かの三波春夫センセーの ♪1970年のこんにちは〜 からすでに36年。 36年ぶりに大阪は千里に行きました。 大体、大阪自体10年ぶりくらいです。 そのときは、大阪城と陶磁器美術館に行ったっけ、とまあ記憶もおぼろ。 この頃、<大阪のおばちゃん>が時々話題になります。たとえば駐車禁止の場所に止めて逆切れをする、とか、はたまた、バッグの中に飴を常備していて電車の隣の席の人にまで「飴ちゃん、いかが」と勧めるとか。 そんな<大阪らしさ>に少し期待して、梅田から千里に向かう電車に乗りました。ところが、それはあまりにも普通の電車でした。大阪弁が飛び交うわけでもないし、窓の外に見えるのはコジマ電機だったり、百均のダイソーだったりするし、吊り広告にもローカル色が乏しくて、ちょっとぼんやりすると大阪なのか東京の多摩あたりなのか、ほとんど違いが感じられません。 千里中央からバスに乗り換えて、これで少しはローカルっぽいかな、と思っても、まるっきり普通の郊外。広い幹線道路に整備された緑地で、多摩でも千葉でも筑波でも名古屋あたりでも、たぶんどことでも交換可能。 ・・・こういうのが20世紀の開発スタイルだったんですね。 緑豊かな街は人々の憧れだけれど、人工的に整備された緑はその土地の個性を持たない、画一的な緑。人の暮らしの邪魔にならないお行儀のいい緑。 車窓からちらりと見えたかの「太陽の塔」は終わってしまった熱狂イベントの断片。塔の下まで行けば、あのイベントがこの土地に残したものが芽吹いて何か新たなものを生み出していることがわかるのでしょうか。 梅雨の晴れ間の緑は確かにきれいなのですが、緑豊かな街ってつまりこれだけのことなの、と「?」が頭にぺったり張り付いてしまいました。 たとえ<大阪のおばちゃん>がカリカチャライズされた虚像であったとしても、そういう個性の強いものを生み出す力がある土地って半端じゃありません。ところがそんな土地と隣あわせでありながら、どことはなしに脆弱さだけを感じる緑豊かな千里の街でした。20世紀の開発って結局そんなもんなんでしょうかね。
出たついで、待ち合わせまでの時間つぶしに、高島野十郎という洋画家の没後30年展を見た。 狭いギャラリーに所狭しと絵が並び、人が多くて(NHK『日曜美術館』ででも紹介したんだろうか?)環境抜群とはいいかねるけれど、全然知らない人だったから、まあ、それなりに面白かった。 ただ、一番打たれたのは、ご本人のこだわりが象徴される蝋燭でも月でもなく、学生時代(東京帝国大学水産学科)のノートに描かれた魚の絵。これが半端じゃなく見事。アカデミックな用途の精緻なスケッチなのだが、線の美しさったらない。ご本人が生涯携えていたノートだそうだが、むべなるかな、である。 風景画が多く、画風が理知的だとか、あからさまに個性的だとかいうわけではない。とりたてて斬新でもない。しかし、自分の線、自分のタッチを追い求めた丁寧な画風であるし、自分の「頭」が納得しないことはしなかったんだろうな、と思ってしまった。「頭」を置き去りにして、情動のままに筆を動かす「芸術」とはちょっと違う。 また帝国大学の先生たちの肖像画だが、恩師自身のはあるいは自発的な作品かもしれないが、残りの2枚は注文制作だと思われる。しかし、描く人、描かれる人双方の人柄がしのばれるような誠実なものだった。肖像画の恩師の眼差しはとても暖かなもので、学問の代わりに絵画を選んだ弟子のことを十二分に認め、弟子もそれに感謝をしていることがにじみ出ているようにさえ感じられた。 途中で携帯が鳴って、ギャラリーのおねえさんに叱られたりしたが、なかなかいい展覧会だった。 このギャラリーのことはどこかしら軽視していたんだけれど、ちょっと見直そう。だけど、実際、同じビルに入っている魚屋の匂いが漂ってくるんです。空調のせいなんでしょうかね。
METの『ドン・ジョヴァンニ』見てきました。 はずれだったな、大枚はたいたけど、はずれははずれ。 『椿姫』にしておいたほうが無難だったかも。(ドミンゴ爺嫌いだから、『ワルキューレ』の線はない。) 出演者みなさん立派な声をお持ちで、しかも容色も整った方ばかり。ああ、それなのに、それなのに、感動がない!不思議なはずれ方でありました。 パーペのレポレッロに興味があったんだけれど、そもそもパーペの存在自体に滑稽味がないから、やっぱり×。あんな偉丈夫な従者がおりますかいな。マゼットやったレナウ君と代わったほうがいいわ。パーペがフィガロをやるのはまだわかる。フィガロは知恵者である。が、レポレッロは従者らしい素朴な従者であるから、パーペの演技力では追いつかない。 ツェッリーナのコジェナーは芝居も歌もうまくて、彼女とマゼットのからみはなかなか楽しめた。 でもねえ、ネトレプコ(ドンナ・アンナ)とかディーナー(ドンナ・エルヴィーラ)がも一つドラマを作り出せないような気がして、なんでだろうな、と思いながら、冷房のきつさばかりが気になってきて、カーテンコールもそこそこに退却。 以前、グルベローヴァのドンナ・アンナを聞いたときには、『ドン・ジョヴァンニ』はドンナ・アンナのドラマだ、といいたいくらいの感動があったし、去年のモネ劇場のときは、深情けのドンナ・エルヴィーラがしみじみ女を感じさせたものだ。ところが今日は強力な女性陣にもかかわらず何にもなし。 テノール(ポレンザーニ)はきれいなアリアを高らかに歌い上げたものの、それがなんでぇ、という程度の気持ちにしかなれなかった。 それぞれの歌声やオケの音楽がすべて有機的にからみあって、『ドン・ジョヴァンニ』の解釈を提示する、という点で、このプロダクションは少々とろいんだと思う。まあ、全体としていうなれば、大味のアメリカ料理を食べたあとに似ているかな。素材の一つ一つはいいのに、って。
最近、へばっているので、更新が間遠です。 へばっていると、日々過ごすのが精一杯で、独り言に値するほどの発見も出会いもなくなりがちです。電車に乗って座れば即、爆睡だし。 そうはいうものの、何ヶ月も前に買ったチケットは容赦なく、おらおら、行かんかい、と呼びかけてきます。 で、女王様を聴きに行きました。 ヴァイオリンの世界で女王様といえば、この人しかいません。 ムターです。モーツァルトのソナタばかり5曲というプログラムはちょっと飽きそうでしたが、チケットのお値段が立派だった(ハーンの倍)ので、捨てるほどの度胸もなく、やっぱり行きました。 女王様、マーメイド風のロングドレスで、なんとも悩ましいお姿。天は2物を与えておられます。音楽の才だけで十分舞台に立てるし、天性の美貌も伴うし、2人目のダンナも来たのだから、なにも衣装なんか凝ることないじゃない、それじゃあ足元が不自由なんじゃないの、地震があったら逃げ遅れるわよ、と老婆心は留まるところを知らぬほど、今日のドレスはタイトで、腰から膝までぴっちり体に密着したドレスです。膝から下は魚の尾びれよろしく広がっています。(生地は多少ストレッチ性があるんだろうなあ・・・) で、演奏中は腰から下がくねるのくねらないのって、くねくねくねる! 人魚というのは妖しいもんだったんだ、と今更ながら性の深遠を見た思い。伴奏のオジサンにしなだれかかるようにさえ見える。女王様ともなれば、そんな馬鹿なことするはずないんだけど、演出効果満点!計測不能。 そうそう、肝心な演奏そのものですが、女王様、今晩のところは万全の出来ではありますまいよ。私のザル耳にも若干疵が聞こえましたぜ。 モーツァルトの仕立てそのものもあんまり私の好みとは一致せず、2曲目くらいから、ムターは1回聞けばいいや、みたいな気分で聞いてしまいました。でも隣の席のあんちゃんは熱狂的拍手をしていましたから、好みの問題でしょう、きっと。私としてはもっときれいな音で聞かせて欲しかった。ダイナミックといえばダイナミックだけれど、あざとい印象。かすかす音は計算の上なんだろうけど、objection! CDで聞いた新しい録音のコンチェルトはすごくいい感じだったのに、生演奏のソナタがそれに及ばずってのは残念。 だけどもちろん、随所にあ〜きれいっていうフレーズはあるんですよ。 さて、女王様のお供、伴奏者は素晴らしかったです。この人にハーンの伴奏をしてもらったらどれほどいいでしょう!(女王様がさせてくれないだろうな。)あのエレガントな音色、自然な音の運び、ヴァイオリンを潰さない音量、ランバート・オルキスさんという名前、しかと心に刻みました。
昨日はヴァイオリンだったのに、今日は趣を変えてワーグナーです。演奏会形式ですけど。モネ劇場の大野和士と並ぶ日本のエース、大植英次とハノーファー北ドイツ放送フィルです。 ワーグナーは特別です。最初の数フレーズで私をドーン丸ごと演算不能状態に陥らせてくれます。その後、延々と音楽が頭の中で鳴り続けます。全幕聞いた日には翌朝まで鳴っているほど。室内楽とどっちがすきか、とか他のオペラと比べてどうか、というような比較を一切拒絶するのがワーグナー。 オペラで真面目に見ると長くて体力勝負になるので、1幕だけの演奏会方式も悪くないです。集中力が続きます。終わってしまうと、あ、これで終わりだったか、と欲求不満感も残るけれど、それはまあ忘れて陶酔した自分が悪いってことです。 前半には「リエンツィ序曲」と「ジークフリート牧歌」(←ワーグナーも一応人の子だなあ、ってとこ)を聞き、その後、後半に「ワルキューレ」の1幕だけ、つまりジークムントとジークリンデが出会ってから愛を歌い上げるところまでです。 ジークムント役のロバート・ディーン・スミス(平凡な名前だからってフルネームで呼ばすな!)、第3場の始めに♪ヴェ〜〜〜〜ルゼと2度叫ぶところで大盤振舞。息の長いこと!あれじゃあヴェルディなんてお茶の子さいさいだわ。(この前この人の『運命の力』を聞いたばかり。) ジークリンデ役のリオバ・ブラウンはちょいと迫力不足かな。ヴィジュアル的には文句なしなのに、なかなか迫力とヴィジュアルと兼備の人っていないねえ。 びっくりしたのは、フンディング役のシュテフィンガーなるフィンランド人のバス。軽々と大音声。まいったな〜。朝起きた途端に歌えそうな感じ。しかもあんまり悪役声ではなくて、澄んだいい声。『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王かなんか歌うのが聞いてみたいわ。 そして指揮者の大植さん!小柄だけど顔は相当濃い。似てもいないのに、松方弘樹が思いだせるのはどうして?振りがあまり大きくない、小ぎれいな指揮で、オケもよく鳴りました。すご〜く好みっていう音でもないけれど、チェロ軍団はぞくぞくさせてくれましたねえ。満足、満足。
ヒラリー・ハーンvnを聞いた@トッパン・ホール。 ハーンは去年も聞いたが、それがとてもよかったので、今年は是非室内楽専用のホールで聞こうと思ったのである。出し物はオペラ・シティでやるのと変わらないけれど、トッパンとオペラ・シティじゃ舞台との一体感が大違い。 イザイ無伴奏の1番に始まり、エネスクのソナタ3番、ミルシテインのパガニーニアーナと難曲が続き、モーツァルトK.301でほっと一息、最後がベートーヴェンの3番という出し物。 イザイはとても滑らかな曲の運びで、普段カヴァコスのCDで聞いている私には同じ曲かと耳を疑ってしまうほど。カヴァコスの野太いのもそれはそれで魅力だけれど、女の人らしいイザイもまた素敵だ。 パガニーニアーナのような曲に普段心ひかれることはないのだが、今日のパガニーニアーナは技巧だけが際立つことなく、「あら、これってこんなきれいな曲だったっけ?」だった。技巧を聞かせるためにひいちゃいけない曲なんだと知った。(それなのに、テクニック披露のために使われがちな曲だ。) モーツァルトは平凡だった、と同行者が漏らしたが、私は奇をてらわないいいモーツァルトだったと思った。ベートーヴェンはもともとそう好きでもないから、特にいれてくれなくてもよかったような・・・。 アンコールの「3つのオレンジの恋」のマーチ、よかった。 久しぶりのヴァイオリン・コンサートでかなり癒された。浮世を忘れるからいいんだわね。 ハーンの演奏は、当たり前だがハーンの音色で、感情過多にならず、それでいてメロディーを響かせるよくコントロールされた演奏である。これみよがしの技巧もなければ、コブシをきかせた自己陶酔もない。だけど申し分なくうまくて大満足。 ピアニストは昨年とことなり、韓国系の若い女性。悪くはないんだけれど、鍵盤に指をのせた途端に、百面相が始まる。ハーン自身はほとんど演奏中に表情を変えない。私は演奏中に不自然なほど腕を振り上げたり、顔をしかめたりするのは好みではないので、ハーンは実に端正で美しくてよろしい(美人ではないけど)。それなのに伴奏者は激しい百面相で何とも気が散った。 サラ・チャンとかチョン・キョンファと組んだら、えらいこっちゃね、と思ってしまった。子どものときのレッスンで、一つ一つの音にこめられた気持ちを考えて顔に表情を、とでもしつけられるのかしら。
昼下がりの空いた電車。 しばしまどろんだ私の隣に痩せた老婦人が座る。 と、まもなく、 「すいません、包帯巻いてもらえます?ゆるんじゃったので」と差し出す親指。 いまどき珍しい昔ながらの包帯が巻いてある。(伸縮しない包帯で、端をふたまたに切って結ぶスタイル) 「きつく結んでくださいね」 内心、こんな包帯久しく巻いたことないで〜と思い、しかも「きつく」っていわれてもな〜と思いつつ、普通に片蝶結びをした。 「あの、これから整体に行くんですが、ちょっと力を貸して下さい、背中をさすってください」 え〜なに、それ、と思うけれど、断るわけにもいかない。 戸惑いながら背骨にそって片手でさすると 「もっと強く両手でお願いします」 やはり断るわけにはいかない。 何の因果でと思いながら、体の向きを変えて両手でさする。次の駅に着くが、もういいとも言われないのでさすり続ける。私の降りる駅まではまだ3つもある(泣)。 「腰も痛いんで、下のほうも」 ここで止められるか?止められないでしょ。 この老婦人を挟んで反対側の隣に座っていた人が 「奥さん、お知り合い?」 と私に目配せしながら小声で声をかけた。 首を振って「違います」のサインを送る。 この奥さんが老婦人に声をかけたら、 「あ、肩もんでくださいな」 で、奥さんは立ち上がって、老婦人の前方から肩もみを始めた。 私は後ろで腰をさすったり、背骨をさすったり、指示のままに肩甲骨の下をさすったり・・・ 断っておくけれど、息も絶え絶えの老婦人ってわけではなく、みたところ、ピクニック帰りかと思うような姿なのです。 一体何が起こっているんだ?とキツネにつままれたような気分である。私自身の日ごろの主張としては、「みんな、もっと気軽に人にものを頼もう」というのがあるのだが、これって車内の見知らぬ人間に頼むようなことか?! かくして10分ほど経ち、あ〜もうちょっとの辛抱だ、と思ったところで、老婦人、 「あ、降りますから」とすたすた(まさにすたすた)歩いて降りていった。 一応御礼は言ってくださったけれど、途中から参加した奥さんともども「何だったんでしょうねえ・・・」 はい、何だったんでしょうねえ。 長年電車に乗る暮らしをしていますが、こんな不思議な体験は初めてでした。まるで山の中で妖怪に出会ったような思いです。 **** 私はなぜ適当なところで逃げ出せなかったのでしょう? もしこれがおじいさんだったらどうするのがいいのでしょう? もし身なりの不潔な人だったらどうするのがいいのでしょう? 世の中、いろいろ変わった人がいるもんです・・・
著者の中島義道氏のことは全然知らないが、略歴を見ると、一般向けの哲学書をいくつも書いていることがわかる。フツーの人に語りかけることに慣れているのだろう、入門とはいえ哲学書らしさを感じないで、読み進められる。 哲学は往々にして単なる「知識」に堕しがちだけれど、この本を読んでも「知識」で武装するのは難しい。でも、この本には<どうやって考えを積み重ねるか>というお手本が沢山紹介される。つまり哲学って考えることに取り付かれた人に与えられた道なんだ、ということがわかった。 メメント・モリに始まり、消去法的に哲学の扱う分野が浮き彫りにされ、さまざまな哲学的な問いかけと思索の道筋が語られる。それが中心。あとは哲学の有用性(否定されるのだが)、哲学者という人たちのこと、哲学書のことに触れて終わりとなる。こうやって一冊の構成を書き出すと、ああ、これは教科書だ、という気がしてくる。哲学者の名前や流派(?)が羅列されるわけではないけれど、おぼろげながら哲学というものを感じることが出来るから、よく出来た「教科書」なのだ。暗記する部分がほとんどないから、教科書のように思えないけれど、やはり教科書だ。 終わりに出てくる哲学入門書のリストも魅力的。「問題意識のない人にとっていかなる書もおもしろくはない。いかなる書も良書ではありません。」という厳しい言葉もついてくる。確かに哲学って見栄で「覚える」ものではないさそう。(講談社学術文庫)
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