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ブログを始めてみました。 練習も兼ねて先日まで、ネットゲームのあれこれをちょこっと書いたり していたんですが、ネットゲーム自体は止めてしまって、一方ブログは 丁度面白くなって来たので、テーマを決めて続ける事にしました。
CDはレンタル派なんですけど(たまに買う)常に何かは聴いているので それについて あれこれと書く事にしました。
タイトルの『アナザーララバイ』はA・ガーファンクルの1stアルバムに 収録されてた曲のタイトルだった・・・と言う以上の意味はないの ですけど、思いつきで付けて見ました。
音楽は雑食かつ偏食です。 全く聴かないと言うものも、あんまり受け付けな〜いと言う物も実は あります。 でも微々たるもんだと思います。 大抵聴く事は聴きます。 ただ好き放題に聴いてると 偏り方はすごいんですけどね。 食べ物だったら確実に栄養障害を 起こしているかも。虫歯になるとかね。
今回ブログを始めるに当って、今までした事のない事にチャレンジ して観る事にしました。 アフリエイトです。 これはね〜今回の場合 事情があって、ジャケット写真とか毎回撮影して アップロードして曲目も書いて・・・って考えると手作り感は 素晴らしいですが私はとても続かないや〜と思ってしまって。
一昨年くらい前から ブックログとか、大手メディア商品販売のAmazonさんから 直に画像をお借り出来るシステムが定着し、私の使っているブログ屋さんも アフリエイト登録で画像は借り放題なんです。 これって紹介するCDに興味を持って頂ければ、クリックすると収録曲目も 全部出るんで便利なんですよ。 大きな声じゃ言えませんが、それみてレンタルして頂ければと言う。
アフリエイトって副収入って書いてありますけど どうなんでしょうね。 良く判らない私は商品券にしましたけど、来るんでしょうか。 商談成立でやっとポイントになるんなら、来ないって気もしますけど。
ただジャケ写は私が撮影した物とは比べ物にならない綺麗さなので 気のせいかブログまで内容があるような錯覚に陥って欲しいです。 内容、実は思い付きなので あんまり自信ないんですけどね・・・
何か癒されたいな、すっきりしたいな、カラオケで歌いたいな など音楽に関しておもうところありましたならばっ
不慣れですが遊びに来て下さいね☆
一応ここですがサイトトップから普通に行けますんで、どうぞ宜しくです。
昨日バンバンに元気な事を書いた割には延々と眠ってた一日。
数時間であったのだけど、居間の椅子を占領して眠る。 息子がかなり大声で笑っても、電話が鳴っても延々眠り続ける。 こんな時は、母がいてくれて有難いなと思う。
金縛りではないのだけど、目を大きく開いている感覚がずっとあった。 そう言う夢をみているのだろうか? 開いた目には居間の天井が映っている。 ただ、母が言うにはずっと話し掛けても起こそうとしても無反応で ごく時たまであるが、そう言う事もあるのでそのままにしておいたと言う。
目が醒めたら、部屋中が異様な臭いに満ちていた。 掃除してないトイレみたいな臭い。 「オナラしたろう」 と息子に言うと、「ちょっとした」と言うので叱ったが オナラクラスの臭いではないのは判っている。 やはり、時たまなのであるが、何かの臭いが極端に強く感じられる事が あるのである。 大抵、体調の良くないとき。
「旅行に 行きたいなあ」
何となく呟いたら「旅行??どこへ??いつ??」と、ものすごい 勢いで息子が絡んできた。
「ううう。夏くらい?富良野とかニセコかな?まだ決めてない」 「やったあああああっ」
ごめん、本当に調子が悪くてねえ。何となく言ってみただけ。 通帳もってどっか、行く先も決めないでふらっと、木賃宿に泊まって そこに居つく生活。 もちろん一人で。 いや、考えただけ。
「旅・行!旅・行!」
はうううううう。
一時間後には嘘のように体調は良くなり、臭いも消えた。 更年期じゃないの? と母に言われて、年齢的に言下に否定も出来ず 消臭剤の隣りでしょぼしょぼ頷きながら、息子の誕生日ケーキの残りを食べた。
息子は今日の約束を絶対に忘れないだろう。
でもまあ、夏は概ね体調も良いので、そうなるとニセコも富良野も 私自身も大変楽しみではある。
木賃宿に暮らす生活は周囲に誰もいなくなってからまた考えればいい。
なりたくないから、足を止めない事にした。
自分は器用でもないし、人の言ってる事も 1回では中々理解出来ないし 解った!と思ってもそれは全然違っていたり、そんなのしょっちゅうで。
しかもそれで人の親だったり。
でも歩け、とか 怒れ、とか 時には それ逃げろ!とか 最近やっと少しだけ。 泣いてばっかり、うつむいてばっかりから 何とかしないとねって、自分の事に 向おうと言う気持ちになろうと
してる かな?
だって、どうしていいか 判らないとかって言ってたら もう 本当に大変なまま 大変な年齢を迎えてしまうわけで。 みてると同世代人が、悔しいほどかっこよくなってて そんなのみると、余計 泣きたくなるけど、嘆きたくもなるけど
おもろい人生
と言う事で、陳腐なドラマを演じたような気分になって 切り替えて、探して
歩いて歩いて、まだ、歩かないと。
『私の孤独』MA SOLITUDE (1969)
ジョルジュ・ムスタキです。30年前に『バラ色の人生』と言うドラマの 主題歌になっているそうです。なんか最近、オムニバスで聞いたなー と思って調べてみたらフジテレビ系 『危険な関係』(99)の挿入歌にも 使われたらしく(観てない)『ドラマチック・デイズ』と言う オムニバス・アルバムに収録されてました。
これは2枚組みのアルバムですけど、選曲がお洒落でまとまりがあって 良い感じ。余りガンガンした曲はいやだけど、癒し系なら寝ると言う 方のドライブのお供などに。 ドラマ良く観る30代前後の方のおデートなんかにどうざんしょ? (すごい余計なお世話^-^)
訳詩がありました。他所様から失敬して来ます。 シャンソンと言う事もあり、哲学的で文学的な訳も見かけます。 幾つかありましたが、そんな中で やわらかめの物を。
ベッドに腰掛けて お前を見ていると しみじみ思うのさ 過ぎ去った日々を あれはあれでいい 私のそばに お前が来てからは 光に満ちている もう一人じゃない 孤独と二人だから
これは3番の歌詞らしいですね。
Non, je ne suis jamais seul, avec ma solitude
これがラスト一行の歌詞になります。うう、フランス語だっ
avec ma solitude 静かな諦観を感じさせる印象的な歌詞ですが
私の『孤独』は今日で8歳になります。 寄り添ってずっと、過去を諦めさせて前を向かせてくれます。 それでいいのだと、教えてくれる事もあります。 彼は『私の孤独』だけれど、有難い事に 彼自身は孤独でないようです。
身長はもうすぐ140cm、体重は31キロになりました。
おまえは首が短いな おまえだけ顔は歪んでいるから口は開けない方がいい ひどい猫背だから、人前に出ない方がいい
どれも同じ人に言われた。20代前半の事だ。
怒ると言うより、言われた事がない事ばかりなので驚いた。 それとなく周囲に確認してみる。首は短くないと言う事であった。 本人を前に事実は指摘しづらいだろうと言う向きもあろうが 私自身 首の長さは、今もごく平均的だと思っている。
顔が歪んでいると言うのは、当時女性コーラスをやっており 定期演奏会を みに来たその人の、感想の第一声がそれであったのだ。 これも、人間の顔はほとんどは左右対称じゃないからねと言う当たり前の 話になった。こんな話しになると、自分の顔が歪んでいないと言い切れる 人はいないので、自分の事を指摘されたように、聞いた人も腹を立てる ようであった。
ただし猫背は本当である。人前に出るのが問題があるほどかどうかは 別として猫背はちょっと気にはしていた。 ただ、これは外科的な原因でなければ簡単に直る。背筋を付ければ 良かったのである。猫背を直すためではなかったのだが、のちのちたまたま 背筋を付ける機会があったら、猫背が直っていた。
短い首を 着こなしで目立たないようにさせる事は出来ても 首自体を 伸ばす事は絶対に出来ない。 顔が歪んでいるから口を開けるなと言われても困ってしまう。 だからどうしろ、と言うのでもないのだから余計に困ってしまう。
その人は足が短く、鼻が曲がっており、音痴であった。 私もそうだと感じてはいたが、案外無遠慮な周囲がはっきりと私に指摘 してくれたので、他人からみてもそうなのだなと思った。 短い足は、格好悪いけど伸ばす事は出来ない。鼻だってそう言う鼻なのだ 仕方ないのである。 ただ、個人的には音痴が痛かった。 耳で反響する音と、実際に響いている音は少し違う。だから慣れないと ちょっと音程が不安定になったりする事がある。 今はカラオケがあるので こう言う歌慣れしてないプチ音痴はほとんどいなくなったのでは ないかと思う。 その人は リズムも音程もぐしゃぐしゃで、しかもずれている事に全く 無関心な真性音痴な人だった。聞いた人が吹いちゃう事もあったので それは正直恥ずかしいなと思う事もあった。 またそう言う人に限ってカラオケでは浜田省吾とか長い歌を好むのは 何故なのだろうと考えた事もあった。
何も言わなかったのは、言っても何も良い方向には行かない気がしたからと きっと、彼自身20何年生きて来て、暗に、時にははっきり、感じさせられ 判っているのだろうと考えたのもあった。
言われて良い思いをするはずがない。 だから自分も言わない、となるはずが 言われる前に言うになったのか。
この短足鼻曲がりの音痴!
と 言われた時即座に言い返した方が良かったのかな?と考える。 言い返す事はなかったのだが、短足も曲がった鼻も音痴も、それでいいもの ではなくなって行った。
受け入れない事(否定する事)が 相手からの否定の呼び水となってしまうのだ。 いつまでも残る、お互いに愚かで哀しい記憶である。
☆ ☆
知り合いが歌のファイルを送ってくれた。 KOKIAという人の「人間ってそんなものね」と言う曲が入ってた。 若い人向けのメッセージソングではあるが、歌詞にはどこか普遍的な ものがあって、今の自分を勇気付けてくれた。
歌は声であり、言葉である。
表現出来る人は素晴らしいし、それを共有出来る事もまた素晴らしい。
映画は自分でも驚くほど、観ない。
なんでだろな〜と考えてみたが、好きな映画を茶の間で好きな時に 観られる時代になった時にはエエ歳になっていたのも理由かと思う。 私は大音響が体質的に苦手で、コンサートや映画は行きたくても ほとんど行けなかったのだ。
音楽はレコードや やがてCDで聴きたい物は幾らでも聴けたし、歌番組も 流れてたけど、映画は中々、そうは行かなかった。 話題作を民放で流す事はあったが、いつも吹き替え版だった。 カウチポテトなんて言葉が出てきた時点でもう・・・若くないし。 臨界期を逸してしまったと言えるかも知れない。
そんな自分でも、何度も観た 好きな映画はある。 フェデリコ・フェリーニの『道』(La Strada) 1954年作品。 うっわ、昔とは思ってたけど50年以上前になるのね・・・
とても有名な作品なので、観ている方も多いかも知れない。 ニノ・ロータの作曲した「ジェルソミーナ」は既にトランペットの スタンダードナンバーなので耳にしている方も多いだろう。
乱暴で甲斐性がなく、ひたすら意固地な男と、泣き虫でお馬鹿で一人では 中々学習出来ない女と、天啓のような事を言うには言うけど微妙に 社会不適応な男が出て来る。
(アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ、リチャード・ベイスハート)
こんなに美しくて哀しい映画はないだろう。
あんな映画こんな映画、あんまり色々見てないけどさ。 とは言え今から何本観ても。この映画の評価が自分の中で下がるものでは ないと思う。
レンタル店にも置いてあるようです。 邦画最新作と、ハリウッド大作の間に挟むようにして、機会があったら 一度観てみて欲しいかなと、ここを読んで下さった方にはお勧めします。
困った時に、誰も話す人がいないやと感じるほど孤独な事はないので 相談事は意識して、するようにしている。 誰でも彼でも何でもかんでも言うヤツと思われても仕方ないわけだが 実は意識してしないと、割と何でも手遅れになってどうしようも なくなってから困ってしまう方で、「何故言わない」と叱られて来た 方が、これまではずっと多かった。
特に人間関係がらみの相談は、他人の事を、あくまで自分サイドの目で 当事者のいない場所であれこれ言う訳で、平等ではない。 悪口ではなくとも、少なくとも平等ではないのだ。
だから相談相手は選ぶ事にしている。
ちゃんと自分がある人。こちらに合わせず、自分の考えで答える事を 旨とする人。自分でみたわけではないから、心配や同情をその場では口に しない人。「自分に言われてもちょっと困るが」と言うスタンスが一番 私は相談しやすかったりする。
相談は 道を右に行くか左に行くかと言う 事務的でありとても重要な行為だ。
自分は右が良いと思う。相談者も右が良いと言ってくれる人を選ぶ。 でも左に行けないどうしようもない悲しさを慰めて貰う事も嫌いではない。 左に行ったら花が咲いてるかも知れないじゃないか? どうして二股に分かれた道に着いてしまったんだ?
言っても詮無いそんな事は、それはそれでまた心配し、優しい言葉を かけてくれる人がいる事もある。 それもとても 嬉しい事だ。
相談事も心配も、同じ人と語れる人もいると思う。 自分は目下、それをやったら周囲に迷惑をかけるばかりになるだろう。 だからそれが普通と言う人が羨ましいなと思う事もある。
自分に何か相談してくる人がいて、その人が迷い傷付いているなら 出来る限りの事はしたいと、考えるだけは考えてみる。
バレンタインデーだった事は置いといて、ひどい吹雪だった。
お正月、庭に花が咲いてるのをみて「このままでは済まないだろな〜」 とは確かに思ったけど、厳しい。 厳しいよ風邪引いてる時の運転は!(泣)
息子を音楽教室まで迎えに行く途中の事だ。 非常に視界が悪い中、道路の真ん中で集団で立ち往生している人が。 女子高校生らしい一群だ。
歩道は雪が積もってる、だから車道を歩いていたのだろうが 吹雪で前が みえず、遭難の一歩手前らしい。 困ったね。 彼女らが自力で何とかするまで少し待ってみた。後続車もいないので。
その時気付いた。 彼女らは揃って素足であった。 知ってます、判ってます。 生足って言うんだよね、今は言わないの? その素足が、真っ赤になっているわけです。 だって零下だし。 4〜5人の女子高生の凍傷寸前の生足。 痛々しい。 多分感覚なんてなくなって動けなくなっているんじゃあないかと。
日本列島は縦に長い。真冬に素足は無理だろうって地域もあると思う。 でもどこからがそうで、じゃあどうする?ってなると、冬は厚いタイツ 履いて学校通えてた経験しかない私としては想像も付きません。 自分だけタイツ履くねって言えないっぽいもん。全員素足だもん。 スカート丈もコート丈も短いしね。 小学生のほっぺの色の足・・・ううう〜
と、かなりの時間が経過した。女子高生は動かない。 いや、少しずつは前進してるわけだけど、真後ろに車がいるのに 非常にゆっくりであり、振り向いて気にする様子の子もいない。
み
仕方ないから、禁忌のクラクションを短く鳴らす。 彼女らは一斉に飛びのいて、それまでとは全く違ったスピードで路肩に 寄った。視界が悪いから、みえないって事はある。 でも夏でも これをやるまで車道の真ん中に 挑戦的に歩かれてる事も あるからな〜
息子はペンギンのような完全防備だがそれでも寒そう。
車内は女子高生見物で時間をとってるうちに、何時の間にか暖か。 レンタルして来たCCRをかけながら帰り道も慎重運転。
「これなんて曲?これなんて曲?」 息子は気に入ったらしい。
「雨を見たかい」で晴れた日に降る雨を見た事があるか?ってあれは ナパーム弾の事だとどっかでみたっけ。
「Have you ever seen the rain」 ぶっきらぼうに答えて、信号のない薄暮の横断歩道に目を凝らす。
黙って聴いている息子とあっと言う間に家の前。 行く時の女子高生軍団は、難を脱したのか姿がなかった。
「『雨をみたかい』って言うんだ。この曲は」
言い直してから息子を追い立て、暖かい家の中へと帰す。 一寸先も見えなくなっているが、もう一周して来たい誘惑を振り切り 熱っぽい身体で、私も家に戻った。
また、一旦閉じてたサイトをいじくりまわしてる。
この日記は、サイトが出来る前からじみじみと付けていた。 サイトがお休みしてる時でも、ここだけたま〜に書いてみていたり していたわけだけども。 本当にごくたまにチェックすると「ああ、そだっけ」と思い出す事が あって、それも結構便利だったり。でも紙で書くとなると続かないんで 本当に本来の日記と言う意味合いで書いてる。 それが 続けてる理由の一つ。
もう一つは、やはりwebであるので発信。 webで人と繋がろうとするのはそれ自体、ネットに依存しているのでは ないか?と指摘されて考えた。
かなり以前の事だ。スティングの「孤独のメッセージ」(名曲)を 当時、誰でも彼でも作り始めてたホームページに例えた文を読んだ。 無人島の浜辺に打ち上げられた「SOS」と書かれた紙が入った無数のビン。 読み手のはっきりしない場所へ、延々と発信されるメッセージ。 みな、孤独なのだ、とまあ読んだのは10年以上前である。 PC持ってないからそんなもんかねと思ったものだ。
確かにこう言う事をやっていても一銭にもならない+お金が案外かかってる +リスクもあったりするんだよ+手間も存外かかってる
そうまでしてまでやる意味を 説明しろと言われても好きだからとか 趣味だからとかしかいいようがない。 それこそ物書くにしても作るに してもプロじゃないもん。好き勝手言ってやって発信出来る、普通は 片手間には中々持ち得ない手段なんである。
親しい人にページの存在を知らせる事で 自分の消息を知らせる気持ちに なる事もある。 自分はここでこうしていると。 結果的に不特定多数の目に触れてしまう事を どんな事よりデメリットと とるか、オープンでやる場合は、自己満足でもメリットも何かはあるさと考え 鷹揚に構えてやるか、と言う事かなあと思う。 私は結局、受信も発信も嫌いな方ではないのである。 それって孤独と言う言葉とは少しばかり離れている気がして来る。
砂浜に打ち上げられた無数のメッセージ。 ガラスの瓶の蓋を開け、ちまちま読むのが性分と言う人もいるだろう。 無数とか無限と聞くと人は怯んでしまうが、枯れ木も山の賑わいで ブログも日記も、こうした目的がやや不明なサイトも、詰まらなかった〜 くらいのスタンスで出会って頂いて上等かとも思う。
詰まらないものほど、いざなくなるともっと詰まらないんじゃないか? などと自己弁護を兼ねて思ってみたりもするのだ。
2007年02月09日(金) |
長年の疑問 (テレビ編)。 |
テレビはあんまり観ません。特にドラマは観ないんです。 ちょっと観なさ過ぎかな〜〜と思うくらいに観ない。
観るのはNHK教育、数年前の改編から面白い試みをどんどん取り入れる ようになって、各番組のコンセプトも明確になった気がします。 む、書いてて自分でえっらそ〜にと思った。 つまりまあ、考えてやってるっぽい感じは受けるようになりました。 でも昔から教育テレビは面白かったんですけどね。
あとは衛星で自然物とか・・・子供は動物番組とかバラエティも 好んで観始めました。(TVチャンピオンとか比較的他愛ないやつ)
あ、話がそれた。
今はあまり観てないとは言え、本来はテレビっ子でした。 一日中テレビ点いてるし、点いてれば観る。 昼メロなんかも見てました(学校休みのときとかですね)
記憶の中のドラマの中でどうしてもここがわからないってのが幾つか あって、ネットで検索しても全く手掛りもロクに得られないのです。 私が記憶の彼方だと思ってるくらいなので、どれも相当古いのですよ。 でもって、一応気になっている3つを書いてみます。 気になっている順番から。
1.確か昼メロ時間帯だったと思うけど「わたしの愛は」と言う タイトルだけは自信あり。主演は樫山文枝と(故)東野英心 ラストシーンが主人公のビルからの唐突の飛び降りだった。 なんでそうなったのか。衝撃を覚えた割に物語が理解出来てなかった。
2.NHKのやっぱり昼帯ドラマで御祖父ちゃん役が益田喜頓 鍵となるのがアンティークオルゴールで、曲目はカヴァディアナ ルスチカーナ。当時はマイナーな曲であったと思う。 そのドラマのタイトルが判らない・・・
3.やっぱりNHK。夜のドラマ。 主演が三田寛子。祖父役で志村喬(渋っ)途中で朗読された戦争を テーマにした兵士の詩の、出典が判らない。しかも内容まで今では 忘れてしまった・・・
この3つがどうしてもひっかかってて、ネットで調べても出なかった やつなんですけど・・・特に気になってるのが、初めに書いた 「わたしの愛は」です。本当にラストシーンが主人公の女性の 唐突な飛び降りだったのですよ。夫となるはずか、すでに夫の東野英心が それを呆然とみてるみたいな。
どうしてそんな展開になったのか・・・ これは結構気になってたんで、割と以前からネットで調べていたんです けどね・・・
自分たちも子供の頃はこれに随分悩まされた。 工作とか「自由研究」。
夏は工作とミニトマトの観察日記。 工作は、15年前に買ってすでに壊れた携帯用のカセットレコーダー (携帯と言えど随分大きい)を更に破壊し、回転する部品の上に 一斉にビー玉を乗せて回転させる「ビー玉回し器」と言う一発芸の ような作品で乗り切った。
使用したもの;壊れたカセットレコーダー、ビー玉。ボール紙とセロテープ
冬も何か作らないといけないわけだが、我が家は祖母が割とこうした ものに変なアイデアを持ち込むのが好きなのであった。 「何か壊れてそのままになってるものはないか」 我が家の工作のテーマは 廃品利用と言うエコなものになりつつあった。
祖母が壊れたオルゴールを持ち出した。「これを使えば?」 それは私のお気に入りのオルゴールで、壊したのは祖母(母)自身であった。 何とかテープとかで貼って誤魔化して動かしていたが、いっそこの際 リサイクルしちゃえと言う事になった。
数日前の授業参観で、子供たちが冬休み中、手や頭を悩ませ続けた 作品群をみせてもらう。 ログハウス。 トイレットペーパーの芯を溜めて 作ったと言う。「この長いのは、サランラップだ」 「正解」 お母さんは 芯集めが大変だったと言って笑った。 「お父さんが結構手伝ってさ」 と言いながらも大作に誇らしげなお母さん。 扉を開けると、ベッドや家具もちゃんと細かく作ってあった。
たくさんのマフラー。女の子たちだ。全部かぎ針編み。棒針はまだ 難しいのと、目を突いても大変だ。 十分実用に耐える、可愛い色味の マフラーがずらっと並ぶ。 それと書初めが掲示板に展示してある。 ペットボトルにビー玉を詰め込んだもの。 特に何であるのかは書いて いなかった。 学校が始まって直ぐ、各自の作品発表会があったらしいから 参観はその日にして欲しかったなあなどと考える。
息子のオルゴールはそこには無かったのであとで本人に聞いてみると 「ガラスケースに入ってる」 との事。 玄関にガラスのケースがあるのだが、壊れ物っぽい作品が収納されていた。
今ちょっと、オルゴール部分だけあったら上は自分らで作れないか?と 大人同士の間で話し合っている。クリスタルビーズは高いから プラビーズで。LEDライト付き台座のみのオルゴールってありそう。 息子のはたまたま廃物利用だけど。 見付けたら、作ってみようか、と言う話になってる。 結局作りたいのは、自分たちなわけなのです。
曲はスターゲイザー(スピッツ) 元は天使が付いていて、正直 割って欲しくなかった代物だ(涙)
使用したもの;壊れたオルゴールの台座、百均のはしたてとキラテープ 幼児期に遊んでいて存在すら忘れられていたビーズ。 チョコレートのケース(屋根の部分)
一応光りながら回転します。元が出来合いと言えば、まあ、そうですね〜
2007年02月06日(火) |
自販機、喋りますか? |
あなたの街の自販機は喋りますか?
確か、ずっと昔「お金を入れてください」とか言ってた自販機が あったような気がするな・・・と言う記憶はお持ちの方が多いように思う。 駅の券売機と、記憶が混同しちゃいそうな気もする。
あとは当りでもう1本の自販機。これは今もあるのかな?
昔、喋る自動販売機があった。 ここまでは「そうかもね」で終わりそうな 話である。 ところが、去年辺りから現れ始めた新しい喋る自動販売機があると言うのだ。
それは某コーヒーメーカーの自販機だと言う。 確認されたのは目下一部地域である。どっちかと言うと北の方とここでは 申し上げておく。 障りがあってはいけないからだ。何の障りかは判らないが。
他の販売機は喋らない、そこのメーカーだけ喋る。 しかも声にも数パターンがあり、大抵お姉さんヴァージョンだと言う。 語彙も豊富らしい。 「まいど〜」 お姉さん声で「まいど」かっ! でも実際そうであるらしい。 他にも「いってらっしゃ〜い」 「お仕事ご苦労様☆」などが確認されている。 どうやら時間帯で発する言葉が違うらしい。
お仕事・・・してない人が何となく缶コーヒーを飲みたくなって自販機へ。 「お仕事、ご苦労様☆」 優しいお姉さんの声。 悲しくはならないのだろうか。気掛かりだ。
情報提供者は「たまたま自販機の取替え時期に来てたからかな?」 と言う、割と呑気なお答えだ。東京に住むK君はまだ喋る自販機を確認して いないようだ。 地域の試験販売なのだろうか。 大胆だ。
ちょっと我が家の近所の販売機が喋るかどうか、猛烈に知りたくなったので 探索の旅に出てみようかと思う。
喋るのはダ○ドーのコーヒー自販機。
これってネットで調べれば、喋る自販機の正体と分布は判るような気も する。 そこを敢えて、マイ都市伝説として ダイ○ーの自販機、探して みようと思ってます。
北の某地区では去年から喋ってた。
あなたの街の自販機は、喋ってますか?
ここではないどこかへ。
後姿が見えなくなる前にこちらが走り去ってしまう方が ずっと、あとあと楽なのだ。
自分の負担を考えるに、その方が良いのだ。 例えば道が間違っていても、取り敢えず 早足に去った方がいい。
そう思いながら 月の光を静かに浴びている。
地面に転がった人形だ。 手も足も、首もなかった。 元々どこにも行けないのだった。
五体満足の人形が打ち捨てられているのを見て それを壊し 汚すのは、全うな心理とは思えない。 だが、既に人形の姿も保っていないものが無造作に転がっていたら・・・ 可哀相と手に取るよりも、目を背けるかいっそ踏み付けるか 見たくない、なかった事にしたかったと言う心理の方が普通に思える。
歩み去れない足、踏まれ、人形であった事実も消し去られるのを待つ身体。
一瞥をくれて、踏み付ける事はせず 目を伏せ歩み去る優しい影。
昨日夕刻、母が深刻な顔で私の部屋のドアを開けた。 何か起きたのだろうか。
「金魚が1匹・・・死にそうなんだけど」
そんな事か!と言っては金魚にあんまりだ。 だがやっぱりそんな事で そんな顔で人の部屋に入ってくるなよ〜とは思う。
金魚がいるのかと思われる方もいるかも知れない。 いるんです。 調べたら2005年6月くらいまでは金魚の記述があった。でもそのあとは・・・ とは言え、残った3匹はあれからずうううっと生き続け、でもって そのうちの1匹が昨日ついに死んでしまったと。
死んだ金魚はポンポンと言う名前のメスの和金。 金魚すくいの金魚の巨大化したやつ。
見ると金魚部屋のふすまが閉めてある。 「横倒しだけど、まだ尻尾だけ動いてるから少し生きているのかも知れない」
何故か おどおどする母。 尻尾??普通辛うじて生きているかはエラで 判断するので・・・・・・ 「それは多分エアレーション(空気ポンプ)で動いているだけだね」 と言いつつ、ふすまを開けたら案の定、既に明らかに死体だった。
「しんどる」と私は言ってビニール袋を持って来た。 既に金魚用の網からはとうにはみ出し、障子もその尻尾でぶち破った金魚 ポンポン。 愛着はある、だがほっとした。
「水棲生物は、二度と買わん」 ぶつぶつ言いながら自ら引き上げ母の方に 向けると、僅かずつだが後ずさって行くではないか。
「なんと、怖いの?」
「私、死んだ金魚はどうしても気味悪くて、それ今やらなくても明日まで そのままで良かったんじゃないの??」
「いいけど・・・ふくらむよ」
「うわあああああ」 などと言うやりとりのあと、小さな鯛のように みえるポンポンは生ゴミに出される事になった。
別に雑に扱いたいわけではなく、冬に死んだ動物は基本的に火葬と言うのが 我が家のルールなのである。庭には積雪。
躊躇されるかどうかの違いで、結局結論は同じになるわけで・・・ だから10月末に死んだお〜ちゃんはギリギリセーフだったと言う事になる。
金魚が死んだ。
と言う表現がこの場合正しいのだろう。 だが大きいのがまだ2匹いる。
金魚が減った。 どうしても心情的に譲れないタイトルだ。
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