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2007年07月31日(火) 夫婦における個人の領域

仲良しの同僚何人かでごはんを食べながら、先の参院選の話になった。
同い年の女性の「私、選挙って行ったことないねん」発言にはあ然としたが、「ねえねえ、誰に入れた?」と無邪気に訊いてくる人がいたことにもものすごく驚いた。
……え、それってみんなでワイワイ話すようなこと?

誰に投票したかなんて人に教えることじゃない、と私は選挙権を持つ前から親に言われていた。だから父と母は互いがどこに投票しているのか知らないはずだし、私も「そういうもの」と思って生きてきた。
私がそれを人に訊かないのは、関心がないというより立ち入るべきでない領域という気がするから。好きな野球チームはどこ?誰のファン?という話とは違うのだ。たとえ家族であっても例外ではない。
結婚してまもなくの頃にあった選挙の翌朝、夫が新聞を広げて「昨日、誰に投票した?」と声をかけてきた。
どうしてそんなことを訊くのかしら……。私はけげんな顔をしたのだと思う。そうしたら「当選したかどうか見てあげるよ」と彼は付け加えたのだが、私は後で自分で見るからいいと答えた。
誰に投票するかを相談したり事後に報告し合ったりする夫婦も世の中にはいるのだろうが、私自身はこの件に関してはきわめて個人的なことだと思っているので踏み込まれるのには抵抗がある。
……と言ったら、以後投票先を訊かれることはなくなった。日曜の夜もふたりで選挙速報を見ながら、「うわ、こんな人が通っちゃったよ」「安倍さん、辞任かな」とおおいに盛りあがった。各党の政策や結果についても思うところをああのこうの言い合ったけれども、そこまでである。その先の「で、誰に入れた?」はなし。

こういう話を以前したら、
「パートナーの政治観を未確認だなんてありえない。じゃあ結婚後に夫が選挙に出たらどうするんだ、支持政党が違うからと応援しないつもりか」
と息巻いた人がいたけれど、ずいぶん極端な意見だなと思う。自分、あるいは付き合っている相手がどこかの党員になっていてなんらかの活動をしているような場合は別かもしれないが、そうでもないのに夫婦だからといってそれが同じである必要なんてあるかしら。
私はこの先もどこの誰に投票するかを人に相談したり尋ねたりすることはないだろう。


もうひとつ、親子といえども夫婦といえどもそれは個人の領域である、と感じることに「宗教」がある。なにを信仰するもしないも完全に自由で、誰かに妨げられたり強制されたりすることはあってはならない。
とはいうものの、現実には双方が異なる宗教の熱心な信者である場合は最初から夫婦になることはありえないし、一方は無宗教、もう一方は信仰を持っているという組み合わせだと結婚はできたとしてもその後の生活にはいろいろと厄介事が起きるみたいだ。
友人はクリスマスにケーキを食べ、正月には神社に初詣に行く人だが、彼女の夫は物心ついたときからある宗教に入信している。バリバリの信者というわけではなく月に一回活動のために出かける程度、「君は入信する必要はない。子どもにも強制しない」と言われたので安心して結婚したのだけれど、義父母からはしばしば会合への参加を迫られる。夫は結婚前からの「君は関係ないから」を守ってくれているが、将来彼の両親と同居になったときのことを考えると頭が痛いという。
私の親戚にもある宗教に入信してから法事や結婚式にも顔を見せなくなって付き合いがなくなった一家がいるので、家族の中で自分一人が未入信という状況に彼女が不安を感じるのは理解できる。

夫婦で政治についての考え方が同じであるべきとはぜんぜん思わないが、宗教に関しては無関心なら無関心な者同士、同じ信仰を持つ者同士というふうに“お揃い”であったほうが余計な気苦労なく平和に暮らせるのは間違いなさそうだ。

【あとがき】
新党日本から出馬した有田芳生さんの実家の両親は共産党員ということで、息子の出馬についてインタビューで「そりゃあ心中複雑ですよ。わが子だけど、立場上応援はできません……」と語ってました。親としては切ないものがあったでしょうけど、こればっかりはしょうがないですよね。




2007年07月27日(金) 夕食のおかずの品数問題

住所、氏名を登録して利用している会員制の掲示板で、三十代の主婦のこんな投稿を読んだ。
「朝食の献立をごはんと味噌汁にしたら、夫が『味噌汁だけでメシが食えるか!』とぶち切れ、食べずに出かけてしまいました。味噌汁にはじゃがいもとにんじんが入っているのに、です。以前夕食にごはんと豚汁を出したときもおかずはないのかと激怒しましたが、私は夫の考えが理解できません。具の入った味噌汁は立派なおかずではないでしょうか」

「一汁○菜」というくらいだから味噌汁はおかず(菜)にはカウントされないと思います、というレスがいくつかついていたが、私はそれがおかずに含まれるか否かという問題より、「ごはん+汁物」という献立のなにが不満なのかわからないというこの女性の感覚をへええ!と思った。
私は主食がごはんでもパンでも汁物がほしいタイプなので、たいてい味噌汁やスープを作る。それこそ「飲む」より「食べる」と言うのがふさわしいくらい具だくさんにするのだけれど、しかし「だから、これとごはんでオッケーだろう」とは思ったことがなかった。自分ひとりの朝食ならそれだけで済ませることもできなくはないが、誰かのための食事としてはちょっと考えられない。
中村うさぎさんが初めて元夫の実家に行ったとき、姑に「朝食はごはんと味噌汁だけ、おかずは一切なし」という嫌がらせをされたという話をエッセイに書いていたが、テーブルにごはんと汁物だけを並べられて「はい、どうぞ」と言われたら、やはり大方の人はあ然とするのではないだろうか。
どんなに質素な食卓でも卵か納豆、せめて海苔、漬け物くらいはいるよなあ……。

立て続けにもうひとつ、別の掲示板(発言小町)でも「その献立では気の毒だわよ」と投稿者のご主人に同情してしまう書き込みを読んだ。
夕食のおかずを「ブロッコリーの明太子マヨネーズ和え」「ナスの煮びたし」「冷奴」「トマトのサラダ」にしたら、夫に「たんぱく質がない」と文句を言われた。たんぱく質が必要と言うけれど、夫はボディビルダーでもスポーツマンでもないふつうのサラリーマン。献立を考える大変さも知らないで怒る夫が許せません、という内容だ。
これにもかなり驚いた。「たんぱく質なら冷奴があるでしょ!」と言い返しても無意味である。夫は肉や魚のメイン料理がない、と言いたかったのだから。
この献立では私だって物足りないと思うだろう。だってどれも冷製の野菜のおかずばかり。おなかを空かせて帰ってきてこんなダイエット食のような夕食だったら、むっとするのもわかる。


ところで、一般的な家庭では夕食のおかずは何品くらい並んでいるんだろうか。
写真付きで“わが家の晩ごはん”を紹介しているようなブログを見ると、メインのほかに小鉢がいくつも並んでいてそれはもうすばらしい食卓だけれど、こういうサイトをしているのは料理自慢の人だろうから、その品数をスタンダードと見ることはできない。
「突撃!隣の晩ごはん」を見ていた頃は、どこの家もそうたいしたものを食べていないのねーと思っていたが、実際に自分がよその家でごちそうになる機会はほとんどないのでよくわからない。

ちなみに、わが家の夕食の基本形は「ごはん」「汁物」「サラダ」にメイン料理一品、副菜一品である。というわけでテーブルの上はそれほどにぎやかではない。
が、これには一応私にも言い分があって、夫の帰宅はたいてい二十二時を回るのと、出張先から戻ってくる新幹線の中でビールを飲んでくるのとであまり満腹にはさせたくないから……である。
だからたまに空っぽの胃袋を引っ下げて帰ってくると、「おかず、二品だけえ?」(彼にとって味噌汁とサラダはもちろんおかずではない)と言われてしまう。そんなときは急遽出し巻きやギョーザを焼いたりするが、明らかに献立に合わないときは「ごはんはたーんとあるよ!」と言って海苔で勘弁してもらう。
掲示板に書き込んだ主婦のご主人のようにふてくされたりせず、おとなしく食べてくれるのを見ながら、「俺は少しずついろいろなおかずを食べたいんだ!」というタイプの夫でなくてよかったと思う。

さて、あなたのお宅では夕食のおかずは何品ですか?

【あとがき】
私がよそでごはんをごちそうになるのは夫の実家に帰ったときくらいのものですが、すごいです。義母が料理好きだけあって(ものすごくおいしい)、いつ行ってもテーブルに乗り切らないくらいの品数。まさに「いろんなものを少しずつ」の世界。息子夫婦が帰ってくるから特別に張り切って作った、ということではないみたいで、義母のまめさには舌を巻いてます。




2007年07月24日(火) それは高望みなのだろうか。

内館牧子さんのエッセイに、定年になった夫と一日中顔を突き合わせる生活が苦痛でしかたがないと訴える主婦が出てきた。
夫は仕事一筋の人だったのでこれという趣味も友人もなく、退職してからというもの日がな一日家でテレビを見ている。そのため自分は友人を呼ぶこともできないし、昼ごはんを作らないわけにいかないので外出もままならない。なにをするでもなくごろごろしている夫が鬱陶しくて、顔を見るのも嫌になってしまった、という内容だ。
妻が一方的に夫を避けるようになったために熟年夫婦の仲がうまく行かなくなってしまった、という話はちょくちょく耳にする。つい先日も読売新聞の人生相談欄で三十代の女性の、
「入院中の実家の父が近々家に戻れそうなのですが、肝心の母が父の退院を拒んでおり、困っています。帰ってきたら面倒を見なくてはならないので、習い事や趣味がしづらくなることが不満なようです。父が倒れるまでは本当に仲の良い夫婦だったのに、どうしてこんなふうになってしまったのか」
という悩みを読んだばかりである。

そして、こういう話をまったくの他人事として聞いてきた私であるが、最近はこれまでほどお気楽ではいられなくなった。というのも、私にも少し前から心に引っかかっていることがあるからだ。
先日実家に帰省した際、父と母と私の三人で夕食をとりながらなにかのきっかけで阪神大震災の話になった。うちの実家は半壊したのだが、当時私は大阪でひとり暮らしをしていたため、家族が味わった恐怖や不便を知らない。しかし昼間は家の片付けをし、夜は近くの小学校の体育館で眠る日が続いたと聞いていたので、「本当に大変だったね」というようなことをとくに深い意味はなく父のほうを向いて言ったところ、母がピシャリと言った。
「お父さんがなんの苦労を知ってるかいな。一番大変なときに家におらんかったんやから」
父の職場は西宮だったのだが、三ノ宮より先の交通手段がなくなっていたため実家からの通勤は無理。それで父はそれが復旧するまでの一ヶ月ちょっとの間、私のマンションで生活をした。母はそのことを指して「お父さんはなんの苦労もしていない」と言っているのだ。
しかし、私にはその真意がまったくわからなかった。たしかに父は地震後まもなく私のところに来たので、学校に配給の水やパンをもらいに行ったり、余震の怖さを味わったりは母ほどはしていないだろう。けれども、それはやむを得ないことだったのだ。父は会社勤めのサラリーマンではなく、非常時こそ休めない職業である。「足がなくて通えないので、自宅待機してます」なんてわけにはぜったいにいかない。
そのことは誰よりも母が承知しているはずではないか。
食卓の雰囲気をそれ以上壊したくなかったので反論はしなかったが、私は「いったいなにを言っているんだ」とかなり憤慨した。
しかし、次の日になっても胸の中に釈然としないものが残っていたので、私は母とふたりでお茶を飲んでいるときに言ってみた。
「あんな言い方はよくないよ。お父さんがかわいそう」
責める口調にならないよう気をつけたつもりだったのだが、母はむっとしたらしい。
「でも、ほんまのことなんやから」
と開き直ったような答えが返ってきた。まるで自分が間違っているとわかっていながらも意地を張って謝らない子どもみたいだ。そんな“すねた”母を見たことがなかったので、私はひどく驚いた。
が、さらにショックだったのは、
「だいたいね、お父さんには思いやりってものがないんよ」
「まじめと言ったら聞こえはいいけど、庭いじりくらいしか趣味がない、お酒も飲めない、やもんね」
「肝心のときに頼りにならない。もっと男らしい人が私には合ってたんとちがうか」
と続いたことである。
体が丈夫なほうではない母を気遣って、娘が家を出てからは毎日夕食の後片付けは父がしている。食事の支度と洗濯以外の休日の家事も父の担当だ。子どもの頃は私と妹の面倒をよく見てくれたし、祖父母(母の親)のことも自分の親のように大切にしていた。娘の目には「思いやりがない」と評されなくてはならないような人ではないのだ。
それに、お酒を飲まないことを甲斐性なしのように言うのだって相当おかしい。
有名人のカップルが別れたり離婚したりすると、芸能界の“ご意見番”が必ずああだこうだコメントする。それを見るたび、「バカバカしい。原因とか事情なんて当事者にしかわかりっこないでしょうが」とつっこまずにいられない私であるが、その「夫婦のことは夫婦にしかわからない」という原則は自分の両親についてだけは当てはまらないと思っていた。
三十五年も娘をしているのだ、親のことは私が一番よく知っているのだからなにかあればそりゃあわかるわよ、と。そして、ずっと「うちの両親は仲がいい」と信じて疑わなかった。
しかし、実際は私はなにも見ていなかったのか……?
つい口をついて出たその場限りの愚痴というより、以前から胸に溜め込んでいた不満が顔を覗かせた、というふうに私には感じられた。あれは母の本音なのだろうか。

この一件以来、私は両親の会話に耳をそばだて、母の口調に尖ったものがないかを確かめるようになった。
母とスーパーに買い物に行けば、父のためのおやつをカゴに入れるか。「行ってらっしゃい」「ありがとう」「おかえり」を言っているか。父が二階の自室にこもっている時間が以前より長くなっていないか。冴えない表情をしていないかに視線を走らせる。
三十を過ぎた娘が親の夫婦仲を心配してやきもきするなんて過保護のような気もする。でも、私が両親に望むことはふたつしかないんだもの。いつまでも元気で、ふたり仲良くいてくれること。
でも、これって実はけっこうな高望みなのかもしれない。

【あとがき】
もちろん熟年離婚とかそんな心配はしてないですけど、どうせ一緒にいるのなら幸せに平穏に暮らしてほしいじゃないですか。ねえ。


2007年07月13日(金) 女性の領域

同僚の妹さんは現在妊娠中なのだが、産婦人科で診察中にこんなことがあったという。
先生と話をしているとき、ドアが開く気配がしたので振り返ってギョッ。若い男性が中を覗き込んでいるではないか。
私服姿で、あきらかに病院関係者ではない。なに、この人!?と固まっていると、
「第二(診察室)ってここじゃなかったですか?」
と彼。
それを聞いて診察中の妊婦の夫ではないと察した看護師が慌てて男性を追い出した。どうやら奥さんの付き添いでやってきて、遅れて入るときに診察室を間違えたらしい。
彼女が待合室に戻ると、さきほどの男性が足を組んでソファに悠々と腰掛けていた。目が合ってもまったく悪びれのない様子に怒りが込み上げてきた。
「問診中だったからよかったようなものの、もしエコーの最中だったら……」

昨年出産した妹から「待合室のイスが少なくて立って待っている女性がいるのに、付き添いの夫が堂々と座っていることがあるんだよ」と聞いて、そんな無神経な人がよく親になれるもんだわねとあきれ返ったことがあるが、勝手に診察室を開けるなどというのもとんでもない。非常識にもほどがある。
妊婦検診に奥さんと一緒にやってくる男性は好ましいけれど、「ここがどこであるか」ということはきちんと理解していてもらわなくては困る。そこにいる女性たちもあなたの大切な奥さんと同じ、いたわりが必要な体なのである。

同僚からこの話を聞いて、私は以前友人が愚痴をこぼしていたことを思い出した。
彼女はデパートやスーパーのベビー休憩室を利用すると、しばしば不快な思いをするという。パパがおむつ替えをする場合もあるので男性の入室は可なのであるが、その奥にある授乳スペースにまでズカズカと入ってくる男性がいるらしいのだ。
授乳スペースがドア付きの個室になっていることは稀で、たいていはカーテン一枚で仕切られた試着室のようなもの。中にはパーティションだけのところもある。そこに赤ちゃんを抱っこした奥さんの代わりに空きを確かめにきたり、授乳中の奥さんにカーテン越しに話しかけたりしている男性がいると、「あっちへ行ってよ!」と叫びたくなるそうだ。
そりゃあそうだろう。私などブティックで試着をするときでさえ、誰かに開けられたら……が心配でいつも大急ぎで着替えるのに、胸元をはだけて授乳をしているときに薄いカーテンの向こうに男性の足が見えたら落ちつかないのは当たり前だ。
おむつ替えと違って、おっぱいをあげるのはママの役目と決まっている。いまそこで女性たちがなにをしているかをほんの少し考えれば、男性が足を踏み入れることなどできないと思うのだけれどね……。

そして私もひとつ、「男性が“女性のための場所”に入るときは気遣いが必要」を思い浮かべる場面がある。
先日、ランジェリーショップの前を通りかかったらセールをしていたので立ち寄ったところ、男性の姿があった。べつにめずらしいことではない。下着売り場で彼女に負けない熱心さで品定めをしたり、彼女の試着中にカーテンの中に首を突っ込んでいたりする男性はよく見かける。彼らに居心地の悪さや照れくささはないらしい。
……が、だからといってまるで遠慮がないのはいかがなものか。
「私は下着もフツーに彼氏と買いに行っちゃいますよ、そういうのぜんぜん抵抗ないし」
と女性が言うのもときどき聞くが、いつも思う。そりゃああなたは平気でしょうよ、だって自分の恋人だもの。
でも、ほかのお客はどうだろうね?
正直言って私はうれしくない。洋服とは違うのだ。私がどんなものを選ぶかなんて誰も気にしちゃいないとは思っても、見ず知らずの男性の前で手に取り、広げるのはやはり恥ずかしい。見たい商品のそばに男性がいたら、彼がいなくなるのを待つ。
レンタルビデオ店のアダルトコーナーで、彼にくっついてきた女性が「私、こういうとこでもぜんぜん恥ずかしくないんだよねー」とばかりに棚をしげしげと眺めていたら、ほかのお客は「なに言ってんだ、そっちはよくてもこっちはよくない」とぼやきたくなるだろう。たとえ「安心して。あなたがどんな趣味かなんて興味ないから」と言われたって、気になるものは気になる。その感じと似ているかもしれない。
男性が「下着」に触れているのを見て、なんとなく嫌だなと感じる女性も少なくないと思う。その気持ちを察することはできないものだろうか?
仲がいいのはけっこうだけれど、そこはあなたがたふたりのための空間ではない。下着売り場に彼を連れてくるなら、店内をひとりでウロウロきょろきょろせず自分と一緒に見るように言う、くらいの配慮はお願いしたい。


男性のみなさんへ。
あなたの目には愛しい妻や恋人以外の女はみんな畑のジャガイモに見えるのかもしれないけれど、こちらはそうではないのです。
女性の領域に立ち入るときはふだん以上に周囲の視線に敏感になろう。デリカシーのないことをしたら、隣の彼女ごとバカにされることになるのだよ。

【あとがき】
もちろん私は過去に付き合った男性を下着売り場に連れて行ったことはありません。もし私が「一緒に行って選ぶ?」と誘っていたとしても、ついて来た人はいなかったんじゃないかな。うちの夫も絶対拒否するでしょうね。自分が行ったら他の女性客の迷惑になる、ということまで考えるかはわからないけど、恥ずかしがるのは確実です。





2007年07月10日(火) 日記を書くときの心構え

檀ふみさんのエッセイで、原稿を書くときの心構えについての話を読んだ。
亡き父から------というのは作家の檀一雄氏であるが------ひとつだけ言われたのが、「書くのなら、一生懸命書きなさい」ということ。しかしながら、具体的にどう書けば「一生懸命」ということになるのかがさっぱりわからない。しょうがないので、「字を丁寧に書く」「注文の文字数ぴったりの原稿を仕上げる」の二点を守ることをもって自分の「一生懸命」とすることにしている、という内容だ。

なるほど、「一生懸命勉強する」や「一生懸命走る」なら言わんとすることはもちろんわかるが、「書く」とセットになっているとたしかにあまりピンとこない。
けれども、それを「真剣に」という言葉に置き換えてもいいのであれば、私は深く頷くことができる。日記を書くときになによりも大事にしていることが、この「真剣に書く」なのだ。

一口に日記書きが趣味と言っても、求めるところは人それぞれ。ふだんの生活では出会えないような人たちと知り合えるとかアクセスを伸ばすのがゲームのように楽しいといったことを挙げる人もいるだろう。
私の理由はもっと地味で、ただただ「文章がうまくなりたいから」。
うまくなってどうするの、って?べつにどうもしない。でも、自分の頭の中にあるものを文字で完全に再現することができたとき、すごい爽快感、達成感がある。読み返して「うん、われながらよく書けている」と思えることはひと月にいっぺんもないけれど、それを味わいたくてコツコツ……と音が聞こえてきそうなほど地道に書きつづけてきた。
だから、うちは週二回更新が基本だが書きたいことがなければ更新しないし、どんなバカげた話題でもそれを取り上げるからにはまじめに考え、まじめに書く。でなければ納得のいくものが生まれるはずがないし、またそれが読み手に対する誠意というか礼儀のような気もしている。

* * * * *

ダイエットでもなんでもそうだが、成功のコツは成果を目に見える形にすることだと思う。
目標体重に向かって右肩下がりになっていく折れ線グラフを見る楽しみがあるから、ケーキも我慢できる。同様に、日記書きをよりやりがいを持ってつづけるために、私は過去に更新した全テキストをExcelで一覧表にしている。
日付の隣にその日更新したテキストの題名を記入してあるのだが、とくにうまく書けたものはピンクで、だめなものはブルーで網掛けし、ひと目でわかるようにしている。それを月の終わりに眺め、「今月はがんばったナ」とか「ぜんぜんだめじゃないか」とか思ったりするのだ。
日記書きを趣味にするくらいだから私は「振り返る」という作業が大好きなのだが、これは「昨日より今日、今日より明日、いいものを書きたい。精進しよう」という気持ちにさせるいい材料になっている。

それからその一覧にはもうひとつ、私のモチベーションを保たせてくれる項目がある。
私は毎回テキストの最後に空メールボタンを置いている。ときどき「メールフォームが出てくるのだと思って押してみたけどそうではないし、あれはなんなのでしょう?」と訊かれるのだけれど、すみません、これは読み手の方にとっては押してもなんの得もないボタンです。
その日書いたこと、つまり自分の思いや考えがどのくらい普遍性のあるものなのかを知りたくて、「読んでなにか心に残るものがあったときにだけ押してね」とお願いしているのだ。
実際はどういう場合に押してくれているかはわからないし、読めばとりあえず毎回押すという人もいるだろうと思うけれど、テキストによって百くらい軽く差が出るところをみるとある程度は参考にできそうだ。その数の多い少ないが示すのはそのテキストの“ウケ”であり、出来不出来ではないが、とても興味深い。

そんなふうにして、このサイトも七年目。
書くための筋力はほうっておくとみるみるうちに衰える。忙しい毎日だけれど、なんとか時間をやりくりして少しでも長くつづけられたらなと思っている。

【あとがき】
どんなことでもまじめに(一生懸命)やっていたら結果は必ずついてくるよね。「日記書き」であれば、友人ができたり、たくさんの人に読んでもらえるようになったり……っていううれしい副産物がある。がんばるだけ報われると思ってます。




2007年07月06日(金) 言い訳する人

向かいの席の同僚がさっきからもう十五分も、社員さんを相手に「えー、でも」「だって」を繰り返している。彼女が応対した顧客からクレームが入ったらしい。
「……って先方はおっしゃってるんだけど」
「うっそー、私、これこれこうですってちゃんと説明しましたよお」
「でも、お客様はそんなふうには解釈されてなかったわよ。それってあなたは説明したつもりでも、正しく伝わってなかったってことでしょう」
「けど、あちらもハイって言ってましたし。そしたらフツー、理解してくれてると思うじゃないですか」
「いつも言ってることだけど、電話を切る前に内容の復唱はしたの?」
「してません。まさかそんな思い違いをされてるとは思いませんでしたもん。ええええ、それって私のせいですかあ!?ちゃんと伝えたのに」

人のふりを見て「自分はああはなりたくないな」と思うことがときどきあるが、ミスを指摘されたときに言い訳を並べたてる姿もそのひとつである。
それは失敗そのもの以上に信頼を失う原因になるような気がするのだ。誰それさんがこうしたから、ああ言ったから、私の責任じゃない。本人はなんとか自分を正当化しようとしているのだが、言葉を重ねれば重ねるほど聞いているほうは鼻白む。「この人にはまかせられないな……」と思うようになる。
それになにより、いい年をした大人が「私が悪いんじゃない」を示そうと躍起になっている様は見苦しいじゃないか。私だったらそんなみっともない真似は頼まれたってしたくない、と思う。

言い訳を述べるべき場面もあるにはある。
たとえば会社に遅刻したとき、友人との約束をキャンセルするとき。理由を訊かれているのに、「言い訳は潔くない」と口をつぐんでいるのが誠意ある態度とは言えまい。そういうときは事態を無駄にこじれさせないために経緯や事情を説明しなくてはならない。
また、本当に潔白なら言われるがままになっていることはまったくないし、相手がなにか誤解をしている場合もそれを解くために積極的に釈明すべきだろう。
これらは責任逃れや自己保身のための言い訳とは違う。

* * * * *

「黙っていたら負け」とばかりに他人の不手際や環境の不備を挙げ連ねるのを傍で見ていると、いつも不思議な気持ちになる。
それが功を奏するとはどうしたって思えないのに、どうしてあんな格好の悪いことをするんだろう。恥ずかしくないのかな。素直に自分の非を認めて謝罪をする、二度と同じことを繰り返さないという気持ちを態度で示す。そのほうがはるかに心証がよいし、信頼回復にもつながるのに……。
そして思う。ああ、そうか。もしかしたら彼、彼女がもっとも言い訳をしたい相手は目の前の人ではなく、実は自分自身なのかもしれない。
本人も本当はそれが自分の非であるとわかっているのだ。しかし認めたくはない。あれこれ理由を並べることで、「私が悪いんじゃない」と誰よりも自分を説得しようとしているんじゃないだろうか。

冒頭の同僚女性の「だって」「でもね」を聞きながら、いずれにしてもなにかを言われるとまず言い訳を考えてしまう人は損だな、としみじみ思う。
誰それが悪い、学校が悪い、社会が悪い、と常に責任が外にあると信じて疑わない人は変わることができないだろう。現実を見ないのは成長や進歩のチャンスを自ら踏み潰しているのと同じだもの。
結局最後まで、彼女の口から「すみませんでした」は出なかった。

【あとがき】
言い訳をするのは私はとても恥ずかしいです。照れくさいのではなくて「恥」に思う、というほうね。「自分が悪いんじゃない」を主張すべき場面ではしなくてはならないし、自分に非があるときは素直に認めて謝らなくてはね。




2007年07月03日(火) 「死」というもの

夫の元同僚が亡くなった。
夫が転勤で大阪に来たばかりの頃のOJT上司で、年齢が近くなおかつ関東出身、一人暮らし同士だったので、会社の後よく飲みに行ったりしていた人だ。ひとりの友人もいない土地で、夫にとってはありがたい存在だったに違いない。
健康診断で不具合が見つかり即入院になったと聞いたとき、芸能人でもその病気で若くして亡くなる人がときどきいるのでものすごく心配をしたが、しばらくして退院、退職してここ何年かは実家で自宅療養をしていたのでそう悪い状態ではないのだろうと思っていた。
しかし昨日、新しい一日が始まったばかりの時間に彼は眠りについたという。

結婚前に私と夫が幹事になって合コンをセッティングしたことがある。そのとき初めて彼に会ったのだが見るからに「イイ人」という感じで、乗りのいい女性陣からその場であだ名をつけられていた。私の友人たちは面食いだったので私の「誰かとくっついてくれたらおもしろいのに」という勝手な思いは叶わなかったが、みなが「○○ッチはぜったいいいダンナさんになるよね」と言っていたっけ。
その後も私には夫と彼の三人で食事をする機会が何度かあり、彼の思い出がいくつかある。直接の知人友人という間柄ではないけれど、今回のことは丸一日たっても「そっかあ、気の毒だったねえ……」では片付けることができない。

このところ、若くして亡くなる人の話をちょくちょく聞く。
少し前に知人のご主人が仕事に追い詰められて自殺をしたとき、「妻子を残して死ぬなんて」「死ぬ気になったらどんなことでもできたでしょうに」と言う人も周りにはいたが、それは何も知らない他人だから言えることだな、と私は思った。
自分が死んだ後のことを考えたら、傍の人間が思う何百倍も本人が無念だったに決まっている。妻子に詫びながらそれでもそれを選んだのだとしたら、それほどもがき苦しんだということじゃあないか。
もしそばに死を選ぼうかどうしようか迷っている人がいたら、私は思いとどまるよう必死で説得するだろう。けれど、もう死んでしまった人に「あなたは間違っていた」と言うことは……できない。
間違っているもなにも、彼の前に道はそれしかなかったのだから。


誰かが亡くなったという知らせを聞くといつも、動かなくなった目覚まし時計が頭の中に浮かぶ。
ある日突然時を刻むことがなくなるものもあれば、最近時計がよく遅れるなあと思っていたらやがて止まってしまうものもある。

今日はオチも結論もない。ただ、「私たちの中の電池はいつか切れるのだな」という話である。

【あとがき】
それも寿命だったと言われればそうなのかもしれない。でも若くして亡くなったと聞くのは本当に悲しいものです。