ずいずいずっころばし
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2005年06月21日(火) A lily of a day

今までずっと私が女の子であったがゆえに父に疎(うと)まれていたという事実を忘れたふりをしてきた。
しかし、悲しかったのは私なんかじゃない。
高齢で私を産んだ母だったに違いない。上二人が女の子であった父は3人目こそは「男の子」と望んだ。
しかし、産まれたのは「またしても」「女の子」であった。やけになった父は産まれた赤子に名前をつけるのさえ嫌がって、区役所に届ける最終日にようやく、好きな花(百合)の名前を不承不承つけたのだった。
それが私であり、私の名前であり、私の出生の顛末である。

危険を冒して病弱な母は私を産んだ。それなのに喜ぶどころか「また女かあ!」と落胆し、子供に名前をつけるのも厭う夫の態度にどんなに傷ついたことだろう。
母はそんな出生の秘密を決して私には言わなかった。一回り以上も年上の姉が長じて私に教えてくれたのだった。
作家の幸田露伴の娘で同じく作家の幸田文さんは「みそっかす」という作品の中でこう言っている。
(幸田露伴が娘が生まれたとき「いらないやつが生まれてきた」と父がつぶやいたということを、女中からきかされ、物心ついてから何十年の長い年月を私はこのことばに閉じ込められ、寂寥と不平とひがみを道づれにした。)とある。

まさに私も同じだった。
きっと父は生涯、娘が悲しがっていたことを知らずに死んでしまったにちがいない。
かたくなだった幸田文さんも「露伴亡き後、父の生命とひきかえのようにして、ようよう全ての子は父の愛子であるということがわかったのであった」と結んでいて、私も救われたような気持ちになった。
私はBen Jonsonの「It's not growing like a tree」の一節をこよなく愛す。

A lily of a day
Is fairer far in May,
Although it fall and die that night;
It was the plant and flower of Light.
In small proportions we just beauties see;
And in short measures life may perfect be.

一日の百合の花、
五月には更にうるわし、その夜散りて朽ちはつるとも。
そは光受けたる花なりき。
なりふりの小さきものにもまことの美あり、
命は短かけれど全き人もあるなり。

この名訳を書いたのは英文学者の斎藤勇氏である。
世に英詩の翻訳本はあまたあるけれど、齋藤先生の訳は日本語として味わっても名品である。

父が亡くなる前、皮肉なことに疎ましかった三人目の女の子であった私が看病にあたった。
動けなくなった背中をなでるようにさすると「ああ、楽だ」と喜んだ。
あんなに大きかった背中が小さくなっていた。

もうじき父の日がくる。


2005年06月20日(月) 「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」

「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」
“the morn in russet mantle clad,
Walks o'er the dew of yon high eastward hill:"
「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」
「ハムレット」の第一幕の終わりに夜じゅう亡霊に翻弄されたホレーシオが朝に希望を見出し語る有名なセリフだ。かのT・Sエリオットがたたえてやまなかったセリフでもある。

窓をあけ、朝日を仰ぐとき、このホレーシオの「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」がふと口にでる。
シェイクスピア没後何百年と経った今、極東の片田舎に住む私の口からかのセリフがでるとは、なんとシェイクスピアは偉大なのだろうかと思う。
茜さす朝の訪れは誰の心にも希望を抱かせる。
このホレーシオと聞くと思い出すのは1903年(明治36年)5月22日、一高生・藤村操が、日光・華厳滝わきの大樹を削り、そこに「巖頭之感」と題した墨書を残して滝壺に身を投じたことである。
弱冠16歳、日本近代史学の祖として高名な那珂通世博士の甥でもあった少年哲学者の自死であった。
16歳にして次のような遺文であるからして驚く。

「巖頭之感」
「悠々たる哉(かな)天壌 遼々たる哉古今 五尺の小躯を以て此(この)大を測らんとす ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチーを価するものぞ 万有の真相は唯一言にして悉(つく)す 曰く不可解 我れ此恨みを懐いて煩悶終(つい)に死を決するに至る 既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし はじめて知る 大なる悲観は大なる楽観に一致するを」

この遺文中の「ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチーを価するものぞ」と、ホレーシオがでてくる。
奇しくも「ハムレット」の名セリフ「To be or not to be」
”永ろうべきか死すべきか”は、かの坪内逍遙先生の名訳であるが、藤村操青年も同じホレーシオならこの「ハムレット」の名セリフ、「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」
を思い出して欲しかったものだ。
「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」
何と希望に満ちたセリフではないか!

「人生不可解」藤村操青年は煩悶するけれど、まさにその通り!人生は不可解なものだ。
だからこそ生を全うし、死ぬまで煩悶し解き明かさねばならぬのだ。夜のとばりが明けるとそこには「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」のだから。


2005年06月19日(日) 山中対酌

父は不思議な人だった。
幼い私に李白の詩を読んで聞かせてひとりで頷くのだった。
私はどう聞いてもお経にしか聞こえない李白をBGMによそごとを考える。

ちょうど今頃の季節になると、独り静かに独酌しながら、これまた幼い私に「山中対酌」をつぶやいてみせる。

曰く:
    「山中対酌」
両人対酌山花開 (両人対酌して山花ひらく)
一杯一杯復一杯 (一杯一杯 また一杯)
我酔欲眠卿且去 (我酔うて眠らんと欲す 君しばらくかえれ)
明朝有意抱琴来( 明朝 意あらば琴を抱いて来たれ)

つまり
山中誰にも邪魔されることなく 二人差し向かいで
いっぱいやっている。折から季節の花が咲き乱れ
ここは楽園のようだ。一杯一杯と杯を重ねる。
ああなんと気持ちのいいことか。いよいよ眠くなってきた。
君はしばし帰っていてくれ、私はこの眠りを楽しむ
こととしよう。そうだ、気が向いたら明日の朝、琴を
持ってもう一度きてくれ。今度は君の琴を聞きながら
いっぱいやろうじゃないか。

と、おかっぱ頭の女の子をつかまえて呪文のようなもの。
女ばかり三人の娘。きっと息子と酒を酌み交わすのが夢だったに違いない
気の毒なお父さん!こんなに美しく愛らしい娘でごめんなさい!(?)

しかし、三つ子の魂百までとはあな恐ろしや!こうして時々、花を酒のお供に庭を
眺めているとふと「一杯一杯また一杯、我酔うて眠らんと欲す・・」と言う句が私の口を
つく。
小学校の時、国語の時間に、知っている歌を一つ挙げてみろと言われ
「は〜い、先生!しらたまの歯に染みとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」
と言ってしまった私って酒精?
さて、この辺でお酒の話しにふさわしい歌を挙げて締めくくりとしよう。

     対酒(白楽天)   
蝸牛角上争何事 (かぎゅうかくじょう何事か争う)
石火光中寄子此身 (せっかこうちゅう此の身を寄す)
随富随貧且歓楽( 富みに随い貧に随いしばらく歓楽す)
不開口笑是痴人( 口を開いて笑わざるは これちじん)

つまり
物事を大きな目で見ると、全く意味がないほど小さな事で
いったい何を争っているのか。まるでカタツムリの角の
上のことではないか。実に愚かだ。
人生は石火の如く過ぎ去り、そこに身を寄せるはかなさ。
お金持ちはお金持ち、貧乏は貧乏、分に応じて
とりあえずは酒を飲もう。
口を開いては悩み、悲しんだりするなんてバカげたこと。
大いに笑おうではないか!

まことに言い得て妙。父に献盃!




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