舌癌とともに生きて...サクラ メイ

 

 

ちょこっと現在の話 - 1987年03月30日(月)

コバルト60の照射と

ラジウム針の治療を受けた身は

被爆したのと同じ状態らしく

今でも影響が出ています



術後から歯茎の出血が続き

口内の不快感は18年間一度も消えたことがなく



歯が抜けはじめました

とうとう先日3本目まで抜けましたが

まだまだ抜けそうです



40そこそこで入れ歯というのは

けっこうシンドイです

その入れ歯に

舌癌だった部分があたり

傷つき

また癌にならないかとても不安です


...

味覚が失われる - 1987年03月20日(金)

放射線(コバルト60)をあてるうち、だんだん味覚が失われていった。

味がわからない。何を食べても美味しくない。

歯が浮いたようになって、物を噛みにくい。



ラジウム針の手術直前は、何を食べても(といっても食欲もほとんどなかったのだが)苦みしか感じなかった。

何を食べても苦いというのは、辛いものである。



味覚が失われた状態は術後3〜4ヶ月は続いた。

しかし、慣れるもので、匂いと色で味を想像して、けっこう食事自体を楽しめるようにはなったのだが。


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リニアック - 1987年03月19日(木)

そうして診察の翌日からリニアックが始まった。

リニアックとはコバルト60を患部に約1分間ほど照射することである。



毎日、頭頚科診察室隣でネブライザーを行ってから、リニアック室へ向かった。

暗いリニアック室の、機械の上に寝て1分間ほどの照射を受ける。

なぜか、照射中はメロディがどこからともなく流れてくる。

そのメロディは18年経っても忘れない。「アマリリス」だった。



ネブライザーもリニアックも待ち時間はそんなに長くはない。

両方合わせても、病院滞在時間は1時間ほどで済む。

その1時間のために、バス、電車、徒歩、合わせて2時間以上の道のりを、一日おきに通った。



だいぶ健康になった今でさえ、相当に体力のいることを、病気の身体で、たとえ2週間だけだったとしても、よく通ったなあと思う。

人間の「生きたい」と思う力は、すごいものがあるのだ。



リニアックは計7回行った。

たったそれだけで、私の舌からは、徐々に味覚が失われていった。


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赤い×印 - 1987年03月15日(日)

K先生の診察は丁寧なものだった。

今から思えばあのお忙しい先生が、あの日、私のためにいったいどれだけの時間を使ってくれたのだろう。

私のあとのK先生の患者さんは、待ち時間がいつもより1時間は長かっただろうと思う。



その日のうちに入院日と手術日が決まった。

入院は4月1日、手術日は4月3日だった。



手術日までの2週間、できるだけ腫瘍を小さくしておきましょうという先生の方針で、翌日から1日おきに、コバルトの照射に通うことになった。

コバルトをあてるために、舌の位置、腫瘍の位置を測定し、左頬に赤い×印が付けられた。

手術の日まで、×印はそのままである。




診察のあと、検査部で血液、尿検査等を受け、レントゲンを撮り、一日がかりでGK病院の第一日目は終わった。










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舌can - 1987年03月14日(土)

TD病院で検査結果を聞いた翌日、紹介状をもって。GK病院頭頚科を受診した。

夫はまだ体調が戻らず、夫の妹が付き添ってくれた。


頭頚科のK先生。

今、私がこうして生きているのはK先生のおかげだ。


K先生は、実に明確にこれからの治療方針を説明してくれた。

それなのに私は、この先生に自分の運命を任せるしかないのだなと、どこか他人事のように思っっていた。


5つの病院を渡り歩くうち、私はベルトコンベアーの上で、誰にも選ばれずに乾いていく、寿司ネタのような気持ちになっていたのだ。



診察の途中でK先生が少しの間、席をはずした。

なにげなく私は机の上に広げられたTD病院からの紹介状をのぞいてしまった。

『舌canの患者さんです。』

紹介状はそう書き出していた。


『舌can』

ああ、私の病名はそんな病名なんだ。


幸か不幸か、私は英語が苦手だった。

canが癌を意味するcancerのことだとわからなかったのである。


すぐに辞書で調べてもよさそうなものだったが、心のどこかで、自分の本当の病名を知るのを避けていた。







...

検査結果ののち - 1987年03月13日(金)

TD病院で検査結果を聞いた私は、ぼんやりと帰途についた。

OC駅までどうやって歩いたのだろう?


OC駅で電車に乗り、TK駅で乗り換えるとき、家で検査結果を待っているはずの夫に電話した。

ラジウム針という療法が必要なこと、それはTD病院ではできないこと、明日GK病院に行くように言われたこと。

私のわかりにくい説明を、夫は黙って聞いていた。


それから私はキオスクで1冊のマンガ本を買った。それは当時大好きだった4コママンガの本だった。

電車の中でマンガ本を読む。内容は頭に入ってこなかった。

けれど、マンガでも読まなければいられないような気持ちだった。


地元の駅に着き、バスに乗る。

これからのことを考えると、自然に涙がにじんできた。

まだ24才なのに。

結婚して4ヶ月なのに。

先生ははっきりとは言わなかったけど“癌”なの?


他の乗客に気づかれぬよう、窓の外を眺めるフリをして私は涙を流し続けた。


家に帰ると、体調が悪かったはずの夫が玄関で待っていた。

無言で私を抱き寄せるとこういった。

「絶対に僕が治してあげる。」




あとから聞いたのだが、夫は私が電話連絡をしたあと、詳しい事情を聞きたくてTD病院に電話していたのだった。

夫は私が舌癌の中期であることを聞いたいたのだった。

もちろん、私がまだ告知を受けていないことも。



...

TD病院 細胞検査結果 - 1987年03月12日(木)

切除した細胞の検査の結果が出る日が来た。

夫はまだぎっくり腰の具合が良くなく、私ひとりでTD病院に出かけた。



予約時間は午後1時だった。

病院には12時半頃着いた。



病院の古い建物、配管むき出しの廊下。

長い時間待たされた。

ひとりで待っていた。

まわりに待つ人が誰もいなくなったとき、名前を呼ばれた。

3時に近かったと思う。



診察室に入ると手術を執刀したH先生でない若い医師が開口一番こう言った。

「ご家族は?」

「結果を聞くだけですので、私一人で来ました。」

「そうですか。体調はいかがですか?」

「家事をした日に熱が出ました。」

「ああ、ムリはしないでくださいね。」



「ちょっとお待ちくださいね。」

そういうと若い医師は診察室にいた他の医師(4人ほどいただろうか)と部屋の隅でなにやらひそひそ話を始めた。


結果を聞きに来ただけなのに、何の話だろう?

ちょっと不審に思ったがじっと待った。





以下は若い医師の話。


あなたの腫瘍は場所が非常に悪いです。

先日の手術では切除しきれませんでした。

まだ治療の必要があります。

その治療法ですが、4つの方法があります。


1 思い切って舌を全部取ってしまう方法。

これが一番確実です。

しかし、あなたはまだ24さいです。舌を全摘するには若すぎると思います。

まあ、患者さんによっては「思い切りよく切ってくれ」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、私はあなたに摘出はお勧めしません。



2 放射線療法

しかし、全快するまでの効果があるかというと、完全とはいいきれません。



3 薬を使う方法

腫瘍に効く薬を使います。これも完全ではないでしょう。



4 ラジウム針

ラジウムの針を患部に刺します。舌も摘出せずに済みます。私はこれを一番にお薦めします。

ただし、この病院にはラジウム針を使える施設がありません。これから紹介状を書きます。そちらにいらしてください。

病院はGK病院です。

名前からするととても怖い病院に聞こえますが、普通の病院です。大丈夫です。





細かい部分は忘れたが、以上のような内容だった。

癌の患者に、癌という言葉を使わずに検査結果の説明をし、癌の専門病院へ行けというのは、医師もそうとう苦心したのだろう。

あの時のひそひそ話は、どうしたものかという打ち合わせだったのだろうと今でも思う。





「GK病院の頭頸科のK先生の所へいってください。先生の診察日は水曜と金曜です。」

「水曜と金曜なら、いつでもいいのですか?」

今日TD病院で、明日GK病院では大変だと思ったので、こう聞いてみた。

その私の顔を、医師は悲しそうに見つめるとこう言った。



「明日行ってください。」



その『明日』という言葉を聞いたとき、私は初めて事の重大さに気づいた。

そして、診察室の椅子でひとり、泣き出してしまった。



...

高熱 - 1987年03月10日(火)

舌の腫瘍切除から一週間。

ぎっくり腰でほとんど寝たきりの夫とともに姑の世話になったが、あまりうまくいっていない姑の世話になることが、だんだん重荷に感じ始めていた。


「まだムリだろう。」


夫はそう言ったが、家事を再開した。家事といっても洗濯と、近くの商店街に買い物に行って食料品を買い、晩ご飯の用意をしただけだ。

たったそれだけの家事で、その晩40度の熱が出た。

一週間、手術後の痛みと闘ってきた身体は、熱が出たことぐらいではどうということもなかったが、夫と姑によって、家事の即禁止命令が出された。


私の身体には、いったいなにが起こっているのだろう??

ふと、そんな疑問が頭をもたげた。


...

人生最悪の時 - 1987年03月04日(水)

病院の付き添いや看病の疲れから、職場でひどいぎっくり腰になってしまった夫。

職場から、実弟にかつがれて家に帰ってきた。

なんとか寝室まで這い上がったものの、激しい痛みでそのまま寝たきり状態になってしまった。

トイレにも行けなくなった夫を、手術3日目の、食事もろくろく摂っていない私が一晩看病することになった。


「おい、トイレに行きたい。」

夜中、そう声をかけられるが、強い痛み止めのためかなかなか目をあけることもできない。

何度も声をかけられ、やっと目を覚まし、夫をトイレに連れたていこうとするが、夫はびくとも動けない。

しかたなくペットボトルを溲瓶代わりに差し出す。


夫も情けない思いをしただろうが、私も肉体的、精神的に辛い晩だった。


翌日から整体の先生に往診してもらい、夫はなんとか伝い歩きはできるようになった。

けれど職場復帰はとてもできそうになかった。


結婚3ヶ月め、ぎっくり腰の夫と舌の腫瘍の切除手術のため体力の弱っている妻とで枕を並べてただ寝ていることしかできなかった一週間、人生の中で一番辛い時期だった。


姑とはうまくいっていなかったが、この時期だけは、本当に世話になったと感謝している。


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手術翌日 夫受難 - 1987年03月03日(火)

手術の翌日、私の舌は口の中いっぱいに腫れていた。

痛みは痛み止めを飲むことでなんとか抑えてはいたが、その舌の腫れは自分でも驚いたが、夫にとっても驚きの腫れ方だったようだ。


「おい、大丈夫か?」


大丈夫かと言われても、腫れと痛みで、話すこともままならない。



前日の手術は仕事を休んで付き添ってくれた夫だが、この日は仕事に出かけなければならない日だった。

けれど、夫は仕事を夕方まで休んだ。(その日は当直勤務の日だったのだ。)

そして9時になるとTD病院に電話をかけ、私の舌が異常に腫れあがっている状況を説明した。

すると担当のH先生がいらして「心配ならばおいでください。」という。



夫と私は、疲れた身体でTD病院へ向かった。



H先生は私の舌を診察すると

「ああ、出血が中で溜まってしまったんですね、痛いですががまんしてくださいよ。」といって

私の舌を押した。

痛かった!

H先生に推されて、舌の中で溜まっていたドス黒い血が縫合した部分からにじみ出した。


舌の腫れは、いくらかおさまった。


「心配、いりませんよ。」




家に帰って、少しまどろんだ。

枕元に出勤の準備を整えた夫が立った。


「いってらっしゃい。」

「悪いんだけど、靴下をはかせてくれないか。」

「????」


痛みと疲れで眠っている私に、靴下をはかせてくれなんて、なんておかしなことをいうんだろう?

そう思いながら、夢うつつで夫に靴下をはかせて、見送った。



まさか、その時、病院の付き添いと、看病疲れで、ふだんから腰痛持ちの夫がぎっくり腰になりかけていたとは、私は思いもしなかった。


その夜、夫は職場で動けなくなった。。。



...

手術 兼 細胞検査 - 1987年03月02日(月)

良性とも悪性ともわからぬまま、手術は3月のはじめに行われた。

執刀医はH先生、助手の先生がひとり(お名前はわからなかった。)


「できものと、そのまわりを広めに切り取ります。」


手術は部分麻酔で行われたので、先生ふたりのやりとりは全部聞こえた。

「どうします?このあたりまで切ります。」

「うん、そうだな、切るか。」

「あれ、ちょっと切り過ぎちゃったかな?」


ぉぃぉぃ、と突っ込みたくなるような気楽な雰囲気の仲で手術は進められた。


「縫合は二重に。」


どう、二重なんだ?




気が付くと手術は終わっていた。



「できる限り広い範囲で切り取りましたので、仮に良性でないということがあっても大丈夫かと思います。」

「お帰りになる途中で麻酔がきれるかもしれませんが、その時は痛み止めを飲んでください。」



TD病院からタクシーに乗り、OC駅から電車に乗り途中乗り換えるあたりまでは、手術の麻酔が効いていたせいか、私にもまだ気力が残っていた。

夫はその先を見越したように「今日はグリーン車で帰ろう。」と言った。

グリーン車なんて、もったいない。なんて大げさな!と思ったが、夫の言うとおとりにしてよかったと、今でも夫に感謝している。

乗り換えてまもなく、なにかが私の中でぷつりと切れた。

麻酔とは、こんなふうにスッと突然に身体の中から抜けていくものなんだと思った。

舌からじわりと広がった痛みが、あっという間に全身を貫くような痛みに変わった。


耐えきれぬ痛みに泣いた。

声を出すこともできず、ただ痛みに泣いた。


夫は「駅に着くまで、家に着くまでの我慢だ。がんばれ。」と励まし続けてくれた。


いつもの、ほんの一時間が、永遠に続く地獄の時間のように思われた。


やっと家に着き痛み止めを飲み眠った。

が、痛み止めが切れかかるたび、痛みで目が覚める、血の混じったよだれが出続ける。

私もよく眠れなかったが、夫は一晩中看病してくれた。


病院のつきそいと一晩の看病が夫の身体にとって、とても負担だったことはこの晩は、私も夫もまだ知るよしもなかった。







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