今回の便りは、ある方の話をお伝えさせて頂きたいと思います。
海外を旅行中であったAさんは、旅先で現地の方に道を尋ねました。 すると、「そこは分かりにくい場所だから、私が案内してあげます!」 現地の方はそう仰り、Aさんの事を案内して下さいました。 しかし、10分経っても、15分経ってもなかなか目的地に着かず、「本当に大丈夫かい?」、「大丈夫だから、心配いらない」といったやり取りが続いた中で、やっと目的地に着く事ができました。 Aさんは、見ず知らずの自分にそこまで親切にしてくれた現地の方に、何かお礼を・・・と思ったものの、相手の方は受け取らずにこのような事を仰いました。 「私はあなたに親切した。だからあなたは、この次に、誰かに親切してあげて下さい。それが私に対するお礼になるから。よろしくお願いします。」 Aさんはその体験について、「本当に素晴らしい出来事で、自分は一生忘れる事はないでしょう」、という事を仰っておりました。 ※ さて今回の件名の通り、“情けは人の為ならず”ということわざがございます。
この言葉の意味として、「情けをかける事はその人の為にならない」、といった形で理解されている方も多くいらっしゃるようですが、本当は、「情けを人にかける事は巡り巡って自分に返って来る。だから、誰にでも親切にしなさい」という意味が正しい解釈となります。 それを表す言葉として、「情けは人の為ならず、巡り巡って己が(自分の)為」という一文がございます。 人とというのは、「自分が、自分が」と、ついつい自分の為・自分の事を優先に考えてしまいがちです。しかし上記のお話のように、人の為を思って誰かに親切する事ができたなら、自分の心もすごく幸せな気持ちになれるのではないでしょうか。 今までの便りの中でも、因果応報の理や因縁についてお話させて頂いた事がございましたが、このことわざの一語を通して、人の為に行う行為は巡り巡って自分の為になるという事を、改めて皆様に感じて頂けたなら嬉しく思います。
2009年03月22日(日) |
阿吽(あうん)の呼吸 |
「阿吽の呼吸」という言葉を聞いた事がある方は、とても多くいらっしゃるのではないでしょうか。その意味は、二人、もしくはそれ以上の複数人の方が同じ作業をする際、お互いに多くを語らなくても、そのタイミングや動作がピタリと一致している様子を表します。 しかし、この「阿吽(あうん)」という言葉自体が何を意味しているのかについては、あまり知られていないのではないでしょうか・・・。 日本にも、“あ”から始まって“ん”で終わるひらがなの五十音がありますが、昔のインドの言葉、梵語(サンスクリット語)にも、“a”から始まり“hum”で終わる、梵字というものがあります。 この梵字において、aは口を開いて最初に出す音、humは口を閉じて出す最後の言葉となり、そこから宇宙の始まりと終わりを表す言葉として使われておりました。この、「a、hum」が、中国に伝わった際に「阿、吽」という漢字に当てられ日本に伝わったと言われております。 上記にて、「宇宙の始まりと終わりを表す言葉」とご案内しましたが、その他にも、“あ”と言葉を発して生まれてから、“うん”と口を閉じて死ぬまで・・・という生死を含め、全ての物事は始まりがあれば終わりもあるといった、仏教のおしえを表している言葉でもあります。 大きなお寺に行くと山門があり、そこに筋肉隆々の像が立っている姿を目にした事はないですか?この像の事を金剛力士像と言います。 この像にも阿吽が大きく関係しており、門を正面にして右側に立っている口が開いた像を“阿形(あぎょう)”、左側の口を閉じている像を“吽形(うんぎょう)”と言い、生まれてから死ぬまでといった万物の始まりと終わりを表しています。 また、戦火や取り壊しなどによって建て直された山門においては、異なる場合もあるのですが、山門の位置としては、始まりや生を表す阿形は日が上る東側にあり、終わりや死を表す吽形は日が沈む西側に配置され作られている。 神社にある狛犬やお狐様などにおいても、阿形吽形の像で対に配置されているものがほとんどです。 生と死、始まりと終わり・・・。その他にも、吉凶、明暗、悲喜などの言葉が表すように、物事というのは表裏一体で良い事もあれば悪い事もございます。 しかし、私たち人間は物事に対して一喜一憂し、いたずらに心を上下させてしまう事が多くあるものですが、今回の阿吽という言葉を通してその理を改めて感じて頂き、いつどんな時でも、気持ちを落ち着かせて冷静な対応ができるよう、心に留めて頂けたなら嬉しく思います。
2009年03月15日(日) |
啐啄同時(そつたくどうじ) |
「啐啄同時」という言葉がございます。これは坐禅によって悩みを無くして行こうと説く禅宗の言葉になるのですが、その意味はというと、鳥の雛が卵からかえる時、殻の中から卵をつついて合図する事を「啐(そつ)」と言います。それと同時に、親鳥が外から殻をかいつばんで破る事を「啄(たく)」と言います。 この「啐」と「啄」が同時であってはじめて雛は生まれて来ますが、親鳥のつつくタイミングが早すぎては、卵の中の雛は成長しきれていませんし、遅くても窒息してしまいますので、そのタイミングは同時でなければいけません。 そして、これは親子・上司と部下・友人といった人との関係においても当てはまるものがございます。 以前に見たテレビでこんなシーンがありました。 小さな子供が「ママ、これ見て!」とお母さんを描いた似顔絵を持ってきたものの、お母さんはというとテレビに夢中で子供に対して見向きもしないまま・・・といったひとコマでした。 さらに、テレビを見終わった後はメールをされ、子供が描いてくれた絵に対しては関心を示さないままです。 また、先日とある方の話を聞いた時の事です。 その方は植木に水をあげる際、「元気に育てよ、大きくなれよ」と声をかけるそうで、そうすると枯れかけてしまった草花でもまた元気を取り戻すそうです。 しかし最近の若いお母さんの中には、授乳中の赤ちゃんの目や顔を見て、「大きく元気に育ってね」と思いを込めておっぱいをあげるのではなく、メールをしていたり、テレビを見ていたりといった方が増えていると話されていました。 そういった、「いるのにいない」お父さんやお母さんがいる事で、子供も周りとのコミュニケーションが上手くとれず、近年の事件などに大きく影響しているように感じますが、上記の似顔絵のお話についても、「上手に書けたね、ありがとう。ママうれしいよ」と返してあげる事が、親子にとっての啐啄同時になるのではないでしょうか。 改めて、そういった事は親子の関係以外にも、上司と部下、恋人や友人といった間柄にも通じるものがある。 上司の希望や要望に応えられる部下であったり、あるいは彼が求める女性になる事で、相手に癒しや安らぎを与える存在になれるといった面もございますが、今回のお言葉を通して、そういった部分に今一度目を向けて頂くキッカケとなれば幸いです。
以前にも「桜」の便りにて、良寛さんというお坊様の言葉を紹介しましたが、今回はまた別の言葉をお届けしたいと思います。
花は無心に蝶を招き 蝶は無心に花を尋ねる 花開く時 蝶来り 蝶来る時 花開く
吾もまた 人を知らず 人もまた 吾を知らず 知らずとも 帝則に従う
より分かりやすく言うと、花はただ無心に蝶を招き、蝶も無心に花を尋ねる。花が開けば蝶が来て、蝶が来た時花が開く。 私は他人の事を知らないし、他人も私の事を知らない。それでも、知らないうちに私も他人も、皆が大自然の理に従っている。それが自然なすがたである。そこには、人間の小賢しい考えはかえって邪魔である・・・。
仏教には不思議(不可思議)という言葉がございますが、「おかしい、あやしい」といった"?"の不思議ではなく、思議しない、あれこれ考えず思い悩むな、といった意味を含んだ言葉でもあります。
「花が開けば蝶が来て、蝶が来た時花が開く」 花も蝶も、そこに自分の感情などはなく、ただ無心に自然の理に従っているからこそ、求める事を得られる状況がある。 人間においては、自分の「ああしたい、こうしたい」といった気持ちが前に出る事で、色々と考えたり悩みが生じてしまうものですが、思議しない不思議とは、自然の理に身を任せる事である。という事を良寛さんも伝えております。
改めて、自分が「ああしたい、こうしたい」といった事を考えて行動を起こすと、物事というのはかえって上手く行かないものですが、皆様へのアドバイスの中で、自然の流れに身を任せて・・・といった言葉をお届けするように、今回の便りを通してその理を改めて認識して頂けたなら幸いです。
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