若い同僚が新ドラマ『夕暮れに、手をつなぐ』の視聴をギブアップしたという。
彼女はヒロインと同じ九州の地方出身なのだが、その方言が聞くに堪えなかったらしい。同じドラマを見ている別の同僚が、
「あなたも地元の友だちとしゃべるときは、自分のことを『おい』って言うの?」
と訊いたら、
「そんな一人称使う子、見たことない。広瀬すずがしゃべってるのは架空の方言だから」
と本気でムッとしていた。
このドラマの方言については、初回の放送後にネットニュースでも話題になっていた。
脚本家によると、「九州の既存の方言にピンとくるのがなかったので、ちゃんぽんにするという技を考えついて、宮崎と鹿児島と長崎の方言をブレンドしました」らしいが、
「方言をミックスって。九州の人間としてはバカにされた気がした」
「方言はその土地の文化。『ピンとくるのがなかった』って失礼でしょ。それなら九州出身という設定にするのやめて」
「『ばい』とか今時つけないし、違和感ありあり。気になってストーリーが入ってこない」
といったネイティブからのコメントがずらり。
作り手にとって、方言は登場人物のバックグラウンドやキャラクターを表現するためのツール。必ずしもリアルに近づける必要はなく、ヒロインに「九州の田舎で育ったおてんば娘」のイメージを持ってもらえればいいのだろう。
それに、方言を忠実に再現するとネイティブ以外の視聴者は聞き取りづらくなってしまうという事情もある。
とはいえ、その「それっぽく聞こえればオッケー」に、そこで生まれ育った人たちが「お国言葉に対するリスペクトがない」ともやもやを感じるのはわからないではない。いいのがなかったから“聞き映え”のする九州弁を作りました、と外の人に言われていい気分はしまい。
そのうえイントネーションが不自然で耳障りとなれば、見る気が失せても無理はない。
「これはドラマ」と割り切ってその世界を楽しめばいいのに、リアルとのギャップに目をつぶることができない------私も医療系のドラマを見ながら、よくひとりごとを言っている(らしい)。
でたらめな設定やシーンがなに食わぬ顔をして出てくるから、ついツッコんでしまうのだ。
患者の急変に居合わせた看護師が病室を飛び出し、人を呼びに走る……というおなじみの場面。最近も『ザ・トラベルナース』の主人公が夜中にドクターの仮眠室まで走っていたが、本物の看護師がこんなことをしたらむちゃくちゃ怒られるはずだ。
「その首から下げているPHSはオモチャなのか?」
「まくら元のスタッフコール(ナースステーションにつながる緊急呼び出しボタン)をなぜ押さない?」
それらで応援を要請するより、血相を変えて階段を駆け下りたほうが緊迫感が出せるということなんだろう。でも、実際の現場ではその状態の患者から離れてはいけないのだ。
で、その後はというと患者をオペ室まで運び、主人公はそのまま緊急オペに入る……がお約束であるが、これも考えられない。
病棟とオペ室では業務がまったく違うため、病棟看護師に手術介助はできない。滅菌ガウンを着ればオペ看に変身できるわけではないのだ。
こういう現実離れした展開には興醒めしてしまう。
胸骨圧迫(心臓マッサージ)のシーンもよく見かけるけれど、いつも不思議に思う。
たいてい肘が曲がっていて、トントンと軽く押しているだけ。医療監修が入っているのに、どうしてちゃんと教えないんだろう。
実際には体重をかけて胸を五センチ沈み込ませる圧迫を繰り返す。それは一、二分おきに交替しながら行う大変ハードな処置である。
肋骨が折れることもあるその圧迫を患者役に行うわけにはいかないが、そう見える演技をするのがプロというもの。
「死なせはしない!戻ってこい!」
いや、それじゃあ戻りたくても戻れない(でも、ドラマの中の患者は息を吹き返す)。
前クールの『ザ・トラベルナース』の初回はほとんどの同僚が見ていたが、完走したのは私を含めて三人だけ。大半が第一話で脱落していた。
「出てくる看護師全員が寮生活、しかも看護部長まで。みんな揃って寮母さんの作ったごはん食べて、大沢家政婦紹介所か!」
「で、男ナースはふたり一間で布団並べて寝てるんだよね」
大病院の看護部長や男性看護師が、一軒家の女子寮で『家政婦は見た』みたいな共同生活。ドラマの初っ端からビックリだ。
登場人物をひとところに集めておけば、話は展開しやすいに違いない。しかし、そういう作り手の思惑が見えると、「この先もこの調子で無理のある設定やありえないシーンをゴリ押ししてくるんだろうな」と萎えてしまう。
現実とここが違う、あそこが違うと書いてきて矛盾するようだが、ドラマにおいて実態を忠実に再現することが大事なのではない。
ドラマに求められるのは、リアルであることよりリアリティがあること。
『JIN-仁-』は現代の医師が幕末へタイムスリップするという非現実的な設定であったが、歴史を変えてしまうことになるかもしれないと悩みながらも、医療器具も薬もない中で目の前の命を懸命に救おうとする主人公の姿、その主人公を思う二人の女性の心情、江戸の人々の暮らしがていねいに描かれ、けっして絵空事ではなかった。
途中、「脳外科医に乳癌の診断やオペができるんだろうか」が頭をよぎっても、「私は乳癌を扱った経験がほとんどなく、触診だけでは判断できない」というセリフや、自分より乳癌に詳しいと思われる別の医師にも診察を依頼するシーンが出てくる。心の揺らぎがきちんと描かれているから、専門外のオペを決意した主人公を自然に受け入れることができるのだ。
リアリティはリアルを追求する中で生まれる。見せ場優先の「そんなの、ナイナイ」だらけのストーリーでは感情移入も疑似体験もできない。
フィクションだからこそリアルさが必要なんじゃないだろうか。