ずいずいずっころばし
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2007年05月29日(火) 旅と青柳瑞穂

トルコの旅での出来事である。

谷沢永一氏と開高健という希有な文学のマエストロの間にあって、友人として、同年の者として、自分の道を模索し、苦しんできたのは向井敏であった。

ちょうどそんな向井敏と同じように苦しんできたのは阿佐ヶ谷文士の一人であった、青柳瑞穂であった。

時代は異なるけれど、青柳はフランス文学で糊口をたてる翻訳者であり、阿佐ヶ谷文士の一人でもあった。仲間に堀口大學がいた。
堀口大學は外交官の父とベルギー人の義母の家庭にあっては日常会話はフランス語であったという。
フランス語を母語のようにする堀口大學と肩を並べてフランス文学で道をたてることの苦しさははかりようがない。また他の阿佐ヶ谷文士であった井伏鱒二、太宰治、木山捷平、岸田国士、太宰治などの間にあっては文学で一家を為すことの苦しさはいかばかりであったろうか。

そんな逃げ道を骨董に見いだしたのであろうか。青柳瑞穂は農家で見つけた平安時代の壷を掘り出したのをはじめとしてまたたくまに国宝級の骨董を次々と見つけだしたのである。

そんな青柳瑞穂について日常語ることはまれなことである。
よほど骨董が好きな人か、フランス文学に明るい人でないと口の端にものぼらないのである。
それがはるばるトルコの旅でツアー客の一人と食事をしながらふと瑞穂の話が出たときは驚いた。

二人で阿佐ヶ谷文士のだれかれの話や、瑞穂はなぜ骨董に走ったか、光琳の皿について、平安時代の壷について、瑞穂の翻訳本「マルドロールの歌」についての書評などを語り合ったのであった。

はっと気がつくとツアー客はみな食事が終わって二人だけがいつまでもそこにいたのであった。

博物館に入って古い壷にかけよるとそこにまた彼が同じように駆け寄っていた。
二人して「ふっ」と笑いがこみあげた。

どこの誰かも知らないし、知ろうとも思わないことであったけれど、こんな楽しい時の流れがあるのも旅の楽しさである。

旅は道連れとはよく言ったものである。


2007年05月24日(木) Time goes by

朝、窓をあけて新鮮な空気と、晴れ渡った澄んだ空をながめると気分までさわやかになる。

その一方、どんより曇った空から今にも降りそうな空を仰ぐと気持ちまでどんよりしてくるのは人の常ではなかろうか。

四季の美しい日本にはお天気にまつわる言葉や挨拶が豊かで素晴らしい。

「花曇り」「秋晴れ」「五月晴れ」「菊日和」「五月雨(さみだれ)」「時雨(しぐれ)」「風花」など。

俳句を嗜む人はそんな季語になる言葉には敏感なことだろう。

茶道の世界でも掛け軸は少し早めに季節を表すものを架けたりする。

道具もそれに合わせるようなものを取り合わせて客も一服の茶と共に季節を感じ合う。
和菓子の世界もしかり。

自然の妙、季節の雅(みやび)を分かち合うところに「時の至福」をみる。
茶室に射し込む太陽の傾きや障子越しに感じる陽のあかるさにも「時」を感じるものだ。

散歩が日課である私と愛犬にとっても、日々刻々と移ろいゆく季節の装いを肌で感じることは、何にもかえがたい楽しみでもある。

毎日同じ道をおなじ丘を見ても決して同じでない。
それは流れ行く雲が一つとして同じでないように、夕焼けの色合いも、風の匂いも、木々の葉も、移ろいゆく美しさと儚さに満ちていて心に染み込むのだ。

農夫が一日の農作業を終えて汗を拭う姿には満ち足りた疲労感が漂っていて、バルビゾン派の絵画をみるようだ。

都会に育った私は田舎暮らしを嫌悪したこともあった。
新宿の雑踏の中に降り立つと喧騒の中、ほっと人心地ついたりする。
そんなことどもを経て今、この田舎暮らしになじんできた。

ニューヨークから帰ってきたばかりのときは、なぜか血肉が騒ぐ自分に不思議な感じをおぼえた。
昔の記憶が呼び覚まされたように刺激的な早回しの渦の中を輪舞する。

私は自分勝手な生き物だ。
刺激がほしくなったり、隠遁生活をしたくなったり、スピードのある会話を欲したり、寡黙を愛したり。
まるで四季を歩むように。

浮き立つような春、焦げそうに刺激的な夏、しっとりと落ち葉を踏みしめる秋、冷え冷えとするがゆえにたまらなく温もりが欲しくなる冬。

私の中を季節が通り過ぎて行く。


K先生のいないレッスンはさみしい。
いい人とのめぐり合いは幸福感に満ち、別れはさみしい。

人生ってやつはそんなことの連続なのだろうか・・・


2007年05月17日(木) 館野泉さん

BSでピアニストの館野泉さんの番組をみたら感動で胸がいっぱいになって他の事が考えられなくなった。
ピアニストが脳梗塞になって右手が麻痺してしまったら・・・・絶望。
館野泉さんはフィンランドを中心に活躍しているピアニスト。
コンサート会場で演奏中に脳卒中になり、右手が麻痺してしまった。
ピアノが命であるピアニストが弾けなくなると言うことは死と同じだ。
息子さんが左手だけのピアノ曲を見つけて演奏を促したのがきっかけで左手だけで演奏することをはじめた。
シベリウスの家で彼が愛用していたピアノで左手だけで館野さんは弾いた。
父上が亡くなったときも、このシベリウスの家のピアノを弾かせてもらって亡き父に捧げたという。
弾き終わった館野さんは感無量の面もちで涙をうかべてこういった。
「ありがとう。・・・・誰に言っているのだろうか・・分からないけれど、今はありがとう。」
「嗚呼!、気持ちがいい」そう言って心よりの満ち足りた顔になった。

絶望の淵から蘇った喜びは「ピアノがまた弾けること」。館野氏が信心があるかどうか分からないけれど、信心のないものでもこうした深い喜びにたいしては、何か大きなものへの感謝の念がわきあがってくる。

私も死の淵から蘇った日、雲も、風も花も全てのものが美しく、生きていることの喜びに打ち震えたことを覚えている。館野さんと同じようになにものかに、おそらくすべてのものに「ありがとう」と言いたかったものだ。

館野さんの奏でるピアノには上手い下手や、通り一遍の評価など無用。
所在なげな虚ろでさえある麻痺した右手は膝の上。その右手が演奏中に今にも弾きそうに時々動く。
ピアニストとして世界をまわり奏でてきた両手。
かつては背筋を伸ばして弾いた姿勢も片手だけをうごかすゆえ丸くなる。
一つ一つの音の粒がきらめく。
命のきらめきのように。フィンランドの湖面に映る陽のきらめきのように。
全霊が左手に。
弾き終わって静かに目をつむる館野さん。

「ありがとう・・誰にいうのだか?でも今はありがとう」
「嗚呼、気持ちがいい」

穏やかで満ち足りた顔だった。

今日はこの感動を深く心に刻んで一日の終わりにしたい。


2007年05月15日(火) 英国式誕生日の祝い方

カンタベリーの家はカズオ・イシグロが通っていた大學のすぐ側で、カンタベリー大聖堂にも近かった。

大學からカンタベリーの街へ行くときはバスもでていたけれど、学生は背丈ほどのびた草むらの獣道をかきわけて街へ降りていくのが常だった。
背丈ほどの草むらを降りていくと人家があり、そこにはフットパスとよばれる私道があり、その道が私は大好きだった。
フットパスを過ぎると繁華な通りへでる。そこはチョーサーの「カンタベリー物語」で有名なイギリス国教会カンタベリー大聖堂がそびえている。
いまだに英国各地から巡礼に来る人や観光客で賑やかだ。

大學は小高い丘の頂上にあって、そこから眼下に広がるカンタベリー大聖堂を見下ろすのはなんとも豊かな気持ちになったものだ。
キャンパスの中を小川が流れていてそこに鴨や水鳥が遊んでいて学生達は川縁に座って語り合ったり、本を読んだり、昼寝したりした。
午前と午後2回お茶の時間があり、スコーンやビスケット、お茶が供される。
紅茶カップを手にかわべりで先生と議論したりするのは格別な楽しみだった。

英国からたよりがくるといつも懐かしさにかられる。
牧師さんのパパはちっっとも牧師さんらしくないひとで、むしろ人間くさい人だった。
食事中に高校生の息子がパパをかついだりするとそれにうまうまと乗ってしまって、すぐだまされてしまう。
かつがれたのにも気がつかず怒ると息子が「父さんったらー!冗談だってばー!」と言うと、それにまた腹をたてたりするまぬけなところもあって愉快な家族だった。

娘二人は独立してよそで生活。英国は16歳になるとほとんど親元を離れる。
日曜日になると皆実家に山のような洗濯物を抱えてかえってくる。
長女は同棲をしているらしかった。パパに一度同棲することをどう思うか聞いたことがあった。
パパは牧師さんなので同棲は認めてはいなかったけれど、厳しくいましめることはせず、好きにさせていると言った。随分ファジーだとおもったものだ。

この長女と私はよく喧嘩した。電話のことで大喧嘩。でもさっぱりした気性で嫌いではなかった。
思い出がありすぎてなつかしすぎて便りをもらうと涙がでてくる。
もう私には両親もなく、帰る家もないけれどカンタベリーが私のふるさとになった。
イギリスは私にとってなつかしい故郷だ。


2007年05月14日(月) 野の花とジョージ・ギッシング

私の随筆「センセイの鞄とジョージ・ギッシング」にも書いたように、
ギシングの文が年を追うごとにぴったりと身になじんで行くのが分かる昨今。

特に「ヘンリー・ライクロフトの私記」は西洋の徒然草のよう。

あんなに嫌だった田舎暮らしも終の棲家として愛着がわくようになった。

近くの牧場には乳牛が草をはみ、きじの「つがい」が散歩していたりする。

このひなびた所から20分ほど車で行ったところに大きな公園がある。
この公園が愛犬と私の唯一の憩いの場。
毎日出かけて、同じ風景のはずなのにこれが一つとして同じでない。
それはお天気にもよるし、私の心の風景が違うからかもしれない。

この公園はイギリスにいた時毎日学校まで近道して通った公園の風景とそっくりなので愛着がひとしおなのかもしれない。

この公園の池を一周する間に色々なことを考え、つぶやき、涙したりする。

春のまだ浅き頃、小さなすみれを見つけた時の喜び、空の青から切り取ってきたかのような可憐ないぬふぐり、クローバーの絨毯、ヤマモモの赤い実、蛇イチゴ、蓮の花、など、など。

ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」の中で、「今日は遠くまで散歩した。行ったさきで小さな白い花をつけたクルマバソウを見つけた。それは若いトネリコの林の中に生えていた」とある。
英国の美しい田園、デヴォンシャ−の四季の美。

ギッシングはその文を季節の綾な衣装にまとわせてライクロフトに語らせる。

それは日々自然の中にある私の身にまとう唯一の美しい言葉の衣装となり、季節の衣装となる。

無為徒食な私も、ただひたすら咲いている花や草の美しさに癒され、これを日々愛す心が、ライクロフトのそれと重なって一つとなる。

また、ライクロフトの本への陶酔的な描写(本を持つ幸福)が心を打って一人うなずく私。

高校生の時に読んだ、いや、読まされたジョージ・ギッシングはやたらにつまらなく、退屈極まりなかった。
それが時を経て今読み返してみるといぶし銀のような光を放って私の心を捉えて離さない。

私も年をとったということなのだろう。
そうしてみると年をとるということもそう悪くないものだ。

「人には添ってみよ」という言葉がある。
一人の人間の中には善も悪もあるものだ。
それを踏まえて添ってみようか・・・と最近思えるようになった。

あの野の花のように何のけれんみもなくただひたすら咲く花になりたいものだ。


2007年05月08日(火) 蝉の声と直喩

2004年 岩波「図書」8月号に佐藤正午が寄せた文がある。
氏は三島由紀夫作『豊饒の海』中の蝉の声の直喩に注目。

『豊饒の海』四部作の『天人五衰』の最後に「数珠を繰るような蝉の声がここを領している」という直喩がある。

数珠を「揉む」ようなだとシュワシュワ、グリグリのような音でおそらく熊蝉だろうと推察できるが「数珠を繰る」とは数珠の一つ一つの珠を順にずらして指先で送っていくことである。はたしてどんな蝉なのだろうか?

仏壇からお数珠を出してきて私も手で繰ってみた。
水晶も、紫檀もサンゴのお数珠も珠がずらせない。繰ることもできず、音もなることもない。

はたして「数珠を繰るような蝉の声」とはどんな蝉なのだろうか?

「数珠を繰るような蝉の声」という蝉はいったいどんな蝉なのかも興味をひかれるけれど、
それよりも何よりも『豊饒の海』にはおびただしい数の直喩がなされている。

まったく三島由紀夫という作家は「言葉の達人」に他ならない。
直喩、つまり何々のように、何々するような、何々するようにという表現がおびただしいのである。

佐藤氏が調べただけでも「旗のように風のためだけに生きる」「緑の羅紗の上に紅白の象牙の球は、貝が足を出すように丸い影の端をちらりとのぞかせて静まっていた」などなど。

擬音語はありがたい。
例えばミンミンと言っただけで蝉を思い浮かべるだろうし、ジャージャーと言えば水や雨が勢いよく流れる様子がすぐ浮かぶ。

しかし、かの薄田泣菫や三島由紀夫のように、高雅な筆遣いでその趣や鳴き声やそのものの様子を描くことは言葉をつかさどるものの極みなのではなかろうか。

名にしおう名人と肩をならべようなどと大それたことを言っているのではないけれど、100に一つでも擬音語を使わず蝉の鳴き声を現すことができたなら、文を書く者の矜持が一歩前に進み出ることができるというもの。

「言葉の達人」にあらためて敬意をあらわしたい。

蝉。

なんと文人の感性を試す奴なのだろうか?



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