過去ログ一覧前回次回


2003年02月28日(金) 土俵の女人禁制(後編)

というわけで、前回の「土俵の女人禁制」で実施したアンケートに46名の方がご協力くださいました。ありがとうございました。
実はあのテキストをアップしてから、ちょっぴりドキドキしていた私。というのは、ネットの掲示板では「これは伝統だ」よりも「差別じゃないか」の声のほうが大きく聞こえていたからだ。

【あなたは知事の土俵入りを認めるべきだと思いますか?】

選択肢回答総数 46
( )内は男
 認めるべき4 (2)
 認める必要なし40 (10)
 その他2 (1)

まったく予想外の結果であった。
もちろんこれを世論の縮図だなんて思っちゃいない。「この小町さんって人とはことごとく意見が合わないのよね」な人ははじめからここには来ていない可能性があるし、最後にアンケートに答えようと思って読み進めたら、書き手と反対の意見であることがわかって「やっぱ送るのやーめた」にした人もいたであろうから。
しかし、「認めるべき」「必要なし」の比率はどうあれ、こんなふうに考えている人がこれだけの数存在するということだけはたしかである。
今日はいただいた回答の中から、とりわけ「なるほど」と頷かされたもの、新しい視点を与えてくれたものを紹介させていただきたい。スペースの都合上、一部引用となったものもあるけれど、文意が変わらぬよう気をつけたつもりなのでご勘弁を。

「土俵入りを認める必要なし」と回答したのは46通のうち40通。そのうち19通が「相撲は単なるスポーツではない」「女人禁制は伝統である」を肯定した内容でした。

大相撲は競技+神事であると思っているので、巫女さんに男性がなれないように「性による役割分担」はあってしかるべきじゃないかなぁと思います。伝統としてその形を守っていくことは必要だと思います。 【男性・必要なし】

伝統だからこそ、マゲを結って褌をしめて相撲をしているのだし。競技としての側面だけを捉えるなら、スポーツ刈りでも茶髪でも短パンでも構わないスポーツになるのではないか。 【女性・必要なし】


茶髪ロン毛の力士を想像してクスッと笑ってしまったけれど、こういうことひとつ取っても、私は相撲に「単なる競技スポーツ」とはみなしがたいものを感じます。
「品格」なんてものが要求されるのも、角界だからでしょう。

いつも『大相撲ダイジェスト』で話題の力士をチェックするだけの私が思わずコウベを垂れてしまった、こんな一通。

私は一番電車で当日立ち見券をゲットして場所を見に行くほどの相撲好き女です。相撲はやはり伝統、文化としての意味合いが強い。真の相撲ファンとして、その深みを理解せず、ただのスポーツと感じる人々に神聖な土俵に土足で上がって欲しくない。 【女性・必要なし】

内館さんがエッセイの中で、「本当に大相撲を知っている人間は『女を土俵に上がらせろ』とほざくことがどれほど破廉恥でみっともないことか、わかっている」と書いておられたのを思い出しました。

続いて、「土俵入りを認めるべき」に一票を投じてくださった方のコメント。

相撲が神事と言う立場で今も続けられているのであれば、何故巡業やトーナメントなどをする必要があるの?神事という立場を貫き、女人禁制を守るなら古来からのやり方をまず守るべきなのでは?それもできないのに女人禁制だけ守れといっても説得力はないと思います。 【女性・認めるべき】


現在の相撲が神事のためだけに存在するものでないことはご承知のとおりです。
女人禁制は「相撲」という伝統文化を形成する核のひとつ。それだけを守ってきたわけでも、守ろうとしているわけでもありません。
昔のしきたりや様式が継承されて「伝統」となるのだから、現代の価値観に合うはずがないのはある意味当たり前。でもだからといって現代風にアレンジしなければならないなんてわけはなく。
もちろん時代の流れで姿を変えていく伝統もあるけれど、

伝統を守る、変えるを決めるのはそこに携わった人やその中心にいる人たちであるべきだと思う。 【男性・その他】


に私はうなづきます。譲れる部分、譲れない部分を判断するのはそこに心血を注ぎ、支えてきた人たちでしかない、と。

「差別と区別は違う」「女性が入れない場所をすべて女性蔑視と決めつけるのはおかしい」とするご意見も多かったです。

今の日本はジェンダーフリー、男女共同参画社会ばかりを叫びすぎるように思います。男女差別を叫びすぎることが逆差別になることだってあるのでは。 【女性・必要なし】

男女は同等ではあっても、同質ではないのです。 【女性・必要なし】


で、笑ったのがこれ。

ちょっとズレますが、うちの近所に「婦人センター」っていうのがあって、何年か前に「女性センター」に名前が変わりました。そこまではよかったけど、去年から「男女平等センター」に。これって変じゃない? 【女性・必要なし】


傑作ですねえ。「そういうモンダイなんか!?」とすかさずツッコミ入れてしまいましたが、うーん、きっとそういうモンダイなんだろうなあ。言葉を使う側の人間が言葉に振り回されていて、滑稽です。

知事賞については、「それでも賞を受け取る」日本相撲協会の姿勢を批判するコメントが続々。

賞を設定した代表者の表彰を拒否するのなら、賞自体を辞退するべき。金だけは出してねって言う態度は社会性が無く、存立自体を疑う。 【男性・認めるべき】

知事賞はもともと相撲協会がおねだりしてできた賞なんです。土俵に上げられないなら、いりませんって断るべき。大阪府、財政苦しいんやし。それにしても失礼やな、相撲協会。 【女性・その他】


これ、心情的にはすごくよくわかります。「そんなわがまま言うやつに賞なんかくれてやるな!」というご意見もありました。
でも、知事本人が手渡せなければ授与する意味がないのか、スポーツの振興や大阪のPRといった賞の目的が達成できないのかと考えると、それはまた別の問題だと思うのですよね。私も大阪府民のひとりではありますが。
ちなみに賞の内容はトロフィーと五十万円相当のちゃんこ鍋用の農産物だそうです。五十万て!

アンケートの回答の八割がコメント入り。おまけに「あ、いつもやりとりしている人なんだわ」とわかる親しげな口調のものがいくつもあって。
無記名でないと集まらないだろう、と差出人のアドレスがこちらにわからないCGIメールを使ったのだけれど、「差し支えのない方はお名前も」と書いておけばよかったなあ、とちょっぴり後悔。
今回初めてメールくださった方もいたかもしれないのに。惜しいことしちゃった。
面倒を厭わず回答してくださったすべての方に感謝します。機会があったら、またよろしくお願いします。本当にありがとう。

【あとがき】
インターネットの掲示板では「くだらないこだわりだ」とか「そんなの時代遅れだ」といった書き込みをたくさん見かけましたが、何も知らないのに「土俵に女性を立ち入らせない」という表面だけを見て、よくそんなことが言えるなあ、と。門外漢は口を出すな、ということではもちろんないですよ(そんなことを言ったら、誰も何も言えなくなってしまう)。意見を持つのはけっこうなことなんだけど、それを価値のないものだとする決めつけはそこで生きている人たち、育ててきた人たちにとても失礼である、と。「相撲を取らせろと言っているわけではない。たかが表彰式で上がるくらいなんなんだ」はとくにお粗末だと思います。「たかが」と言ってしまえるところにその人の無知がさらけだされている。


2003年02月26日(水) 土俵の女人禁制(前編)

「大阪府知事、またも土俵に上がれず。知事賞の直接授与は今年も見送りに」
数日前、新聞でこんな見出しを目にした。記事をお読みになった方も多いのではないか。そう、太田房江知事の「大相撲春場所千秋楽の表彰式で、優勝力士に土俵上で自ら知事賞を手渡したい」という要望が、今年もまた「女人禁制」の伝統を理由に日本相撲協会に却下されたという内容だ。
四年越しのこの土俵入り問題はまたも「水入り」。過去三年間と同様、今年も男性の副知事が代理授賞することとなった。
女性知事の土俵入りは認められるべきか否か。記事にはふたりの識者の見解が載っていた。女性初の横綱審議委員でもある脚本家の内館牧子さんは、
「大相撲は単なるスポーツではなく、神事が核となった伝統文化。現代社会の男女平等論を当てはめる必要はない」
と日本相撲協会の立場を支持。
一方、スポーツ経営管理を専門とする広島市立大学の曽根幹子助教授は、
「外国人力士の隆盛、優勝賞金の金額からも相撲の競技性が高いことは明らか。伝統を理由にした女性の締め出しは納得できない」
と反論している。
「相撲」の中に神事をみるか、あくまでもスポーツとみるか。ここが両者の主張の相違の原点だ。
ネットの掲示板でも、この問題は「女性差別か否か」の議論となって派手に展開されていた。土俵入り肯定派(認めるべき)は土俵の女人禁制について、
「『女は不浄』思想からきた悪しき伝統。女性差別以外のなにものでもない」
「上がってはいけない理由が理解できない。そんなことで伝統は壊れない」
土俵入り反対派(認める必要なし)は、
「相撲は日本の文化。その文化の伝統のひとつとして守られるべき」
「女性が入れない場所をすべて女性蔑視と決めつけるのはおかしい」
というのが、それぞれの主流意見のようだ。

というわけで、ここでみなさまにアンケート。
あなたのメールアドレスはわかりません(メーラーは立ち上がりません)。アドレスをお持ちでない方も送信できますので、ふるってお答えください。なお、コメントは後日紹介させていただく可能性があることをご了承ください。




 
あなたは

 男性  女性

 女性の土俵入りを

 認めるべき 

 認める必要はない 

 その他


 よろしければ理由を

 


 


じゃあ、小町さんはどうなんでしょ?
はい、私は「『女性を土俵に上げない』は伝統文化の領域であり、守られてしかるべきもの」という考えである。私はそれが女性差別に当たるとも思っていない。
相撲の起源は神道儀式であり、「神が血の匂いを嫌うため、生理で血を流す『女』を禁忌とした」という、科学が未発達な時代の宗教的思想が女人禁制を生んだと言われている。しかし、だ。はたして今も力士や相撲に携わる人間のあいだに女を不浄とする精神が息づいているだろうか。
その答えは女性の横綱審議委員が誕生していることからもわかるのではないか。たとえその起こりが不合理な仏教説話や迷信だとしても、その後何百年もかけて男たちが「角界」を築きあげてゆくあいだに差別的な思想は抜け、女人禁制は「伝統的なしきたりのひとつ」に転化した------とみなすことはできないだろうか。「女性差別の名残」などではなく。内館さんをはじめ、女人禁制の存続を主張する人たちも「たしかに女は不浄だから、土俵に上がるべきでないんだ」なんて思っちゃいないはずだ。
「『伝統文化の尊重』の一点張りでは理解できない」という反論を見かけるが、これ以上どう説明できるというだろう。
内館さんの言葉を借りれば、それは「相撲という伝統文化を形成する核のひとつ」である。伝統はもう、誰がなんと言おうと伝統なのだ。「守ってゆくべきものだから」としか言いようがないではないか。
力士が力水をつけるのも塩をまくのも四股を踏むのも、すべては身を清め、土俵の邪気を払うための儀式である。立行司が腰にさしている短刀は、差し違えたら割腹して責任を取るという決意を示したものだ。「プレイ」だけでなく、力士や行司の儀礼的な所作や装束といった伝統芸能的要素ごと楽しむところに、相撲と他のスポーツとの決定的な違いがある、と私は思っている。
もし相撲が神事を起源とするスポーツであり、よって角界が他に類を見ないほど伝統を重んじるきわめて特殊な世界であるということを理解できていれば、「なにも土俵の上で相撲を取らせろと言っているのではない。たかが杯を手渡すだけなのに、なにが問題なんだ」という発想は出てこないのではないだろうか。

貴乃花の引退で、大相撲はさらなる人気凋落が予想される。そのためだろうか、過去三度にわたる太田知事の要請を断固拒否してきた協会が今年初めて、「全国でアンケートを行い、今後の対応を検討したい」と柔軟な姿勢を見せた。
女人解禁が相撲人気の喚起につながるかは疑問だし、私としては協会には毅然とした態度で従来の主張を貫いていただかないと「あれだけ伝統、格式って言ってたのはなんだったのよ」になってしまう、という思いもある。
しかし、相撲が国技であり、今後も発展させていかねばならない日本国民にとって大事な文化であることを考えれば、ここいらで「伝統」の意義を見つめなおす機会を持つことは決して無駄ではないだろう。
伝統といえばなんでもまかり通るわけでないことはもちろんだ。残すべき伝統と、変革すべき伝統。時代は土俵の女人禁制をそのどちらだと判断するのだろうか。

【あとがき】
酒造りの杜氏の現場も比較的最近まで女人禁制だったんですよね。酒蔵もまた伝統と格式を重んじる世界で、女性が造り蔵に立ち入ることはタブーとされていました。酒は元来神に奉げる神聖な飲み物であり、その酒を造る蔵も神聖でなければならない。不浄の血が流れる女性は立ち入ってはならないと言い伝えられていたわけです。「女は不浄」の由来は相撲の女人禁制と同じだったんですね。もっとも、酒造りは体力が必要とされるため蔵人は男性ばかり、しかも半年も家族と離れて仕事をする出稼者の集団。そんな中に女性が入るという事がどういうことか……というのが実質的な理由だったみたいですけど(現在は女性杜氏も誕生しています)。
それにしても、宗教や神話において、たいてい女が悪者というか愚か者という扱いをされているのはどうしてなんでしょうね。キリスト教で蛇にそそのかされて禁断の実を食べ、人間に「罪」をもたらしたのも、ギリシャ神話でパンドラの箱を開けてこの世にあらゆる悪をバラまいたのも女性となっている。なんでなのかしら。


2003年02月07日(金) すべを残しておくということ。すべを断つということ。

歩道橋は残っていた。彼をなじり、泣いて別れた場所。二十一歳だった。
あれから二十六年がたった一九九八年、彼は「ここで別れたのだから、もう一度ここからやり直そうか」と橋の上でプロポーズ。A子さんの目から涙があふれた。


結婚相談所の広告の文句ではない。これは先日朝刊の家庭欄に掲載されていた、現代の夫婦模様を取りあげた記事の書き出しである。
ふたりは高校の同級生。交際五年目の二十一歳の夏、渋谷の歩道橋でA子さんが「結婚したい」と彼にプロポーズ。が、彼の返事は「大学があと一年残ってる。待ってくれないか」だった。
「うんと言ってくれると信じていたのに……」
傷ついた彼女は二度と彼に会おうとしなかった。音信も途絶え、二十五年が経過したある日、A子さんは彼の妻が病で急死したことを知る。彼女の母親が今もなお、彼と年賀状を交わしていたのだ。
「お悔やみを言わなくちゃ」
懐かしさのあまり、A子さんは自分にそう言い訳をして彼に電話をかけた。ふたりはその後まもなく二十六年ぶりに再会、冒頭で紹介した記事に続く……というわけである。
このドラマのようなストーリーを読んでつくづく思ったのが、人とのつながりをむやみに断ち切ってしまってはいけないんだなあということ。
この場合は彼女の母親と彼が年賀状のやりとりを続けていたことがふたりに再会をもたらした。失ったのがどうしてもあきらめられない人であるならば、いつか気持ちを抑えきれなくなったときのために何かひとつ“すべ”を手元に残しておかなければならないのか……。

独身時代に使っていたHotmailのアカウントは、いまやほとんど死にアドレスだ。それでもひと月に一度はサインインし、溜まりに溜まったダイレクトメールを処分している。
今回も膨大な数の未読メールにうんざりしながら、英文タイトルと「未承諾広告ナントカカントカ」だらけの画面をスクロールしていたところ、ふいに現れた「元気ですか」の文字にマウスを持つ手が止まった。
差出人の名前を見て、心臓がドクンと音をたてた。二十二のときに別れた彼だった。
私はこの人が本当に好きだった。愛情という名の栄養の供給が止まっても、彼への気持ちは何年も枯れなかった。それでも、別れてからは一切の連絡を断った。三年前に突然「結婚します」とメールが届いたとき、「私ももうすぐです」と返信したのが最後の音信だった。
「どうしていますか。このアドレスまだ使ってるかなと思い、メールしてみました」
どうしたんだろう、なにかあったのだろうか。気づくのが遅れたことを詫び、近況を書き送ると返事はすぐに届いた。
彼は元気だった。心配していたようなことはなにもなさそうだった。なぜか急に懐かしくなったから、と書かれていた。
それならよかった。そうつぶやきながら読み進め、私は追伸の一文に胸を突かれた。
「実は君が結婚をやめてたり、離婚してたりすることをちょっと期待してました」
とあった。
こういう感情はいったいなんなんだろうなあ、とぼんやり考える。もはや自分が相手の人生に関わることができないことは彼もちゃんとわかっている。もとよりそれを望んでいるわけでもない。
それなのに、どうして「あの頃のまま、ひとりでいてくれたら」なんて期待をしてしまうのだろう。どうして彼女の幸せを祈ってやることができないのだろう。
おそらくは。「彼女の『一番』はいつまでも自分だ」「彼女は俺を風化させない」「いつでも受け入れてくれる」------そんな彼の自信がこの独占欲のような幼稚な気持ちを生み出したのではないか。
でも、私は気を悪くしたりはしない。「自分から手離しといて」とも思わない。人間ってそういうものだと思うから。やっぱり自分本位で考えてしまう、心の弱い生き物。
愛する人が自分以外の人と結ばれ、幸せになろうとしているのを一片の曇りもない心で祝福できる人がいったいどれだけいるだろう。この世で一番大切な人を思うときでさえそうなんだから、「誰かの幸せを心から願う」というのがそんなに簡単なことであるはずがない。

Hotmailのアカウントは四ヶ月間サインインしなかったら抹消される。
彼からメールが届いたのは暑さの残る秋口だった。私の手の中に彼とつながるすべはもうひとつもない。

【あとがき】
冒頭に紹介した新聞記事の話。再会した時点ではA子さんにはうまくいっていなかったとはいえ夫がおり、そちらと離婚して彼と結ばれた……というわけなので、完璧な美談というわけにはいかない。けど、一度きりの人生、幸せにならないとうそだから。


2003年02月03日(月) この世で一番悲しい恋

脚本家の北川悦吏子さんのエッセイの前書きに、「恋愛を語るのはなにを語るよりも厳しい」とあった。
なぜなら、「どの面下げてこんなこと言ってんだ?」ともっとも言われがちな分野だから。彼女は雑誌などで恋愛についての取材を受けるとき、自分の顔写真が載るか載らないかをかなり気にするのだそうだ(彼女は不細工ではないが、美人でもない)。
なるほどなあと頷く。だって、私も書店で秋元康さんの恋愛指南書を見かけても手に取る気になれないんだもん。
「『恋について僕が話そう』?いや、いらんよ」
と間髪入れずつぶやいてしまう。愛だの恋だのを説いたものを人に読ませるには経験うんぬんより、まずそれなりのビジュアルが必要なのかもしれない。だってそこに説得力がかかっているから。
そう考えると、面が割れていないことはすばらしい。私もここでちょくちょくその手の話を書くけれど、「あんたに言われたかないよ」とは言われずにすむもんね。

さて、その北川さんのエッセイの中に、「世界で一番悲しいラブストーリーが書きたくて、『愛していると言ってくれ』を作った」というくだりを見つけた。
私はそのドラマを見ていないのだけれど、「この世で一番悲しい恋」と言われてぱっと思い浮かべたのは、池田理代子さんの名作『ベルサイユのばら』のフランス王妃マリー・アントワネットとスウェーデンの貴公子フェルゼンの恋だ。
自分との関係が王妃の身を危うくすると察したフェルゼンは、その愛ゆえに身を引く決意をし、祖国に帰る。が、ほどなく国王一家幽閉の知らせを聞き、彼は命の危険を顧みず再びパリへ。しかし、救出作戦は失敗。せめて王妃だけでも助けたいと迫るフェルゼンに、アントワネットは涙ながらに告げる。
「子どもたちを置き去りにして自分だけ逃げるわけには行きません。私はフランスの王妃として威厳を持って死にます」
身分違い。遅すぎた出会い。死による別離。悲恋の要素をすべて兼ね備えたこの恋。
最近漫画喫茶で久しぶりに読み、「人を愛するって幸せなことのはずなのに。生きては結ばれぬ人をこんなにまで愛してしまうなんて、こんなの全然幸せじゃないじゃないかあ」と号泣した私だ。
とはいうものの、現実には身分違いだとか『ロミオとジュリエット』のような事情で結ばれぬカップルの話は聞いたことがない。私が「これが最大の苦しみではないか」とある程度のリアリティをもって想像するのは、いまだ恋しい相手がすでに自分のことを忘れて新しい生活を送っているという事実に向かい合ったときの心の痛みである。
はじめから思いが成就しないのも、途中で心変わりされるのも、一方的に終わりを告げられるのも、どれもつらい。しかし、相手にとっての私には私にとっての相手ほどの存在感はなかったんだな、もう本当に置いて行かれちゃったんだな……。それを思うときほどせつなさ、虚しさ、悔しさ、焦り、ときには筋違いの憎しみまで動員して胸をかき乱すことはないのではないだろうか。

朝刊のコラムにこんな話が。

「私たちが古里を離れて4年。あなたはもう結婚したの?」
間違いメールだった。反射的に削除ボタンを押し……「あっ!」と叫んだが遅かった。メールは一瞬のうちに消えた。
「もう結婚したの?」という文面は、鈍感な私にも含みが感じられた。でも、発信元のアドレスは消え、相手に届いていないことを知らせることはもうできない。
星の数ほどの出会いとすれ違い。恋人たちのメールが迷わずに届くことを祈っている。


古里の「恋人」に宛てたメールは永遠に届かないだろう。このメールの送り主の胸の鈍痛はまだまだつづくのだろうな……と思うと、こちらまでせつない。

【あとがき】
身分違いの恋はなくても、家柄が釣り合わないとか長男長女でどうしても折り合いをつけることができないとかで、結婚が叶わない恋人たちはいくらでもいますね。私の友人にもそれで別れたのが何人かいます。「縁がなかったってこと。結ばれるべき相手ではなかったのよ」と割り切るにはあまりにも苦しく悲しい。
私も独身時代は「そんなことがあっていいのか。家と家が結婚するんじゃないんだぞ。本人の気持ちが一番大事なんじゃないか」なんて思ってましたけど、結婚っていうのはそんな簡単なものではないですね。自分がその立場になってはじめて理解できることってこの世にはたくさんあるんだろうと思います。