2020年06月23日(火) |
最後の「ありがとう」 |
なにか冷たいデザートを、とコンビニの棚を眺めていたら、カラフルなパッケージのフルーツジュースが目に留まった。その瞬間、震える指で口元のストローを支え、「このジュースならなんとか飲めるの……」と微笑んでいた女性のことを思い出した。看護学生だったとき、実習で私に受け持ちさせてくれた患者さんだ。
実習が始まる前日、学校で同じグループのメンバーとこんな会話をしていた。
「終末期看護の実習っていっても、実習期間中に亡くなる可能性があるような患者さんを受け持ったりはしないよね?」
「そりゃそうだよ。それほど容態が悪かったら患者さんも家族も実習どころじゃないし、病院側だってそんな患者さんを学生なんかにみさせられないでしょう」
「だよねー」
しかし翌日、私は実習担当の看護師からこう告げられた。
「蓮見さんの受け持ちは〇号室のAさんね。たぶん途中で患者が変わるけど、がんばってね」
これは実習期間中、つまり三週間以内にその患者さんは亡くなるだろうという意味だ。
カルテを見ると、数日前からほぼ寝たきりとなっていた。食事はほとんど摂れず、口にするのは家族持参のジュースだけ。尿量が減っており、血液データからもいつ心停止してもおかしくない状態にあることは学生の私にもわかった。
個室をノックする。応答はない。その人は目を閉じてベッドに横たわっていた。
「Aさん、実習に来た学生さんです。今日からよろしくお願いしますね」
看護師が声をかけると小さく頷き、「よろしく」の形に口が動いた。目を開けていることも声を出すこともできないような状態で、どうして学生を受け入れてくれたのだろう。家族以外の人間がそばにいるなどしんどいだけではないのか、と思った。
一週目は、Aさんの気分がよいときに少し会話をすることができた。
毎日病室に通う家族への感謝と、平穏だった彼らの生活を変えてしまったことに対する罪悪感。
「治療法がないんだって。よりによってそんな病気にかかるなんてね」
「人生これからだと思ってた。まだ五十代よ」
「秋に孫が生まれるの。女の子の孫は初めて」
言葉の端々ににじむ無念。持病のある夫と施設に入所している母親の心配。Aさんは身体的な苦痛とは別の痛みにも苛まれていた。
二週目になると、一日のほとんどを眠って過ごすようになった。私は痛みやだるさをできるだけ和らげることで、Aさんと家族が残された時間を穏やかに過ごせるよう心を砕いた。
金曜の夕方、実習終了時刻になり、私はAさんにあいさつに行った。
「今週もありがとうございました。明日あさってはお休みなので、来週の月曜からまたよろしくお願いします」
すると、眠っていると思っていたAさんが目を開け、出ない声を絞り出すようにしてこう言った。
「じゃあこれでお別れね……。毎日私のために、ありがとう。がんばって」
この状況でどうして学生を受け入れてくれたのか、家族に尋ねたことがある。貴重な時間を水入らずで過ごしたかったのではないですか、と。
家族は言った。
「師長さんからお話があったとき、母はこう言ったんです。『立派なお仕事に就こうとされている方のお役に立てるなら、喜んで』って。だから私たちもよかったと思っています」
だから、実習の最終日には私も伝えようと思っていた。かけがえのない時間に“同席”することをゆるしてくれたことへの感謝を、Aさんにも家族にも。
しかし、言えなかった。実習期間満了を待たずにそれを伝えることは、Aさんの「来週はもう、私はここにいないでしょう」に頷くことになると思ったから。そうしたら本当に今日が最後になりそうで。
私はまるでなにも聞かなかったかのように、つくり笑顔で「また来週、来ますね」と言い、逃げるように病室を出た。
翌週、祈るような気持ちで個室の前に立った。ドアのネームプレートは真っ白だった。
看護師になってから、欠かさずしていることがある。勤務が終了するとき、その日の受け持ち部屋の患者さんひとりひとりにこう声をかける。
「ここから夜勤の看護師(あるいは日勤の看護師)に交代します。〇〇さん、一日ありがとうございました」
救急科ゆえ、状態が急変し、次に出勤したら「ああ、あの患者さん亡くなったよ」と聞かされることがままある。今日は会話できていても、食事を摂れていても、明日もそのベッドにいるとはかぎらない。だから、私からの「ありがとう」もそのつど伝えておきたいのだ。
おむつを交換するとき、少しでも私の負担を減らすため腰を浮かそうとしてくれる。トイレにひとりで行かず、ナースコールを押してくれる。痛みが強くなる前に知らせてくれる。なにより、否応なくあてがわれた“今日の部屋持ち看護師”である私を黙って受け入れてくれた。
「ありがとう」は患者さんから一方的に受け取るものではない。
インターンシップに来た学生の「人に感謝してもらえる仕事っていいですよね」という言葉に、軽い違和感を覚える。病院の広報誌の中にも「患者さんからの『ありがとう』が支えです」「感謝の言葉にやりがいを感じます」といったコメントをよく見かけるから、それがあるからがんばれるという人はたくさんいるのだろう。けれど、私とはちょっと違うなと思う。
ありがとうと言われれば、役に立てたことがわかりうれしく思う。でも、それのあるなしでモチベーションややりがいが左右されることはない。
われながらハードな生活をしていると思うが、どうしてつづけているのかと問われれば、それは間違いなく自分のため。感謝されたくてこの仕事をしているわけではない。
……それでも。
Aさんの最後の「ありがとう」を忘れることはないだろう。
注) 上記テキストは日記書きにおけるポリシーに基づき、登場人物や状況の設定を変更しています。
【あとがき】 翌実習日、看護師から「Aさんのご家族に『学生さんに立派な看護師さんになってくださいと伝えてほしい』って頼まれたよ」と言われました。立派ではないけれど、看護師にはなれました。がんばりますね。 |