せらび c'est la vie |目次|昨日|翌日|
みぃ
またちょっと間が空いてしまった。 今日は乙女座29°の新月であり、また日食(eclipse)でもある。 それがお茶の間の皆さんにとって目視出来るかどうか、という点については、この際どうでも良い。西洋占星術的見解の話である。 今月は二つのエクリプス(日食・月食)が到来する、かなり重々しい月である。まぁいつもセットなのだが。 以前にも日記に書いたかも知れないが、エクリプスの際は通常の満月や新月の数倍のエネルギィが放出されているので、物事が突然予期せぬ展開を見せる事が多く、しかしそれに釣られて性急に決断などすると間もなく後悔する羽目になるから、気を付けねばならぬ、という事になっている。 ワタシはその第一弾、9月7日の満月・月食時に、ワタシの出生時のアセンダントの角度が丁度一致していて、かなり冷や汗を掻いた。先日日記を書いた頃が、それである。当時ワタシは、ボスとの意思疎通問題または業務上のパートナーとしての関係に悩まされていた。 この日記を書いている今、その問題はひとたび解決したかのように見えたのが思わぬ方向に飛び火して、更に大きな問題となってワタシを苦しめている。 いや、本当のところは元々大きな問題だったのだが、見ない振りをしてい遣り過ごしていたのが表面化して来た、という話である。 今回は何だろう、と調べてみると、ワタシの出生時の冥王星が正に乙女座の29°を逆行中だった、という事が分かる。これは痛い。どうやら今回のエクリプス的不運は、ワタシを直撃する事になっている模様である。 冥王星は最近一寸有名になった、例の「惑星成り損ない」である。西洋占星術業界においてはこれまでの解釈を継続していく様子なので、ワタシもそのまま解釈に含める事にするが、これは中々ヘビーである。 今回のエクリプスは、射手座の冥王星と獅子座の土星が良好な角度を形成しているところを直撃する形で、好ましくない角度を形成している。 これは、ワタシが一向に態度を改めないので、痺れを切らした外的要因がワタシの代わりに決断を下してくれようとしているかのようである。ワタシの人生は再び、三度、いや四度、大きな変革を迫られているようなのである。 実は、現在と同様な冥王星と土星の位置関係は、過去にもあったらしい。 資料によると、1995年5月から9月まで、冥王星は蠍座の終わるギリギリの辺りに位置し、魚座の土星と良好な角度にいた。また1996年3月から1997年の4月まで、牡羊座にいた土星が射手座に入った冥王星と良好な角度にあり、同じ状況が1998年1月には二週間程続いた。 そう言われて気づいたのだが、ワタシはこのうち1995年時と1996-97年時に、まぁ言うなれば人生の道をうっかり誤って、そのツケを払わされている。1998年時はそれほど大きな節目では無かったものの、成すべき措置をつい取りそびれて後に痛い思いをする羽目になっている。何れにせよ、人生の辛苦を舐める逆境の最中にいた事には違いない。 嫌な予感である。 「人事を尽くして天命を待つ」と言うけれども、現在のワタシの人生においてはワタシの権限では決められない物事が色々とある。実際尽くせるだけの人事を尽くしたかどうかは、自分でも一寸良く分からないのだけれど、とは言え今回の一件については既に他者に決断を委ねざるを得ない状況に至ってしまったので、とりあえずワタシは神妙にしてその決断を待っているところである。 自分のやりたい事を、人に許可を取ってからでないと出来ない、というのは大変不都合で、また不甲斐無いものである。こういう時、外国人というのは大変不便である。 このところ何をやるにしても、一筋縄で行かない問題が色々と絡んでいて、仕方なくワタシはそれを保留にしている。すると矢継ぎ早の催促状が飛んで来て、返事をしたいのは山々なのだけどそういう訳でワタシも他人の返事待ちなのだから、如何とも仕様が無く、引き続き保留にする。そうこうしているうち匙を投げられてしまって、何ともがっかりする。 一通り事が済んでから改めて説明すればどうにかなるものだとは思うけれど、こういう時は本当にエネルギィを削がれるような気がする。 折りしも、まだ上の決断が出ていない最中なのだが、ワタシは今日ひとつ会合を仕切らなければならない事になっている。 まさかこんな事態になろうとは思ってもみなかったから、ワタシは当初の予定の通り続投するつもりでいたのだけれど、此処へ来て状況が一転して、ワタシは自分の身の振りを心配しなければならない事になったので、実際それどころではないのである。 しかしそうは言っても、今日のところはやらない訳には行かないから、平静を装ってやる事になるだろう。心許無いが、他に致し方無い。これが運命というものか、と因果な事態を呪う今日この頃である。 この一件が上手い具合に進んだとしたら、ワタシはもう今後一切こうしたトラブルの所為で不安な日々を過ごすのは御免だと、何としてもそれを回避する方向で努力を惜しまないだろう。そして漸く一通りの成すべき事を達成したらば、こんな精神衛生上好ましくない場所からはとっととオサラバするのである。自分の人生を自分でコントロール出来る人物になるべく、自分の人生を切り拓いていこうと思う訳である。 しかしもし上手く行かず、つまり最悪の事態になった場合、ワタシにはそんな選択も残されていない。尻尾を巻いて泣く泣くお家へ帰るしかないのである。そして、こういうチャンスはもう二度と与えられないだろうから、ワタシの人生も夢も理想も、最早これまでである。 ところで、今回のエクリプスでヘビーな思いをしている人々が意外と少ないらしいのに、ワタシは一寸驚いている。 本来なら今月は、何だか知らないが思うように事が進まないとか、どうも彼方此方滞って面倒を掛けさせられているとかいうような不平不満が続出する予定になっているのだが、殊に今日のエクリプス周辺でひいこら言っているのは、やはりワタシくらいしかいないようで、なにやら悔しい。 勿論こういう事を察知するにも個人差があるのだが、数日前から妙な気配を感じている人もあれば、エクリプス当日にがつんとやって来て驚く人もある。また、現時点での星回りとその人の出生時のお星様それぞれの角度が悪くない場合は、逆に良い知らせが舞い込んで来たりして、ちっとも辛くなんかないという人だってある。 ここ数日を乗り越えればどうにかなるのか。いや、その頃にはワタシの未来も決まっていよう。良かれ悪しかれ、お天道様が答えを出してくれるのだから、たとえ文句があったとしても、これまで結論を出さずに過ごしていたワタシの自業自得ではある。 溜息が胸を満たして、食欲不振。
ものすごーくご無沙汰。すいません。生きてます。ちょっとばたばたしていますが、なんとか日々をやり過ごしています。 時折Mixiには日記を書くのだけど、書ける事と書けない事がある。 あちらには友人や先輩など「明らかな顔見知り」が観に来るので、例えば今のワタシのどろどろとした精神状態について書いたりしたら、絶対心配しそうな旧知の心優しい人々数名、こんな公共の場で感情の垂れ流しかよ、可哀想がって貰いたいのかよ、自業自得なんじゃねぇのかと冷ややかな目を向けそうな比較的新しい知り合いの人々若干、というような次第で、思ったような事が書けないのである。 拠って、えんぴつさんに戻って来てしまった。読者の皆さんの殆どがワタシを知らないのだから当たり前だが、古巣は心地良い。 Mixiでは結局、当たり障りの無いお天気の話や、今日は何を食べたとか、そういう話題ばかりになってしまう。自分で読んでいて、まるで能天気な日々を送っている「あんぽんたん」のようではあるが、致し方無い。 実生活で顔を合わせる機会の多い同僚に日記を読まれるというのは、実はかなりのプレッシャーになっている。 例えばワタシの専門領域に関する一寸小難しい話題について、記事を引用して思う事を書いた日が何度かある。ワタシの「Mixi仲間そして同僚」の何人かは、恐らくワタシとは政治的思想的に別の立場を取っていそうな気配があったのだが、それでもコメントをくれるのを多少は期待をして書いたので、反応が無かったのに一寸がっかりした。 そういう時には、直接面識は無いが同じ業界人である別のMixi仲間だけが、コメントを残してくれた。 彼女も外国暮らしが長いそうで、寧ろ日本語の方が一寸覚束ない感があるくらいなのだが、それを読みながら、我が祖国は大変遠くなりにけり、と思ったりした。 前からそれは分かっていたのだ。 しかし此処へ来て、Mixiという媒体を通じてその比較的親しい関係にある同僚ら、しかし年に一度は日本に帰るし日本が大好きだと言って憚らない彼ら、従って外国に住んでいながら頭の中身はすっかりニホンジンであり、多分ニホンジン的要素を失わないように日々心がけていると思われる人々とのギャップを、切々と感じるようになって来た。 そうしたら、やはりお天気と食べものの事くらいしか書けないよなぁ、と寂しくなった。 あそこは、とても日本的な空間である。 勿論、非ニホンジンもいる。驚く程上手に日本語で日記を書いている。 しかし最近のワタシは、日本という国は、色々な意味で馴染むのに相当骨が折れる文化を持っているような気がして、逆に言うとなんだかとても排他的で、そうなるともう何年も日本に帰っていないワタシなどは本当に「浦島太郎」状態で、インターネットで得られる情報などホンの一部でしかないという事実を、遅ればせながら感じている今日この頃である。 そう思うひとつに、最近起こった個人的な問題がある。 実は日本から持って来ていたクレジットカードを、最近失効してしまったのである。 理由は簡単。実家の両親が何年か前、いつの間にか隣町に引越しをしたのだが、忙しさにかまけてワタシのクレジットカード会社に住所変更の届けを出しそびれた、というのである。それで期限が来たらそれきり、更新してくれない事になったようである。 この会社は、日本の住所しか受け付けない、というので、ワタシとしては甚だ不本意ながら、両親に銀行口座の管理などと一緒に一切をお願いせざるを得ない事態になっていた。いつか戻って来たら、使えるクレジットカードが一枚くらいあった方が良かろう、という算段である。 その「いつか」が一体何時になるのか、誰にもさっぱり見当もつかず、またワタシ自身も果たしてその気が殆ど無いという悲しい現実が暫く続き、ある時気づいたら、新たなカードが送られて来ないまま、数ヶ月経っていた。 ワタシは今回の一件によって、ワタシが日本で支払いなどに使っていた所謂「メインバンク」が他所の銀行と合併していて、それは一体なんという名前になったのか、此処へ来てようやく知る事になった。また、ワタシが口座を開いた地元の銀行支店は、どうやら現存しないらしい、という事も知った。 そういうのは本来なら、一時帰国や家族との日常的な連絡などで得られる情報なのだろうと思うのだが、そういう訳で小まめに連絡を取る程親しくない家族を持ち、だから尚更一時帰国の足も何年も遠のいてしまうようなワタシには、残念ながらこれまで一切知らされなかったという訳である。 その銀行のウェブサイトを観ると、どうやら「インターネット・バンキング」も出来るようになっているようである。しかしそれは何故か、国内在住者に限る、との事である。何の為のネットバンキングなのだか、と不甲斐無く思う。 一頻りそれらの情報を日本語で読みながら、ワタシは頭が混乱してくる。 小難しい日本語の表現が多い所為もあると思うのだが、きっとこれらは、日本で普通に暮らしている人々にとっては極当たり前の、簡単で分かり易いシステムなのだろう。 この十年、十五年という歳月が、なんだか取り返しがつかないくらい永く感じられる。失われたこの年月を取り戻すには、ワタシは日本で何年も何年も地道な社会人生活をして、色々の「常識」を身に付けるまでは駄目なのじゃないか、と呆然とする。 日本を「島国的・鎖国的文化」と呼んでいたワタシは、この頃の自分自身の対日鎖国的精神について、何とも言い知れぬ脅威を感じている。 そういう事は、やはり、顔見知りが読むようなところには書き難い。彼らの多くは、こんな風になってしまう前のワタシを、記憶に留めているのである。 では、ワタシは、一体何者になってしまったのだろう。 無国籍なノマドのような心持だけれど、現実のワタシには仮とはいえ住処がある。此処も長居し過ぎてしまって、もう四年を過ぎた。色んな事があったのに、ワタシは未だこの住み難い家で暮らしている。嫌だ嫌だと言いながら、未だ此処に居るのである。そう思うと、ワタシの人生がこの四年間、いやもっと前からだが、大して変化を見せない訳が、なんとなく分かるような気がしてくる。自分でも嫌気が差してくる。何をしているのだ、ワタシは。 生産的な活動をしていない訳では無いのだが、「以前のワタシ」が生み出していたものと比較したら、雲泥の差である。 以前のワタシ。 それは、ただ若いだけで、鼻っ柱が強くて、望むものは何でも手に入ると思っていたワタシ。三十代の新陳代謝がどれ程のものか、話に聞いてもさっぱり実感が沸かなかった頃のワタシ。ワタシには「老い」というものはやって来ないのだ、ワタシだけはいつまでも「何を食べても太らない」体質が与えられているのだ、と信じていた頃のワタシ。金も友達も男も、必要な時に必要なだけはあったから、それがワタシにはいつまでも続くのだ、人生はこのまま継続するのだ、と思っていた頃のワタシ。 その頃はちなみに「バブル」とも言うのだけれど、何しろ当時のワタシには特に不自由が無かった。 若さの終わり、なのか、または「バブル」の終わり、なのか、今のワタシには判別が付かない。ただ分かっているのは、今の暮らしが幸せでない、という事である。 とは言え、特に贅沢をしているのでは無い。国を出てから、「消費」を出来るだけ削って暮らして来たので、気が付いたらワタシは最新の映画も知らなければ流行の歌も知らないような、文化的にこれでいいのかと首を傾げたくなるくらいの、倹しい暮らし振りである。 本ばかり読んでいたけれど、そして今も本と書類の山に囲まれた机に向かってこれを書いているけれど、だからと言って研究が好きな秀才君みたいに、その事に歓びを見出している訳でも無いのである。 多分、ワタシは自分が使い物になる人間だという事を、もう一度感じたいのだと思う。空しい作業の繰り返しではなく、自分が心の底から良いと思う事をやり、人々がそれによって幸せになり、自分もまたそれで幸せになる。それが本来の生産的な暮らしだろうと思う。 「過去の栄光」を語りだしたら人間終わり、と思っていたけれど、自分にもそんな時がやって来るなんて、思いも寄らなかった。 明日は、ワタシをこの街に思い留まらせた、大きな契機となった事件の、記念日である。
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