極彩色、無色
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2005年03月31日(木) 通夜前々日、仮定の話

うちだけは、特別ではないだろうか。

もしかしたら、万一にでも、特別なことが起きないだろうか。


死んだことは何かの間違いで、何事もなかったように帰ってくるんじゃないだろうか。

そんな、思いが、今もある。



帰って来ないと、わかっているつもりだ。

理屈では、理解している。

遺体も、すでに火葬にし、遺骨となって今も我が家に置かれている。

それなのに、まだ、どこかから何食わぬ顔でひょっこりと現われそうな気がしてならない。

『ただいま』

声が聞こえるのではないかと、耳を凝らしてしまう。





事故現場から、刑事さんが警察署まで送ってくれる。

その時、初めて覆面パトカーに乗った。

『これからご遺族の方と署に戻ります』

無線で、そう伝えていた。


ご遺族


初めて自覚した。私はご遺族なのだ。

車中でも、父はむせび泣いていた。

堪えようとしているのだろうが、押し殺した声は余計に車内に響いた。

刑事さんも、こんな遺族の姿を何度も見てきたのだろう。大変な仕事だと思った。

警察署に着き、それから家に帰るのだが、父は泣いていて運転どころではなかった。

警察署に来るまでは、まだ確証があったわけではなかったので、何とか運転して来れたらしい。

帰りは、兄が運転して帰った。



家に帰ると、親戚が集まった。

母の死を聞き、嘆き、泣いた。

遠方に住む母の両親(私の祖父母)も高速バスと電車を乗り継いで駆けつけた。

自殺であると伝えた時も、祖父も祖母も泣きはしたが、取り乱さなかった。

内面のことはわからない。でも、人前であれ程に凛としていられる強さを凄いと思った。



父は言った。

『俺が悪かったんだ』

『なんで相談してくれなかったんだろう。そんなに頼りなかったのかなぁ』

『悩んでることがあるって言ってくれれば、仕事なんて放ってでも話を聞いたのに』

『もっと女房のことを考えていてやればよかった』

『女房じゃなくて俺が死ねばよかった』

そんなことないよ。あんたはよくやったよ。そんなこと言うもんじゃない。

親戚は皆そう言っていたけど、私は少し、父の気持ちが分かった。

自分の一番大事な人を助けられなかったなんて、きっと父には生きる意味なんてないだろう。

『いつもは喧嘩してばっかりだったけど、本当は俺は女房のことが大好きなの』

泣きながら、父は何度も言っていた。

『俺は女房が大好きなの』


警察から遺体が返還されるのは、翌々日。通夜の日の夕方だった。


親戚が帰った後、家の中はしんとしていた。

会話も続かず、いつの間にか夜11時を過ぎていたが、食欲はなかった。

目が腫れぼったくて、その日だけで2回コンタクトが外れた。


お風呂に入り、布団にもぐった。

まぶたは重いのに、頭ははっきりしていた。

どうしようもないことをぐるぐるぐるぐる考え続けた。

どうして

なぜ

もし、母が帰ると電話した時、父が迎えに行っていれば。

もし、母がお邪魔していた家の人が、遅いからと引きとめていてくれれば。

もし、母を轢いた車の運転手が、もう少し早く母を発見していれば。

もし、母が落ちた場所が追い越し車線ではなかったら。

もし、もし、もし……

仮定の話は尽きない。意味がない。それでも考えてしまう。









母は生きていてくれただろう。










2005年03月28日(月) 後を追えたら、楽なのですが

事故現場に行って、わかった。

高速道路の上にある、橋には、鉄柵がある。

高い、高い、鉄柵。

つまりは、そういうことだった。
















高速道路の、追い越し車線側に、落ちた。

夜中の、3時頃。

寒い、寒い、夜。












なぜ

何故


リストカット症の人について、テレビで何度か見たことがある。

母と一緒に見ていると、私は必ず

『私らみたいな性格だったら自殺の心配なんて全然いらないのにね』

と言っていた。

深い意味など何もなかった。

何も考えずに口をついた言葉。

母は、

『わからないよ。突然そう思うかもしれないよ』

真剣に答えていた。

あれは、あの時から、そんなことを考えていたのかな。





残された私たちは、どうすればいいですか。

何に絶望して、何が貴女をそんなにも追い込んだのですか。

死の直前、ちらとでも私たち家族のことを考えてくれましたか。

もし、そうなら、私たちの存在はそれを止める抑止力にはなり得ませんでしたか。

それ以上に、貴女の中に巣食った絶望の存在は、大きかったのですか。

私たちは、残されて、どうすればいいですか。





2月経った今でも、未だ、私にはどうすればいいのかわかりません。

どうもせず、ただ生きていればいいとも思えないのです。

ただ生きることも、出来そうにありません。

後を追えたら、楽だと思うのですが、

後に残された者の気持ちが、痛いほどに分かる上、間近で見、自ら体験してしまった身としては、父や兄を置いて、先に死ぬこともできないのです。

家族は、親戚は、友達は、

ただ、無条件に、貴女を必要としていました。

そこにいてくれるだけでよかったのです。

貴女は、それでは満足できないと思ったかもしれません。

ですが、貴女の周りにいた私たちは、その存在だけで、幸せでした。

一緒に、居たかった。

もっと、ずっと、一緒に生きたかった。

なんでもない生活を送りたかった。

生きていてほしかった。




2005年03月27日(日) 母の死の概要を知る

どん底ってこういうことだと、初めて知った。


泣いているばかりで、話もできそうにない父に代わり、兄が大方の手続きをした。


また後日、警察署に来ることになり、その日は帰宅。

司法解剖が残っており、母の死体は引き取れなかった。



家に帰ると間もなく、兄が電話で伝えたのだろう、親戚が来た。

皆泣いていた。

警察で聞いた事故の状況を話す。

私もその時、初めて聞いた。


人対車の事故。

頭を轢かれていて、顔は正視に耐えない程。

身元のわかる物は持っていなかった。

あったのは、ポケットに入っていたキーホルダーだけ。

乗っていたはずの車は近くに見当たらず、捜索中。

事故現場は、高速道路。

上を通る橋から落ちたらしい。









2005年03月25日(金) 母の死を知った。

母と連絡が取れないまま、1日が終わった。

今まで経験したことがない程、長い1日。

待っていれば、母の車の音が聞こえて、すぐにでも玄関が開く気がして、

リビングから離れられなかった。

12時を過ぎた頃、ようやく自室へ戻り、布団に入る。それでも、寝付くまでに1時間。

父は、きっと眠っていなかっただろう。


翌日、私は友達と遊ぶ約束のため、出掛ける。

こんな時に遊ぶってなんだ!!と思ったけど、まさか母が行方不明だなどと言えなかった。

この時もまだ、普通に生活していれば、普通に過ごしていれば、母は帰ってくると信じていた。

母が行方不明など、あり得ない。

母が失踪したなど、あり得ない。

自分のすぐ身近なところで、こんなにも非現実的なことが起こるはずがない。起こっていいはずがない。そう、思っていた。

昼頃、友達と会い、買い物や食事をした。その間も、何度も携帯を見ては、兄や父からの着信を待った。

私は傍から見てすぐおかしいと思われる程ぼんやりしていたらしい。何度も『具合悪い?』『大丈夫?』と聞かれた。その度に空元気で笑った。それ以外に、何が出来ただろう。

何事もないようにしれいれば、きっと家に帰る頃には母が戻っているに決まってる。そう、信じ込んだ。


兄から電話があったのは、午後4時頃。

悪い知らせだったら……そう思うと気持ち悪くなって吐きそうだった。

『俺だけど、今話せるか?』

いかにも深刻なことを告げる前触れのような口調。私は友達から離れて、待った。
心臓がドクドク言って、持久走直後のよう。脈打つ度に気持ち悪さが増した。

『今、父さんと一緒に警察に捜索願い出しに来てるんだけど、車の鍵つけたキーホルダーはどんなのかって聞かれたんだ。で、そのキーホルダー見たら、母さんのだった。そのキーホルダー持ってたのは、中年女性だったらしいんだけど、まだそれが母さんかどうかわからないから、今から死体の確認に行くんだけど、お前も来るか?』

意味がわからなかった。兄の言ってることが文法とか、そんなの関係なく、私の頭の中で文章にならなかった。

キーホルダー

中年女性

 死体

確認

 死体

 死体

 死体

  死

  死

  死

頭の中でリフレインがかかったように、何度も死がこだまする。

『え、あ。えっと……』

意味ある言葉なんて思いつかなかった。

『タクシーに乗って、■■警察署まで行って。入り口にいるから』

言われたことだけ、しっかり覚えた。

友達とは、急用ができたと言って、そこで別れた。


タクシーに乗ってすぐに、涙がこぼれた。

後から、後から、どうしようもなく泣けてきた。

タクシーの運転手さんは突然泣き出した女に驚いたことだろう。ちらちらとルームミラーを覗いていた。

それでも、涙は止まらなかった。

嘘だ。

違う。

母じゃない。

そう強く思っても、涙は止まらなかった。

もうその時には、覚悟していたのかもしれない。

タクシーを降りる時、涙でコンタクトが外れた。泣き過ぎでコンタクトが外れることがあると、そも時初めて知った。


警察署の入り口には、兄がいた。泣いている私を見ても、何も言わなかった。

心細くて、なるべく兄の近くを歩いた。兄は俯いていて、表情はわからなかった。

白々しい蛍光灯が、薄汚れた廊下を照らしていて、不気味だった。

二人とも無言で、角を曲がると父がいた。

父は、見たこともない程顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。

初めて見た、父の涙。





その時、母は死んだのだと、知った。






父の姿を見て、ますます涙が溢れた。

声を上げて泣く父に、どんな言葉も掛けられなかった。


刑事さんが、神妙そうな顔で『こちらへ』と案内をする。

その後をついて、薄暗い方へ歩いていくと白い布を掛けられた棺と、線香立てがあった。線香の臭いが気持ち悪かった。

『確認をお願いします』と言われて、父も兄もその棺の前へ立ったが、私は、近くにあったソファに座り込んで、待った。

怖かった。

つい一昨日まで、生きて、動いて、笑っていた母が、

今は、冷たく、動かない、死んだものになった。


ガタガタと震え出しそうな足を押さえつけて、ぎゅっと手を握って、ひたすら待った。棺を見るのも、怖くて、ただ下を向いていた。

父が、母の名前を呼んでは、泣いていた。

『お前も線香上げて来い』

兄に言われて、棺の前に立つ。

『顔、見るか?』

反射的に、首を横に振った。

今、ソレを見てしまったら、母の印象は、ソレになってしまいそうだった。

母を思い出す度に、その棺の中の顔を思い出してしまいそうに思った。

線香の臭いが、鼻につく。

父の泣き声が、耳に痛い。








キレイな顔だったのに。

いつも、いつも、丁寧に化粧をして。

年齢の割にシワも少なく、素肌もキレイだと自慢だったのに。




2005年03月24日(木) 3つのメール、死の傍ら

ここに書いたのは、母が帰ってこなかった日に、最後に兄と私と父が送った、母宛のメールです。


兄 10:16

みんなとても心配してます。連絡ください。

私 19:21

電話をしても留守電になっているので、メールを送ります。
無事でいますか?どこにいますか?
今日は一日ニュースをつけっ放しにしています。今も気が気じゃありません。警察に連絡をしようかとも考えています。連絡を下さい。待っています。

父 21:38

あいしていますこころから
いきていてください





父は、携帯に慣れていなくて、電話するのもやっとやっとで、メールをするのはこの時が始めてだった。

自分じゃやり方もわからない。けれど電話じゃ繋がらない。だから、せめてメールを送りたい。

いつもだったら教えてもすぐに『俺はメールは使わないからいい』と言うのに、この時は自分から、兄に教わっていた。

たったこれだけの文章を、漢字にも変換されていない、句読点も打ってないけど、こんな文章を10分くらいかけてやっと書き上げて、送った。

その時は、どんな言葉を書いたのか、私は知らなかった。

後で、母の携帯を解約しに行った時、この3つのメールが未読になっていたのを見つけて初めて読んだ。

ドコモショップの中で、不覚にも泣けてしまってた、隣には父もいたのに。



父のメールを読んで欲しかった。

父は堅物で照れ屋だから、きっと結婚してからはこんな恥ずかしいこと、母に伝えたことはなかったと思う。

だから、母にはこのメールが届いて欲しかった。








消せるはずがない。

繋がらなくたって、母の存在を消したくない。


2005年03月23日(水) 死亡1日目、家族は誰も知らなかった

母が死んだ日、私は普通にバイトをし終えて、普通に家に帰って、普通にご飯を食べて、普通に寝た。

母が死んだのは、夜中の3時。

友達の家に長居をしての、その帰り道。

夜12時頃に父が電話して、最後の会話をした。

『もうすぐ帰るから、先に寝てていいわよ』

電話越しに聞いた、最後の母の声。


でも、それが”最後”になると知ったのは、もっと後のこと。



翌日は土曜だった。
バイトが休みなので昼まで寝ようと思ってたのに、7時頃に父に起こされた。

『お母さんがまだ帰ってないみたいだ。起きてくれ』

坦々とした、いつもと変わらない声だった。

私は、母のことだから、夜遅かったし引きとめられて、そのまま友達の家に泊まっているのかと思った。

のろのろとベッドから這い出て、リビングに行く。煌々とついた蛍光灯は、父が起きる前から点けっ放しになっていたらしい。

いつも母が夜遅くまで本を読んだり、自分の趣味のために使っていた和室にも、母はいなかった。

携帯に電話しても、留守電になる。

何度電話しても、留守電。

それでも、大丈夫と、高を括っていた。

車の運転中、途中で眠くなって、どこかで寝ているのかもしれない。それで、そのまま寝過ごしているのかもしれない。

そう、思うことにした。

すぐに、『遅くなってごめんね』なんて言いながら、母が帰ってくると信じていたから。


父は、定時になって職場へ向かった。経営者だから仕方ない。

『1時間ごとくらいに、電話をしてみて。でも、あまりむやみに電話して、携帯のバッテリーが切れても困るから、時間を見計らってな』

平気な顔をしていても、一番心配しているのは父だ。

仕事にだって、本当は行きたくないだろう。

今すぐにでも母を捜しに行きたいのだろう。

だけど、生活に縛られる。

きっとすぐに母は帰ってくる。

いつも通りの生活をしていれば、きっと。

父が出掛けに、

『お兄ちゃんにも一応、連絡しておいてくれ。万が一、事故に遭った可能性もあるから。万が一な』

一番、そうじゃないって信じたいのもお父さん。

でも、一番考えない訳にいかないのも、お父さんだった。

父が出掛けた後、東京に下宿している兄に電話した。

『あのね、お母さんが昨日から帰って来ないの。昨日の、あ、もう今日になってたけど、12時くらいに心配してお父さんが電話したら、まだ友達の家にいて、でもその時はすぐに帰るって言ってたのに、まだ帰って来ないの』

自分でも、何を言ってるかわからなかったけど、全部言わなきゃとだけ思っていた。

兄は、

『うん。うん。そうか。わかった。』

静かに聞いていてくれた。私が混乱してることも全部伝わっていただろう。

『とりあえずお父さんに電話してみる。今日はそっちに帰るから。じゃあ、後でな』

電話を切った後、すぐに母の携帯に電話してみた。

『ただ今電話に出ることはできません』

何時間後に電話をしても、母が出ることはなかった。

父が、母の実家に電話をしたらしく、叔父さんから電話がきた。

『俺も携帯に電話してみるから』

言われたけど、『バッテリーの残りが心配だから、あんまり頻繁に電話するなって父が言ってたから』と断った。

母に電話するのは私の役目だと思った。

一番に母の声を聞きたいと思った。

安心したかった。








とても、馬鹿なことを思った。

寝ていたのを、邪魔されただけなのに。

母の心配よりも、自分を優先しようとするなんて、なんて馬鹿だったんだろう。


もう謝ることもできないのです。



2005年03月22日(火) ご遺族様になった私

二〇〇五年、一月。

私はいつの間にか、知らないうちにご遺族様になっていた。

母が死んだ。

もう二月も前のこと。



そろそろ気持ちの整理とやらを始めよう。






家族-my family-
自営業
4月から医学部六年
二十歳、女、フリーターに極近しい学生
死亡


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