日記...abc

 

 

- 2005年11月29日(火)

母は、一見自分の非を認めているように振るまいつつ
実は相手を非難する、ということをしばしばする。
ダブルバインドである。
言語メッセージと非言語メッセージが異なるのだ。



例えば私が幼い頃、朝出かける父に母が、
駅前でこの葉書を出して、と頼むことがしばしばあった。

父の出勤時間に間に合うように、母が食卓のすみで
お礼状などの葉書をしたためている光景もよく目にした。


そんなある日、父が出かけてしまってから、
茶箪笥の横に置いた葉書がない、と母が騒ぎ出した。

もちろん、私は知らなかった。

母は、額に手を当てて、椅子に座り込んだ。




そして、父が帰ってきた。

「ここに今朝置いた葉書は?」
「出しておいたよ、いつものように」
「あれは、出してって頼まなかったでしょ」
「でも、いつも出して欲しい葉書はそこに置くだろう」

「ああ、どうしましょう、
お父さんが、私が葉書を書いているのを見ていたから
出されたら困ると思ってここに置いたのに」
「でも、出して欲しい葉書を、いつもそこに置くだろう、だから…」

「ええ、ええ、私が悪いんです、
ああ、どうしてすぐに破かなかったのかしら。
ああどうしましょう。
困ったわ。
お父さんはよかれと思ってやってくれたんでしょうけれども、
ああ、どうしましょう、出されちゃ困る葉書だったのに…」


言葉では、思わぬ事故を嘆くという形をみせつつ
また、自分が悪い、と認めつつ、
しかし実は、父を非難する母である。




私も同じようなことをしているのかもしれないと思うと、怖い。

母のそういう振る舞いを見て育ってきたのだ、
無意識のうちにやっていない、という保証はない。

こう思うとき、私は私を、きりきりとコントロールしたくなる。

*にこんなことをしてはいまいか、とくちびるをかみしめる。
していないつもりではいるけれども、私は私を信用していない。



-

- 2005年11月24日(木)

なにはともあれ、生まれたからには
生きて生きて、生きていくこと。

それしかないのだ、と今日の空をみながらそう思った。


難しいことだけれども、すべてを受け止めて
この身に起きることを、すべて受け止めて
そうして、ただ生きていくこと。
自分を生きていくこと。


みんながそうしているのなら、私にできないはずはない。

思い出すのは、苦しいことばかりだけれども
そして、新たに加わる思いも、辛いものが多いけれども
ただ自分自身を生きるということ、
それをこれからこつこつやっていけば
やがて、静かに明るく人生を締めくくることができるのかもしれない、
今日、そう思った。


-

- 2005年11月23日(水)

自分が母親をあまり好きではない、ということを
意識するのは苦痛だから、
子どもの頃の私はあまり意識しないように生活してきた。

しかし、離れて暮らすようになってから
母との思い出をさらってみても、楽しいことは全然なくて
思い出されるのは、辛いことばかり。

なんなのだろう、と随分考えた。

自分がいけないのか。
母なのか。
それとも母と祖母との関係性なのか。
あるいは、まだ私の気がつかない何かがあるのか。


そんな風に暮らして十数年、遂に私はバクハツした。

はじめて母に逆らった。
はじめて口答えをした。
はじめて、感情をぶつけた。

そしてまた、それから五年。

表面上は何もなかったかのように接しているけれども、
どうしても私は母が苦手で、
もう本当に苦手で、
でももし、このまま母に死なれたら
私も死ぬほど苦しいだろうな、と思うから
なんとかしたいともがいてみるが
どうにもならないものも
あるのかもしれない、と
今日、
思った。



面倒になって
とっても疲れて
死んでしまいたい、なんて
ちょっと思った。


-

- 2005年11月17日(木)

私が母から受け継いだものとは、なんなのだろう。

遺伝的に受け継いだものではなく、私自身が選んで
あるいは母自身が私に与えようとして
そうして、私に伝わったものが、なにかあるだろうか。


***

実家は、普通の仏教の家だった。
曾祖父母があいついで亡くなってから、
月命日には、必ずお寺さんがお参りにみえた。
祖母がかしこまって正座している傍らで、
私もいつも正座をして、読経を聞いていた。

そんな時間に家にいた、ということは
たぶん、幼稚園にあがる前のことだろう。
小さいのに偉い、と、お寺さんに褒められたのを覚えている。

しかし母は、気に入らなかったらしい。

お寺さんが帰ったあとで、もう二度と決して仏間には入っては
いけない、と叱られた思い出がある。

しかしおそらく、次の月になると、
私はまた祖母の傍らに正座したのだろう。
母が呼びに来て、私は連れ出され、本当にひどく
泣くほど怒られた記憶がある。




母は何をそんなに怒ったのか。

今になって考えつく理由で、一番もっともらしいのは
私が祖母になつくのがイヤだったから、ということ。

あるいは、母は仏教徒ではなかったから
私が仏教に近づくのが嫌だったのかもしれない。



こんな記憶ばかりが、私のなかには残っている。


-

- 2005年11月11日(金)


小さい頃、病気になると、母に怒られた。
だから、お腹が痛くても頭が痛くても、じっと我慢した。

なのに、小学校低学年の頃、学校で発熱し、
保健の先生が母に迎えに来て下さいと電話をかけたことがある。
母は働いていて、いないから、電話をかけないで、との私の訴えを無視して。

母は仕事を早退して、迎えに来た。
もちろん、私は怒られた。
熱を出すなんて。
迎えに来いと電話をよこすなんて、と。


なぜ、母はあんなに怒ったのか。
心配のあまり?と思いたいが、違うらしいと、
当時から薄々気がついていた。



二十歳の頃、めずらしく歯が痛んで帰宅するなり寝込んだ私に
母は決定的な一言を放っている。
「ちっとも役に立たないんだから」と。
夕食の支度も手伝えない、夕食も食べない、後かたづけもしない私への非難だった。

それを聞いて疑問が氷解した。

小さい頃の私にも、そう言いたかったのではないか。
この忙しいときに熱を出して、迷惑ばかりかけて、役に立たないんだから、と。



小さい頃にそれに気がついては、生きていけないからか、
こういうことを私はずっと長い間、気がつかず、というより、忘れて生きていた。


思い出したのは、家を離れて*と暮らし始めてからである。
それ以来、ずっと思い出しっぱなしである。

記憶も感情も、自分の意のままにはならない。


今日は、熱を出した秋に似ている日なのか、朝からしきりに思い出される。


-

- 2005年11月05日(土)

私は、母に可愛がられた記憶がない。
いつも母は不機嫌で、いつも私は叱られていた。

そう思っていた。


でも、母には、私を愛おしく思った瞬間があるようで、
それもたくさんあるようで、先日、

「あの頃、私、aにチェックのプリーツスカートばかりはかせていたら
お母さん、私もう、チェック飽きちゃったー
って言ってたもんねぇ」

と懐かしそうに、愛おしそうに、そのひとつを披露していた。

あの頃、というのは高校の頃だろう。


私の帰宅時間ばかりをうるさく言い、
はじめてボーイフレンドができたときには
「aはオトコに飢えてる」と言い放ち、私はその言葉に打ちのめされて涙した。
そんな暗澹たる記憶しか私にはないのに。



どうしてこんなに気持ちが行き違うのか。

母が内面に抱えるものが、私には激しすぎるのかもしれない。



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