電車の中で、あやうくふきだすところだった。目の前に座っている若い女性がバッグから携帯を取り出したと思ったら、腕を前に突き出し、自分を撮りはじめたのだ。小首をかしげてほほえんで、カシャ。唇をとがらせすねた顔で、カシャ。頬杖をついて口角を上げてみせたり、ウィンクをしたり、ペロリと舌を出したり……。
写真を友人に送るつもりなのか、はたまたブログにアップするつもりなのか。納得のいく出来になるまで何度も同じポーズを撮り直している。みながあっけにとられて見ているのだが、気にするそぶりはない。
他人をじろじろ見るのは失礼なことであるが、相手がこうも他者の存在を無にしているとそういう気持ちも湧いてこない。「この状況でどうしてこういうことができるのだろう?」と考えていたら、ふと子どもの頃に習っていたピアノの先生の言葉を思い出した。
発表会で出番を待ちながらカチンコチンになっている私たちに先生は言った。
「客席にいるのが人だと思うから緊張するの。あそこに並んでいるのはジャガイモやカボチャ、と思えばふだん通りに弾けますからね」
自分撮りの女性の目に、私も「畑の野菜」なのかもしれない。その日たまたま同じ車両に乗り合わせただけの顔も名前も知らない乗客は、彼女にとって他人未満。ならば衆人環視の中でポーズをとるのも平気なわけだ。
電車を降り、待ち合わせの店に向かう。たまには仕事や育児を忘れておいしいものを食べましょうという集まりで、さきほどの女性の話をしたところ、「私も電車で変わった人を見かけたことがある」と次々と声が上がった。
「突然ウィーンウィーンって聞こえてきて、なんの音?って思ってたら、バリバリバリバリって。後ろ見たら、男の人がひげ剃っててん!」
「化粧してる人がいてももう驚かないけど、仕上げに脇にスプレーしてるん見たときはさすがに引いたわ……」
こういう話を聞くとつくづく、「内」と「外」の境界線が曖昧になっているのだなあと思う。家から一歩出れば「公共の場」なのだが、彼らの場合は目的地にたどり着いて初めてその認識が生まれるらしい。よって、「電車の中」も身支度に使える立派な空間であり、道中の人目も気にならないのだろう。
ほかにも、ポットから湯を注いでカップ麺をつくって食べる大学生風の男の子、ヘアアイロンで髪を巻く若い女性、制服から私服に着替える女子高生の集団、女の子が彼の膝の上に乗りキスをはじめるカップル、眉をカットする男子高校生……など驚きの目撃情報があったが、これらは「行儀が悪い」というのとは別だ。
その昔、家庭科の先生に電車やバスの中で編み物をしてはいけないと教わったのを思い出す。
「長い編み針が自分に近づくのは、隣の人にとっては嫌なものですよ。もし急ブレーキの反動で針が自分や人に刺さったらどうしますか?周囲に迷惑をかける可能性のあることはしない、それがマナーというものです」
電車が揺れて電動シェーバーやヘアアイロン、眉ハサミが誰かに触れたら……?防汗スプレーは飛んで人の目に入るし、ファンデーションやチークの粉は服につく。それらの香料が苦手な人もいるだろう。カップ麺の湯がこぼれれば床やシートを汚すし、人にやけどをさせるかもしれない。人前での化粧や着替えやイチャイチャを「はしたない」と感じる人にとっては見たくないものを見せられる苦痛は大きい。
自分が人前では恥ずかしくてできないこと、あるいはみっともないからやらないようにしていることを誰かが公然と行っているのを目にしたとき、ストレスを感じる人はたぶん少なくない。
冬休みに東京の自宅に戻り、ひさびさに家族揃って外食に出かけたときのこと。食事中、ふと隣のテーブルに目をやり、ぎょっとした。ふたり組の女性客がそれぞれの赤ちゃんに授乳していたのであるが、胸元を隠す気がこれっぽっちもないのだ。赤ちゃんが服をめくりあげても口を外して乳輪まで丸見えになっても、かまうことなくおしゃべりに興じている。
とここまでは過去に何度も見かけたことのある光景であるが、このあとの展開は私が初めて見るものだった。
しばらくしてフロアサービスの女性がやってきた。ベビールームが空いているのでそちらでお願いしたいと言うのを聞き、「こういうことをわざわざ言いにくるってことは、ほかのお客からクレームがついたんだ」とピンときたが、ふたり組の反応は違っていた。
「えっ、どうして。ここじゃだめなんですか?」
「あ、いえ、だめというわけではないんですが、ここではほかのお客様の目にもついてしまいますので、申し訳ありませんが……」
店員はすまなさそうに頭を下げた。が、女性客は口を揃えて言う。
「だめじゃないんなら、ここでいいです。料理もきちゃってるし」
「でも、あの、気にされる方もいらっしゃいますので……。申し訳ありません」
しかし、ふたりは顔を見合わせ、「えー、どうしてー?」「いま食べてるんだけど」と納得がいかない風。困った店員は「お待ちください」と言っていったん下がった。
どうするんだろうと思っていたら、まもなくマネージャーらしき人がやってきた。平身低頭で再度お願いしたが、女性客は「料理が冷める」とやはり応じず。しかし店側もがんばり、ふたりは奥の席に移動することを渋々承諾した。
以前、電車の中で年配の男性に「こんなところでチチ出すな!」と怒鳴られた女性が、「じゃあ泣かせとけって言うんですかっ」と言い返すのを見たことがあるが、大きな勘違いだ。
授乳していることに文句をつけられたのではない。周囲が目のやり場に困っていてもおかまいなしの無神経さをとがめられたのだ。
「私は間違っていない。だって母親がおなかを空かせて泣く子を放っておけるわけがないでしょう」
と言いたいのなら、どうして授乳ケープ一枚、バッグに入れておかない?そうして人目に触れぬよう心配りしていたなら、誰もなにも言わなかったはずだ。
そのレストランで、私は彼女たちが席を移動してくれてほっとした。夫がなにかの拍子に隣に気づいたら嫌だなとやきもきしていたから。公衆の面前で胸を隠さず授乳する人は「おっぱいは赤ちゃんの食事。だから見られたってべつに恥ずかしくない」のかもしれないが、他人の目には乳房はやっぱり乳房なのだ。胸元をはだけた女性がいたら授乳のためとわかっていても落ち着かないし、そちらを見てはいけないと居心地の悪い思いをするものである。
「ミルクの用意を持ち歩くのは荷物になるから嫌。でもいちいちケープを着けるのも面倒。だから、まっいいや。悪いことしてるわけでなし。見たくない人は見なきゃいいんだし」
あるいは、
「赤ちゃんと一緒だといろいろ大変で、周りのことまで気が回らないのよ」
おそらくこんなところだろう。
そりゃあ誰かに気を遣えば、疲労も緊張もする。しかし、乳児を連れての外出に自分ひとりのときと変わらぬ身軽さ、気楽さを求めるのが間違っている。
「子ども連れ」という個人の都合を他者への配慮一切なしに社会に持ち込む厚かましさが、私の不快のツボを押すのだ。
それでようやく私はさとったのだった。「子ども」は、今や聖域の中のイキモノなのだ。今や「子ども」は「平和」「健康」と並んで、現代日本の三大神様------けっして相対化されることのない絶対的正義になっていたのだと。
(中野翠 『電気じかけのペーパームーン』)
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というのは「子連れ出勤」に端を発したアグネス論争の際、アグネス批判をして「コワイ女のいびり」「子どもを持てない女のひがみ」とマスコミに叩かれた中野翠さんの言葉であるが、「相対化されることのない絶対的正義」には思い当たることがある。
「この人の視界にはわが子しか入っていないんだなあ」と感じる女性がたまにいて、ここにちくっと書くと、「心が狭い」とか「子どもに冷たい」とか「子育てに理解がない」とか言う人がいる。毛嫌いする人も多い子どもの写真入り年賀状にも赤ちゃんが乗っていますステッカーにも好意的な私(2007年1月23日付 「不快のツボ」 参照)。子ども嫌い呼ばわりされるなんて心外だわあ、とぷりぷりしながら思う。
公共の場ではみなが気持ちよく過ごせるよう配慮するとか人に迷惑をかけないといった、もっとも基本的なルールを軽んじる人に寛容であるのが「子連れに優しい」「子育てしやすい」社会なのか。そういう人がどうやって子どもにモラルやマナーを教えるのだろうか。
マンションの共用部分に家の荷物を置く人はいない。なぜなら住人みなが利用する場所だから……ということは理解できて、電車やレストランで家と同じようにふるまう------公共の場に「自分の部屋」を持ち込む------のがNGであることはどうしてわからないのだろう。
ところかまわずの化粧も飲食もキスもおっぱいも。それはあなたが気にする、気にしないの問題ではない。周囲が気にする、気にしないの問題なのだ。
「畑の野菜」にも目があり、耳があり、感情があることを忘れないでほしいの。
【あとがき】 結婚したとき、年配の親戚の女性から「子どもを産んでも、出産報告のハガキはいらないからね」と言われました。こうはっきり口にする人はめずらしいけど、なんらかの理由で子どもが好きじゃないという人は世の中にはいくらでもいるでしょう。誰もが赤ちゃんを見ると目を細め、授乳姿をほほえましく見守ってくれる……なんてわけはない。そのことを頭の隅に置いておかないと、日常生活の中でほかにもひんしゅくを買うことがあるのではないでしょうか。 |