでいたのですが、真光では「薬は身体によくない。害になるだけだからすぐやめなさい。熱心に信心すれば薬など使わなくても病気は必ずよくなります」と言われ、私は教えられたとおり、医者からもらってくる薬をまったく飲まずに、真光でいただいた“おみ霊”をいつも大事に胸にかけてお祈りしていたのですが、頭痛は一向に治りません。
 最近では頭痛がさらにひどくなり、痛みがあるときは目までかすみ、頭が割れそうになって我慢できなくなることがあります。このままではすごく不安ですし心配でたまりません。
 今では真光の教えに背くのですが、頭が痛くてたまらなくなった時には内緒で医者からもらった薬をときどき飲んでいます。そうすると頭痛も和らぎ楽になりますが、私の気持ちとしては真光を信心していながらその教えを破っていますので、そのことが気になって仕方がありません。手かざしをするだけで本当に病気が治ると言われたことに疑問を持っておりますし、その疑問がだんだん強くなっています。
 もちろん、信者の人に相談すれば、薬は絶対使ってはいけない、信心すれば治ると言われることはわかっています。でも、自分でどうすればいいのか今、迷っています』


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信者を嵌める欲望の神々(2) No: 5529 [返信][削除]

投稿者: 03/03/22 Sat 21:24:28
(続き)
 また、元信者であった東京都板橋区の菊池さん(32歳・男性)は次のように語っている。『私が五年ほど信じていた崇教真光をやめたのは、ある日突然原因不明の足痛に襲われ、40度近い熱が三日も四日も続きました。他の信者の方は「それは霊障に違いない。だから病院で治療を受けても治らない。身体の中に悪い毒が蓄積されているから、その毒を浄霊して治さなければ命取りになる」と言って、それは熱心に手かざしをしてくれました。
 私もそうした仲間の信者さんの期待に応えようと、原因不明で動かなくなった足の痛みを我慢し病院にも行かず、ただひたすら信心に没頭する毎日でした。ところが痛みが治るどころが、身を切り裂かれるような激痛と高熱が続き、とうとうまったく動けない状態になり担架でやっと病院へ運び込まれました。
 病院で検査を受けた結果、白血球が異常に増え、どこかに炎症を起こしている」といわれ、脊椎に痛み止めの注射を打ったり熱さましの注射を打つやら、私の気がつかない間に医者と家族が心配して大騒ぎしたようです。
 医者の懸命な治療によって、動かなくなった足も次第に動くようになり、やっと退院することができました。そのときほど医者の治療を心からありがたいと思ったことはありません。あとで女房が私に言うには「もう少し治療するのが遅れていたら熱による脳障害が起きていたかもしれなかったし、神経をやられ動けなくなったかもしれない」と言われたそうです。
 私はそれを機会に真光をやめました。その後は足も順調で、今ではまったく痛みもありませんし、妻共々よかったと喜んでいます。私の経験から、やはり病気のときは早目に医者に見せるべきだと思いますし、ただ手かざしをするだけで絶対に病気は治らないと思います。今考えると医者や医療行為を拒否していた自分が浅はかだったと思います』


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信者を嵌める欲望の神々(3) No: 5530 [返信][削除]

投稿者: 03/03/22 Sat 21:25:07
(続き)
 次は東京都町田市のMさん(22歳・女性)の話である。
『私は崇教真光に入信したばかりなのですが、古い信者の人から、「真光の業を受ける者は絶対に霊魂に興味を持ってはいけない。素人が霊に興味を持てば命取りになるほど危険なことだ」と教えられましたが、本当にそんなに危険なことが起きるのでしょうか。それに霊魂が私達人間の心や体をすべて支配しているといわれますが、それは本当でしょうか。
 私は、入信するずっと以前から霊魂の存在を信じていましたし、そのことで何か悪いことでも起きるのではないかと思うと心配でなりません。それにいろんな本で崇教真光のことが取り上げられていますが、手かざしをしてお祈りするだけで霊魂を鎮めることができるのでしょうか』と、霊の祟りを恐れている。


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信者を嵌める欲望の神々(4) Follow: 5534 / No: 5531 [返信][削除]

投稿者: 03/03/22 Sat 21:30:35
(続き)
 そこで、実際に崇教真光の道場で霊視を受け除霊を体験した千葉県船橋市の菅井さん(27歳・女性)の体験談を紹介してみよう。
 『私が崇教真光を知ったのは、知人である信者のAさん(30歳・女性)から、私が体調を崩していたとき「あなたには先祖の霊やいろんな動物の霊が憑いているんじゃないかと思いますよ。多分間違いないし一度動物の霊に取り憑かれた人がどんな状態になるのか見せてあげましょうか」と誘われ、私は気持が悪くなり、そのAさんと一緒に東京・世田谷にある道場といわれるところへ行きました。
 そこはごく普通の二階建ての住宅で、私はその家の二階に通されました。部屋は20畳敷くらいの広さがある和室で、部屋の中央には祭壇が祀られていて、これはあとで教えられたのですが天地創造の神「御親元主真光大御神」という神様が祀られているのだと言っていましたが、部屋の中の雰囲気はいかにも厳粛な感じでした。
 私が部屋に入ったときすでに30歳前後の女の人が二人来ていて、私と一緒に来たAさんが「真光の業がどんなものかあなたの目でよく確かめて下さい。すごく不思議な現象が起こりますから」と耳打ちしてくれました。その女の人達は入信したばかりの人だとのことでした。
 そして、しばらく待っていると40歳前後の道場長という男の人が入ってきて、正面の祭壇の前に座りました。すると待っていた女性の一人がその道場長さんの前に向かい合って座り、二人は顎の前あたりでお互いに手を合わせ目をつぶると、道場長さんがお祈りを始めました。
 そして、そのお祈りが終わると女の人はそのままの姿勢でしたが、道場長さんは女の人から30cmくらい離れたところで右手を額の前へ突き出し手かざしを始めました。それから約2,3分経過したときでしょうか、突然その女性が両手を頭上に高々と上げ、目は閉じたままの状態で体を前後左右に激しく揺すりはじめたのです。
 そのときAさんが「あの女性には猫の動物霊と先祖の霊が憑いているの。あの上げた手は猫が手招きしているようでしょう。今、それをお浄めしてあげているんです」と教えてくれたのです。なるほどそう言われてみると猫が手招きしているように見えました。
 私が、そっともう一人の女の人に目を移すと、その現象を見てなるほどというように、何度も何度もうなずきながらじっと目を凝らして見ていました。それからすぐその女の人が突然同じように体を動かしはじめました。そして5分か10分たったころと思います。道場長さんが手をかざしたまま「オシズマリ、オシズマリ」と女の人に声をかけました。するとあれだけ激しく体を動かしていたのに、その動きが止まったのです。
 それが終わって今度は私の番になり、道場長さんの前に座って私も先ほどの女の人と同じように手を合わせました。すると道場長さんが「極微実相玄幻子界、高天原に……」と祈り始めました。このお祈りは「天津祈言」というようですが、そのお祈りが終わると今度は立ち上がって、私の背部に回りじっと手をかざしはじめました。
 それから10分たっても20分たっても私には何も変化が現れてきません。そして30分が過ぎたころ「オシズマリ」の声が聞こえ手かざしを終えましたが、その道場長さんは私にこう言いました。
 「あなたに憑依している霊は二体の人間の霊です。一体は先祖の霊で、もう一体はまったく別人の霊です。軍服のような物を着ているのがぼんやり見えますが、それが今のところ誰の霊なのか、あなたに何を訴えたいのかはっきりしません。ただ強い霊であることは確かなので、もう一度日を変えて、あなたに憑いている二体の霊を呼び出してみようと思いますが、それには7日間必要です。来られますか?」
というのです。私はこの際、徹底して除霊を受けてみようと思い、その日は3000円だけお礼を包み帰りましたが、翌日から7日間ぶっ続けで除霊をしてもらいました。でも、結果は同じでした。一週間の除霊が終わって道場長さんは私にこう言うのです。
 「あなたに憑いている霊は邪霊ではありません。ただ、あなたの場合、生霊が強すぎて、憑いている霊が表に出てこない。あなたには巨大な狼の霊が憑いており、その霊が守ってくれていますから心配ありません」
 結局、私の場合、霊動現象も起きず除霊もあやふやな状態で終わったのです。
 崇教真光では、あらゆる現象の源は霊にある。霊魂の世界があってその霊魂が人間の心や肉体に対して大きな影響を与えるといって“おみ霊”を受ければ手の平から霊光が出て人を救うことができると教えられているようですが、私の体験からはっきり言わせてもらえば、先祖の霊や憑依霊などは、生霊といわれる人間の生命力を左右するものではないと思うし、それを恐れる必要はないと思います』


2001年05月28日(月) (fake 012 真光業の真実)

手かざし治療に賠償命令 (01/9/29)

 「ハンドパワーで病気を治す」と言うふれ込みで多額の治療費をかき集めた「泰道」の元会員が損害賠償を求めた裁判で、長崎地裁は原告の主張を認めた。裁判長は、「会長を超能力者などと同視するもので、証明されない以上認められない」と断じた。
控訴審でも、「泰道」(解散)は敗訴しました(02/2/16)

http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/
200209/11/20020911k0000e040044001c.html

2002年09月11日

損賠訴訟:
手かざし「泰道」に6550万円賠償命令 福岡地裁

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 「手かざし」で病気が治るとして多額の金を集めた団体「健康を守る会・泰道」=本部・佐賀県、解散=の元会員37人が、元幹部らに約7320万円の損害賠償を求めた訴訟で、福岡地裁の小山邦和裁判長は11日、開俊久元会長(55)ら9人と泰道傘下の宗教法人「宝珠宗宝珠会」など9団体に、計約6550万円の支払いを命じた。泰道の責任を問う三つの訴訟の1審で元会員側勝訴の判決が出そろった。泰道側は控訴する方針。

 判決で小山裁判長は、手かざしの効果を「実在するものとは認めがたい」と否定、勧誘・集金システムについても「明らかに社会的相当性を逸脱し違法」と指摘した。同種訴訟の佐賀地裁判決で認められた慰謝料支払いは認めなかった。

 元会員側は「組織的な違法性が詳細に認定され、ほぼ満足できる」と述べ、泰道側の代理人弁護士は「集金手段が違法とされ不満」と話した。

 同様の訴訟では長崎地裁(昨年9月)と佐賀地裁(今年2月)が泰道側に賠償を命じる判決を言い渡した。長崎訴訟では双方が、佐賀訴訟では泰道側が控訴している。 【青島顕】

[毎日新聞9月11日] ( 2002-09-11-12:39 )

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「お光さん」 <> 23 Nov 2002 14:34:41

「お光さま」は俗称で、正式な教団名は「世界救世教」である。
教祖の岡田茂吉は大本教の信者で支部長にまでなったが、自己の霊力に自信を持ち、 岡田式指圧療法をひろめはじめた。ところが翌年、医師違反に問われたため活動名を 改称して再出発したものの、昭和十五年には再び医師法違反に問われてしまった。

終戦を終え、「掌からでる霊波ですべての病気を癒す宗教」と評判となり、医薬品が 極度にとぼしかった時代を背景に多くの人々をひきつけたのであった。彼は病気治療に 薬を用いる近代医学を否定した。霊の曇りの本質は薬毒にある。薬毒には祖先からうけついだ

先天性薬毒と、生まれてから体内に入れた後天的薬毒とがあるが、病気になって、 もともと毒である薬をこの原理を知らないで用いると、一時的には快方にむかっても、 毒が体内に蓄積されるだけであってますます病気を重くする原因になるのだと説く。 病気になれば「浄霊法」を行って、体内の薬毒をとりのぞけば霊の曇りがのぞかれ、 霊主体属の原則で体力が増進するというのが、彼の病気癒しの方法である。

この薬毒論は終戦時の疾病に悩む大衆をひきつけたが、反面、 医師による診療を拒否したための過失致死が問題となり、ジャーナリストの 激しい非難となってあらわれた。

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催眠誘導法 パス法 No: 3919 [返信][削除]

投稿者: 03/01/07 Tue 12:47:57
「図解雑学 催眠」(武藤安隆著 ナツメ社)140頁より

手の動きと暗示を組み合わせた誘導法とは?
パス法
●手の温かさを利用した催眠誘導法
 メスメリスト達は患者に動物磁気を送るのに、磁気の入ったバケットや瓶とは別に自分の手を使っていた。彼らは自分の体に貯えられている磁気を手を通して患者に与えることができると信じていたのだ。具体的には手のひらを患者の体に向けた状態で体に沿って上から下に降ろしたり、直接体に触れて撫で降ろしたりした。これがパス法*1である。動物磁気の存在こそ否定されたものの、パス法自体は現在でも誘導法として使われることがある。
 パス法が誘導法になり得るのは、二つの理由がある。一つには注意集中の状態を引き起こすからだ。被催眠者は催眠者の手や、その手が触れている(あるいは近づいている)自分自身の体の部分に注意を向けるようになる。この注意が集中した状態*2は外部のほかの刺激から遮断された状態でもある。こういうときに暗示を与えられると心の中にすっと入っていくものだ。
 二つめの理由は催眠者の手のぬくもりが被催眠者の体に伝わるということである。たいがいの人は手を触れられたり近づけられたりすると温かさを感じるものだ。その温かさが自然と眠気を誘うのである。ごくあたりまえの生理現象を利用して誘導するということだ。
 直接被催眠者の体に手を触れるときは、強く押しつけるのではなく軽く触れる程度にする。体に触れないで行なうときは、体から数センチ離れた位置に手を置く。どちらの場合も、頭、肩、腕というように上からゆっくりと手を降ろしていく。これを数回繰り返しながら同時に暗示を与えていく。「ゆったりとする」「体が温かい」「ぽかぽかとしたいい気持ちだ」「眠くなる」などの暗示をささやくような静かな声で繰り返す。こうして手の動きと暗示の組み合わせによって、被催眠者はしだいに催眠状態に誘われていくのだ。
*1按手法、通手法とも言う。
*2被催眠者が自分の体に注意を集中している状態では、催眠者が与える暗示に対して無批判になるので暗示が受け入れやすくなるのである。

(コメント)
真光の業と比較すると「注意集中の状態を引き起こす」「ごくあたりまえの生理現象を利用」の部分が興味深い。
組み手は「8番(みけん)のおきよめのとき、真光は何も暗示しない」というかもしれない。しかし真光は、8番のおきよめをはじめるまえに「もしも体がうごいたりしても無理に止めようとしないでください」と断るのである。これは「みけんにおきよめを受けると体がうごくことがある」と刷り込んでいるといえまいか。陽光ライフにも霊動の説明はある。道場参拝すれば体験者がおきよめを受ける前に浮霊している人をみることもありうる。8番受光前に下地が作られていると考えてもよいのではないか。

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ヒプノシスへの期待と誤解 Follow: 3373 / No: 3370 [返信][削除]

投稿者: 02/12/24 Tue 11:25:53
http://plaza11.mbn.or.jp/~ffadsync/misunderstandings.htm
ヒプノシスへの期待と誤解 より

「催眠」と聞くと、催眠術のショーや、映画、小説での催眠の場面が思いうかぶと思います。 意識が無くなり、催眠術師に操られて、何でもやらされてしまうといったイメージです。

催眠に入っている人は、意識が無い様に見えますが、実際には、しっかりと意識があります。リラックスするように誘導されて、体の力が抜けて、ぐったりとしているので、意識不明の様に見えているだけなんです。常に主導権は、クライアント本人にあり、自分が何をしているのかを認識しています。犯罪や自分を傷つける行為など、本人が同意出来ない指示には、拒否するか、瞬時に催眠から覚めます。

催眠は、睡眠、昏睡、失神では有りません。また、誰かにコントロールされたり、強制されたりといった事もありません。勿論、魔法や超能力でもありません。

ショーの中で、「あなたは犬になる。」と指示されて、吠えて走り回るのは、本人が同意出来る範囲の行動なんです。そして、頭の中では、「何でそんな事するの? するわけないじゃない。」と始めは思っています。(本人は、しっかりとした自覚意識があります。端から見ていると、力が抜けてぐったりとしている様に見えるので、意識が無い様に見えます。)それが次第に、「何だかやりたくなってきたな。」と思い始めます。更に、「よくわからないけれど、何だかやりたくてしょうがないな ・・・・。 なんでかな? やっちゃおー。」という事になります。

この様に、催眠中でも意識は、はっきりとしています。終わった後に、自分が何をしていたのか「憶えていない。」という人もいますが、これは、催眠から目覚める時に、「あなたは、今やっていた事を忘れる。」と暗示されて覚醒するからなんです。 この一連を観客として見ていると、何だかとても不思議に、そして意識がなくなって、操られているように見えてしまうのです。

もし、催眠に強制力があるとすれば、見ている人も全員が、犬の様にワンワン走り回り、観客がいなくなってショーが成立しなくなってしまいます。テレビや映画を見ていたあなたも、きっと催眠(術)には掛からなかった事と思います。

催眠(意識変容)状態の時には、頭で少し恥ずかしいなと思う事(実はやりたかった事)でも、心(潜在意識)がOKを出すと(本当はやりたかった事)行動します。「誰かに笑われても、大した問題ではない。」とあなたの潜在意識(無意識)は知っているからです。また、催眠術ショーは、催眠の一部分の面白おかしく、あまり当たり障りの無い内容で構成されています。更に、演出効果も大きく、意識が無くなって、何でもさせる事が出来る。或いは、操られている様に見えるだけなんです。


「催眠」という言葉には、誤解と過大な期待が未だについてまわっています。

ヒプノーシス(催眠)を意識が無くなってしまう状態と思っていたり、他人にコントロールされて自分の言っている事や行動が判らない状態だと思っている人もいます。 また、何でも、どんな事でも魔法のように願いがかなうものだと思っている人もいるようです。

ヒプノセラピーは、クライアントを深いリラックスに誘導する事で、顕在意識が一時的に休息し、顕在意識を迂回して潜在意識とのコミュニケーションにより、クライアントは、自分自身の内部への洞察力、集中力が増大していきます。そして、全てのイニシアティブ(主導権・選択権)は、常にクライアントにあります。また、セッション中に災害が発生した場合(地震、火災等)は、本能の働きにより、催眠状態から瞬時に目覚めます。そして、催眠状態に入ったままになる事もありません。


(コメント)
組み手は「霊動は催眠ではない。催眠は受施者の意識がないが真光はある」という。しかし、催眠は受施者の意識があるのだ。

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投稿者:peke 02/07/29 Mon 02:31:43
前頭葉をちょっと調べたけど、あそこに手かざしするのは危ないね。
手かざしで何かしら刺激があるのだから、危険な事は確かみたいだね。
それから遺伝子とも関連があるみたいだね。
記憶の部分に深く関係してるって事は、古い過去の記憶も残ってるって事かもね。
ちょと調べただけでこれだけ出て来るんだから、霊動説が覆されるのも時間の問題と見た。

http://www.cypress.ne.jp/kishi/ht/frontal.html
http://www.number.ne.jp/special_features/2000.08.03/spe2_page6.html
http://members.jcom.home.ne.jp/2242426201/shige/hanashi.html
http://www.inetmie.or.jp/~kasamie/kiokuZentouyou.html


2001年05月27日(日) (fake 013 真光業の真実 )

手かざし治療の真実(1) No: 1569 [返信][削除]

投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:24:03
 崇教が平成13年7月に発行した小冊子「手かざし」が信者の間に好評だ。東北大学医学部名誉教授(医化学)の吉澤善作氏が自己の体験談をまとめたものだ。この本の医学的門題点を指摘していきたい。

1) 自己の体験レポートについて
 吉澤氏がいろんな病気の患者に対して手かざしした体験談をまとめているが、比較対照検査は全く行われていない。初期研修のテキストに引用されている「保健薬を診断する」(高橋晄正など著)には、「大学教授が書いた『使って治ったから効いたように思われる』などという報告は信頼できない。二重盲検法でないとだめだ。」とはっきり書かれている。タバコや酒の手かざしについても二重盲検法が必要である。

2) 「医学と宗教を十字に組む」について(P52)
 「ところで、宗教は医学を否定し、医学は宗教を否定するような風潮がありますが、病める人々が宗教によって救われた例や、医学を否定した宗教の信者達が不幸な結果を招いた例も多いことは周知の事実です。
 疾病に苦しむ宗教の信者達も、進歩した現代医学を十分に認識し、活用して、正確な診断の下的確に対応し、早く恢復して本来の道を歩むことが大切ではないでしょうか。
 そして、宗教と医学を十字に組んで人救いをさせていただくことが求められているのではないでしょうか。」
 全く同感である。

3) 他の医師の報告の紹介
 平木・石井・和田医師よりの症例報告があるが、いずれも医師の主観による症例報告で、学問的価値は乏しい。
 小川医師のサーモグラフィーを用いた報告も、一見すると科学的手法を用いているように見えるが、単なる1例報告であり、客観性に欠けている。「他の多数の被験者についても確認されています。」とあるが、それなら統計学的データを示してほしい。
 大阪大学医学部整形外科教授の越智孝雄氏が、第3回陽光文明国際会議(1999年8月高山市)で慢性関節リウマチ患者についての多数症例での比較対照検査をおこなっているが、その研究内容は全く紹介されていない。

4) 「ムコ多糖代謝パターンの若返り現象」(59頁)
 これに関する吉澤氏自身の報告は最も悪質な素人だましである。わずか一人の人間のムコ多糖データを提示して、"真光の業による若返り現象"がおきたなどと一方的に断定している。また研究の行われた年度も明記されていない。
 「同じ様な傾向は男女を問わずに認められました。」などと、自慢そうに言っているが、それなら多数の症例に対して、統計学的解析を実施して示していただきたい。72-75頁をよく読むとわかることだが、すでに1981年以前に公表されていたわけだ。およそ生化学研究者として「気でも狂ったか」と言いたくなる。
 
4) 好中球に対する"真光の業"の効果データ(60頁)
 この研究自体は、学問の方法論に基づいている。
 ただ、ここに紹介されている研究は、研究発表年がごまかされている。これも72-75頁を読めばわかるように、すでに1981年に発行された「真光」誌に掲載されている。20年も前に行われた古典的な実験内容を、研究発表年を明記せずに、ぼかしてのせるなど、科学者の風上にも置けない行為である。「何だあいつ気違いになったか」といわれて当然だ。越智孝弘氏は他人の研究を引用するとき、ちゃんと発表年を明記している。

 約40年前、医学の学会で高橋晄正氏は「グロンサン・アリナミンの効き目に疑問がある。医師の主観的な症例報告ではだめで、二重盲検法を実施すべきだ。」と主張したが、他の大学教授らはすぐに意見を取り上げようとしなかった。私も、「手かざしの効き目に疑問がある。医師の主観的な症例報告ではだめで、二重盲検法を実施すべきだ。」と吉澤氏に主張したい。


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手かざし治療の真実(2) No: 1570 [返信][削除]

投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:24:46
 「保健薬を診断する」(高橋晄正など著)よりの引用が、崇教真光の初期研修テキストに記載されているが、テキスト未収載の箇所をここに引用する、

(P29) 治療にあたって、プラシーボー効果を上手に利用することは、立派な医師の資格の一つですが、この「人間らしさ」の故に生じる効果は、薬のテストにあたっては、邪魔な存在であり、テストの段階では、一応は、とりはらうべき枝葉です。
 これらの事柄を認識し、よりよい薬の発展を願うという前向きの立場をとるならば、それなりの実験のデザインの約束にしたがう必要があります。
 人間における臨床実験では、特定の基準の薬ないしプラシーボーと、目的の「薬の卵」とを、素性のはっきりした患者に、特別な依怙ひいきなしに割りつけ、実験条件に特別な偏りがまぎれ込まないように工夫し、さらに、医師も患者も、どちらの薬を使っているかわからない状態、つまり医師も患者も薬の種類については盲目の、二重盲検法と呼ばれる手法によって、それぞれの薬の価値を吟味してくらべなければ、客観性のある結果は得にくいのです。
 このような比較実験によって、薬の評価に客観性がでてきます。一口にいえば、二重盲検法にしたがって、基準薬ないしプラシーボーと目的の薬とを、特定の患者群に無作為に割りつけて、同時にテストをするという基本にしたがうことが、薬の正しい評価には不可欠です。
 従来の日本の例では、雑多な患者に、適当に目的の薬だけを使い、たっぷりと主観的な、独断的な判断を加え、その薬を使って病気がなおった、したがって、その薬は効いたという絶対尺度の評価方法が多かったのです。一つには、このような種類の、科学の本質をつくような方法についての医学教育が行われず、薬の評価にあたっては、メーカーからの謝礼が馬鹿にならない財源になり、よろしくお願いしますという依頼に対してナニワブシ的な報告を書くという習慣があったために、科学的な薬の評価が育ちにくかったのでしょう。
 また、実際にテストにたずさわる若い医師にしてみれば、偉い先生が将来の職場に関しても生殺与奪の権を握っており、先生が「赤く見える」というものを、あえて「白です」といいはって、破門の憂きめをみるよりは、「桃色に見える」ぐらいでつじつまをあわせていた方が無難であるという風潮があったこともいなめません。
 きちんとした、人間における薬の評価は、一九四〇年代にイギリスではじめられ、アメリカにも伝えられ、ようやく日本にも、必要性が認められるようになってきたのです。しかし、この方面の仕事を主体にする専門家の養成とか研究室の設立などは、まだまだ時間を要することでしょう。国民の健康をまもる医療関係者にとっても、医療の恩恵をうけるはずの国民にとっても、無関心ではいられない問題です。
 厳格な薬の評価を行おうとするほど、当面の倫理上の問題が大きな制約になることは確かですが、これを理由に、いい加減な評価を行ない、国民にいい加減な恩恵を与えていることの方がより倫理的なのでしょうか。

(解説) このように二重盲検法の必要性は同書に明記されているのである。


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手かざし治療の真実(3) No: 1571 [返信][削除]

投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:25:30
 1910年に鈴木梅太郎博士(東京帝国大学農学部農芸化学科教授)がオリザニン(ビタミンB1)を発見したが、その時のエピソードが、「アリナミン」(高橋晄正著、三一書房1971年)に書かれてあるので、以下に引用する。
(41-42頁)
 (ビタミンB1について)これが脚気の本態物質であり、治療の上で有効性をもつというビタミン説は、簡単に医学の世界に受け入られたわけではなかった。
 鈴木氏は三共株式会社に頼んでオリザニンを製剤化してもらったが、医学界ではほとんど顧みる人がなかったという。そこで鈴木氏は東京市の養育院で一年のあいだ二〇人の小児で栄養剤としてオリザニンを与えた者と与えない者との発育状態の比較をおこなって、与えたほうの発育が良好であるという成績を得ているが、医師でなかったために、脚気についての効果を試験することはできなかった。鈴木氏のような農芸化学者がかえってこのような早い時点において二群の比較をする対照試験の設計をしていることは注目すべきであろう。それは原理的に考えれば誰でも考えていたらざるを得ない生物科学の当然の帰結であったからであろう。

(解説) すでに明治時代に鈴木梅太郎博士により比較対照試験が行われていた。学部が違えど同じ生化学系研究者の吉澤善作博士は、21世紀になっても比較対照試験の必要性を主張していないのはおかしな事だ。
 シーちゃん氏のように、医師でない一般人に二重盲検法の必要性を指摘していただいたことは、崇教真光所属の医師として心からなる敬意を表する。多数症例に対して、二重盲検法による比較対照試験を行い、その結果を光記念館に展示すべきだろう。
http://www.incs.co.jp/turezure/contents/baba-ture/baba-back/010914_ba.html
http://www.incs.co.jp/turezure/contents/baba-ture/baba-back/010919_ba.html


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手かざし治療の真実(4) No: 1572 [返信][削除]

投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:26:14
 現在、崇教の手かざしの病気治療研究で、唯一多数症例の比較研究を行ったのは、大阪大学医学部整形外科教授、越智隆弘氏である。
http://www.osaka-u.ac.jp/annai/cgi-bin/syousai.cgi?S=7011&K=1738

1999年8月 陽光文明国際会議抄録
B-1:慢性関節リウマチ患者に認められた疾患経過、治療経過、宗教的想念について
     越智隆弘

 慢性関節リウマチ(RA)は関節破壊が進む慢性炎症性疾患である。原因は不明で、世界中どの地域でも患者数は人口の0.3~1.0%で、日本では50万人と考えられている。

 RAの長期経過を調べたところ(Ochi et al. Arthritis Rheum, 1988)、10年以上経っても手足末梢関節の破壊に終わり日常生活上の支障が少ない軽症病型(小関節破壊型:LES)、膝や股関節などの大関節にも破壊が及び機能障害が大きいが、骨はしっかりして人工関節などで自立が可能になる多関節破壊型(MES)、全身の関節が高度に破壊され、内臓の合併症も重度で自立困難なムチランス型(MUD)の三病型に罹病早期から分かれて診断可能である。種々の薬を用いても、関節の病巣を手術で取り除いても(Ochi et al: J Rheumatol, 1991)、完治できないばかりか重症病型を軽症に変えることもできない。

 難しい病気で、専門医が患者を何とか良くしようと種々の投薬をして、逆に多くの副作用が起きている。塩川博士の発表によると、消炎鎮痛剤を服用している1008人のリウマチ患者を胃カメラで調べたところ624人もの多数に胃潰瘍を認めたという(リウマチ、1989)。また塩川博士の発表によると、大阪のリウマチ専門医にかかっていた患者(330人)の死亡年齢は、他地域と同様に約62才であった(臨床リウマチ、1989)。更に同博士は和歌山の山間部で専門医にかかることがない寝たきり患者(35人)の死亡年齢は当時の一般平均に近い75才と発表した(臨床リウマチ、1991)。これらは最新治療薬の副作用による寿命短縮を示唆するものであった。漢方治療ではどんな状態かを調べるために1990年から、ある漢方専門医にかかるリウマチ患者の5年以上の経過を調べた。軽症リウマチ(LES)では漢方のみで副作用無く経過したが、重症リウマチ(MESとMUD)では副腎皮質ホルモン剤や強い抗リウマチ剤併用を余儀なくされ、やはり多くの副作用を合併していた。

 副作用の問題と共に私たち臨床医がリウマチ治療上で問題視しているのは、リウマチ患者の気持ちを明るく晴れさせてあげられないかということである。1991年のことであるが、四肢不自由にもかからわず明るい表情のあるリウマチ患者に出会った。驚いたことに、彼女は薬を服用してなく、真光の宗教的な「光」を毎日受けているとのことであった。その後、そのような「光」を毎日受けている患者40人を診ることができた。そのうちで薬を用いずにリウマチの長い経過を過ごし得ていた、おそらく宗教的想念が高いと思われる14名のリウマチ患者の5年以上の経過を観察できた。それらの患者は「光」を毎日受けていても薬なしでは、初めの3ヶ月弱にはリウマチの強い痛みに困っていた。しかしその後、痛みを訴えなくなり、明るい気分に変わっていった。リウマチに伴う臨床検査値や関節破壊の進行は各患者の病型の特徴通りで、抗リウマチ剤や漢方で治療を受けている患者さんと同様の変動を示した。重傷病型では関節破壊進行により人工関節手術を必要とした人もある。評価で最も特徴的だったのはFace Scale index (表情評価)が良かったことで、他のグループのリウマチ患者に比べて、気持ちの明るさによる生活の質(QOL)の向上が目立った。

 現代医学によって完治できない慢性疾患は多い。副作用の問題だけでなく、薬によって解決できない精神的憂鬱の問題が生じてくる。信仰心は心の問題を含めての治療過程に大きな役割を果たし得ると考えられた。


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手かざし治療の真実(5) No: 1573 [返信][削除]

投稿者:崇教Dr.A 02/10/17 Thu 20:26:55
寸教(崇教)H2.9初版 P224-226
[73]慈善事業とは
 病人を救うために、病院を建てる。そのために寄付を集める----薬毒患者を多くつくるだけであり、慈善どころか罪業を積んでいく偽善事業であろう。
 「慈善事業」とは、人類を無病化脱貧させて、真に平和で安泰な文明を、この世に顕現させていくために為すことである。
 天国文明を拡めるために、現在一般常識とされている事でも、その間違いをハッキリ正していく事業、これも「慈善」である。
 そういう事業のために、どんどんお金を出すこと、これも慈善事業なのだ。
 今は、偽善事業が氾濫しすぎて、ますます世の中が悪化している。そのためにも、偽善事業に精を出している方に、早く本当の慈善に目覚めていただき、貧にあえぎ、病に苦しみ、やすらぎのない人々を真からのお救いに入れてあげてほしいものである。
 仮にそうした意味で、ここに一億円を寄付された方がいるとする。それが元となって、どれだけ救いの輪が拡がることだろうか。
 たいへんな救いになりはしないだろうか。これを「慈善事業」というのである。

崇教真光初期研修テキストJ版46頁
第十七 霊主(十字)の医学
②法定伝染病や結核、エイズ、マラリア、ハンセン氏病等の伝染病、また精神病などはお医者さんに診せて入院させます。その上で、求められればお浄めさせて頂くのです。

(解説) 平成元年に陽光診療所が高山氏に開設され、平成5年後半に崇教の初期研修が改定された。特に医学に関する記載が大幅に書きかえられ、「医学と十字に組む」ことが強調されるようになった。上記の個所もその時付け加えられたが、「寸教」の光玉師の教えと、かけ離れた印象を受ける。




●「真光の業」が世界救世教から学んだものだったなんて、ありがたみが失せてしまう

 たとえば、手かざしといえば、こうした教団の歩みに中には、手かざしによる浄霊で有名な世界救世教の名は登場してこない。崇教真光とすれば、それは同じ手かざしでもそれとは別のものなのだということかもしれないが、「実は岡田光玉初代教え主の足跡の中で、世界救世教の存在が意図的に隠されている」というのは、教団の内情に詳しい元会員である。

「つまり岡田光玉教え主は、もともと戦後浦和市を中心とした埼玉県下で世界救世教和光布教所長をしていたことには、一切触れられていないのです」

 なんのことはない。崇教真光教がなぜ、「真光の業」と呼ぶ手かざしを売り物にしているかといえば、要するに世界救世教の手かざしによる浄霊がヒントになっていたわけである。

 そのことを伏せているについては、当然それなりの訳があろう。それが「真光の業」は神から人類が賜った霊光であり、キリスト教の聖書にある「神は光なり」との教説を証明する霊術や、仏教でいう「無量光」と同じというのである。そして宇宙創造の唯一絶対神たる「主の神」は、それまではこの「真光の業」を大聖者であるイエスや釈迦にしか許していなかった。それを岡田光玉初代教え主は許されたというわけである。

 ところが、自らをイエスや釈迦と同列に引き立てる道具ともいうべき「真光の業」が世界救世教から学んだというのでは、ありがた味が失せてしまうからだ。

新興宗教の正体 P44、45 早川和廣 あっぷる出版社 1987.2.2



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