過去ログ一覧前回次回


2007年10月30日(火) エコ、エコ、と言うつもりはないけれど

実家のそばに住んでいる妹の家に遊びに行ったときのこと。離乳食を作るのを眺めていたら、彼女がレンジを使うたび皿に半透明の蓋状のものをかぶせるのに気がついた。
「それってもしかしてラップの代わり?」
「そうそう、レンジ加熱用の蓋。百均で見つけてんけど、これええで。ラップがゴミにならへんし」
目から鱗が落ちた。私もつねづねラップの使い捨てをもったいないと思っていたのだ。
一度レンジにかけたくらいではくたびれることもない。が、表面についた食べ物の汁を洗い流し乾かしてまで再利用するのは面倒で、結局は捨ててしまうことになる。くしゃくしゃと丸めるとき、いつも「資源の無駄遣い」の文字が胸をよぎった。しかし、そんな便利グッズがあったとは!
今度百円均一の店に行ったら探すつもりだ。

ほかにも「ああ、なんてもったいない……」とつぶやかずにいられない場面は日常生活の中にいろいろある。
たとえば雨の降る日に外出すると、私は心穏やかでいられない。どの店の入り口にも「傘をお入れください」とビニールの袋が置かれているが、備え付けの箱に目をやると使用済みの傘袋であふれんばかりだ。客は店を出るときためらいなく捨てていくが、私はこれができない。
使用済みといったって、底に穴が開いているわけでなし泥水がたまっているわけでなし。私は他人が使ったものは苦手で古着や古本にも手を出さないのだが、こういうのは別で、新品を使うほうがつらい。よって箱の上のほうにあるのを取って再利用する。新しい袋を取らざるを得なかったり厚手の丈夫な袋だったりしたときは、そこで捨ててしまわずその日一日使うこともある。
貧乏くさいと言われようと、まだ使えるものをポイポイやるのは後ろめたくてだめなのだ。

もうひとつ、気が揉めてしかたがないことがある。
わが家の朝はいつもNHKの「おはよう日本」なのだが、先日めずらしく他局の番組を見て「ここもか……」とため息をついた。
ワイドショーのコーナーで大きなボードが登場し、みのもんたさんが紙を一枚一枚剥がしながら事件を紹介していたのだが、ジャカジャン!と派手な効果音を入れながらわざわざ紙をめくって伝える、こういう手法がいま流行っているのだろうか。会社の昼休みに見る「ピンポン!」でもじゃんじゃんめくっているし、「アッコにおまかせ!」もそう。
しかし、私はそれを目にするたびこう叫びたい衝動に駆られる。
「そのめくった紙はどうしてるんですか!?」
目隠しの紙は視聴者をじらす目的で貼ってあるのだろうが、どの番組でもそこにもったいぶるほどのことは書かれていない。私など紙の行く末が気になって内容なんて右から左だ。
隠す文言が変われば必要な紙の長さも違ってくるから、再利用などしていないに違いない。この時代にどうしてそんな無駄なことをするんですか、と意見を送ろうかなと本気で考える私だ。

* * * * *

このあいだの三連休、夫と温泉に行った。結婚記念日だったので奮発してちょっといい宿に泊まったのだけれど、夕食のとき仲居さんに「当館では『マイ箸運動』というのをしているので、よかったらご協力を」と言われた。客に持ち帰りできる箸を買ってもらい、その代金の一部をしかるべき団体に寄付して森林保護に貢献する、ということだ。
これを聞いて思い出したのは、割り箸は使わないことにしていると言っていた元同僚のこと。毎日自分の箸を持参し、食べ終えた後は給湯室で洗って箸箱にしまっていた。
そんな彼女に、
「でもねえ、割り箸って間伐材を使ってるから資源の無駄遣いじゃないんだよ。むしろ廃材の有効利用なんだよ」
と言う人もいた。現実にそうなのか私は知らない。が、たとえマイ箸が森林破壊にストップをかけるものでなかったとしても、ゴミを減らすことは「いらぬこと」であるはずがない。それに、旅行のいい思い出の品にもなる。
……と思ったのだが、一膳三千円したため手が出ず。残念だった。

エコ、エコと言って窮屈な生活をするつもりはない。けれど、タダみたいなものだからと「使い捨て」になんの疑問も持たない、気が咎めることもない、というのはどうなんだと思うことは少なくない。

【あとがき】
最近買い物に行くとマイバッグを使っている人をよく見かけます。レジ袋が有料のスーパーなんかだとマイバッグ率はものすごく高いですね。いいことだと思います。
このあいだレジ袋を取ったのに箱にお金を入れない人がいたので、アラ……と思っていたら、連れに「1枚5円やで」と言われていました。そうしたらその女性、「ええんよ、最近袋の材質変わったやろ。前より薄うなって弱なってるんやから」だって。すごい理屈だ。




2007年10月26日(金) 友人から「お金を貸してほしい」と頼まれたら。

先日テレビで、未唯さんがピンクレディー解散後、事務所の経営をまかせていた男性が作った三億円の借金を背負わされ、大変な苦労をしたと語っているのを見た。返済のためにコンサートを数こなさなくてはならないが衣装代を払えないため、町で購入した安いドレスに自分でスパンコールを縫いつけ、それらしく見えるよう加工していたそうだ。
私の親戚にも夫が知人の連帯保証人になったばかりに多額の借金を抱えてしまった夫婦がいる。妻が「あれがなければ、家一軒建ってたわ」といまいましそうに言うと、夫がぼやく。
「なにも俺がええ目見てこしらえた借金やないやないか……」
「そやから余計に腹立つんやないの!」
この妻の叫びに私は深く頷いてしまう。自分たちはなにひとついい思いをしたわけでないのに、お金だけ払わされる、これほど馬鹿げたことがあるだろうか。

借金って怖いな……とつぶやきながら、私は大学時代に付き合っていた三つ年上の男性のことを思い出した。
何年か前に同窓会で十数年ぶりに再会、近況を訊いたら、億単位の借金を抱えているというからびっくり。
彼の卒業、就職を機に私たちは別れたのだが、その後彼は自分の父親の弟、つまり叔父夫婦のところに養子に入ったという。夫婦には子どもがなく、彼らがしていた商売を継ぐ人間が必要だったのだ。
バブルの真っ只中に就職した大手企業を辞め、叔父夫婦の会社に入った。というのにそれからたった数年で会社が倒産、さらに信じられないことには叔父夫婦がドロンしてしまったのである。
経済的に不安定になったことで妻と揉めることが多くなり、現在は離婚調停中。あの人たちに人生を狂わされた、と彼は吐き捨てるように言った。

他人などではない、親戚である。それどころか養子縁組で「親子」になった間柄なのだ。会社が潰れるとも思っていなかったろうが、そんな人たちに裏切られるとはなおさら彼は予想していなかっただろう。
こういう不運はドラマの中だけの話ではないのだ。


半年ほど前、年上の友人から「友達にお金を貸してほしいと頼まれた」と打ち明けられた。その女性(A子さん)とは二十年来の付き合いで、親友と言える存在だという。
金額は六十万円。私にとってはめまいがしそうな額だが、彼女は「用意できない額じゃないから余計に悩んでいる」と言う。
「もし他の人やったらたとえ一万だって貸さへんよ。けど、A子はただの友達と違うねん。返してくれへんかもしれんとか私との付き合いはお金目当てなんじゃ?とか、そんな心配はまったくしてない」
そう断言する友人に、そこまで気持ちが固まっているのならなにを悩んでいるの?と訊いたところ、彼女が突然お金が入り用になった訳を説明してくれないことが引っかかっているという。「家のことで必要になった」「親には頼めない」以上のことは話そうとしない。
A子さんはごくふつうの金銭感覚と常識の持ち主であり、浪費で借金を作ったとは考えられない。が、ちらと頭をよぎったのは彼女の夫のこと。大のパチンコ好きで、休日は朝から店に入り浸りだとか小遣いはすべてそれにつぎ込んでいるだとかいう愚痴を何度も聞いたことがあった。もしかしてそれで……?
その日は心を鬼にして「ちゃんと事情を話してくれないと返事できない」と言い、別れたという。
「ご主人がリストラされたとか家族が病気になったとか、そういうことでお金が必要になったんやったら話してくれるはずやろ。それができへんってことはまともな理由じゃないってことなんかな……。もしそういう借金やったとしたら、貸すことはほんまの意味で彼女を助けることになるんやろかって、そこんところが気になって」

私はたとえどんな仲であっても、どんな事情があっても、人とのお金の貸し借りはないほうがいいと思っている。誰かに相談されたら、やめたほうがいいと答える。
けれども、そういう私にも「もしお金に困っていることを知ったら、頼まれずとも力になりたいと思うだろう」と思い浮かべる人がやはり何人かはいるのだ。
リスクの大きさは貸す相手が身内であるか、他人であるかでは測れないということは、大学時代の彼の例を見てもわかる。血の繋がった親兄弟よりよほど強い絆で結ばれた友人関係もある。友人にとってはA子さんがそういう存在なのだろう。

迷いがあるとは言いつつも彼女の気持ちはほとんど決まっているようだったから、私は三つのことだけを伝えた。
お金が返ってこないときのことを想像してみて。そのとき自分は「裏切られた」と感じるだろう、と思うのであれば貸すべきでない。「それほど彼女は困窮しているんだ(だから返すに返せないのだ)」としか思わないくらい信頼している相手にしか貸してはいけないということ。
他人行儀に思えても、借用書を作り期限を設け、返済を約束させること。
そして、お金は会って直接渡すこと。振込みはだめだよ。

お金を貸すならあげるつもりで、とはよく言われることだが、現実にあげることになってしまったら、ほとんどの場合友情もセットで失う。彼女がそうならないことを願っている。

【あとがき】
人にお金を貸して返ってこなかったという話はちょこちょこ聞きます。一番驚いたのは、母も昔そういう経験をしたことがあるということ。近所の奥さんに「自営業がうまく行かなくて困っている、3万円貸してほしい」と頼まれ、その家には小さな子どももいたので気の毒になって貸した。そうしたら、しばらくしてこっそり引越してしまっていたという……。
近所の人だったし、まさか返ってこないなんて思っていなかったらしくて。頼まれなくても助けてあげたいと思える人にしかお金は貸してはいけませんね。




2007年10月23日(火) 読まず嫌い

日経新聞の夕刊に、何人かの作家が持ち回りでエッセイを担当している「プロムナード」というコーナーがある。
ただでさえ私にとっては読むところの少ない日経新聞である(夫は隅から隅までそりゃあ丹念に読んでいるが)、エッセイ欄くらいは愛読しそうなものだが実際はそうではなくて、読む日と読まない日にはっきり分かれている。作家によって読んだり読まなかったりしているのだ。
といっても、その日の書き手が誰かであるかをチェックして読むか読まないかを決めているわけではない。あいにくどの日を担当している作家もこの欄で初めて名前を知ったくらい、私にはなじみのない人ばかりなのだ。
とりあえず最初の数行を読み始め、そのままノンストップで読み終える、あるいは途中で「やーめた」をした後に初めて書き手を確認するのであるが、最近「この人の文章のときは毎回最後まで読んでいるけど、この人のときはいつも読んでいない」というパターンがあることに気がついた。

作家の好き嫌いで読む、読まないを決めているわけでないなら、私はなにを理由にその区別をしているのだろう?としばらく考えた後、ひとつ思い出したことがあった。
林真理子さんの『文章読本』にあった、「読んでもらえる文章とそうでない文章は『字面』のよしあしで決まる」という指摘である。ぱっとページを開いたときの印象で読む気が湧いたり失せたりするというのだ。
字面とは漢字・ひらがな・カタカナのバランス、改行の按配のことであり、宮部みゆきさんの小説の一部を引用して「ほれぼれするほど美しい字面」と絶賛していた。
そのとき私は林さんの言う「美貌の文章」というのがいまいちピンとこなかったのだけれど、一週間分のプロムナードを目の前に並べてあらためて考えてみたところ、「たしかに字面のよしあしというのはあるかもしれない」という気がしてきた。
書き出しの数行に目を通しただけでも自分の興味のある内容が書かれてありそうか否かは見当がつく。けれども私の場合そのこと以上に、ぱっと見て「読みやすさ」を感じられるかどうかがネックになっているようだ。
新聞だから誰の文章も字体や行間は同じだというのに、喉ごしよくするすると入っていくものもあれば、読み通すには非常に根気のいるものもある。話題の硬軟ももちろん関係あろうが、それ以前に私は漢字率の高い文章には食欲が湧きにくいらしい。
もしかしたら為になることが書かれてあるかもしれないぞ、この後ものすごく面白い展開が待っていたりしてね……と思いつつもその気にならない。これが「相性」というものなんだろう。


先日、ある場所で「日記書きさんに100の質問」に答える機会があった。一時期流行ったバトンのひとつだ。
その中に「好き、面白いと思うのはどんな日記?」「嫌い、つまらないと思うのはどんな日記?」という問いがあった。トルストイの「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はさまざまに不幸である」という言葉ではないけれど、後者の回答は前者のそれに比べるとバラエティに富んだものになるのではないだろうか。

私にも読まないことにしている日記のタイプというのがひとつある。ネガティブ思考の人が書くものだ。
人間生きていれば愚痴をこぼしたくなったり誰かの悪口を言いたくなったりすることはある。けれども、目を皿のようにして不愉快なネタを探しているのではないかと勘ぐりたくなるような人もときどきいる。
日記リンク集の新着リストを開くと、不機嫌顔がありありと目に浮かぶような攻撃的な一行コメントが見つかる。書き手の名前を確認すると、「あら、またこの人……」。
そういう日記も何度かは読んでみたけれど、「問題意識を持つ」ことと「粗探しをする」ことはまったく別物だなと感じた。
先の100質の中には「あなたの日記、『喜』『怒』『哀』『楽』のどれが一番多いですか?」という質問もあったが、今日はこんな面白くないことがあった、気分の悪いことがあった、誰が嫌い、彼が嫌い、と「怒」ってばかり、あるいはマイナス思考で後ろ向きな日記は苦手だ。そういう部分は誰の中にもあるとはいえ、始終不平不満を口にしている人が周囲にいたらうんざりしてしまうものである。web日記だって人に読んでもらうものなのだから、「抑制」というものもある程度はほしい。
……というのは、もちろん私の好みの問題に過ぎない。正直でなにが悪い、人間らしくていいじゃないかと思う人もいるのだろうが、私は家族でも友人でもない人の愚痴を延々聞いていられるほど心が広くないみたいだ。

「書き手が嫌いで読むとイライラするんだけど、気になってつい読んでしまう」という話をよく聞くけれど、私は作家のエッセイでもweb日記でも好感を持てない人が書いたものは一切読まない。「この人、好かんわ」な人の生活や考えていることに興味など湧かない。
それに、私にとってそれらの読み物は精神的な意味での「おやつ」。口に合わないとわかっているものにわざわざ手を出して「やっぱりマズイ!」とけちをつけるのもおかしな話だ。
それは「食事」ではないのだもの、好き嫌いがあったっていいじゃあないか。と開き直って、今日も好きなものだけを選って食べる私である。

【あとがき】
ちなみに、100質の中の「あなたの日記、『喜』『怒』『哀』『楽』のどれが一番多いですか?」の私の回答。「喜怒哀楽というより、『真顔』が多い気がする」でした。えー、どうでしょうか。




2007年10月19日(金) やっぱり怖いの。

同僚が先日の三連休に生まれて初めて飛行機に乗ったという。ええっ、初めて!?と驚いたが、考えてみたら私も夫と結婚していなかったらめったに乗らない生活をしていたかもしれない。
たとえば東京に行くには新幹線で二時間半、と長いこと思っていたが、夫と付き合うようになってから飛行機になった。彼はどこへ行くにも飛行機を利用する人で、今度どこそこに行くと言うとたちまち予約をとってくれる。チケット屋に行く手間が省け、かつ陸路より早く着き、安上がりとくれば乗り換えない理由はない。
しかしながら、決して好きというわけではないのだ。飛行機を利用する機会が増えても、いくら慣れても、心のどこかでは緊張している。
出張で年に百回飛行機に乗る夫によると、事故が起こる確率は車や電車と比べたらはるかに低いらしい。が、いかに稀なことであってもひとたび遭遇したら助かる見込みがほとんどないというのが恐ろしい。地面に足がついていないとこちらにはなすすべがないのだもの。
それなら海の上も同じであるが、船を怖いと思ったことはない。昨夏一週間の地中海クルーズをしたとき、船内を流れるBGMが映画『タイタニック』の挿入歌だった。「縁起でもない」と言いながらも笑って済ませることができたのは、船の場合は不具合が起きても即沈没、にはならないからだ。
「救援を呼ぶ間くらいはあるだろうし、海に投げ出されたとしてもがんばれば半日くらいは浮いていられるかもしれない」
と思えるのは大きい。
一昨年ドイツに行った際、フランクフルトからロンドンへは空路で移動したのだけれど、これから乗り込むというとき、飛行機に異常に詳しい夫が無邪気に言った。
「これ、昨日アテネで墜落したキプロス機と同じ型の飛行機だよ」
そういうことを言うのは降りてからにしてほしい、とかなりむっとした。事故の後は点検を強化するはずだからかえって安全なものよ……と自分に言い聞かせるのだが、モヤモヤは拭い去れない。
また、こんな場面も苦手だ。シートベルトをし離陸を待っていると、突然赤ちゃんが泣きだすことがある。火がついたような泣き声を聞きながら、心拍数が上昇するのがわかる。
「動物が地震を予知するように、大人よりずっと動物に近いところにいる赤ちゃんも本能的なもので不吉なことを察知したのではないか……」
そんなときによみがえるのが、向田邦子さんのエッセイで読んだ話である。
飛行機のエンジンがかかった途端、ひとりの男性が真っ青になって「急用を思い出した、降ろしてくれ」と言いだした。もう無理ですと止める客室乗務員を殴り倒さん勢いで力ずくで降りて行ったのだが、その飛行機は離陸直後に墜落。その乗客は元パイロットで、エンジンの音からその不調を悟ったのだ------という内容で、私は赤ちゃんと一緒に泣きたくなってしまう。向田さんもその原稿を書いた時点では、自分が将来飛行機事故で死んでしまうなんて夢にも思っていなかっただろう……などと考えると、さらに動悸がしてくる。
「あんな大きな鉄の塊が空を飛ぶほうがおかしい」なんてことは思っちゃいないが、もしものときは一貫の終わりというのが頭にあって、海外に行くときは人に見られると恥ずかしいものは処分したり、ブラウザの履歴やパスワードを消去したりする。親しい人には何日に発ち、いついつの便で戻りますと知らせておく。JR福知山線の脱線事故のようなことがあっても、電車に乗るときにいちいちそんなことはしないから、やはり私はそれを信用しきっていないのだろう。
いままでで一番怖い思いをしたのは、ミュンヘンからバルセロナまでルフトハンザ航空の飛行機に乗ったときだ。
乱気流のせいなのか、離陸後まもなくから機体は揺れに揺れた。機長の指示で客室乗務員もずっと着席したままである。あちこちで悲鳴が上がるほどで、私も夫の手を握りしめながらいろいろなことを考えた。
しかし、このとき私を、いや多くの乗客を救ってくれたのは機長のアナウンスでも客室乗務員の笑顔でもなく、前方の席に座っていた小さな子どもたちだった。幼稚園か小学校低学年くらいの子どもが何人か乗っていたのだが、彼らは飛行機がぐらりと揺れるたび、実に楽しそうな歓声を上げるのだ。まるでディズニーランドのビッグサンダーマウンテンにでも乗っているかのようなはしゃぎっぷりだ。
一時間半後、飛行機は大きく傾いたまま片輪ずつ着陸した。ものすごい衝撃だったが、ここでも彼らは「キャッホ〜!」。
飛行中、もし彼らが「ママー!」と泣き叫んでいたら、機内はさらに騒然となっていただろう。無事駐機場に入ったとき、乗客の間から拍手が沸き起こったが、あれには「お互いがんばりましたね」という気持ちだけでなく、「坊やたち、ありがとね」も込められていたのではないかしら。
こんな日記を書くと余計に乗るのが怖くなってしまうのだが、海外旅行の予定はしばらくないのでその間に忘れることにしよう。

【あとがき】
JRの脱線事故のようなことがあっても、やっぱり電車のほうが気楽ですね。やっぱり地面に足がついているという安心感は大きい。海外に行くとき機内食やおやつをつい食べ過ぎてしまうのも、気を紛らわせていたいからである……ってハイ、それは関係ないです。


2007年10月17日(水) 自分の「常識」を疑うとき

最近ひょんなことから、顔を合わせると世間話をするご近所さんができた。年齢が近く、夫とふたり暮らしで実家がそばにないという点も同じ。その女性と立ち話をしたときのこと。
彼女は来月出産を控えた妊婦さんなのだが、今月下旬に義理の両親が家にやってくることになっているという。お祝い品のベビー布団を遠方の実家から車で届けてくれるのだ。
それだけ孫の誕生を楽しみにしてくれているのだなあ、と彼女はうれしく思った。が、気になったことがひとつ。その日お義父さんたちはどこに泊まるのかということである。
「もちろんうちに泊まってもらうよ。日帰りできないんだし」
夫の「どうしてそんなことを訊くんだ?」という口ぶりに彼女は困惑した。
泊まるとなれば当日の夕食、翌日の朝食を家で食べることになるし、部屋の掃除も必要である。が、その頃にはすでに妊娠九ヶ月の半ば、体調がどうなっているか見当がつかない。義父母はいい人たちだが、気を遣わずにいられるわけではない。ふだんならともかくこういう時期だからホテルに泊まってほしい、夕食だって外食にしてもらいたいくらい……というのが彼女の本音である。
「でもね、主人の『うちに泊まってもらうのが当然』って顔を見てたら、私って冷たいのかなあって気もしてきちゃって……。わざわざ運んできてくれるのにホテルに泊まってほしいって言うのは私のわがままなんかなあ?って考えれば考えるほどわからなくなって」
そして、こういう場合はやはり家に泊まってもらうものなんだろうかと言った。

同じ「嫁」の立場の人間、私は真剣に考えた。
「もてなそうなんて思わなくていいから。ごはんだっていつものでいいんだからさ」と夫は言うに違いない。しかし、「ハイ、そうですか」とやれるくらいなら最初から悩んでなどいない。……ということに思い至らない夫では当日なにを期待できるとも思えない。
彼女のおなかはいかにも重そうで、見るからに自由がききそうにない。こういう状態のときに余分な仕事を請け負うのは気が進まなくて当然と思われた。
「わがままなんかじゃないと思う。それにちょうど布団もないことだし」
私は彼女にそう伝えた。

が、家に帰ってから思った。彼女にああ言ったが、それは一般に通用する考え方なんだろうか、と。
相談事をされたとき、自分の意見を「この考えはおかしい、適切でない」と思いながらアドバイスする人はいない。「ほかにも方法はあるかもしれないけど、自分の言うこともあながち間違いではないだろう」と思っているからこそ“助言”できるのだ。さっきの私もそうである。
しかしふと、「なにも身重のそんな時期に無理をする必要はないんじゃないか。ホテルに泊まってもらうのは正解」は常識的な意見なのか、他の人ならどう答えるのかを知りたくなった。

そこで「発言小町」を検索してみたところ、似たような相談を見つけた。投稿者は新婚の女性。
「遠方に住む義父母が新居を見にくることになりました。客用布団がないこともあり、家でお茶を飲んでもらった後、夕食は外に食べに行き、近くの宿泊施設に泊まってもらおうと提案したのですが、夫は納得しません。私の考えは失礼なのでしょうか」
という内容である。レスを読んでみたら、
「はっきり申し上げて、失礼です。布団なんてレンタルすれば済む話でしょう」
「布団を言い訳にしてホテルに放りだすのですか?すごい神経ですね」
など辛口の回答がずらり。すべて女性からの、家に泊まってもらうのが当たり前という意見である。
もっともこの投稿者は妊婦さんではないため、この反応をそのまま隣人の相談の答えとしてみなすことはできない。けれども私には布団をレンタルするという発想がなかったので、「ふうむ、少なくとも妊娠中でない場合は家に泊めるのが普通なのか……」と勉強になった。

* * * * *

その後、出産経験のある同僚や友人に訊いてみたところ、「泊めない」と異口同音に言った。
「後期に入ったらすぐおなかが張って横になってることが多かったし、腰痛もひどくなって最低限の家事を休み休みこなしてたくらいやのに」
「予定日にはまだあるとはいっても、その時期だとなにがあってもおかしくないよ。そこまでがんばる必要ない」
「三十週過ぎたら子宮で胃が圧迫されて、第二のつわり状態。食事なんかまともに作れんかったわ。私やったら夕食も外食か、仕出しを取る」
私の感覚は突飛なものではなかったみたいだ。

テレビを見たり新聞を読んだりしていて何事かについて意見を持つ。そのときにふと、
「私は自分のそれをごく普通、真っ当なものであると思っているけれど、はたして本当にそうなんだろうか。実は世間一般の常識と大きくずれていることに気づいていない……なんてことはないだろうか」
と思うことがある。
「ずれていること」が問題なのではない。ずれているのを「自覚していないこと」が問題なのだ。
私が七年も日記サイトを続けているのは書くのが好きだからであるが、自分と人の感覚、価値観の差を知ることができる機会であるというのも理由のひとつにある気がする。

【あとがき】
いただいたメールを読みながら、そういうふうに感じる人もいるのか!そういう考えもあるんだなあと“発見”することがよくあります。これもささやかな社会勉強と言えるかもしれません。




2007年10月12日(金) 喫煙難民

喫煙歴二十数年という年季の入った愛煙家の友人が「ベランダでタバコを吸えなくなっちゃった」と言う。マンションの管理会社からベランダでの喫煙を禁止する旨の通達があったらしい。
「え、なんで?」
私は反射的にそう訊き返したものの、すぐに「ま、そりゃそうか」と気がついた。

「ホタル族」と聞くと、家の中では吸わせてもらえずベランダでわびしく吸う哀愁漂うお父さん、を思い浮かべるけれど、考えてみればこれはかなり身勝手な行為なのである。
人はなぜホタル族になるか。それは家族に受動喫煙をさせたくない、あるいは煙や匂いが部屋にこもったりヤニで壁や家具が汚れるのが嫌だから。それでわざわざベランダに出るのだ。
これは見方を変えれば、「吸いたいから吸う。でも煙いのと臭いのは勘弁だから外に捨てちゃおう」ということである。
ベランダでタバコを吸うと、煙は風に乗って隣家に流れる。匂いは洗濯物に付着し、窓から部屋の中にも侵入する。吸っている本人さえ嫌うそれらが吸わない人間にとって心地よいはずがない。
と考えると、「ベランダで喫煙しない」は集合住宅に住む人にとって求められてしかるべきマナーと言える。
「じゃあいったいどこで吸えって言うんだ」
という声が聞こえてきそうであるが、その答えは「家の中でどうぞ」。といっても台所の換気扇の下で、はもちろんだめだ。排気口はたいていベランダにあるのだから。
自分がいらないものは他人もいらない。空気清浄機を置くなりしてどこか一室を喫煙ルームにするしかない。


……という文章は、ホタル族の方には“やさしくない”ものだったかもしれない。
けれども、私は「喫煙者なんてこの世から消えてしまえ」と願っている過激な嫌煙家ではない。たしかにタバコは苦手だが、昨今の愛煙家の人たちが置かれている状況にはかなり同情している。
タバコを嫌悪、いや憎悪している人たちが「デパートの入り口に喫煙スペースがあるんだけど、子どもを連れてるときなんか殺意を覚えるわ」「食事中によそのテーブルから煙が漂ってくると思いっきり睨みつけてやるの」などと口をきわめて非難するのを聞くとうんざりする。
私の友人にも何人か愛煙家がいるが、彼女たちは吸うときにはひと声かけてくれるし、必ず人のいないほうを向いて息を吐く。こちらに少しでも煙が流れようものなら手で追い払う。タバコが嫌われる理由をきちんと理解していて、同席者にこれだけの気遣いができる人だから、見ず知らずの人に対してもそう無配慮なことはしないだろう。
そしてそういう喫煙者はたぶん少なくないと思う。歩きタバコをしたり禁煙場所で吸ったりする人は糾弾されて当然であるが、「喫煙者」という括りでルールを守って吸っている人まで犯罪者ででもあるかのような目で見られるのは不憫だ。
「服や髪についた匂いや口臭にも毒素が含まれてるんだから」
と言って席を外して吸うのも許したがらない人がいるが、どこまで要求すれば気が済むのだろう?と思う。
私なら食事中に目の前で吸うのを遠慮してくれる、その気遣いで十分ありがたい。副流煙がどうのこうのと言っても、たまに会ったときに一日のうちの何十分かそこいらさらされるくらいで肺が汚染されるわけもない。
「タバコは嗜好品。こちらが嫌なんだから我慢してちょうだい」とは私は言えない、言いたくない。自分も相手も少しずつ譲り合い、一緒にいる時間を双方にとってそこそこの居心地にしたい。

オウム事件以降、街中からゴミ箱がことごとく撤去され不便な思いをすることがよくあるが、喫煙者と行動を共にしているときは灰皿を求めてウロウロする。
駅には終日禁煙のアナウンスが流れ、全席禁煙の飲食店も少なくない。残業でくたくたに疲れ果てやっとのことでタクシーをつかまえたら、「禁煙車ですがよろしいですか?」。友人は思わず“迫害”という言葉を思い浮かべたそうだ。
いまや禁煙区域を見つけるより喫煙区域を見つけるほうがよほど困難だろう。肩身の狭い思いをしながら彼らがようやく見つけたオアシスで細々と吸っているのまで目の敵にしなくてもよいではないか。

吸うなら「他人に迷惑をかけない」が大前提。ただ嫌いという理由でなく、体質や体調の問題で煙や匂いが体をかすめるのもだめなんですという人も中にはいるから、「ここは喫煙スペースだからなんの心遣いも必要ない」ではいけないのは言うまでもない。
けれども、嫌煙を叫ぶ側もきちんと分煙されているレストランを選ぶ、喫煙所には近づかないなど「喫煙可の場所を徹底的に避けた上で」文句を言う、そのくらいの思いやりは持ってもいいんじゃないだろうか。

【あとがき】
うちの隣家のご主人もベランダで吸ってることがありますが、部屋にいても窓から匂いが入ってくるので「あ、今吸ってるな」とわかりますね。幸いご主人の在宅時間は夜と週末くらいなので「困る!」ほどのことはないのですが、もし専業主婦の奥さんがヘビースモーカーでしょっちゅうベランダで吸っている……という話だったら、そりゃあ迷惑でしょうね。
ホタル族している人には悪気なんてこれっぽっちもなくて、自分の行為で隣近所の人がストレスを感じているとはまったく想像していないだろうと思います。もし今日の日記を読んでくれた人の中に、自宅での喫煙場所がベランダや換気扇下、という人がいたら、この機会に考えてね。




2007年10月09日(火) 苦手なのは「子ども」ではなくて

友人A子が苦笑しながら言う。
最近、学生時代の友人(B子さん)が二歳の息子を連れて彼女のマンションに遊びに来た。家にいてばかりで息が詰まりそうだと言うので自宅に誘ったのだが、親子がやってきて三十分もたたないうちに「失敗した!」と思ったという。独身のA子はそのくらいの年の子どもがどんなにやんちゃかを知らなかったのだ。
男の子は持ってきたおもちゃを壁に投げるわ、ソファでトランポリンをするわ、引き出しを次々と開けては中のものを放り出すわ。しかしB子さんは慣れっこになっているためか、息子が飲み食いしながらそこいらを歩き回っても「こらぁ、こぼしちゃだめでしょ〜」とのんびり言うだけ。部屋をおしゃれにして住んでいるA子は気が気でなかったが、親が叱らないのに自分がなにか言うのもためらわれ、見ていることしかできなかった。
が、その遠慮があだになった。男の子がカーテンにくるまって遊んでいるうちにおもちゃを引っかけてレースに大きなかぎ裂きを作ってしまったのだ。
これにはさすがにB子さんも慌て、「どうしよう、ごめんねー」と平謝り。A子は破れたレースを見て卒倒しそうになった。しかし子どもが泣きだしたため、精一杯の作り笑顔で「わざとやったんじゃないし……」と言わざるを得なかった。
B子さんはすまなさそうに、しかしその修繕については一言も触れぬまま帰って行ったそうだ。

「だから小さい子って苦手やねん〜〜っ」
A子の嘆きはよくわかる。どこを探しても同じレースは見つからず、結局リビングにかけてある四枚ともを新しいものに取り替えなくてはならないらしい。……となれば、幼い子どもを責めるつもりはなくともそうこぼしたくなるのは無理もない。


しかしながら、私の場合はどちらかと言えば「小さい子ども」ではなく「小さい子どもを持つ女性」に対して苦手を感じる機会のほうが多い。
何年か前、会社の飲み会に参加したときのこと。妊娠を機に退職した女性が宴のなかばに子ども連れで顔を出した。
「専業主婦になってどう?」「子育てには慣れた?」などと盛り上がっていたのだが、そのうちどこからともなく煙の匂いが漂ってきた。パーティションを隔てた隣のグループの客がタバコを吸い始めたらしい。
すると彼女がみるみる不機嫌顔になった……と思ったら、突然「子どもがおるのにタバコ吸うなんて信じられへん!」と言い放ったのである。
そしてメニューをパタパタさせて煙を追い払いながら、「子どもがそばにおったらふつう遠慮せんか?」「自分らさえよければよその子に受動喫煙させても平気なんやろな」と隣に聞こえるような声で言い続けた。

へええ!と思った。その一帯は禁煙席ではなかった。現に私たちのテーブルにも灰皿が載っている。にもかかわらず、見ず知らずの客の喫煙を非難したことに私はとても驚いた。
私も非喫煙者だからタバコの匂いは嫌いである。食事中に煙が流れてくるとムムムと思う。しかし、そこが禁煙席でないならしかたがないとあきらめる。きちんと分煙されている、あるいは全席禁煙の店を選べばよいものを、自分がそれをしなかったのだから。
……ともし彼女に言ったら、きっと「私が店を選んだんじゃないもん」と返ってきただろう。しかし好むと好まざるとにかかわらず、喫煙が許されている場所に身を置きながらそれが当然という顔で「迷惑だ」「非常識だ」と相手を咎めることは私にはできない。
そもそも、隣の客がパーティションの向こう側の子どもに気づくことなどできただろうか。あちらにすれば、「こんな時間に居酒屋に乳飲み子を連れて来るあなたの常識はどうなのよ?」と言いたくなったかもしれない。
わが子に煙を吸わせたくないという彼女の気持ちは理解できるのだが、同席者に配慮を求めるということならともかく、赤の他人への「だから吸わないでちょうだい」には頷く気にならなかった。
以前勤めていた会社に、妊娠中だからとクーラーを毛嫌いする女性がいた。初めはみな「妊婦さんは体を冷やさないほうがいいもんね」と調子を合わせていたが、夏本番になるとそうも言っていられない。が、外回りから帰ってきた男性が温度を下げると、彼女は飛んで行ってエアコンの温度設定を三十度に戻してしまう。
「赤ちゃんを守れるのは私だけだから」
まったくその通りなのだが、しかしそこがわが家でない以上、自分の要求ばかりでなく周囲との調和というものも考えなくてはならないだろう。

先日、テレビで高田万由子さんが「子どもを連れてあるお祭りに行ったらベビーカーに乗せたままはだめと言われた、納得がいかない」と話していた。
「上の子の手を引きながら十二キロもある下の子を抱えて歩くなんて無理」
「お祭りは子どものためのものなのにベビーカーがだめなんておかしい」
と憤慨しているのを見て、思わず首を傾げた。
主催者は「邪魔だから」それを締めだしているわけではないだろう。大変な人込みの中をベビーカーで進むのは赤ちゃんにとっても周囲の人にとってもとても危険なのではないか。将棋倒しになったらベビーカーの上に人が圧し掛かるし、前を行く人のかかとにベビーカーをぶつけてしまうこともあるだろう。双方の安全のために通行禁止になっているのだ、と私などは想像するのだけれど。

「あなたには子どもがいないから大変さがわからないのよ」
と言われたら、そりゃあまあそうだろうけど……と答えるしかないが、ふだんはそんなことはないのに子どものこととなると度が過ぎて神経質になったり周りが見えなくなったりする女性がときどきいるなあというのは正直な感想だ。

【あとがき】
子どものいるある友人は、ママ友が子連れで家に遊びに来る時、お菓子はクッキーなどの乾物しか出さないことにしていると言います。ケーキ類だと手づかみで食べた手であちこちを触られるのでかなわない!だそうで。子どもがどういうものかわかってる人でさえ、「『子どものすることだからしょうがない』って心から思えるのは自分の子が(汚したり壊したり)した時だけだよ」と言うくらいだから、子どもに縁のない生活をしている人がそういう場面で心穏やかでいられないのは無理ないなぁという気がします。
そういう点で、子どもができると(寛容度の低い)子どもを持たない人とは付き合いづらいと感じるようになるかもしれませんね。




2007年10月06日(土) CMの解釈

休憩時間に同僚がBOSSを飲んでいるのを見て、少し前から流れている新バージョンのCMを思い出した。
帰還命令を受け、星に帰ることになった宇宙人ジョーンズ。宇宙船の中で仲間のデーブ(・スペクター)とゆうこりんと地球について話す。
ジョーンズ 「まったくろくでもない惑星だった」
デーブ 「しっかしひどい星だったねえー」
ゆうこりん 「二度と戻りたくないですぅ」
ジョーンズ 「ただ、この惑星の缶コーヒーだけは……(やめられない)」
という会話なのだが、オンエアが始まったばかりの頃は宇宙人デーブのセリフは「しっかしギャグレベルの低い星だったねえー」だったのだ。こちらのほうが「アンタに言われたかないヨ!」とつっこめて面白かったのに、どうして変わっちゃったんだろう。
という疑問を口にしたら、そこから座はテレビのコマーシャルの話になった。

好きなCMは人によってまちまちだったが、嫌いなCMのほうはかなり共通するものがあり、みなで「わかる、わかる」と盛り上がった。
「『アクアク・アクアクララはね〜♪』のあのラップ調、無性にイライラする」
「『あっかんべあっかんべあっかんべ〜キレイな舌で〜あっかんべ〜』のブレオのCM。ベ〜ッて出した舌が気持ち悪い」
「ヴァンガードの伊原剛志。あんな夫婦いるか!『君といれば、雨もダイヤさ』って、寒ーっ」
「ちょっと前まで流れてたソニー損保のフリップ持ってるアヒル口の女の人。悪いけど顔立ちが鼻につく」
「速水もこみちのタント。バカップルぶりがうっとうしい。見るたび、さっさと別れろって思う」
「嫌いではないけどイマイチやなーって思うのはオリックスVIPローン。上司が『それだけ?』って言いながら篠原涼子の休暇のラインを引っぱり伸ばすやつ。あんなんされたらグッとくるんじゃなくて、『君、いらないからずっと休んでていいよ』って言われたと思わない?」
たしかに最近のCMの中には、「見ている者に違和感を抱かせることで印象づけようとしているのか?」と勘ぐりたくなるようなものがある。
私が好きでないのはトヨタのパッソのそれ。加藤ローサさんが「基本私は人まかせ〜そんな自分を許したい〜♪」と歌いながら、パパにスタンドでガソリンを入れてもらったりバッグをおねだりしたりする。
「いい年して“人まかせ”なんて堂々と言うんじゃない!」とつっこまずにいられなかったのだが、最近見たら歌詞が「基本私はマイペース〜♪」になり、ローサさんが助手席で寝ているバージョンに変わっていた。
ほーら、あれはやっぱり評判がよくなかったんだワ!とつぶやいたが、「ちゃっかり運転席から助手席に移動し、ママに運転をお願いしちゃう」というストーリーでコンセプトはなにひとつ変わっちゃいないので、私の思い過ごしだろう。

ところで、少し前から私が気になっているのがやずやの千年ケフィアのCMだ。
高校生と思しきロシア人の女の子が家族でケフィア(ヨーグルトのようなもの)を食べる場面があるのだが、彼女はスプーンですくったものにほんのちょっと口をつけたかと思うと顔をそむけ、「まずい……」という表情をするのである。
食品のコマーシャルでこのリアクション、いったいどういうことなんだろう。それに、彼女がいつもそれに入れているジャムをその日は入れなかったのを見て、両親があんなふうに驚いた顔をする理由もよくわからない。
ずっと不思議に思っていたのでその謎を同僚たちにぶつけたところ、うちのひとりが「私はこう理解してる」と説明してくれた。
彼女曰く、「女の子がジャムを入れなかったのは、彼女がお年頃で体型を意識するようになったから。パパとママは娘がいつも入れているジャムを突然いらないと言いだしたもんだから、『いったいどうしちゃったの?』とキョトンとしている」。
おお、なるほど!そういえば彼女が同級生らしき男の子に視線をやるシーンがちらっと映っていたっけ。
また、スプーンに口をつけた瞬間のあの表情は「私はもう子どもじゃないワと背伸びをしてみたけれど、ジャムを入れないとやっぱりおいしくなかった」を表現している。「ケフィアは本来食べにくいものなのだが、やずやはそれをカプセルにして摂取しやすくしましたよ」とアピールしているのではないか------というのが彼女の解釈だった。
私はすっかり感心してしまった。おそらくその通りだと思う。あのストーリーの裏にそんな意図があったとはまるで思わなかった。深いなあ!
……といえば、彼女はオロナミンCのCMで室伏選手に投げられて泥まみれになったあの地球は環境破壊で汚染された現在の地球を表しているのだ、とも言う。
「えー、そんな意味が込められてるの!?」
「だってそうでもないとあそこで地球を投げる理由がないじゃない?」
そう言われればそんな気もするが、私はそもそもあのCMにオチがあるとは考えたことがなかった。
友人と映画を観に行き、その後感想を言い合っているときに初めて「えっ、あのシーンはそういう意味だったの?」と知ったり、伏線にまるで気づいていなかったことが判明したりすることがちょくちょくある。文章から真意を読み取るのは苦手ではないと思っているのだが、映像からというのはかなり下手なのかもしれない。
ふだんから「なにも考えていない」と夫に言われている私であるが、いかにポーッとテレビを見ているかよーくわかった。

【あとがき】
私が好きなCMは資生堂の白ツバキですね。どの女優さんもあんまりきれいで思わず見入ってしまいます。あの中ではそうだなあ、竹内結子さんも貫禄があっていいけど、一番はやっぱ鈴木京香さんかな。


2007年10月04日(木) 萎える瞬間

テレビをつけたら、ある情報番組で「女性がもっとも『別れたい』と思う男性の行動は?」というテーマで盛り上がっていた。巷の女性にアンケートした結果を当てるというものだ。選択肢は次の通り。

a.デートによく遅刻する
b.間違って元カノの名前で呼ぶ
c.予約しないでレストランに行って満席、など段取りが悪い
d.パンクなどのトラブル時にオロオロする


どれかしらねえ……と迷っている間もなく明かされた正解は、「d」。
「やっぱり男性には堂々としていてほしいですよねー」という女性ゲストのコメントを聞きながら、私はふと同僚との会話を思い出した。
この夏私は長期休暇が取れなかったので、夫は恒例のお盆の旅行にひとりで出かけた。「レンタカーでヨーロッパをあちこち回ってきたみたい。妻へのお土産はプレッツェル一個だったけどさ」という話を会社の昼休みにしたところ、「いいなあ、そういうダンナさん!」と同僚が声をあげた。
「えー、パン一個しか買ってきてくれないダンナがうらやましいかあ?」
「違う、違う。ひとりで海外に行ける人、っていうところがだよ」

彼女の新婚旅行はハワイだったという。本当はそういう“いかにもハネムーン”なところではなくもっと別のところに行きたかったのであるが、夫に「どこにそんな金がある」と却下され、渋々彼が見つけてきたワイキキステイ七日間のツアーに申し込んだ。
しかしながら、「なにが悲しくてハワイ……」という気持ちは飛行機を降りた瞬間に吹き飛んだ。日本ではもちろん、これまでに行った海外でも見たことがないコバルトブルーの海に美しい砂浜。
「バカにしてたけど、ハワイってこんな素敵なところだったのね。来てよかった!」

しかし、旅行中ひとつだけうんざりすることがあった。夫が片時も自分から離れようとしないことである。
「ちょっとそこのショッピングセンターに行くってだけでも必ずくっついてくるの。退屈だろうからその辺ぶらぶらしてれば?とか何時間か後に待ち合わせしようか?とか言っても、『いや、一緒に行く』って。日本では私の買い物についてきたことなんかいっぺんもないのに」
「レストランとかホテルとかで店員さんになにかを訊く段になると、さりげなくその場を離れて全部私に言わせるの。値札がついてない物見て『これいくら?』って私に言うから、訊いてみなよって言ったら『じゃあいいや』だって」
外国とはいえワイキキはほとんどどこでも日本語が通じるし、日本人観光客もわんさかいる。たとえ迷子になっても本当に困った事態に陥ることなどないのだ。それなのに、夫ときたら単独行動をまったくしようとしない。
「さすがにエステにはついてこられなくて私ひとりで行ったんだけど、ホテルに戻ったら夫はテレビ見てたの。半日どこにも行かなかったらしくて、ハワイまで来てなにしてるんだってあきれるやら腹が立つやら」
そして、そういう姿を見たくないので夫とは海外に行く気がしないのだ、と彼女は言った。

「そんなふうに言っちゃ酷だよぉ。海外旅行の経験があんまりなかったら、男の人でもやっぱり不安なんじゃないの……」
と一応フォローは入れたものの、彼女が「萎えた」のはとてもよくわかると思った。
現実には、男性であっても「海外はツアーでないと無理」とか「ひとり旅は自信がない」という人のほうが多いに違いない。見知らぬ土地でひとりきりを心細く思うのに男も女もないということもわかっている。
が、そうは言っても、「言葉が通じない」とおずおずモジモジしている男性と「んなもん、身振り手振りでなんとでもなる!」と言ってのける男性を比べたら、後者のほうが素敵に決まっている。そういう度胸のあるなしは海外に行ったときだけでなく日常生活のあらゆる場面で顔を出すからだ。
「英語が下手だから恥ずかしい」と外国人の中で萎縮してしまう人が、会議の席で堂々と発言している姿はちょっと想像できない。
もし自分の夫が彼女の夫のようなタイプだったら、私もきっと「情けない」と感じただろう。

そんなわけで冒頭のアンケートに話を戻すと、私自身の答えも「d」。
別れたくまではならないと思うが、こちらが「なあに、それしきのこと」と思うようなことに好きな男性がパニックになったりヒステリーを起こしたりする様は、彼の小ささを見せつけられるようで少しばかりショックである。

【あとがき】
私が幻滅する男性の行動はというと、「タクシーの運転手や店の従業員に横柄な口をきく」「デートで食事に行った店で、奥のソファ席にさっと座ってしまう」「運転中、渋滞や信号待ちに出くわすとぶつくさ文句を言う」とかですね。礼儀やマナー知らず、空気が読めない人にはゲンナリしちゃいます。




2007年10月02日(火) 夏の鬱憤

仕事がひと段落してドタバタの毎日が少し落ちついたこともそうだが、もうひとつホッとしていることがある。夏がようやく終わってくれたことである。
いま、「なんとか今年も乗り切った……」という気持ちでいっぱいだ。
もともと夏は好きではなかったが、結婚してからはさらに憂鬱な季節になった。夫が異常な暑がりで、七、八、九月の三ヶ月間は常に機嫌が悪いため、腫れ物に触るように扱わなくてはならないからだ。
彼は夏のあいだ中、「暑い」以外の言葉を忘れたんじゃないかと思うくらいそのことしか言わなくなる。
「なんだよ、この暑さは。人間が生きられる気温じゃないよ、まったく」
「だから大阪は嫌いなんだ、早くどこかへ移りたいよ」
これを始終聞かされるストレスといったら。
「暑い、暑い」を連発されると頭にくる。こちらは努めて気を紛らわせようとしているのに……。「文句垂れたって気温が下がるわけじゃないんやから、ぐちぐち言いなさんな」が喉元まで出る。

そして私のイライラに拍車をかけるのが、そこまで耐えられないと言いながらも彼がなぜかクーラーを買おうとしないことなのだ。
結婚して七年、涼を求めてというより夫の愚痴を聞きたくないために「今年こそ買おうよ」と言い続けてきたのであるが、我慢すればタダで済むと思っているのか、はたまた自分は週末しか家にいないので妻一人で使うのはもったいないと思っているのか、彼は頑として応じない。
いや、買わないなら買わないでいい。でもそれなら、
「クーラーはいらない、サウナのような部屋に住む、という選択をしたのはあなた自身なんだから、がたがた言わず我慢しなさいよ!」
と私は言いたい。
麦茶を沸かそうとすると、部屋の温度が上がるから自分が留守のときにしてくれと怒る。いつもイライラカリカリしていることを「こんなに暑かったらそりゃあ気も立つよ」と開き直られるのは納得がいかない。わが家が蒸し風呂なのは妻のせいではない。

夏のあいだ、夫は朝起きたら、夜帰宅したら、なによりもまず玄関のドアとリビングのカーテンを全開にする。風の通りが悪くなると言ってレースさえ嫌がるから、当然家の中は廊下を通る人からも向かいのマンションからも丸見えだ。これが私は嫌でたまらない。
夫が家にいるときは、蚊が好き放題入ってくることとよそから覗かれてみっともないことを我慢すればいい。問題は彼が留守の日なのだ。私一人のときはもちろんドアは閉めているが、クーラーなしではベランダの窓だけは寝るまで開けたままにせざるを得ない。わが家は一階である。どんな人間が住んでいて部屋のつくりがどうなっているかが外から丸わかりになるようなことは怖いのだ。
「私が一人でおるときに悪い人がベランダから入ってきたら……とかそういうことは考えへんの?」
が、答えは毎度「だって暑いんだからしかたないじゃない」。どうやら妻が危険な目に遭うまでまともに聞く気はないらしい。

* * * * *

少々の出費を惜しむがために年の四分の一もの期間、常に気が立った状態でいなければならず、そのせいで夫婦ゲンカも倍増……なんて本当にバカバカしいことだ。
ただでさえ出張の多い夫が家にいるのは週末だけ。その家族との貴重な時間を少しでも快適に楽しく過ごせるようにすることのほうが月何千円かの電気代を浮かせるよりはるかに価値があると私なんかは思うのだが、人の価値観はいろいろみたいだ。

夫がリビングの飾り棚のサイズをメジャーで測っている。
「どしたん?」
「うん、ワインセラーを買おうと思って。この上に載るかな?」
フ・ザ・ケ・ル・ナ。冷やしてやらにゃならんのはワインじゃなくて人間様だッ!


2007年10月01日(月) 夏休み終了

ご無沙汰しておりましたが、みなさまいかがお過ごしでしたか。おひさしぶりです、小町です。
えー、二ヶ月もサイトを放ったらかしにしてどうしていたかと言いますと、仕事が多忙を極め、どうにもこうにも日記を書く暇と体力を捻出できなかったのでありました。
「八月中には戻る」のアナウンスも訂正しないままだったので、たびたび来てくださっていた方がいらしたら申し訳なかったです。

「書けんもんはしゃあない、ヤマを越えるまでサイトのことは忘れていよう」と開き直り、ネットから遠ざかっていましたが、本は読んでいました。いいエッセイに出会うたび、「ああ、私も早く書きたいなあ」と思い……。
上期が終わってようやく少し落ちつきを取り戻したので、更新を再開します。
これまでのように週二回確実に、とはいかないかもしれませんがこつこつとマイペースで書いていきますので、明日からまたどうぞよろしく。