うさぎのつぶやき

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2002年05月23日(木) ◆「出産記念日」

今日は、私の初めての出産記念日です。

28年前の昨日、私は大きなお腹をかかえて、定期的に来る
チリチリとミミズが這うような感覚を覚えながら、出産が
近い事を感じていました。

初めての出産に、不安と期待でいっぱいでしたが、宮崎の
実家に帰っていましたので父や母が私が戸惑わないように
リラックスさせてくれていましたし、病院も母が弟たちを
出産する時にお世話になった部長先生に(県立の病院から
独立開業されていましたので)お願いしてありました。

日にちが、23日に変わって暫くすると、お腹のチリチリ感
が、だんだんはっきりと強くなってきたのです。
午前2時前だったと思います。

はっきりと、陣痛が始まった事を感じましたので両親にそう
言って、出かける準備をしました。
父も母も、車の運転をしませんので家には車がありません。
タクシーを捕まえてくるそういって父は表に走って行きました。
28年前の九州の田舎町です。
深夜にタクシーなど、走っているはずがありません。私と母が
表で待っていると、父が戻ってきました。
家のすぐ近くに、交番があるのですが、その交番に相談したら
おまわりさんが“じゃあ、ボクが、送ってあげますよ”と
言って下さった言うのです。
事が事だけに、その言葉に甘えさせてもらう事にして交番
まで行きますとエンジンをかけて待っていて下さいました。

なるべく揺れないように、でも急いで走って下さったのを
覚えています。お腹のほうは、もうとても痛くなってきて
今にも産まれそうに思いました。

でも病院に着いたらね、
看護婦さん(特に産院の看護婦さん)は、どうしてこんなに
冷静なんだろうと、腹が立つくらい、普通なんですよ。
でね、私が“痛い痛い”を連発して叫ぶと、痛さを計る機械
があってね、その機械で計るわけですよ。
そして“あ〜、まだまだ・・・!”って言うのね。おまけに
“こんなの、たいしたことないよ!まだまだだから、がまん
しようね!”って。
それで、カチ〜ンときたわけ。

“子供を生んだ事もないくせに、この痛さがどうして判る
の?いくら機械が立派でも、私がどれだけ我慢できるか
なんて計られへんやろ!!”って思わず怒鳴ってしまい
ました。
若い若い看護婦さんでした。

失礼な事を言ったものです。その後も“耐えられへんから
麻酔をして!”とか“腰が痛い!”とか明け方まで騒いで
いました。
そして、午前8時01分、ついに産まれたのです。
産まれた瞬間“あ〜女の子だ!よかった、うれしい!”
って直感しました。看護婦さんが“女の子ですよ”って
見せてくれましたが小さくてシワシワのしわくちゃで、
お世辞にも可愛いとは、言えない赤ちゃんでした。
看護婦さん達が代わる代わる見に来られて“ゆうべ大騒ぎ
していたのは、あなただったのね。久しぶりに聞きました
よ”と笑われてしまいました。

あんなしわくちゃだった娘も、もう28歳です。
時々、まぶしいくらいに見える時があります。
親を困らせた事のない娘ですが、結婚願望が薄いようで、
なかなか結婚の話を聞かせてもらえません。

娘の誕生日、即ち私の出産記念日に28年前を思い出して
みました。


2002年05月18日(土) ◆「パソコン」

この「うさぎの独り言」にお越し下さった皆さんのパソコン
を始めるようになったきっかけは、何でしょうか?
私たちの年代だと大方の人が仕事で必要に迫られて、とか
毎日の生活に活かしたくてというのが、殆どだと思いますが
私の場合はちょっと違うかな?・・・。
今日は、その事も含めて、書いてみようと思います。

私は九州の宮崎県宮崎市で育ちました。
小学校も街中にありましたが、いわゆる新設校で学校の
取り組みも、先生たちの意気込みも、とても熱心で当然、
父兄にもそれは反映され、本当の意味でのPTA(Parent Teacher Association)
が、ガッチリとスクラムを組んでいたそうです。
(これは、当時子供だった私にはそんな事分かりませんでした
から、後々先生や両親から聞いたところによるものです)

そんな中で厳しく、でものびのびと教えを頂いた事はいうまで
もありません。時代もよかったのよねぇ〜と、あの頃を振り
返っていつも先生はおっしゃいます。
其の先生とは、小学1年、2年と担任を受け持って下さった
女性のT先生です。

学校から、歩いて20分位の所に住まいを構えていらっしゃい
ましたが、ある時“お庭に、たくさんの「とうもろこし」が
出来ましたから、今日は先生のおうちに皆さんで採りに行きま
しょう。”
そういって、放課後、連れて行ってくださいました。
街中育ちの子供たちです。そういう経験はした事がなかった
ので、とても嬉しくて、楽しくて、未だに忘れられない思い出
となっています。

又ある時は理科のテストで、りんごの種を蒔く時期について
問題が出ました。「春蒔き」か「秋蒔き」を答えるのですが、
私は、間違って答えてしまいました。ペケをもらった私は、
家に帰って、母に言いました。
“お母さん、前に植えた家のりんごの種は芽が出て元気に
育っているよね。大きくなってるよね。”
“植えた時を書いたのに、ペケなんよなんで?”って。

暫くして、母は学校に行き先生に間違いの訳を話したのです。
すると、“そうでしたかぁ。じゃぁ、○にしましょうね。
でもねみどりさん、テストというのは、普段の勉強で皆さんが
どれだけ、先生の教えを覚えたのかを知るため、なんですよ。
これからは先生の言う事をしっかり聞いていて下さいね。”
そうおっしゃって、○に変えてくださいました。
その場その場に応じていつも対応して下さった先生の教えは
40数年たった今でもしっかりと心の中に根付いています。

7〜8年前になるでしょうか、同窓会を開いたのですが30人
近く集まった旧友も口々に同じような体験を言っていたのが
印象的でした。

其のT先生、今もお元気で昔からのお宅に一人でお暮らし
です。
足が少し不自由になられましたが93歳になられた今でも
“動かないとね!”そうおっしゃって、昔とうもろこしを
作られたお庭に出て草花の手入れに余念が、ありません。

私も近くにいればお伺いも出来るのですが、そういう訳にも
行かず、もっぱら母が代わりに遊びに行ってくれているよう
です。

昨年の夏でしたか、帰宮した際お伺いした時に“先生は
毎日何をしておいでですか?”って、聞きましたところ
“普段は庭に出て草むしりをしてるけど夜はテレビを見たり
新聞を読んだり・・・かな”
“でも、日曜日は息子の所に行くから、そこでパソコンを
ちょっと、やらせてもらっているのよ”っておっしゃった
んですね。
93歳ですよ、93!。
驚いた私は、“え〜っ!”て、叫んでしまいました。

“でもねえ、なかなか覚えられなくって・・・。お嫁さんが
横でにやにや笑っているのよ。どうしてもだめになると、
おかあさん、ここ!って、教えてくれるの。ホント難しい
よねえ”とも。

その時私は、少しショックを受けたのです。

世の中が急速に進み、もう私達の年代には付いて行けない
ところまで、行っちゃったような気がしていたものですから
コンピューターなんて、無理無理!!って、頭から決め付け
ていたのですね。

この年になって、又先生に教えられてしまいました。

要はやる気なんです。あのお年で、一人暮らしをされていて、
足も不自由なのに、庭に出て手入れをされ、其の上パソコン
ですって!。
負けちゃあいられませんよね。先生に比べればまだまだ若い
若い私です。
何かをするという目的があったわけではないのですが、
IT社会という時代に挑戦しなきゃあ、って考えたのです。

今年に入りパソコンを買い、解らないながらも、なんとか
キーボードにも慣れ、ようやく、こうやってホームページを
作るところまでこぎ着けました。

先生に報告がてら日曜日にメールでも送ろうかと、思って
いるこの頃なのです。


2002年05月11日(土) ◆「五つの赤い風船」

今日、待望の“五つの赤い風船”のコンサートチケットが
届きました。
以前から申し込んでいたのです。

“五つの赤い風船”って私の年代の方は、きっとご存知
でしょう。
'60〜70年代にかけて一世を風靡したフォークグループです。

実はね、昔とっても大好きだったのです。
コンサートはもちろん、小さなライブまで駆けつけていました。
レコードも、全て揃え、ギターを覚えてよく歌ったものです。

いつまでも、ずっと、続いていくと信じていたある日、突然
舞い込んだ解散という二文字。
残念で残念で、仕方ありませんでした。

解散のコンサートは、“五つの赤い風船”見納めコンサート
と呼ばれ大阪はフェスティバルホールであったのですが、
私は仕事を“早引け”して随分早い時間からホールの前で
待っていました。
これで、もう見納めだと思うと、悲しくて始めから終わり
までずっと涙ぐんでいましたし、コンサートが終了しても
何だかその場を去りがたかったのを覚えています。
そして、あきらめきれない思いを抱え、泣きながらホール
を後にしたのです。

当時私は会社の寮に住んでいましたが、門限が10時で
難波から3〜40分かかる所でしたから、9時すぎには
電車に乗らなければ間に合いません。
当然遅刻してしまいました。
悲しい思いで帰ったのに、寮のおじさんや寮長さんに
叱られて、メッチャ!辛い一日でした。

それからは“風船”の事は封印をして、自分で触れる
のを避けていたのです。

でも今年の初めからパソコンをさわるようになり、
一番最初にネット検索してみたのは「五つの赤い風船」
でした。
ずっと昔の事だけど何か分かるかも・・・との思いでした。

結果は、なんと!復活していたのです。
メンバーは、少し変わっていましたが、リーダーの
西岡たかしさんは、昔のように頑張ってらっしゃるとの
事もわかりました。

フェスティバルホールから泣きじゃくりながら帰った
「あの日」から、この6月で、ちょうど30年になります。

そして6/1 コンサートに行ってきます。

・・・泣いたら、どうしよう、、、。


2002年05月08日(水) ◆「骨折」

昨日、母から又電話がはいりました。

他愛もないおしゃべりをしているうちに“実はね山で筍を採り
終わって、ちょっとした斜面を下までおりるのに、腰が痛い
から滑っておりたんよ。そこまでは、よかったんやけど、途中
に木の切り株があって、滑ってきた足がそこで急に、遮られて
しまったんやわ。勢いがついてたから、ひどい衝撃が掛かった
んやろうなあ。背中が痛くて病院に行ったら背骨の第7間接を
圧迫骨折してたわあ。”というのです。

昨夜は、痛くて眠れなかったとも。

母のケガ、骨折は、いつものことです。
バイクを乗り回しているからでしょう。鎖骨、肋骨、頚椎、
腰骨と何本も折っています。
ちょっとした事故ばかりで済んではいるものの、周りは心配
でならないのですが、当の本人は不便だからといって乗るの
をやめません。
今は、コルセットをはめて、静かにしているようですが“筍
も採りにいかれん、ゴルフも行かれん(グランドゴルフをして
います。)長い時間台所に立つと疲れて動けん(料理も
大好きでいつも美味しいものを作ってくれます)”と嘆いて
いました。

電話があった最初から声に元気がないなって思っていたの
ですが、そういうことだったのです。

今度の日曜日は母の日だからね、いいもの送ったから楽しみ
にしといてと言いましたら、急に声が元気になり
“何を送ってくれたん?”とうれしそうに言いましたので、
“お.た.の.し.み.!にね。日曜日に又電話するからね。”
と、答えて電話を置きました。

近くにいたら、して上げられることもたくさんあるのですが、
なにぶん遠いものですから、そこは、ままなりません。
今までもらった愛情を、何かの形でお返ししなければと思う
ばかりで、なかなか思うようにはいきません。
せめて話を聞いてあげるだけでも、又会話をするだけでもいい
と思っています。
母さん早く元気になってね!


2002年05月04日(土) ◆「宅急便」

昨日、田舎の母から、待望の宅急便が届きました。

中には、パプリカ(赤、黄、各1本)/胡瓜7〜8本/
キンショウメロン(大玉2個)/えんどう豆/早稲みかん5個/
あくまき(5本)...これは、宮崎、鹿児島地方の特産物で、
もち米を、竹の皮に包んで灰の汁に漬け込んだもの。
半透明のあめ色になったお餅のようなものです。食感は、
わらびもちみたい。/それから、バイクにまたがり採ってきた、
「たけのこ」いっぱい/おまけに、菖蒲一束、母の愛に一つ
づつ包まれていました。

誤解のないように言っておきますが、実家は農家ではありません。
父はサラリーマンでした。しかも住まいは町中。
たけのこ以外は、すべて、お店で買ってきます。
都会に比べると、多少は物価も安いですが、それでも年金
生活を送っている母達にとって、余分な出費になった事に
変わりはありません。

娘や息子というのは親にとっては、いつまでたっても子供
なんですね。一人前になっていない、という意味ではなく
自分達の子供という意味です。

私達(三人兄弟)の両親は、長女の私が母のお腹に宿った
時から、生活のすべてが、子供の為だけに回り始めたと
いっても、過言ではない位、たっぷりの愛情を注いで育て
てくれました。

なんの憂いもなく天真爛漫に過ごしてきた、子供時代の事を
思う時、自分が育てられたように自分の子供達を育てられな
かったことは、とても残念に思います。

もちろん、たっぷりの愛情は負けないくらいに注いだつもり
ですが、その他のさまざまな憂いごとがあったりしたもの
ですから、彼等に対しては、申しわけなさを禁じ得ません。
それでも、さほどの問題もなく成長してくれたことは、真に
ありがたく思っています。

昨今取り沙汰されている、家庭内崩壊、暴力などは、何か
深い基本的な部分に、その要因が、あるような気がしてなり
ません。このことについては、いずれ又別の機会にお話し
することにしましょう。

明日は、子供の日です。
“五日は、菖蒲をいれて、お風呂に入りなさいよ!”荷物のお礼
に電話をした時に聞こえてきた、母の言葉です。

そして、来週は、“母の日”。


2002年05月01日(水) ◆たけのこ

今日は朝から雨、、、。
爽やかな五月に雨は、似合いません。
アっでも、雨上がりは木々や草花に滴が残り、なかなか
風情がありますね。
昨日、田舎の母から電話が入り“山に行って筍をたくさん
採ってきたよ。塩漬けにしたからあんたにも送るね。”
と言っておりました。

この時期の母の楽しみは何と言っても“筍採り”でしょう。

家から少し離れたところにちょっとした山があり、
(というより、大きな森のほうが、あってるかも)その近所
のおばあちゃん、おばさんたちは、ほとんど毎日こぞって、
筍採りに出かけるのです。
そんなにとってどうするん?って、父も私もあきれるのですが
“山が私を呼んでいる。”といわんばかりにバイクにまたがり
とんで行きます。
(母の通行手段はもっぱらバイクです)

−雨後の筍− 
この雨があがったら、待ってましたとばかりに、ニョキニョキと
でてくる筍を、
これまた、待ってましたとばかりの母が、、、、。

でも、待ってましたと送られてきた筍を食するのは、いつも、
わ.た.し です。


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