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親父が死にました。
二週間前、4月11日。
死因は「脳梗塞」。
心電図の波形が横へ一筋、ピーッと流れていったのは、
4月11日 午後3時30分。
しかし、 私や母にとっての「臨終」は、
それより約13時間30分前、
4月11日 午前2時のこと・・・。
医師ではなく、我々自らが、
自らに云い渡した、父の臨終でした。
人の「命」 、 人間の「生」・・・
こんなに考えたことはなかった。
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4月11日深夜、午前1時。
担当医師の前に親族4人が呼び出されました。 医師は、我々にこう告げました。
医師
「脳梗塞がかなり進行しています。
脳の右側の大部分は壊死しており、瞳孔反応も希薄で、昏睡状態となっています。
左半身麻痺、失語症、そして意識障害はさらに悪化しています。
相手を認識すること。笑ったり、喋ったり、何かを感じたりすること。自我の意識・・・
全て今までのようには無理でしょう。この症状はもう治療の施しようがありません。」
我々
「・・・・」
医師
「さらに梗塞箇所の腫れによる膨らみが、脳下部の脳幹を圧迫し始めており、
頭蓋骨を外して腫れの圧を外へ逃がす手術をすぐに行わなければ、命が助かりません。」
我々
「・・・・」
医師
「これはあくまで『延命手術』です。成功するかどうかも分かりません。
成功して救命できたとしても、先程述べたように、
笑ったり喋ったり何かを感じたりする状態には戻すことは出来ません。
・・・・・・どうしますか?」
どうしますか?って・・・
究極の選択・・・
非情の選択・・・
こんなドラマみたいなシーンが、自分に降りかかってくるなんて・・・
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医師がここで云う「命」というのは、 「医学的に、生きている状態」のことであるが。 それは、手術をすれば救える可能性があると云う。
だが、医師の「どうしますか?」という質問には、別の「命」の意味・・・
患者と家族にとってのもうひとつの「命」の意味が込められていた。
一体、「命」って、何なのでしょう?
「生きている」って、何なのでしょう?
呼吸をしていれば、その人間は「生きて」いるのか・・・。 否。人間の「生」を生物学的に論じることはできない。
「生の実感」「生の自意識」があることこそ、 他の生物とは違う、人間にとっての「生」ということではないか。 だからこそ「生きること」に価値があり、「生きたい」と思うのであり、 そこに、人間の尊厳がある。
父は、あの時、我々が医師から宣告された時すでに、 自らの「生」を、感じられなくなっていたのだ。
「寝たきりになるぐらいなら、死んだ方がマシだっ!、延命なんかすんなよ!」
「薬代だって馬鹿にならない、お前らに負担かけるなら、いっそ・・・」
このように、親父は生前に何度も云ってた。
「カッコつけんじゃねえ!いいから飲めよ薬!行けよ病院!」
と一蹴していたが・・・
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我々親族にとっての「親父の命」・・・。
親父自身にとっての「生きること」・・・。
植物人間でもいい、とにかく死なせたくない、 というのは、あくまで前者の考え方。 本当に考えるべきなのは、後者の方だ。
この数年間の、毎日十数種類に及ぶ薬漬けの闘病生活は、 親父にとって「生きて」いたと云えるのか?
「まだ死ねない、死んだら家族が苦しむ、がんばらなければ・・・」
「しかし、薬代や入院代・・・、生きようとすればするほど、それもまた家族を苦しませる・・・」
・・・想像しうる、親父のこの葛藤の日々は、彼にとって何だったのだろうか?
すでに彼にとっては、 「延命処置」を受けているという確信犯的な意識の中で、 使命感とともに走り続けてきた毎日であったのだろう。
病院ではなく自宅で、 看護婦ではなく妻と一緒に過ごせた、 幸せな「延命期間」だったのだろう。
彼は決して 「自ら死のう」とは考えはしなかっただろう。
苦しみながらも、 最後の「生」を燃やし尽くす寸前だったのだろう。
彼は「生きた」という実感とともに、 眠りにつこうとしているのだろう・・・。
医療技術による「延命」は・・・
親父にとっては・・・何の意味もないはずだ。
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4月11日 午前2時。
我々は、
延命措置はせずに、
自然に、そのまま、見届けていくという、結論を出し、
医師に伝えた。
同時に各自が心の中で、父の臨終を、
自らに宣告した。
もう、酒を酌み交わすこともできないし、
会いたいと云っていた彼女を連れて、自慢することもできない。
「いいんですね?」と医師が訊く。
「念を押すんじゃねぇよ!」と思いながら、静かに頷いた。
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人は何故「生きる」のか。何故「生きたい」と思うのか?
「生」を実感するときは、どんなときか?「死にたい」と思うときはどんなときか?
親の「死」とは?、恋人の「死」とは?、夫や妻の「死」とは?、親友の「死」とは?
自分にとっての「死」とは?
愛する人より先立ってはいけない、と思った。
愛する人が傍にいるかぎり、死にたいと思ってはいけない、と思った。
その人の愛を五感で感じるときこそが「生」を実感するとき、と思った。
死ぬことがベストだと理屈で分かっても、使命ある人間は、自ら死を選べないものだ、と思った。
それ以外は、まだ分からない・・・。
親父は、それから13時間30分の間、 壊れた機械のように、心臓を動かし、呼吸をし続けた。
そして、電子計器の表示上、午後3時30分、 それが止まった。
「ご臨終です」と医師が云った。
しかし、臓器単位の「生」という意味では、 その時点でも「生きている」箇所はある。
人間の「生と死」というやつは・・・
030425 taichi
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AIR〜the pulp essay〜_ハラタイチ
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