ずいずいずっころばし
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2005年10月20日(木) いぶし銀

今まで難解だからという理由で敬遠していたジョイスを読もうと思う。
アイルランドにはついぞ行かなかったけれど、ジョイスとアイルランドとはきってもきれない。
もっともジョイスは祖国を亡命(?)してイタリア、スイスなどに行ってそこで執筆活動をしたのだけれど、・・・来週からジョイスを読もう!

書庫に、もう本が入りきれなくなってきた。なんとかせねばならない。
もう買わなければよいのだけれど、そうはいかない。

本はよみたし、金欠病。
本はよみたし、時はなし。
本はよみたし、置き場なし。

開高健が谷沢氏の書庫にある本を読みたくて風呂敷を持って通いつめた気持ちは良く分かる。
谷沢氏は開高健と絶交しても書庫は常に開高に開放していた話は実に麗しい。
男の友情というものに嫉妬を感じる。
阿佐ヶ谷文士の面々も友情にあつかったし、佐藤春夫と堀口大學も終生の友情に変わりはなかった。

木山捷平の文が井伏鱒二のに似せていると悪口言われたときは井伏は「捷平と血族をあらそう春の宵 弟たりがたく 兄たりがたし」と色紙に記したのは井伏鱒二の優しさであり、思いやりであり、つまらない噂に配慮した歌だ。

井伏鱒二という人物はあの開高健でさえもその本心を聞き出すのに苦労した人物である。
なにげない会話の中に聞き逃してはならない言葉をさりがねなくいれる人である。

男の魅力は、なにげなさ、さりげなさの中にちらりとのぞくとき、それはいぶし銀のように光る。

※ここで書評欄にかつて書いた「井伏鱒二文集」ちくま文庫の中から木山捷平の人となりを書いたものを転載しようと思う。

本書は「井伏鱒二」が書く「木山捷平」である。

題して「木山君の神経質」。
◇「私は以前から木山君は神経質な人だと見ていました。ただそれに対する迷彩の施しかたが一ぷう変わっているのだと思う」とある。
さて、井伏言うところの一ぷう変わった「迷彩の施しかた」とは何だろう?
木山が満州から郷里へ帰ってきた日のこと、釣りをしていた井伏のところへ挨拶にきた木山は
◇「『ついせんだって帰ってきた』といい、それから屈託なさそうに『このごろ僕のうちでは、僕が地主で女房が小作人だ』と言いました。つまり奥さんが家庭菜園をし、そこへ木山君が満州から帰ってきて奥さんがほっとしているという意味だと解されました。」

さすがに井伏鱒二。この大陸的でちっとも神経質でなさそうな言葉の裏をこう書き表して妙味。
「満州から引き揚げてきたころの木山君は神経質な面を裏返しにして見せるという点では更に年輪を加えているようでした。」とある。
木山の「神経質」を「迷彩の施しかたが一ぷう変わっている」「神経質な面を裏返して見せる点では更に年輪を加えているようだ」と書いていて意味は深い。
さらっと書いているようで井伏鱒二独特のひとひねりが効き、人間を見る目の深さがうかがえる一文である。

この時の事を木山の随筆「井伏鱒二」と比較してみよう。
★ 「私の留守中、私の家内はたびたび井伏氏に手紙を出して、捷平がいまどこにいるのだろうかと井伏氏に筋違いな難問を発して井伏氏を困惑させていたらしい」とある。

そんないきさつを木山は井伏に侘びて感謝したかったのであろう。お陰で今は安穏であるということを「地主と小作人」とユーモラスにしてみせる木山の「神経」。その神経の細やかな気遣いをいち早く察して「神経質な面を裏返して見せる」と表現する井伏。

引き揚げ後のもう一つの「神経質」を井伏はこう書く。
◇「某新聞社の家庭欄用の詩の註文を受け、「女房が放屁した。くさかった。故に離縁するつもりだ」という意味の詩を書いて送りました。
放屁したから妻を離縁する。何という神経質なことでしょう。と結んでいる。

最後にどっと笑わせる「木山君の神経質」。
井伏鱒二の軽妙な文。「神経質」という言葉の裏にひそむ細やかな「木山」の気配りに向ける温かなまなざし。井伏鱒二の人間をみつめる目の深さであり、それこそ井伏自身がなす「神経質=心遣い」の「迷彩の施しかた」なのである。

本書はこのほか坪内逍遙、太宰治の最初の妻にまつわる「琴の記」、鴎外、安吾、菊池寛など思い出の人々を描いた名随筆集である。


2005年10月19日(水) 「散文と詩」

詩について荒川洋治さんの本を再、再読してさらに考える日々。

詩と散文について以前Jさんが大変興味深いことをお書きになりました。
とても印象に残っていてその文が頭に焼き付いて離れなかったのですが、今日フランス文学者篠沢秀夫の第一詩集を読んで、Jさんのことばがより鮮やかによみがえって、その意味の深さに考えをあらたにしました。

Jさんがお書きになった文を転載いたしますが、どうぞお許し願いたいと思います。

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こんにちは,ろこのすけさんが恋文について書いていらっしゃいましたので,感想などを少々。

遙か昔ぼくも恋文などを書いたことがありまして,高校生と大学生の頃でしたでしょうか。これは僕だけなのかもしれないのですが,そのふみが散文にどうしてもならないのです。中途半端なものではありますが,あきらかに詩のようなもになっていました。 これはぼく自身に散文にするだけの頭がないのか,それとも恋文というのはそういうふうに感情を詩のような形式で発露するものなのか,どっちなのだろう,と考えたことがあります。
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この文がどうしても印象に残って頭から消えませんでした。
それはつまり「散文と詩」の働きの相違についてです。

篠沢教授が刊行当時69歳という年齢で第一詩集を出したことは意味が深いと思いました。
さらにその詩集のあとがき「詩のあとで」を読むとこうかいてありました。

「それまで息子の死に触れたことがなかった。雑誌やインタビュー、エッセイ、人正論的著書などにおいて、一切触れなかった。
昭和五十年(1975年)八月二十九日、十五歳の誕生日を十月に控えて、九十九里浜に呑まれた長男玄(げん)の事故死について、十年は個人的な場でも口にすることができなかった。そのあとの十数年も隠そうとするのではないが、触れたい気がしなかった。しかるに詩を書くとなるとそれが出て来る!それはまた自分の死を含めて、死の想念に広がる。」 「誰にも語れなかった悲劇について、散文で書いたり語ったりはできなかったのに、それまでほとんど書いたことのない「詩」でなら書けることに気がついた」というのです。

荒川氏は詩と散文の違いについてこう書いています。

「詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。散文はつくられたものなのである。」と。

篠沢教授が誰にも語ることができなかった愛息の死を真正面から語ることができたのは「詩」だったからです。
実際、篠沢氏は「誰にも語れなかった悲劇について、散文で書いたり語ったりはできなかったのに、それまでほとんど書いたことのない「詩」でなら書けることに気がついた」と書いています。

恋と死とを同じ線上で語ることはできません。しかし、どちらも心の真ん中にある大切な感情です。
ひと言でもつくりものであってはならず、間違いのないまっすぐな自分の心をあらわすのは「詩」の形なのです。
荒川氏の説く「「詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。散文はつくられたものなのである。」がその答えになっているでしょう。

篠沢教授の第一詩集の書評を書いてしまいましたが、もしかしたら載せるべきでなかったかもしれません。
私ごときものが安易に感想を述べるような作品ではなかったと思いました。
子を亡くしたその苦しい年月と慟哭を詩の最後「白い波」に見たとき、ことばを失いました。

まさに「詩」は心のまんなかを貫くもののあらわれです。 Jさんの真摯な問いに応える事ができなかった不甲斐ない私でしたが、荒川洋治さんの「詩とことば」を読み、篠沢秀夫さんの「彼方からの風」を読んでその答えをみつけました。


2005年10月18日(火) 午睡の人

・お昼寝や夢はお菓子の山を駆けめぐり

旅にやんで夢は枯野をかけめぐり の本歌とり・・・もどきになった!
・「本歌とり」とったつもりが取り逃がし釣瓶とられてもらい泣き(これも本句とりだ〜あ!)




三島由紀夫は「五衰の人 」。私は「午睡の人」

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The Daffodild
       William Wordsworth
I wander'd lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host of golden daffodills,
Beside the lake, beneath the trees
Fluttering and dancing in the breeze.
   水仙
谷や丘の上たかく浮かぶ雲のように
私はひとりさまよいあるいていた
そのときふと目にしたのは
金色の水仙の大群が
湖のほとり、木立の下で
そよ風にひるがえりおどるさま。

・・・と詩ったのはワーズワースだった。
水仙の花の高貴な香りは清らかな世界にたゆたわせてくれる。
水仙の花というと三島由紀夫の「唯識説」を思い出す。それはこうだ:
「世の中のあらゆる存在は、識すなわち心のはたらきによって表された仮の存在にすぎない。しかし、、それだけなら、単なる虚無になってしまう。一茎の水仙は、目で見、手で触れることによって存在する。だが眠っている間、人は枕もとの花瓶に活けた水仙の花を、夜もすがら一刹那一刹那に、その存在を確証しつづけることができるだろうか?人間の意識がことごとく眠っても、一茎の水仙とそれをめぐる世界は存在するのだろうか?」

『暁の寺』では三島由紀夫は「世界は存在しなければならない」と何度も書いている。世界がすべての現象としての影にすぎず、認識の投影に他ならなかったら、世界は無であり存在しない。「しかし、世界は存在しなければならないのだ!」と繰り返す。

難しい陽明学をもとにした考え方なのだろうか?こんなことを考えながら日々を過ごしていた三島由紀夫という人物は早くから五衰の人となってしまっていたに違いない。

不可解。
水仙の花というと思い出すのはワーズワースと三島由紀夫の「唯識説」。
明日も今日も、あさっても単純に生きていくであろう私には虚無も実存もない。

三島由紀夫が「五衰の人」であるなら私はただひたすら「午睡の人」である


2005年10月17日(月) 黒髪とファムファタル(運命の女)

美容院で髪をカットしてもらった。
ばっさりと切りたいと思ったのに、美容師さんが惜しんで切ってくれなかった。変なの!
でも少し軽くなったので心も軽やかになった。女の髪は命・・・だなんて昔の言葉?
いえいえ、今も命とまではいえないけれど、たった1cmのことで一喜一憂するのが女。

また話が蒸し返るけれど、ラファエル前派の時代、あのファムファタル(運命の女)を描いたロセッテイの絵には秘密がある。
ロセッテイは女しか描かなかった。その絵の女性の髪はほとんどゆたかに垂らした長い髪である。キリスト教社会では女性は本来罪深い存在であり、長い髪は罪の象徴だった。したがって女性は人前では髪を結い上げ帽子やかぶりもので髪を隠さなければならなかった。その名残であろうか、今も正式な洋装姿は帽子をかぶる。皇室の貴婦人方をごらんあれ!
さて脱線したが話を戻そう。
つまり女性が髪をほどくのは寝室のなかだけだった。

すなわち、ロセッテイの絵の女性はタブーを破って豊かな髪をさらして魅惑している。
ファムファタル(運命の女)とよぶのにふさわしい光彩が画面から放たれている。

いかがであろうか?
「髪は女の命」ならぬ「女の武器」のようでもあって、なまめかしいではないか。

女の私から見ても実につやっぽい女の動作とは「髪を梳く姿」であると思う。
長い緑なす黒髪(?)を櫛けづる姿は実になまめかしく美しい。
茶髪に染めた傷んだ髪などおよそ色っぽさからは遠い。

漆黒の髪を束ねるためにピンをくちにくわえ、後ろ手にくるりと器用に束ねた髪を結い上げる姿はまさに「よくぞ女に生まれけり」と言いたくなる。

結い上げた髪のほつれが白いうなじに一筋ながれ、緋色の長じゅばんがはらりとはだけたりする。
品が落ちるかおちないかの瀬戸際の表現である。
これをあの与謝野晶子が美しくもろうたけた寝姿の詩を詠んでいてすばらしい。


        ひとり寝

夫の留守の一人寝に
わたしは何を着て寝よう。
日本の女のすべて着る
じみな寝間着はみすぼらし、
非人の姿「死」の下絵、
わが子の前もけすさまじ。

わたしはやはりちりめんの
夜明けの色の茜染め、
長じゅばんをば選びましょ。
重い狭霧(さぎり)がしっとりと
花に降るよな肌ざわり、
女に生まれたしあわせも
これを着るたびおもわれる・

(以下省略)

さて、ここでまた髪の話に戻すとしよう。
与謝野晶子の歌には「髪」の歌が多い。

その中でも有名な歌を引いて今日の日記のお開きとしよう。

・その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

・黒髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる





2005年10月04日(火) 地味の滋味

今日は夕方から雨が降ってきたのでお散歩は中止。

愛犬が悲しがるけれどしかたがない。
きんもくせいの香りがしてきた。

寝室の側の植え込みには銀もくせいが植わっている。
銀木犀は金モクセイよりも香りがおだやかでつつましい。

慎ましいものは地味で控えめであるけれど、奥ゆかしい美がかくれているものだ。
母はそんな慎ましい人だった。
いつも大島紬の着物を着ていた。
地味な大島の美しさは子供の私には分からなかった。

他のお母さんのように華やかな服を着て花のようでいてほしかった。

母は「大島の着物はね、普段着のよそゆきね」といって笑った。
「大島の魅力は決してでしゃばらないのに、秘めた美があるのよ。
分かる人にだけわかる美しさかしら。」
「着れば着るほど肌になじんで、味がでてくるのよ。」

「へー」と聞いていた私だけれど、なんとなく母の矜持をそこにみた。

普段着に格のあるものを着るという「粋」。
しかも、それは決してでしゃばらないものであること。

大島紬は黒っぽく地味だったけれど、母は袖口や裾になんともいえない渋い色調の赤をほどこすのだった。

えりあしのほつれげをかきあげる時など、袖ぐちからちらっと渋い赤がこぼれて美しかった。
そしてなにより私が美しいと思ったのはその絹ずれの音。
母があるくたびにシュッシュッと心地よい雅(みやび)やかな音がして、同時にその裾裏に配したほんの2,3ミリの赤い裏生地が地味な着物を一瞬のうちにつややかなものにしたのだった。

「たおやか」とは着物姿をさすのだと思った。

物をとるとき、たもとを片方の手で押さえながらとる。
その美しい手元の三角形が女らしいたおやかな美をかもしだしてため息がでる。
着物の袖というのはすごい女の美をかくしている。
真っ白な女の二の腕がものをとろうとして袖からちらりと見えるとき、それは今までかくれていただけにあっと思うほどなまめかしく美しい。


母は自分の贅沢のために宝飾品を買うことはなかったけれど、買うときは何かの記念のときだった。
その記念を宝石にこめて娘たちに伝えたいと思うのだった。
母がいつも身につけている宝石はヒスイの指輪の他に結婚するとき、祖父が自らデザインしたダイヤの指輪だった。二月生まれの母のために祖父は梅の花をかたどったプラチナ台の花芯にダイヤをはめこんだ見事な指輪をつくった。

学者だった祖父が娘のためにデザインした美しい記念の指輪だった。

母は質実剛健な祖父がデザインしたその指輪を大事にしていた。

指輪は高い安いでなく、そうした思い出が伴ってはじめて光彩を放つのではなかろうか。

私も大島が似合う年齢になった。
私は一つ発見したことがある。
それは地味な大島は顔を華やかにすることだった。
渋さ、シックなものというのは「若さ」「華やかさ」を逆に引き出すのだということをみつけた。

そうか!母亡き後に母の「大島紬」への想いに気がついた。
母が子供の私に言った「大島の魅力は決してでしゃばらないのに、秘めた美があるのよ」
ってそういう意味だったんだね。

母は本当のお洒落の真髄を知っている人だったのだ。





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