ステテコ日和
地球に優しい、目にも優しい
Yes,I love ego☆
No,I love ero

2007年11月30日(金) 反省




盗撮ばかりなので12月は一気に見せます。


写真:『photo myself』(京都市東山区東福寺光明院にて)



2007年11月29日(木) 人の頭を盗撮




写真:『凛とした坊主』(京都府下京区中堂寺にて)



2007年11月28日(水) その先は




追い出し後、NIMOたちと行った直島。

自然とARTとの調和というこの島。

色んなアイデアが詰まった素敵な島です。

特にこの写真の場所がお気に入り。


アイデアでに脱毛です。


写真:『海が広がる』(香川県直島町にて)



2007年11月27日(火) ごめんなさい




温泉街にて盗撮

温泉美人でなく温泉おじぃちゃん


写真:『0よりは〇』(兵庫県豊岡市城崎温泉にて)



2007年11月26日(月) あらよっと




夕暮れ時、どこからともなく現れる。

角まで追い掛けてみるが、姿はもうない。


写真:『message』(大阪市北区中崎町にて)



2007年11月25日(日) 深夜、君に会いに




床についても時計の針が頭を回る。

深夜二時。

枕元の携帯電話を手繰り寄せる。

会いたい。

今すぐ会いたい。

電話じゃなくて、メールでもない。

お前に会いたい。


写真:『そこは酒屋です』(京都市左京区聖護院蓮華蔵町にて)



2007年11月24日(土) 意外と冷静




農耕機がトラックから転げ落ちたまさにその時。

そんな衝撃的な写真のはずが・・・

当事者は意外に冷静ですよね。


カメラを構えているものとしては、
それなりのリアクションを期待はしてしまうものですが。


写真:『左の人は慌てふためき、中はそうでもない』(岡山県伊部町にて)



2007年11月23日(金) haru ru ru ♪




色んな野菜から芽が出た


写真:『息吹』(大阪市中央区土佐堀里山カフェにて)



2007年11月22日(木) i don't want to wait





paula cole の悲しい曲ですね。

空を見上げてすっきり。


写真:『どこまでも続く』(三重県名張市にて)



2007年11月21日(水)




この日記の扉からHPへのリンクを外しました。

理由は特にないけど。

HPなんかずっと更新してへんしなぁ。

って感じです。


写真:『cell cap』(大阪府高槻市城北町にて)



2007年11月20日(火) こんな大学生どうですか?




もちろん海。

もちろん人。


写真:『祝い』(香川県小豆郡鹿島にて)



2007年11月19日(月) finding NIMO




帰宅すると両親と四女がテレビを見ていた。

静かにご飯を食べたい人なのだが、
仕方ないので一人黙々と食事を進める。

楽しそうにテレビを見ている家族をよそにごちそうさま。

また自分の時間に戻っていった。

そして、今に至る。


そういえば先日電話くれてたなぁ。

元気にしてるんだろうか?

しょんぼりしてたり、楽しそうだったり。

テレビにも勝るとも劣らないなぁ。


来週あたり連絡してみよう。


写真:『∞』(沖縄県本部町にて)



2007年11月18日(日) 道元関連




『道元の読み方−今を生きる哲学「正法眼蔵」』 粟田勇 祥伝社

一遍上人
みなで集まって踊って念仏だけを唱えて、全国を放浪して歩いた。
最後に持ち物を全部焼き捨てて、後に何一つ残さず、お寺も建てずに死んでいった。
『百利口語』
「六道輪廻のあいだには、ともなう人もなかりけり 独り生まれて独り死す 生死の道こそかなしけれ」
「心塵脱落」→「身心脱落」心の塵だけでなく体も心も全て無くなるという全否定の境地。
全て捨てて、捨てて、捨てつくす
出世しようとする心、名誉、持ち物、家族、兄弟も全部捨てる。
命も捨てて、救われようとする気持ちも捨てよ。
念仏を唱え、極楽浄土に成仏しようと思うことが、救われることの邪魔になるとさえ言っている。
こだわりのもととなる自意識を捨てて、無我の境地になれ。
社会の中で自分が修養するということは自分にばかりこだわっていてはダメで、修養しようとする自分を捨てなさい。
常に自分を捨てよう捨てようとしていれば、周りの人や人間関係によって生かされてくるはずだ。
みんなに生かされるようになれば、自分がそういうことを気にしなくて済むことになる。
自分の在り方とか気持ちを気にしなくて済むようになる。

『菜根譚』
『正法眼蔵随聞記』
和辻哲郎・西田幾多郎・田辺元
吉行淳之介

「武士道とは死ぬことを見つけたり」ぎりぎりに人間が追いつめられるのは「死」の時

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。古人曰く、百尺竿頭如何進歩と」
「百尺竿頭すべからくこれ歩を進むべし、十方世界これ全身」
もう先は行き止まりだという状況にきたとき、一歩を踏み切れと言うこと
一歩踏み出したとたんに、落ちていく自分も感じない、身も心も抜け落ちたように透き通ってしまう。
自分がゼロになってしまう。
そうなった時「十方世界」つまり全宇宙が逆に自分の身と一致する。
あるいは自分が全世界にまで広がっていく。

19世紀末のフランス詩人のアルチュール・ランボー
「また見つかった 何だ 永遠だ 海と行ってしまった太陽だ」

「大地雪漫漫」
雪は白い虚無だが、また存在そのものが溢れ出したように輝いてもみえる。
色も形も何もないということは、実は雪が空にも地にも充満しているということ。

「只管打座」・・・とにかく座禅を組むこと
『普歓坐禅儀』・・・「座禅は則ち大安楽の法門なり」全文華やかな語調を持つ四六駢儷体。

空海上人
平安末期の人で市聖と呼ばれていた。
京都東山の六波羅蜜寺

「声ばかりして」というのはまだ声を聞いている我が残っている。

「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするる也。」
ソクラテス「汝自身を知れ」

生死のことを自己中心に考えてはいけない。
理屈をこねて、言葉でああだこうだなどと言ってはいけない。

生きよう生きようとして、病と闘ってもがけば、溺れ死ぬことになる。
死に接近してくると、むしろ、力を抜いて欲を捨て身を任せてしまうようになる。

曹洞宗や禅宗という呼称を使っていない。

道元は法華経を非常に重視。
弟子の良寛も道元に継ぐ法華経の理解者。
老壮の思想や寒山拾得の詩

西行・世阿弥・茶の湯の千利休・芭蕉・明恵上人・一遍上人・良寛

宗教というものには最後には信じるという大切な問題が残ります。

仏教では、仏の出生以来この世を三つの時分に区別→正法の世・像法の世・末法の世
法然や親鸞は、「今は末法の世で、いくらお経を読んでも救われない。人間の力では救われない」→「南無阿弥陀仏」
浄土教の浄土思想というのは、このような末法思想の上に成り立っています。

「選択仏教」
釈迦牟尼が悟りを開く
天台宗延暦寺でも念仏を唱えながらぐるぐるお堂を回る「常行念仏」
鎌倉仏教の特質の一つである。
法然「さまざまな修行をしても成仏できないから一切要らない。ただ念仏だけで良い。(専修念仏)」→浄土宗
親鸞「言葉より心だ。心さえあれば良い。」→浄土真宗
日蓮「法華経以外の他のお経は一切要らない。」「禅天魔=禅は魔物」→日蓮宗

平安時代に華々しく登場した最澄の天台宗、空海の真言宗は堕落。
比叡山延暦寺は三井の園城寺や奈良の興福寺と武力で激突。法然の大谷墳墓を破却。
栄西・・・中国から禅をもたらした人。お茶の木を輸入して『喫茶養生記』

天童山に登り、無際了派に師事

たとえ他人を使ってやらせても、その人間は自分ではない
今という時を除いていったいいつその時が来るというのか。後に伸ばしたらどうなるのか。
もっと良いとき、もっと楽なときといって延ばしていたら、そんな時が来るだろうか。
今の瞬間以外に自分はありえない。
自分がしなければ自分は悟れないというのは、いわゆる「自力弁道」

「弘法救生」
インドの修行者・・・禁欲主義を守り、山の中へ籠もって自分独りだけが悟り、心の安定を得ていくもの
自分独りだけではなく他の人も幸福にしなければならない→大乗仏教の成立

良寛
自らを大愚良寛と言う。
備中玉島の円通寺に身を寄せる。
自分一人が修行することで、はたして悟りが得られるのか。
人を救おうと努力することと、自分が救われようと努力することは同じこと。

「弁道話」雲遊萍寄

西洋論理にとらわれては道元は読めない
西洋論理・・・物事を考える時にまずその特色を抜き出して分類して仕分けしていく。
       細かく違っているということを発見するのが、西洋の論理学の考え方の根底。
東洋論理・・・全ての事柄について結局は根っこの部分で共通だ。

焚き木灰となる、さらにかえりて焚き木となるべきにあらず。
焚き木と灰との間に時間的前後関係はない。
燃えてしまった灰が焚き木に戻るのであれば、以前は焚き木だったのが灰になっているという言い方もできる。
ところが、燃えた灰が焚き木に戻ることはないのだから、そこには時間的前後関係はない。
そうである以上は、灰が後であって、焚き木は先にあったという言い方自体に意味が無い。
焚き木は焚き木の世界で完結している。「前後際断せり」

マルクスは、まず初めから相対立する階級の闘争を前提
正・反が相闘うと発展して合になるという弁証法 ex)ブルジョアジーとプロレタリアート

中国共産党は統合統一から発想が始まる。
中心思想は陰陽道であり、一見二元論のように見えるが、はじめから統合を前提にしている。

「禅機」・・・はずみのようなもの。質的変化をもたらす一瞬の弾み

「Once time is All time」
「一」とは部分という意味ではなく、全体という意味→「一すなわち全」
厳格なカトリックの論理では、「神=有」「悪=無」
禅の場合は無が悪というわけではなく、空という観念となっている。
無と有が、空と色がどっちにでも融通無碍となってくる。
「冬と春とのごとし。冬の春となるといわぬなり。」
時間的に経過していくと考えると相対的になってくる。
並べたり比較してはいかん。それぞれ独立している全てなのだ。

禅を貫く徹底的リアリズム
「生は生、死は死」だから生から死へ、死から生へというような行き来は元々無い。
「前後ありといえども、前後際断せり」
つまりは比べたり、惜しんだり、望んだり、悲しんだりすることに意味は無い。
「100%の生と、100%の死があるだけ」
「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候」「死ぬる時節には死ぬが良く候」
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」両面が人間の全存在。死も生も合わせて一本。
「形見とて 何か残さん 春は花 山は不如帰 秋はもみじ葉」
何も残すものはない。しかしありのまま、そっくりそのままで良い。自分はただ死んでいく。
死んだ後にも自然は豊かな四季を繰り返していくものだ。

『荘子』
荘子の昼寝での出来事。
ひょっとしたら自分は本当は蝶々で、蝶々が人間になった夢を見ているのではないか。
とことん突き詰めようとするリアリズム。

大乗仏教には仏性論という考えがある。「涅槃経」
人間には誰にでも「仏性」という一つの素質が備わっている。
誰にでも仏性があるから何も修行をしなくてもいいという考え方→仏性や人間に仏世界の現れることも理解してない。
風がどこにでもあるように、仏性が全てに備わっているということは理屈ではない。
人生との関わりにおいて実感として掴むには、黙って扇子を使って風を味わうとい行動を通して本性を体験せよ。
仏性の極意は黙って行動するところにある。


「馬鹿になれ」
なかなか馬鹿になろうと思って馬鹿になれるものではない。
馬鹿になってやろうという考えを持つこと自体が、すでに馬鹿になっていない証拠である。

人に合わせれば他人は付けあがるし、自分を通せばギクシャクする。
「知に働けば角が立つ。情けに竿刺せば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住み難い。」『草枕』
「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。」
「他者を自分と対立する相手と見ることなく、同じ仏性の一つのものだと自覚を持て」臨済義玄

明恵高弁
栂尾の上人であり、華厳宗中興の祖。
「釈迦の教えに戻れ」『夢の記』
「阿留辺幾夜宇和」そのそれぞれの境遇に、仏性が生きている。
目的のための手段ではない。

連歌集『莵玖波集』
日本武尊が歌を交換したことから、筑波が連歌俳諧の聖地となった。

姫路書写山・・・西の比叡山と呼ばれ、天台宗円教寺の大伽藍が建っていた聖地。

放生会
今はたまたま人間だから魚を食べている。しかし結局は六道輪廻する同じ哀れな存在である。
来世では魚になっているかもしれない。共に滅びる身であり、食ったり食われたり相互の感情移入が可能。
キリスト教社会では、永遠に食われ続ける牛と、永遠に食い続ける人間と言う関係。
人が自然を征服するとか、自然を利用するとかいう西洋的思想。
ヨーロッパでのnatureといえば、神の被造物だから神の秩序の下にあるという考え。

「而今の山水は、古仏の道現成なり。」
「最初の一行は神から来る。二行目からは人が作る。」ボードレール
閃きは一種の詩的な究極の直感的境地
古ということは昔ということではない。
今見ている自然、見られてる自然という概念を越えた、それらを全てひっくるめた永遠の世界があるという考え。
一目一目を追っていく無心の行為の果てに編み物が成り立っていく。
一目一目の中に、今までの全ての人生があるし、因縁もある。

念仏とは死んでから極楽へ行けるとの保障あってこそ価値ある「南無阿弥陀仏」
今の刹那というものは、実は過去も未来も無くて、ただあるということだけが確かになる。
今は過去でもなければ未来でもない。
一遍時宗の念仏では、今が常に臨終だと常に思えとある。
時間とはイマしかない。イマしかないものはもう時間ではない。存在である。
未来はこのイマに含まれ、過去もこのイマのうちにある。

「空劫」は梵語でカルパ

眼に見えないからといって、疑ってはならない。
仏教やインドの思想家というものは、非常に極微な世界から極大の世界までを、常に思索の中で考えている。
自分たちは地球と一緒に回っているということを自覚していない。
変化の中の不変。不変と考えていたものの巨きな変化。
永遠の中のイマという関係を、山や川を見るときに考えなければならない。

山は山を愛する人に属す
山がそのまま賢者であり、賢者はそのまま山となり、山そのものが聖人だという境地。

最後はあらゆる物質が一極に集中し、質量の考えられぬほどの重さの球体になってしまう。
密教の両界曼荼羅・・・胎蔵界曼荼羅(女性原理)と金剛界曼荼羅(男性原理)

キリスト教象徴の十字の形は両腕を伸ばした人の形でもあり、聖なる樹木でもあり、宇宙の森羅万象と相呼応してる。

ウルベブストザイン=原意識

八万四千偈

宋の国の俗に蘇東坡の名で知られている蘇軾
人間が悟りを引き出したというのではなく、人間が悟ったという瞬間には、山自体・川自体が己の姿を表わしている。

未来永劫の真理をたった一言もってこい。
本で読んだ知識など、人生の前では何にもならない。世で仏法を理解しようなどと望んではいけない。
もし口で教えたら、浅はかな理解で一生終わってしまう。

『存在と時間』ドイツ哲学者ハイデッガー
フランス哲学者サルトルと並ぶ20世紀の実存哲学者であり、観念哲学と言われる。
客観的・物理学的な時間/主体的な時間
「時計の針も落ちよ。時よ止まれ。」ゲーテ『ファウスト』
ゴムのように長くなったり短くなったりする。
私というものが本当にあるのかないのか。あるいは時計の針の中で生きているのか。内面的な感情で生きているのか。
実感で生きているのか。そういうことを考えること自体、全ては時の中にある。
時間と言うものを考えなければ、海も山も存在しなくなってしまう。

釈迦がブッダガヤの菩提樹の下で金剛坐に座り続け、明け方の星が瞬くのを見て、毅然と完全な悟り無上菩提を現成

「拈華微笑」
釈迦が霊鷲山の山上で座に登り、大梵天王から受けた蓮華の花びらを、ただ黙って捩り弄んでおられた。
並み居る大衆は誰一人その意味がわからなかった。
ところが、摩訶迦葉だけがにっこりと微笑した。
「われに正法眼蔵涅槃妙心あり、摩訶迦葉に付す」

道元は正法妙心を摩訶迦葉→達磨→如浄から正統に受け継いだという自負。

理屈を言ってる間は「法」の外側


写真:『空を覆う』(京都市右京区愛宕念仏寺にて)



2007年11月17日(土) 53年ぶりに




2007年05月06日に文化放送から衝撃的な放送があるようだ。

死刑執行の模様を伝える音声テープの放送らしい。

午前10時から55分間放送とのこと。

個人的な意見はまた今度書こう。


写真:『歪められた時間』(大阪府高槻市にて)



2007年11月16日(金) 求めれば




太陽が出ているだけで幸せ。

そんなことに至福の喜びを感じられるのは良いこと。

でもそんなことにしか幸せを見出せない現実は辛い。


写真:『仲良くお昼ご飯』(東京都台東区上野公園にて)



2007年11月15日(木) 一緒に遊んでみた




疑問に思ってる人は多いと思う。

「コマ」がどうして「独楽」という字を書くのか。

調べてみるとやはり色んなことが書いていました。

結論からいうと類音からという説のようです。

その昔中国では「獨楽」と言われ、それが伝わったようです。

他に地方によっては「骨」「地雷」「風螺」「冰猴児」なんてものも。

今では電磁力により永久的に回り続ける独楽もあるとか。


写真:『懐かしい風景』(京都市中京区寺町商店街にて)



2007年11月14日(水) 濁った心の思い




素直なこと、純粋なこと。

をあまり出すべきでないと思う。

それについて話をすること自体が欺瞞に満ちている。


同じような理由でそのような評価を他人に与えるべきでないと思う。

それらしく振舞ったり、自分を押さえ込んだり。


悲しい話、どちらも無関心を装うのが一番簡単だと思う。


写真:『透き通った先に映るもの』(京都府乙訓郡大山崎町宝積寺にて)



2007年11月13日(火) 色んな才能




おなかがすいたら眠ろう。

眠たくなくても眠ろう。

眠れなかったら眠れるように体を疲れさそう。

バットを握って素振り1000回。

おなかがすき過ぎて握れなくなったら、才能なし。


写真:『手垢まみれのバット』(兵庫県西宮市上ヶ原にて)



2007年11月12日(月) 思い出の散歩道




最近「おじぃちゃん」を「おじぃちゃん」と見れなくなってきた。

今までは老人は老人としてあるものとして、
同じように若者は若者として考えることが当たり前だった。

でもその人の少し昔を考えてみると、
それぞれの昔話や思い出により今が作られている。


青春時代があり、甘酸っぱい恋をして、必死に生きてきた。

この写真のおじぃちゃんもそれに漏れることはない。


言うまでもなく、それを最も感じているのは当の本人だろう。

そんな思いが軋轢となったり蟠りになったりする。

そしてまた辛い思いをするのは、なぜか年配にあると思う。


おじぃちゃん、おばぁちゃんの昔話をもっと聞いてみたくなった。


写真:『右手と左手』(東京都中央区月島にて)



2007年11月11日(日) 昼下がりの情事




なんて勝手に妄想してしまう。

中学生の頃の方がマトモだったなぁ。


写真:『オフィス街を抜けて』(愛知県名古屋市東区栄オアシス21にて)



2007年11月10日(土) LinkS




RUCCの偉大なる先輩まろさんのHPを見ていたらびっくり。

多分同じ色に心動かされたんやろなぁ。

30期まろさんhttp://marocamera.exblog.jp/

勝手にリンクすみません。


写真:『あか』(京都市左京区大原大長瀬町大原三千院にて)



2007年11月09日(金) 月満ち




きれいな写真に心躍らない。

そんな時もあるかと思う。

疲れ気味。

めんどくさい。


それって鬱病じゃん。

癒しの方法は心得ている。


時計は1時を指している。

心は満たされていない。


そんな方に送りたい写真

そして音楽

「you raise me up」josh groban


写真:『up!!』(長野県松本市王ヶ頭にて)



2007年11月08日(木)




漠然とした不安。

芥川龍之介の有名な言葉。

その言葉に深みはないと思う。

漠然としたその言葉に、無数の思いがある。

つまりははっきりしたものが一つもない。

考えたくても考えられなかったのかもしれない。


写真:『1837』(静岡県熱海市にて)



2007年11月07日(水) ツナイダソノ手




おうちへ帰ろう。

あったかいご飯が待ってるだろな。

幸せな家庭なんて誰でも作るものだと思っていた。

作るというよりはそれが当然のようなものとも。


親の心子知らず。


自分にはその自信と不安が半分ずつある。


写真:『夕暮れの帰り道』(奈良県奈良市にて)



2007年11月06日(火) 崩れ去る




泣きたい時も、笑いたい時も、ぎゅっってして欲しい時も。

君はいない。


写真:『雪に埋もれる前に』(山形県最上郡最上町にて)



2007年11月05日(月) push phone から聞こえた




このまちも、あのマチも。

興味あるあるようで、みんな自分勝手。

結局は赤の他人。


ハンカチを落としても

タバコをポイ捨てしても

あなたが悪い

あなたの問題

そんな視線でしか訴えられない。


直視することができない人たち

もちろん僕自身も


いいカッコをするとか

当たり前のことを当たり前にするとか


そんなんいいから動け

考えてるだけっていうのは一番邪魔

考えずにもごもご言うてる方が役に立つ


写真:『他人と知人を私は撮る』(大阪市中央区西心斎橋にて)



2007年11月04日(日) このままでいいよ




そんなんよりもやらなあかんことあるやろー。

自分の「やりたい」気持ちだけで動くといつも失敗する。

最近真面目になってきたなぁ。


写真:『空も広いし向こうは海だ』(新潟県糸魚川市能生にて)



2007年11月03日(土) 日本の裏側と誰が言った




冷たい山陰の海が感傷的な僕らに一層孤独感を打ち付ける。

旅は北へ。

北へ逃げろ。

写真:『さよなら』(兵庫県香住町餘部にて)



2007年11月02日(金) hamigakiniha okanewo kaketai




30年後には僕はどんな歯でご飯を食べているんだろう。

入れ歯になってたら・・・

それとも医療技術の進化によりしっかり自分の歯でいるのだろうか。

とりあえずステインは敵だ。

サンスターOra2を使ってステインコントロールをしよう。

同じ高槻市民として応援しています。


写真:『ばいばいきーん☆』



2007年11月01日(木) 口老日




お酒を飲んで、大概の場合は飲むより飲まれてしまう。

で、帰り道一人とかになると無性に動きたくなる。

電車にでも乗ろうものなら吊革で遊ぶことは必至。

その程度ならまだ良いものの、他人に迷惑なんて考えたくもない。


でも、そんな行為を冷静に見返してみると・・・

お酒を言い訳に自我を解放している自分が見られる。

それはとても恥ずかしいこと。

お酒の力を借りないと何もできない自分を吐露しているようなもの。


だから、いくらお酒に飲まれたとしても普段通りを心掛けたい。

明るくなる必要もないし、愉快になる必要もない。


と、言ってもこれだけは気をつけておきたい。

「お酒はみんなで楽しく飲むもの」


写真:『4glasses』(京都市下京区にて)


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きむそん

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