優雅だった外国銀行

tonton

My追加

51  幻と化した愛社精神
2005年08月30日(火)

そんな10月15日の夕方、それは謙治が決して忘れる事の出来ない日になった。 「ちょっといいですか?」と、直属の上司に応接室に呼ばれた。 上司に応接室は呼ばれる事など普通はない。 とても良い事と、非常に悪い事でしかない。

「組合から聞きましたか?」謙治は、きょとんとして、「何の事でしょう?」形だけの労働組合がある。10年以上前に東京支店の経営者側が横暴な時期があった。 その時、急遽出来た労働組合は、その後の長い間の健全な労使関係の故に、ほとんどその存在価値を無くしていた。 年1回の総会での最大の議題は、組合の存続を問う事なのであった。

「新しい労働協約が出来まして、組合に提示してあります。 ご存じないのですね?」上司の説明によると、20年前の労働協約は、実際にそぐわない事が多い為改定した。 退職金も短期の人には少なく、長期の人には少し良くなったが、定年年齢は55才である。  従って、「年が明けの1月に55才になる謙治は、1月末で退職せよ」と言うのであった。

信頼していたもの、信じていたもの総てが、大音響と共に崩れだした。 古い就業規則でも、定年年齢は55才となっている。 しかし、それは無効であると思っていた。 自行内の住宅ローンを例にすれば、貸付制度が発足した15年前には、55才迄しか貸さなかったが、すぐにそれは60才迄にと改定された。 労働協約は直してなかったが、長い間、誰しもが定年は60才だと信じていた。 現に55才で退職した人は、20年間で2人しか居ず、1人は自己退職であり、もう1人は短期の契約社員で、健康に問題が有ったため契約更新がならなかったのであったが、これが労働組合発足の契機の一因になったのであった。

いくら呑気な謙治でも、漠然とでは有ったが人生の計画らしいものがあった。 3人の息子を持つ彼は、これまでは蓄えらしい事は出来なかったが、同時期に大学生であった2人は既に社会に出ている。 あと1人がこれから大学であるが、何とか老後の蓄えも始められるのではと思っていた矢先である。

謙治は、東京支店の発足当初から勤務しているたった2人の内の1人である。支店になる前の駐在員事務所にも最初からいた。 この銀行を心から愛し、この銀行に働く事に誇りを持っていた。 だから、勤務時間が人よりずっと長くても、次から次ぎへと業務量が増えて来ても、決して苦情を言わずにこなして来た。 誰からも信頼されている、皆は自分を必用としているという自負があったからこそ、どんなに遅く床に就いても、5時10分の目覚し用ラジオのスイッチが入る前の、あの音と言えない様な音で飛び起き、トイレをしながら新聞を読み、総べての準備を完全にして6時前のがらがらの電車に下総中山駅で乗り、7時にはもう猛然と働く事が出来ていたのでなかったのか。 謙治は、例え60才になっても、銀行は彼が辞めると困ると思っていた位だ。 単なる自惚れだったのだろうか。

「組合は、新労働協約を未だ承認して無いのでしょう?」と言う事は出来た。だが、足元からがらがらと音を立てて崩れてゆく信念の上で、謙治は、自身を支えるのがやっとであった。 謙治は自分の為にではなく、愛する銀行の為に働いていたのだ。 銀行が彼を必要としているから、苦しかったが続ける事が出来たのだ。 「もう、駄目だ」と思った。 銀行は、彼を必要としないと言うのだ。 本当なのか。 そんなことがある筈が無い。

「どうしますか?」上司の声が遠くで聞こえた。 何をどうせよというのだろう。 「お願いします、未だ辞めさせないで下さい」とでも言えば良いのだろうか。 でも、もう駄目なのだ。 銀行は彼を必要としてないと言うのだ。 生活はどうする。 謙治には、これから大学へ入る三男坊が居るではないか。リストラで中高年失業者がうようよ居る。 再就職が難しいのは、目に見えている。 だが、慈悲を乞うのは謙治の流儀ではない。 「分かりました」立ち上がった謙治の背に、「明日は我が身ですよ」と上司の声。 本当だろうか、人件費の高い謙治を除く事で、上司の点数が上がるのではないだろうか。 謙治がゴネたら、上司は困るのではないだろうか。 例え本当であっても、彼は謙治より2才若い。 2年前に定年を知るのと、3ヶ月前に知るのとでは大きな違いではないか。 何故、もっと早く言ってくれなかったのだろう。 忍び寄る定年の足音を聞いてさえいれば、例え、それがもっと若年であっても、心の準備は出来ていた筈だ。 業務引き継ぎの為にも、謙治の場合短過ぎた。

この銀行は、謙治の銀行ではなかったのか。 創設したのは、ラボルド氏とジュリアン氏、それに謙治の3人ではなかったのか。 たった1年前に赴任して来た奴に、謙治を辞めさせる権限があるのだろうか。 謙治が、パリ国立銀行の為に如何に自分を犠牲にして働いて来たか、彼等は知っているのだろうか。総てが真っ暗になってしまった。

駐在員事務所時代、若かったジュリアン氏は副代表として謙治と仲良くやっていた。 その後、副支店長として来日し、三度目は支店長になって来た。 そのジュリアン氏は、シンガポール支店長を最後に、一旦は定年退職し、現在はマドリードでパリ国立銀行の関連銀行のボスとして元気にやっている。 謙治は、ジュリアン氏に、助けを求めようかと考えた。 しかし、その考えはすぐ退けた。 今まで謙治は、一身上の事で誰かを煩わせたことは一度もなかった。 騒いだ所で何になる。 潔く、気持ち良く去った方が、踏ん切りがつき、明日への希望も生まれようと言うものだ。

不況という冷たい風が巷に吹き荒れて久しい。 多くの中高年労働者が、いわゆるリストラの名の元に犠牲になっている。 謙治の関係した企業でも、外資系コンピューター関連企業に希望退職を募る会社が多いように思えるが、退職者は、かなり優遇されているのが普通だ。 謙治が羨むような退職金が支給されているのもある。 経営難に陥っていたスーパーマーケットですら、謙治が受け取る退職金の倍もが、希望退職者に支払われることが新聞に出ていた。企業にとって従業員は家族では無かったのか。 その家族を、本家の存続の為に切り離さなければならないとすれば、その切り離す家族の為に、精一杯の事をするのが人情ではあるまいか。

パリ国立銀行東京支店は、営業不振では無かったし、業務量が少なくなっている訳でもなかった。 どのセクションも忙しく、「残業を控える様に」とのお達しが出されていたが、残業をしないで片付く業務量では無かった。 特に、謙治の場合は、移転による諸々が無くても、朝7時から夕方7時か8時迄は、フルに働かなければならなかった。 高度な専門知識と、判断力が要求される、尚且つ、肉体労働が必用な彼の業務に、代わりが簡単に見つかる訳が無い。 だから、定年ですから辞めてくださいと言われることを謙治は想像もしていなかった。

謙治は、学校出ではない。 だが、仕事にたいする情熱から、常に、研究、探求を怠らなかった。 とかく、パソコン等を毛嫌いする中年以上の中にあって、パソコンに関する諸々、機種の選定、ソフトの問題、教育、トラブル、それらの一切を、EDPセクションが充実され始めるまで、片手間であったが、謙治が面倒を見ていた。 それ意外にも機械と言えば、全て謙治であった。 他の誰よりも先に精通し、皆に指導するのが謙治であった。 長い間、その様な謙治の仕事振りは高く評価されていた。 だから、大学を出てなくても、それに相応しい報酬を得ていた。 新しいマネージメントは、そんな謙治を評価してないのであった。 この給料なら、若いのを2・3人雇えるではないかと。

25年前、「学歴なんか気にするな、大事なのは実力だ」とラボルド氏に言われた。 だが、実力を誰が正しく評価出来よう。 小人数の内は良かったかもしれない。 しかし、短期間で入れ代わるマネージャーたちに人を正しく評価せよと言うのは、所詮無理なのである。 上司による人事評価表を、毎年本人に見せることになっている。 謙治の1993年の評価は、「上司に反抗的である」となっていた。 あの移転準備が始まってからの数ヵ月、謙治は、どれだけ、無責任な上司達と意見を戦わせて来たことか。 毎日が戦争であった。 だからこそ、辛うじて移転が出来たのではなかったのか。 謙治は、これだけは断言出来た。 謙治がいなかったら、移転はメチャメチャになり、移転後暫くは、営業に重大な支障を来していたのだ。

年功序列の崩壊が言われ出して久しい。 これは、若い人達には、心地良い響きをもった言葉であろう。 確かに、年令が高いだけの上司を持ち、歯がゆい思いをしている若者は多いことと思う。 超一流大学で好成績を修めた若者は優秀なのかもしれない。 しかし、「亀の甲より年の功」とも言う。 一般的な高齢者は、勤勉な若者が短期間で習得したものより、はるかに多くを身に着けているのが普通である。

パリ国立銀行東京支店には、過去1年ほどの間に、中間管理職が異常に増やされた。 それぞれが若く、アメリカの大学を出て10年程を多くの企業を渡り歩いた人が多い。 新支店長ソテール氏は、その様な経歴の持ち主が好きなのである。 彼らは、しかし、部下を引き付ける魅力に乏しい。 だが高年令中間管理職が順次追いやられることは明白である。

パリ国立銀行は従業員を大切にする。 長い間、その様に信じ込まされて来た。 永年勤続者は大切にされるとも聞いていた。 だから謙治は、パリ国立銀行を非常に日本的な企業であると思っていた。 方向転換なのであろうか。それとも、時々のトップの考え方次第で全ては決まるのであろうか。 それとも謙治がトップに嫌われただけの事なのであろうか。

日本の企業も変わり始めている。 年功序列が無くなるだけではなく、生涯雇用の保証も過去のものになりつつある。 長い間、日本は人手不足であったから、企業にとって社員は財産であり、時には宝であった。 しかし、それらは、バブルの崩壊と共に崩壊してしまった。 リストラの名の元に人員整理が正当化されるようになった。 日本的企業、日本的雇用とは一体何であったのだろう。

謙治は、定年で職場を離れるのは、さぞ寂しいものであろうと長い間思っていた。 謙治にとって、職場イコール人生であった。 寝る時間以外は職場にいた。 寝ていても仕事のことを考えていた。 それらの総てが無くなることは、心に大きな穴が開く様なものだと思っていた。 だが、マネージャー達への嫌悪が、旺盛であり過ぎた仕事への情熱を、責任感を、そして、パリ国立銀行への愛着を急速に冷やし始めた。 陰で謙治の退職劇の糸を引いている支店長ソテール氏は、通路やエレベーター内で謙治に遭遇する事を極度に恐れていたが、遭遇してしまうと、必用以上のご愛想で小心者を露呈させた。



50 移転は済んだが
2005年08月25日(木)

物品の移動はなんとか土曜・日曜で済ませる事が出来た。 郵船ビルで送り出す方を指揮していた謙治は、やっと、移転先の神谷町、城山JT森ビルへ行けたのは日曜日もとっぷり暮れてからであった。 謙治を見ると皆は良くやったと言って、焦燥しきっている謙治の肩を叩いたり握手をしたりした。 コンピューターの調整の為に本店から来ていた人達は、引っ越しが旨く行かないのではと危惧していたようだ。 配置を大きく変えられてしまった総務部は、キャビネット、パソコン、スイフト、ファクシミリ、机の配置総てを考え直さなければならなくなってしまった。 もう、運送会社の作業員達は帰ってしまっていた。 このような事態を予想していなかったので、いつも謙治と一緒にオフィスの模様替えを嫌な顔をひとつせずに手伝ってくれる年配の使走員達は出勤していなかった。 謙治と謙治の上司の角田氏の2人で、翌朝皆が出勤したらすぐに仕事が出来るように整えねばならなかった。

9月13日、月曜日、新しいオフィスでの第1日である。 前日に書類等の整理に出なかった人達は、早朝出勤して慌ただしくしていた。 机、電話、ロイターと、総てが新しくなったディーリングルームでは、心配されたトラブルも少なく、まずまずの出足である。

総務部という所は、このような時は大変である。 謙治はスイフトがあるのでいつものように7時前に出勤しなければならなかったし、身の回りでする事がたくさんあったにも拘らず、身勝手なマネージャー達の面倒を何はさておいて見なければならなかった。 支店長のソテール氏は要求が多い。 「このロッカーは要らない」。 しばらくすると「ソファーの向きを変えてくれ」。 彼は、部屋の隅々に日本旅館で枕許に置くような、障子張りの小さなランプを置いている。 その電源が無いと言って喚く。
いつもであれば、使走員達が手伝ってくれるのであるが、この日は、いや、この日から様子が違っていた。 使走員達が通常回る所は、日に何度か行く日本銀行や、代理交換をお願いしている三和銀行東京営業部を始めとして、ほとんどが今までいた丸の内に近かった。 移転に伴い、かなり遠くなる事から、2人しか居ない使走員達は、かねてから増員の要求をしていたのであったが、認められていなかった。 おまけに、今までは相手先の使走員によって届けられていた書類までも、遠くなったから取りに来てくれと言われたりしている。使走員達は、自分の領域だけで手一杯以上になっていた。

郵船ビルの時は、電源コンセントを付けたいと言えば、すぐ、ビルの電気技師が飛んで来てくれていた。 今度は様子が違う。 設計事務所を通して大家さんの日本たばこに図面を付けて申し込み、日本たばこが森ビルに伝え、森ビルから電気工事業者に発注される。 工事業者は日程を調整して4・5日以内に来てくれる。 ソテール氏にそんな事は通用しない。 近所の電気屋が分からない謙治は、秋葉原へ飛んで行き、コードと差し込みプラグをたくさん買って来て応急処置をした。

従業員休憩室には大型の冷蔵庫と電子レンジが置いてある。 ブレーカーが飛んでしまった。 これに関しては森ビル管理がすぐに来てくれ、ブレーカーの復旧をしたが、電源の増設は後になるので、電子レンジは暫くお預けとなった。

秘書たちが騒いでいる、やはり電源プレーカーが飛んでしまった。 パソコンも打てないと言って騒いでいる。 彼女たちは、以前からそうであったが、空調が寒いからと小型の温風ヒーターを使うのである。 ヒーターをご法度にしてブレーカーを戻してもらう。 あちこちで寒いの、熱いのと騒ぐ。 引っ越し荷物が足りないという人もいる。 ファクシミリが動かないと言うので行ってみると、通信線が繋がれてない。 睡眠不足と疲労とで、謙治は誰にたいしても親切な対応が出来なくなっていた。 怒りっぽく、刺々しく苛立っていた。

芸術の都パリ。 ややもすると総てのフランス人が絵画や彫刻、音楽に優れた鑑賞能力を持っているように思いがちだが、実際は、ほとんどのフランス人が絵画に無関心であると言っても過言ではないと思う。 とは言え、フランスの銀行であるパリ国立銀行にはたくさんの絵画がある。 多くは、1978年に郵船ビルに移転する時、本店からの建築家ローディエ氏に依って揃えられたもので、当時は、未だ余り日本には知られてなかったブラジリエ、カトラン、カシニョールと言った新進気鋭のフランス人画家のリトグラフが主であったが、ヤンケルの大きな油絵も玄関ホールに飾られていた。

彫刻とは少し違う、いわゆるオブジェと言うのだろうか、クラスノという人の創った訳の分からない発砲スチロールの想像物、幾つものBNPのスペルをあしらった作者不明の2メートル角の鉄のお化け。 それらが前店舗の玄関を入った左右の壁に据え付けられていた。 謙治は、それらの芸術品を、どうしたら取り外せるものか業者と調べている所へ、オースタン氏が通りかかり、「ああ、そんなものみんな壊してしまえ、あれもだ。」とヤンケルの油絵も指した。 「あれは、15年前に150万円もしたのですよ。」「そうか、お前がそういうなら持って行こう。」ということになった。 鉄のお化けは多少壊れていたし、クラスノはちょっと惜しい気がしたが、壊さずに取り外すのは容易ではなさそうであったのでオースタン氏の意見に従うことにした。 それにしても、彼が捨ててしまえと言ったヤンケルの「ブランシェ・シュール・ルージュ」と名付けられたその油絵は、謙治はそれを何号というのか知らなかったが、横120センチ、立て180センチの堂々としたもので、それを鑑賞する為にのみ訪れる人も時にはあるのであった。 実際、このサイズの絵は、天井の高かった一階ホールでは立派であったが、一般事務室階では、どうにも格好が付かなくなってしまっていた。

ローラン氏が、いつものようにのっそりという形容が相応しい歩き方で、謙治の前に現れ、「玄関ホールに有ったフレームはどうした。」あれのことだ、あの2つのオブジェの事を言っているのだろう。 もう、移転から一週間になろうとしている。 「あれはオースタン氏の指示で捨てました。」
ローラン氏は、常にそうであるが、決して物事を荒立てることはしない。 しかし、ねっちりと、あとへは引かない。 例えそれが、もう取り返しがつかないか事であっても。

日曜日に搬出の済んだ郵船ビルでは、早速、新テナントを迎えるべく、月曜日の朝から造作の取り壊しが始まっていた。 新テナントが決まってない部分であっても、原状復帰工事は急がなくてはならない。 復帰工事完了までは旧テナントが賃料を払わなければならないので、遅れると問題が起き易いのである。 壁、間仕切り、金庫室の鉄骨入り45センチ厚の壁さえも、跡形もなく無くなっていた。 むき出しの天井には、空調の太いダクトや電線の為のパイプが走りまわり、謙治が少年時代に見た、懐かしい裸電球が幾つもぶら下がっていた。 柱も、床も、コンクリートがむき出しで、面影らしいものは何一つ残っていなかった。 もちろん、確認を求められて、オースタンが壊す事にOKを出した、あの2つのオブジェも。

「総べて無くなっています。 取り壊され、建築廃材と共に捨てられました。」ローラン氏は、大袈裟に驚いて見せ、「どこへ、どこへ捨てたのだ」「東京湾の埋立地です」多分、違うだろうと思ったが、場所などどうでも良かった。 彼は「拾って来い」と言う。 「壁と一緒に壊したのです」「拾い集めてこい」「埋立地がどの様な所か、ご想像出来ませんか。 東京が出すゴミの量をご存知でしょう。」ローラン氏は、東京に6年程住んでいるが、ゴミに興味を持った事はないであろう。

この件に関してのローラン氏の食い下がりは、以後数日間続いた。 保険請求するから、破片の写真でも良い。 建築業者に、不注意で壊しましたと、手紙を書いてもらえ、等々。 オースタン氏とローラン氏の考え方の相違の後始末をしているほど謙治は閑人ではなかった。 何故、捨てろと言った張本人のオースタン氏は、涼しい顔で居られるのだろう。 なぜ謙治1人が悪者にされたのだろうか。

移転から2週間が過ぎると、幾分落ち着いて来た。 絵画類もほとんどを掛け終えた。 総ての壁がスチール製になっている為、釘が使えず、高価なマグネットハンガーを使わねばならなかった。 全体の壁面積が増えていたので、絵画の絶対数が足りなくなっていたが、新規購入の考えは毛頭無いようであった。 それでいてマネージャー達は、自分の部屋には絵を欲しがり、それぞれの部屋が大きくなった分、今まで以上の絵を要求した。 彼等の絵の選び方は、1に色彩、そして迷った時は、「どっちが高いのだ?」と聞き、謙治がいい加減な返事をすると、高いと言った方を取った。 一般事務所用に飾る絵が極端に少なくなってしまい、謙治は、調整に随分骨を折らなければならなかった。

定年退職後に、オースタン氏の休暇中の代理として来ていたローラン氏は、相も変わらず支店内に居たが、彼は、彼のやり残した仕事、彼の机の隅に5年間積んであった仕事、就労規則の改定に取り組んでいた。 正確に言えば、弁護士が作ったものを検討していた。 それが終わらないと、彼が長い間待ち望んでいた、香港ランタオ島での安穏な生活には入れないのである。

移転から1ヶ月が過ぎると、どうやら謙治にも少しは落ち着きが出て来て、通常の業務を通常の状態でこなし始めた。 暫く手が着けられずにあった、海外電話を安くする方法。 防犯設備とディーリングルームやコンピューター・ルーム等への出入りの管理。 それらを落ち着いて検討する心の余裕が出来て来た。



49 変更、変更そして変更
2005年08月21日(日)

 謙治は、途中半年ほど抜けてはいるものの、パリ国立銀行が駐在員事務所として東京へ来た最初から勤務している。 銀行業務には直接携わってないので、その方面に付いては門前の小僧の域を脱していない面もある。 しかし、それ以外の諸々の事柄に関しては、プロ中のプロである。 特に、海外から赴任して来た人達にとっては、盲導犬の様な存在で、何をするにも手を引いて上げるのが謙治の永年の役目であった。 入国手続に始まり、住宅、交通、買い物、週末の過ごし方。 銀行にあっては、何かをする時にどのような届け出でや許認可が必用か。 これをする時はどこに連絡すべきか。

オースタン氏は謙治に何かを相談する事は殆ど無く、分からない事はよその会社、他のフランスの銀行に聞いて物事を決めていた。 だから、謙治の全く知らないフランス人の設計事務所が、何の挨拶も無しに事務所内を歩き回り、写真を撮り、一般行員は何の事か分からず謙治に尋ねに来る有り様であっても、謙治はまだ、新オフィスの設計や移転準備に関して蚊帳の外にいた。 何がどのように運ばれているのか、見当がつかなかった。

謙治は、これ迄に、いろいろな国籍の人達に接して来ている。 良く人が言うように、「何国人は何々だ」と、人種によって人の性格を決めるのは間違いであると常々思っている。 ただ、習慣の違いはある。 フランス人と日本人の習慣の違いで最も顕著なのが、休暇に対する考え方ではないだろうか。 仕事が特に忙しい時、休暇によって業務に混乱を来すと思われる時、日本人なら休暇を先送りするか止めてしまうだろう。 どっちが正しいのか知らないが、フランス人はそんな事はしない。 休暇は給与の次ぎに大事なものなのである。人によっては給与より大事かも知れない。 オースタン氏は、設計事務所に適当に指示をして長期の休暇でさっさと母国へ、郷里へ帰ってしまった。

ローラン氏は、とっくに定年になったのであるが、まだ長年懸案であった労働協約の改定書作りが済んでなかった。 のんびり屋のローラン氏は、決して急ぐ様子もなく、5年間机の角に積んであった協約書をいじり始めていたが、休暇だと称して2ヶ月程消えていた。 そのローラン氏が、オースタン氏の休暇中の業務を引き継ぐ事になってのこのこ表れた。 ローラン氏は、謙治の意見を無視するような事はない。 だが、困った事に、彼は決断に時間をかけ過ぎるのである。 ほんの些細な物事と思える件、机やカーペットの色が散々時間を掛けた末に決まらない事が多い。

設計事務所から図面が部分的ではあるが上がって来た。 驚いた事に総てが窓に対して45度になっていた。 間仕切り、机、キャビネット、総てが45度なのである。 斬新な設計というのかも知れないが、何とも不思議な気がする。 新ビルの室内工事の為の説明書には、間仕切りを組みやすい線というのが書いてある。 無論それは窓に対して90度、横の線は縦の線に対して当然90度である。 斜めの線にすると、天井の補強、照明器具の移設もしくは新設と費用が増える。 呑気なローラン氏も、さすがにこれには意義を唱えた。

賃貸借するのは、22階の半分強と23階全部であり、22階には、BNP証券と銀行の総務部、監査部、それとEDP所謂コンピューター室が入る事になっていた。 証券は45度を嫌い全部書き直しさせた。 総務を含む22階部分も全部90度にした。 23階もディーリングルームが90度になった。 他のセクションからは明確な反応が無いまま時が過ぎて行った。 丸の内からの移転の第一の理由として、ゆったりとしたスペースを約束されていた各セクションのチーフ達は、思った程のスペースが確保されてない事への不満が先にたった。 全体の図面が出来て役員達の部屋が異常なほど大きくなっているのに唖然とした。 本来は22階の証券会社で、全員を見渡せる位置で睨みを効かせて居るだけのフォンテーヌ氏の部屋が、23階の銀行部分に広大なと言えるぐらいのスペースを占めていた。 ソテール氏も、オースタン氏の部屋も広くなっている。 やや小振りの部屋が10室連なり、外出勤務の多い営業社員たちの部屋になった。 会議室もやたらに増えた。 だが、支店開設以来在った休憩室が無くなっていた。 従業員の昼食やお茶の為の部屋で、これが無くなる事は既にかなり昂じている経営者側への不満を募らせる事になりかねない。 謙治は強力に休憩室の必用性を訴え、ローラン氏には認めさせたが、後に、休暇を終えて戻ってきたオースタン氏とは、このことで随分嫌な思いをさせられた。 ついでに言って置くが、彼らの休暇というのは、2ヶ月間である。

電話設備の設置には、数日間では足りない。 ディーリングルームには別の電話設備がある。 ロイターその他のコントローラー類も2週間以上の設置日数を要求してきた。 そして、それ等の機械室と機器の多いディーリングルームには、特別の空調設備を備えなくてはならない。 銀行は銀行法で定められた日以外に休む事は出来ない。 土曜日、日曜日の2日間で設備類の移設は出来ないのである。 支店長達の想像だにもしなかった費用が、決して半端な額では無い費用が膨らみ始めた。 ディーリングの電話を新設する事は、特別に作られたディーラー達の机も新しくする事になる。 1台の机は小型乗用車一台と思っていただければ遠くない額になる。 それが36台、電話設備はもっと高額である。

図面も、機器類の発注も移転日の3ヶ月前には済ませたいのだが、オースタン氏はまだ戻ってこない。 ローラン氏は相変わらず決断出来ないでいた。 業者たちは苛々して謙治に迫って来る。

22階には、フォンテーヌ氏の案で、だだっ広い宴会室とケータリング用の水場の無いキッチン(水は引けないのだそうだ)が図面上に有る。 これを巡って喧々諤々となる。 総務も監査も部屋の狭さを訴え、EDPのコンピューター室は、電話の交換機を他に移してくれなければ置き切れないと騒いでいた。 総務の謙治の上司は、自ら図面を引いて使われる事のないだだっ広い宴会室を狭め、他の夫々を幾分広めた。

22階の総務部の隣になる監査部は、設計に関して一切口を出さなかった。 シンガポール中国人の監査部のボスは、謙治が相談に行っても適当に答えるだけで、何の意志表示もしなかった。

オースタン氏が休暇からもどって来て最初にしたのが、22階の宴会室を元の設計図の広さに戻す事であった。 これは大ボス・フォンテーヌ氏の案であるので変更する事は出来ないというのが理由であり、フォンテーヌ氏は休暇中であった。 同じくフォンテーヌ氏の案では、銀行ロビー、一般のお客様が外貨の両替や送金に来る窓口の所であるが、これを小さくする事であった。 設計事務所は辟易して何度も図面を書き直し、それでもなお、銀行ロビーは望み通りの狭さにならなかった。 「こんなのありませんよ」と、設計事務所は、それ以上ロビーを狭める事を嫌ったが、最終的には恐らくは東京一の狭さの、フォンテーヌ氏の部屋の十分の一にも満たない銀行ロビーが誕生した。 23階に上がって来た一般客は、エレベーターを降りて分かりにくい通路を大回りさせられ、外の景色を見られるでもなく、狭くて暗い、ベンチも十分にない部屋で待たされる事になったのである。 支店長が言うところの重要な顧客のためには、エレベーターを降りてすぐの所に入り口が用意され、受付嬢の居眠りが見られる様になっていた。 日本の銀行の人達が聞いたら驚くかもしれないが、収益性のそれ程良くない預金、送金、両替部門を出来る事なら切り捨てたいのが首脳部の考えなのである。

変更に次ぐ変更で、設計や機器の発注が決まらないでいる間に、移転日は容赦無く迫って来る。 ディーリング設備、電話設備等に予想外の出費を余儀なくされたために、最初から異常に低く見積もってあった予算は底を付いていた。新しいオフィスには新しい家具什器を予定していたのであったが、買えなくなってしまった。

パリ国立銀行東京支店20年の間に、机、椅子、キャビネット、ロッカーといった家具類は、次々に買い足され、セクション毎に統一された色、形の家具を使っていたが、部門の解体、併合、新部門の創設を繰り返す内、必ずしも同一セクションに同一の机とは行かなくなっていたし、同じチークトップのベージュ側面の机でも、20年前と3年前とのものが同じではない。 オースタン氏はそれ等を嫌った。 謙治は忙しい最中、それらの机やキャビネットがなるべく混ざらないようにしようと試みたが、古いキャビネットだけになるセクションからは猛烈な抗議が出たのは言うまでもない。

BNP証券のキャビネットは全部が造り付け、床から天井まで壁代わりになっているキャビネットだ。 予算が無くなったので、これも解体して運ぶ事になった。 日程的にきついのみか天井の高さが違う、移転先の天井は、10センチ低いのである。 天井部分の部材を購入しなくてはならない。 解体、運搬、部材、組み立て、結構な費用がかかる。 オースタン氏は「予算が無いの」一点張りである。 費用を掛けずに運べ。

物量以外の移転。 自行のコンピューターやパソコン以外にたくさんの通信機器が設置されている。 テレックスはKDDの指定業者しか運べない。 スイフトや日銀ネットはそれぞれの業者が運び責任を持って設置する。 東京・パリ間の光ファイバー通信線の移設、電話、専用線の為のNTTの四百回線も23階に導線しなければならない。 夫々に費用がかかる。 オースタン氏はどの見積書を見ても、予算が無いと大声で怒鳴るようになった。 設計変更によって数千万円が無駄になり、不必要になった間仕切り板数十枚が新オフィスの一室を倉庫として、占拠する事になった。

最終的な図面は、移転日の9月11日を1週間後に控えても未だ修正が出たし。 銀行ロビーのカーペットに至っては色も材質も結局決まらず、元から敷いてあった一般事務室用の薄っぺらなグレーの標準カーペットがそのままになった。 23階の一般事務室も窓に対して45度の角度をぎりぎりになって止めた。 回り道をしたが、複雑な形の事務室は役員室と外務員達の個室群以外には無くなった。 窓に対して45度に並べるのは、誰が言い出したのか知らないが、お陰で時間と労力と費用を大分無駄にした。

電話をダイレクトインにした。 各個人が専用の番号を持ち、直接本人に繋がる「あれ」だ。 新しい名刺には、それぞれの電話番号を入れた。 だから、移転一週間前には、その番号を、その机に配線する為に図面上の個人名が必要になる。 それが決まらないのである。 特に困ったのが10人の外務員達である。 外務員達の個室群は、全部が窓に面している訳ではない。 オースタン氏は、災いを避けて自分でその部屋割りを決めず、外務員達のボスに決めさせる事にし、これまた休暇中の外務員ボスに図面を送った。 やいのやいのと催促の末、返事のファックスが来たのは移転の2日前で、電話工事業者に平謝りして手配は済んだ。 ところが移転前日、謙治は連日の早朝より深夜までの勤務に、いささか疲れきっている時、外務員たちが部屋を変えてくれと言って来た。 阿弥陀くじで決めたのだそうだ。 謙治は既に限界以上の事をしていた。 様々な通信機器、数えきれない業者達からの引っ切り無しの質問。 総てが順調には運ばなかった。 各セクションへの家具の割り当ても済んでなかったし、廃棄処分する書類が四トン車3台分と保管書類300箱が出た。 保管書類には通し番号、課番号を付しリストを作る。 何もかも引っ越しの土曜日の前に済ませなければならない。 ここで図面に名前を入れ直すたった5分の時間的、精神的余裕を謙治は持ち合わせていなかった。 自分よりタイトルが上である外務員たちを、謙治は怒鳴りつけた。

大ボスのフォンテーヌ氏が、引っ越しの前日になって休暇から戻って来て、移転先の図面の事で揉めている。 何という勝手な奴だ。 今更どうしろと言うのだ。 監査部のボス、シンガポール中国人のウオン氏が、フォンテーヌ氏に付きっきりでいる。 かねてから謙治はウオン氏をフォンテーヌ氏の犬であると思っている。 一見人当たりの良いウオン氏は、常に偏見に満ちた諸々の報告をフォンテーヌ氏にしているのである。 この日謙治は、最終的な移動物のチェックの為に、どこへでも出入りしていた。 フォンテーヌ氏とウオン氏は監査部への通路のような所に並べられたソファーで話をしていた。 向き合っている2人のフォンテーヌ氏からは見えない方から謙治は横を通り過ぎようとした。 「ビケアフル」押し殺した小さな声でウオン氏がフォンテーヌ氏に言った。 フォンテーヌ氏は呆けた顔で話し続けていた。 彼らは、謙治に聞かれたくないことを話していたのが明白であった。

移転先の図面をセクション毎に色分けし、なおかつ、机やキャビネットを置く位置に番号を振った。 それぞれのセクションは、与えられた色のラベルに番号を書き込み、運ぶものに貼っておく。 机やキャビネットの中の物は箱詰めし、同じくラベルを貼る。 移転日前日になって捨てる物がどんどん出て来て、運ぶ物も、捨てる物も混在してしまっていた。 運ぶべき机の上に捨てる書類を山積みにして帰ってしまった連中もいた。 謙治は連日終電車で帰っていたが、9月10日金曜日、移転日の前の晩は、夕食も採れず、何時の間にか終電車もなくなっていた。 深夜1時過ぎにディーリング・オプションチームのフランス人が血相を変えてやって来た。 「パソコンはどうした。ペリカンを使いたい。」

オプション・チームには2人のフランス人がいる。 変わり者達なので、他の人達とは業務上必用最小限の会話を交わすだけで、常に仲間はずれにされていた。 ジーンズに汚いシャツ。 風呂もいつ入ったのか、髭も汚く伸びている。 しかし、彼らは働き者なのである。 謙治が朝7時に出勤すると、彼等2人は殆どの場合来ている。 夜も結構遅くまでパリ本店とやりあっている。 営業成績も上げているらしい。 電話でのやり取りが乱暴だとか、言葉が汚いだとか言われて、回りからは気違い扱いされているが、謙治は不思議と彼等に好感を持っていた。 この夜もパリからの重要なデータがペリカンを通して入っているから取りに来たのだと言う。 ペリカンとは、パリ本店と結んだパソコン通信の一つである。

パソコンは既に全部梱包してあった。 連絡事項で、そのような事は伝達されている訳なのだが、業務以外には目が向かない彼等の事だ。 それにしても、どのように引っ越すと考えているのだろう。 辛うじて残っている電話とファックスは、まだ生きていたので、データをファックスで貰うことにして、一件落着したが、落着する迄に、貴重な1時間を無駄にしてしまった。 午前4時を過ぎると、疲れや眠さは感じなかったが、頭の回転が極端に落ちて、記憶力が無いに等しくなってしまった。 少しでも寝なくてはと応接室へ行ったが、ソファーは当然の事ながら、あの泡の入ったビニールで梱包されていた。 床へ寝そべってみたがちょっと無理のようであった。 タクシーで帰るのは勿論構わないのだが、往復の時間が惜しかった。

9月11日土曜日、移転日第1日目である。 天気は良好である。 東京駅売店でパンとミルクを買って来た。 顔は洗ったが髭は剃れなかった。 郵船ビルの洗面所は広く、トイレもウオシュレットが付いていて気持ちが良い。 移転先にはそれが無い。 夕べは寝たのかどうか自分でもよく分からない。 頭は朦朧としているが、土曜日早朝の丸の内は気持ちが良かった。

運ぶものの優先順位を、十分に打ち合わせてあったのであるが、運ぶ段になると現場の人達はそんな事お構いなしだ。 移転先では設置と調整の為に、パソコンその他の機器類を待っている。 30人程いる作業員達は、決して統制が取れているとは思えなかったが、彼らなりの段取り、階数順、部屋順で運び始め、謙治が頼んでも聞き入れ様としなかった。

午後になると、作業員の間に不満が出始めた。 図面の通りに物が置けないと言うのである。 移転先に居る人の指図で機器類の置場所が変えられているという。 大きなフランス人がそうさせているのだそうな。 フォンテーヌ氏に違いない。 彼はきのう休暇から戻って来ていた。 何か変な事をしているに違いない。

総務部には本来、鍵のかかる部屋に設置しなければならない機器が幾つかある。 テレックスがその一つで、重要なメッセージが常にプリントされている。夜は誰も触れない方が良い。 スイフトは夜間止めておく事が出来るが、本店の指導では鍵のかかる部屋に設置する事になっている。 ファクシミリも総務のものは機密を要する事が多い。 だから鍵のかかる小部屋を作り、それらをきちんと整理する事にしていた。 ところが大ボスのフォンテーヌ氏はそれら全部を小部屋から出してしまい。 監査部のボス、中国系シンガポール人、ウオン氏の為の部屋にしたのである。 何たる暴挙であろう。 どれだけの苦労をして配置を、キャビネットの置き方を、パソコンの向きを考えた事か。 ファックス、テレックス、スイフトの為の電源や通信線の工事をやり直さなければならない。 だいたい、ウオン氏に個室が要るとは一度も聞いたことがないし、オースタン氏達も知らない事であった。 これで何となく分かったような気がした。 フォンテーヌ氏とウオン氏が対話中に謙治が通りかかった時、あんに謙治の接近をフォンテーヌ氏に告げた、あのウオン氏の態度が。




48 JT森ビル
2005年08月16日(火)

 パリ国立銀行は、東京支店も大阪支店も新卒者を採用しなくなって久しい。一般事務員は派遣社員であり、それ以外は中途採用で、若い人を育てる事はしなくなっていた。 支店長ソテール氏は、長く勤務している自行の行員を評価しなかった。 パリ国立銀行東京支店は、長い間小人数で3倍も4倍もの人数の外国銀行と互角又は、それ以上の営業成績を上げてきている。 それなのに長く勤務している行員の評価は低いのである。 そして、「彼はアメリカの銀行に2年居たから優秀だ」と言っては、若い人を中途採用し、中堅に据えたりしていた。 人の出入りが多くなって来ていた。 「渡り鳥」がたくさん来るようになった。 彼らは勤務先が嫌になれば、我慢をせずにすぐ辞めてしまうのである。 だから履歴書の職歴は多くなる、それをソテール氏は経験豊かと取った。 「イタリアの銀行に居て、ドイツの会社に居た、アメリカの銀行にも居た、これはすごい経歴だ」といった具合である。 家族的雰囲気であった東京支店も、すっかり様子が変わってしまった。

城山JT森ビルは、22階以上がJT、即ち日本たばこの所有となっている。大家さんは旧専売公社。 言ってみれば、お役所気質が抜けきらない人の良い人達であるが、管理が森ビルなので少々面倒な事が多い。 簡単な事、廊下につける案内板一つにしても、JTに書類で申請し、これなら良かろうとなってから森ビルに書類が回る。

専売公社には営業部があったかも知れないが、物を売るための苦労は知らない、苦労する必用が無かったと言った方が正しいだろう。 それが日本たばこという大会社になり、気が付いてみると虎ノ門界隈だけでも広大な土地を所有する企業であった。 そこで、ビルを建てて貸してはどうかとなり、虎ノ門のビル王、森ビルに相談したのであろう。 彼等にとって不幸な事は、ビルが完成する前に不景気が来てしまった事である。 ビル経営のために設立されたJT不動産株式会社には、そんな訳で本当の意味での営業の経験が全く無い人達が、懸命に営業活動をしていた。

城山JT森ビルは、3階までは商店やレストランが入る感じの良いスペースであるが、4階以上のオフィス階になると様子が一変する。 ビルが四角ではないのである。 オフィススペースはL字型になっているのだが、公共スペース、つまりエレベーター、階段、トイレ等がL字の内側に在り、ビル全体は三角になっている。 これはとても不思議なのである。 エレベーターを降りた瞬間、降りる前からと言った方が正しいかも知れない、方角感覚が無くなってしまうのである。 ほとんどの人がそうなるのだから面白い。 西新宿に住友三角ビルというのがある。 あれも、多くの人が方角感覚を失うビルではないだろうか。

オフィスの空調には悩まされる事が多い。 最近のビルは、増して高層ビルにあっては窓が開かないのが普通である。 熱過ぎ、寒すぎ、そして空調時間の短さで夏、冬は悩まされる。 パリ国立銀行の入っていた丸の内のビルは、午前8時20分から午後7時迄が標準の空調時間で、それ以外は、かなり高額の特別料金を払わなければ空調は入らない。 謙治は普段から7時前に出勤し、冬はそれ程感じないが、夏の熱さには閉口していた。 そして夕方、謙治は空調の切れる前に帰れる日が一週間に一度位はあったのだろうか。 オースタン氏が得意げに言った、「今度のビルは24時間空調である」謙治は耳を疑った。省エネが叫ばれ始めたこの時代に、そんなことが許される筈が無い。 コンピューター室やロイターその他のコントローラー類の部屋は、特別な空調機を入れてある。 しかし、誰も居ない深夜のオフィスに何故空調が?

空調時間は丸の内のビルより短かった。 各ブロックに時間外空調のスイッチが有り、それによって24時間空調が可能だと言うのである。 その時間外空調料金は甚だしく高いものである。 JTとの間で言い争いが始まった。 「あの時、こう言ったではないか。」「いえ、そんな事申しておりません。」



47 都落ち
2005年08月13日(土)

 1993年になると、東京支店の移転話しが持ち上がった。 俗に言うバブルの崩壊後、ビルの空室があちこちで目立ち始め、丸の内であっても例外では無くなっていた。 当然のこととして賃料も新規契約分は下がり始めていた。

 「急ぐ事ではないが、良い物件が有ったら知らせてくれ」と支店長に言われた。 謙治は現在の場所が、如何に得難く、手放したら決して手に入らない場所である事を説明したが、単純に平米いくらしか計算出来ない首脳陣の前では、煩がられるだけであった。

「一流銀行は、例えそれが高くついても、一等地に無くてはならない」15年前に、シャピュー氏は根強い交渉の末、この場所を手に入れたのでは無かったか。 東京駅から皇居に向かって行幸通りをまっすぐ、お濠に面した角、これより良い場所が他に有ろうか。

謙治は2・3の不動産仲介業者に声を掛けただけで、積極的には探さなかった。 虎ノ門界隈の森ビルにかなりの空きがあり、なお、新ビルが出来つつあった。 日本たばこの本社ビルが虎ノ門のNCRビル前に建設中で、1994年末には完成する。 謙治が妥協出来るのはそれ位しか無かった。

「パリさんは、城山JT森ビルにほとんど決まりですね」不動産業者から聞かされた時には、驚きを表さないようにするのが精一杯であった。 探し初めて1ヶ月も経ってない。 謙治は勿論そのビルを知っていた。 地下鉄日比谷線、神谷町駅からホテルオークラに向かって5分位の所に、森ビル株式会社がアークヒルズに続いて、環境と美観を考慮して開発した城山ヒルズのオフィスビルで、1年ほど前に完成していた。 1階ロビーは広々として気持ち良く、2・3階も空間を大事にした設計で、まだ空室が目立っていたが、飲食店が並ぶ事になっている。 ビルの外側空間も、車寄せも、森ビルのイメージを変えるに足る設計である。 しかし、表通りに面しているではなし、神谷町ではヨーロッパ最大を自負している銀行にしては中心から離れ過ぎている。 謙治はそう思って候補に入れてなかった。 それにしても、何故そんなに急がなくてはならないのだろう。 そして何故、謙治の知らない所で事が運ばれているのだろう。

外国銀行の丸の内離れは、ここ数年続いている。 大手町へ越したのがあれば、まるっきり遠くに、モノレールで行く天王洲へ行ってしまったアメリカの大手銀行もある。 気が付いて見ると丸の内に集中していた外国銀行が、ほんの数行になってしまっていた。 高すぎる賃料を嫌気して出て行ってしまったのである。 パリ国立銀行も例外ではない。 移転の第一の理由は賃貸料である。 支店長たちの頭には、「賃料の安い所へ行きたい」それだけしかない。 1等地も1階も彼等にはどうでも良い事なのである。 城山JT森ビルの23階だそうだ。

支店長たちの本店への報告には、神谷町を、「ホテルや大使館の林立する東京の中心地」とし、しかも、「賃料は新築のインテリジェントビルであるにも拘らず、丸の内の半分以下である。 内装建築費用、移転費用を考慮しても、2年後には大きな収益増になる」となっていた。

支店長たちが言う建築費用と移転費用は、何等の根拠も無い不動産屋が無責任に言った金額であって、最低の間仕切りと物量の移動だけの金額である。 謙治は15年前に引っ越しを経験している。 当時の移転に厄介なものは金庫だけであって、通信機器はテレックスしか無かった。 当時KDDは殿様商売をしていたので、テレックスの移動は引っ越し日の日曜日に出来ず、明くる月曜日のディーリング業務に多大な支障を来したのを覚えている。 障害はそれだけであった。

15年の歳月は銀行を全く別の性格のものにしていた。 コンピューターのケーブルが縦横に走り回り、種々の通信機器の為の多種類の専用線が引き込まれ、ディーリングルームに至っては、ロイター、クイック、テレレートと言った情報機器は、何時の頃からか通信機器としての役割が大きくなり、夥しい数の電話線、ブローカーや顧客との専用線が絡み合ったディーリングテーブルの移動は、考えるだけでも足がすくむ思いがする。

大蔵省への移転許可願いに始まる諸々の手続きが進行し始めたが、一般行員には何等の正式発表も相談もなされず、支店長ソテール氏、総務担当のオースタン氏、それにBNP証券東京支店の支店長であり、BNP日本グループの事実上のボスであるフォンテーヌ氏の間で全ては進められた。 勿論、一般行員が知らない筈はない。 皆が「都落ち」と言ってこれを嫌がったが、正式に苦情を言う者はいなかった。 言えない雰囲気が出来ていたからだ。 優秀な人材の確保は長い間非常に困難な事であったが、バブル崩壊後それは一変していた。 優秀かどうかは別として、比較的低い給与でも応募者は後を絶たない状態が続いている。 「嫌なら辞めろ、お前より優秀なのがもっと安く雇えるんだぞ。」が首脳陣の口癖になっていたし、労働組合は長い安泰の末に、空中分解してしまっていた。



46 居なくなってしまった上品な銀行家
2005年08月10日(水)

ドゥボセ氏の住んでいた神楽坂の家に入居したソテール氏は、家の大改造を始めた。 バルコニーを作り、部屋に仕切りを付け、壁は全部棚にしてしまった。 料理好きの奥さんの為に、(ここで、一つ説明をしなくてはならない。 世界一グルメの国フランスから来たどの奥さん達も、料理らしい事はしていない。 フランス人だからと婦人雑誌の取材を受ける事が良くある。 その時だけは、フランス人の名誉の為にがんばるのだが、普段の料理は極めて簡単なものだ。 しかし、ソテール夫人は本格的な料理を毎日作るだけではなく、部屋も見事に片付いている。 彼女はオランダ人である。) キッチンの総べてのものを替えた。 借家であるから、いちいち大家の許可がいる。 許可だけではなく費用をどちらが負担するかということで揉める。 ソテール氏の要求は全部一度に出るのではない。 一つが終わると次。 次が片付くとその次。 大家が怒りだすのも無理もない。 従って、パリ国立銀行からも予算に無かった多額の支出を強いられた。 小さな庭には、盆栽棚が作られ、数十鉢が並べられ、石燈籠や道祖神までが賑わいに加わった。 美的感覚は無に等しいソテール氏は、何処ででも見て欲しいものを買ってきて置いただけの、足の踏み場のない雑貨屋の店頭みたいなものになった。

ソテール氏は、銀行の経費を自分の為に使う時は大名になったが、自分以外の為の支出に関しては、極端に切り詰め屋であることが次第に分かって来るのである。

ソテール氏が東京に赴任して間もなく、恒例の大阪支店と合同の社員旅行があった。 年々遠くへ行く様になり、函館であったり、長崎であったりしていたが、次回は開設20周年記念である事から派手にやることにして、この年は伊豆半島で我慢した。 宴会の挨拶で、ソテール氏は「来年は20周年記念であるから、3連休を利用してグアムかハワイへ行こうではないか」と気勢を上げた。だから、1993年10月9日土曜日、10日日曜日、そして11日の振替休日の3連休をそのために当て早くから準備に入っていた。 行員全員を巻き込んで、希望地のアンケートを取ったり催し物を考えたりした。 ハワイはさすがに予算的に無理であったので、沖縄とソウルの二手になり、準備は順調に進んでいた。 参加人員もきまり、航空券の手配も済んだ。 ところが、準備を進めている内に予算を切り詰めろ、もっと詰めろということになり、結局旅行そのものが取消しになってしまった。 不思議な事に、誰一人として苦情を言う者が出なかった。 銀行全体を覆い始めている重苦しい空気が、苦情を許すような状態ではなくなっていた。

総務・人事担当のフランス人ローラン氏が定年になる。 後任にアムステルダム支店に勤務していた40才になったばかりのフランス人、オースタン氏がやってきた。 荷物が多いと聞いていたので、ワゴン車を借りて謙治が成田へ迎えにいった。 奥さんと17才の息子さん1人であるが、驚いた事に2人とも英語を理解しないようであった。 息子さんとは、その後会う機会も無かったので、どのくらい英語を理解しないのか分からなかったが、奥さんは全く理解しない事がひょんな事から分かった。 オースタン氏が事務所から奥さんに何度電話しても話中の事があった。 「家内がそんなに長く電話をしている訳がない。 受話器が外れているのだろうから、管理人に見て来るように頼んでくれ。」と言われ、謙治は市ヶ谷にある彼のアパートの管理人に電話した。 管理人はすぐに館内電話で奥さんに連絡してくれた。 しかるべき職場を定年退職しての管理人の、聞こえて来る英語は完璧であった。 「あなたのご主人が、事務所から電話しているのだが架からないそうです。 受話器がちゃんとしているか調べていただけますか?」相手の声は聞こえない。 もう1人の管理人の声が聞こえた。「あの奥さん英語が分かんないんだよ、俺行って見て来る。」

フランス人は、他のヨーロッパ人と比べると、英語を喋らない人が多いというのは、事実はともかくとして良く言われることである。 謙治は、駐在員事務所の時から25年この銀行で働いている。 最初のボスの奥さんは、英語が下手であったが、通じない事はなかった。 朗らかなルレー夫人は英語を話すのを嫌って、謙治にもフランス語を強要し、へたくそな謙治のフランス語を良く我慢してくれ、「お前は、フランスへ行っても大丈夫だ」と、お世辞を言ったりしていたが英語はちゃんと喋れた。 他の人達、数え上げれば恐らく百人近くになる外国人たち全部が英語を話し、英字新聞を読んでいた。 英語を話さないから程度が低いとは言わない、しかし、何故か違いを感じてしまうのは偏見だろうか。

外国人登録の為に新宿区役所で待たされている時、オースタン氏は自動車を買う話しになった。 今まで来たフランス人の殆どがそうであった様に、謙治はオースタン氏も中古自動車を買うものと思っていたが、トヨぺット・クラウンの新車を買いたいと聞いた時には耳を疑った。 「三百万以上しますよ」「分かっている」。 25年間に新車を買ったのはたった一度だけ、若いシュワールがホンダ・アコードを買っていた。

1992年の末は、自動車セールスマン達が、初めて経験した終わりの見えない不景気でうんざりしていた。 値引き合戦の真っ最中であり、謙治は大きな値引きを勝ち取っていたが、オースタン氏はオプションだけでも40万円以上も付け加えた。 車が売れない時期であったにも拘らず、納車迄には6週間程待たなければならなかった。 自動車を注文した時には普通なにがしかの内金を入れるのが普通であるが、謙治を信用したセールスマンは、それを省いてしまっていた。 手続きは順調に行われた。 オースタン氏はサイン証明をさっさと取りに行き、車庫証明も済んだ。 来週納車されるという時になって、突然、注文をキャンセルするとオースタン氏が言い出した。 何を言っても聞き入れなかった。 金も一文たりとも払う意志は無いと言う。 オースタン氏にとって注文書へのサインなど、何の意味もなかった。 気が変わったのだそうだ。これは、オースタン氏と謙治との間で連続して起こるトラブルの皮切りであった。



45 日本国への査証
2005年08月04日(木)

日本への長期ビジネス査証の取り方が変わった。 変わったというよりも方法がふたつになった。 長い間、フランス人がパリの日本大使館で査証を申請すると、48ヶ月の数次査証を簡単に発給してくれていた。 フランス人だからなのか、大銀行の社員だからなのか知らないが、ごく簡単な書類の提出だけで発行してくれていた。 それが突然出来なくなった。 全く出来ないのではないが、パリの日本大使館では新しい方法で申請しなさいと言うらしい。 新しい方法とは、法務省による発行である。 大使館は外務省の所属になるのだと思うが、法務省方式だとこうなる。

最終学歴の卒業証明書、又は、卒業証書(コピーと原本を持って行き、係官が照合して、原本を返してくれる、フランス語のものは日本語訳を添付する)、履歴書、写真2枚、受入側企業説明書、貸借対照表、事業税納税証明書、保証書、契約書(契約期間、給与、職種を明記)受入側の従業員数、外国人従業員のリスト(職種、査証要因)、その他必要に応じて要求されるもの。 以上の書類を揃えるのは大変であるが、どうにか揃えて東京の法務省入国管理事務所へ持って行く、これからがまだ大変なのである。 ある職種に就くには、それなりの経験が有り、教育を受けてなくてはならない。 支店長を例にすると、支店長としての経験が相当期間無くてはならない。 だから、バンクーバーの2番目だったソテール氏を、東京の支店長として迎えるには、ちょっとした細工が必要であった。 おまけに、子供には出生証明書が、奥さんには婚姻証明書が要求される。

外国人の入国審査に対して、とかく悪く言われている法務省であるが、単一民族国家に慣れている日本人は、心の何処かに外国人を排除する気持ちがある。 その日本人の心を代表して非難に耐えているのが法務省出入国管理局だと思う。だが、企業の人事にまで口をはさむ必用があるのだろうか。 バンクーバーのパリ国立銀行に居たソテール氏を、東京の支店長にするのは、パリ国立銀行の本店が決めた事なのである。 それに対して資格云々言うのは、それこそ資格外行為ではないのだろうか。 ともかく、申請は受理されたが、処理されるのに2ヶ月以上かかるのにも困った。 ソテール氏家族5人は、許可が待てずに東京へ来てしまった。 3ヶ月以内の短期の査証なら、空港で簡単に発給してくれる。

長期滞在の査証が許可されても、国内では発給されない。 この法務省方式になってから、東京支店勤務になる人のほとんどが、許可を待てずに東京へ来て働き始め、許可証が出ると近隣の日本大使館へ査証をもらいに行くことになった。 ソウルでも良いのだが、ホンコンの方が短い休日を楽しめるのである。

散々苦労した査証の最初の取得者である新支店長ソテール氏は、一見、気の良さそうな白髪の、フランス人にしては小柄な男であるが、案外気難しがり家で。 東京での初仕事は、永年勤務している年長の事情通秘書たちを、自分から遠ざける事であった。 彼には経験豊かな秘書は煩い存在でしかなく、何でも「はい」という若い秘書を好んだ。 これが我が儘支店長による恐慌政治の始まりだとは、まだ誰も気が付いていなかった。



44 マカオ
2005年08月02日(火)

前年の運動会に派遣された人たちは大勢だったために、休暇を与えることが出来なかったが謙治たちの時は、それぞれが短くはあったが休暇を貰って来ていた。 運動会は土曜日に行われたので、日曜日は香港側の接待を辞退して4人仲良くマカオへ渡った。

ポルトガル管理地であるマカオは、中国系の人たちが多いのに拘わらずホンコンとは全く趣を異にしている。 人口がホンコンよりは少ないせいもあろうが閑静である。 上へ上へと伸びているホンコンのビル群と比べると、低層建築と緑の多いマカオには親しみを感じた。 謙治たちのマカオでの第1の目的は、別のところにあったが、一応島中を歩いて回った。 何となく螺旋状になっている道路を登って行くと島の頂上へ辿り着き、公園になっていた。 旧日本軍が駐屯していたらしく、大砲や陣地跡が、かなり原形をとどめているように思えた。 中国本土がすぐのところに広がって見える。 ホンコンの中国返還は秒読みに入っているが、マカオもいずれは中国のものになるのだろう。

マカオ訪問の本来の目的の方も、儲けは少なかったが往復の船賃くらいは稼げたような気がした。

月曜日、未だマカオに未練を持っている高橋と分かれ、ショッピングをしたい女性達とも別れて謙治は東京支店の総務部長が定年後に住むための家があるというランタオ島を、彼が良い所だと言うので見て来ようと思って港へ来た。 あいにく、ランタオ島へ行く便は2時間以上待つ必要があったのであきらめ、島の名前が思え出せなくなってしまったが、すぐ出る船があったのでそれに乗った。 頻繁に行き来している人員を運ぶための船はジェットフォイル船が多いのであったが、謙治の乗ったのは1万トン位の船で、1等と2等に分かれていて、1等は2等の2倍の運賃なのだが、極めて安かったと記憶している。 多分、20HK$、当時のレイトで400円くらいだったであろうか。 そんな運賃だが現地の人らしいのは1等にはほとんど見られなくて、白人の比較的年配の人たちが主であった。 日本人も居なかったのではないだろうか。 だいたい、日本人が仕事や観光に行くような島ではないのであろう。 12月のホンコン、 いい天気であった。 甲板にデッキチェアーを持ち出し、のんびりと1時間の船旅を楽しんだ。

8の字というか、瓢箪型というのか、低い山を持つ2つの島がくっ付いたような島に上陸した。 ホンコンには緑が少なかったが、この島は木々が茂っていて島全体が公園のようだ。 8の字のくびれた部分が砂浜になっていて、白人女性が泳いでいた。 ホンコンで仕事をしている人たちの休暇を過ごす島という感じだろうか。 ジェットフォイルだと20分位でホンコンに行けるので通勤圏なのかも知れない。

中国系の老人が多い。 あちらでも、こちらでも木陰に集ってマージャンをしている。 囲碁のようなものもやっている。 夏の気候はどうなのか分からないが、冬がこんなに暖かいのは、さすが南の国だ。

中国人は鳩を食べる。 ホンコンから東京へ来た人たちを観光案内していて、いつも不思議がられたのは、どこにでも居る鳩の群れであった。 「何故、食べないのだ」と、良く聴かれた。 ホンコンに鳩は居ない。 鳩どころか野鳥がほとんど居ない。 この木々の多い島でも小鳥の声を、注意したが聴けなかった。

帰りの便はジェットフォイルであった。 狭い船室が満席である。 マカオ往復の時もそうであったが、船中の冷房が効きすぎている。 ホテルでもレストランでも感じたのであるが、全般的に冷房が効きすぎている。 冷房が珍しかった頃の東京がそうであった、「軽井沢より涼しい」なんて看板を出している喫茶店があったが、冷たいのが良いサービスだと思っていたのだろう。 ホンコンは、未だにそうなのだろうか。




BACK   NEXT
目次ページ