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来年は戌年である。 年賀状に使わなくっちゃいけないんだから、来年まで頑張れ、といっていたのに、うちの犬は夏に死んだ。来年のカレンダーや年賀状の写真を見るたび思い出してしまう(見なくても思い出すけれど)。喪中につき、のハガキで済ませたいくらいだが、それはあまりにも非常識といわれるだろうから、なんとか考えなくてはならない。 犬グッズ屋から故犬あてにDMが来た。狂犬病の予防注射をしなかったというんで、大分前に役所からお尋ねのハガキも来ていた。これは犬宛ではなくて、世帯主宛だが、鑑札を持って死亡届を出さねばならないらしい。 生前、私はどーでもいいようなアンケートや懸賞には犬の名前で応募していた。こうしているうちに、どこかで情報が売り買いされて、犬が「人」になれるのではないか、という好奇心であった。(人と紛らわしい名をつけていた。) ところが見事にその目論見ははずれた。大手企業のアンケート情報って意外に漏れないもののようだ、というのが実感である。10年以上そういう悪さをしてきたのに、いまだかつて、人と犬を取り違えたDMはきたことがない。犬宛てによこすのは犬と承知の犬グッズ屋から来るだけである。 息子は女性と間違われやすい名前なので、今年は振袖のDMがよく来る。写真館の案内も来る。この情報は保育園の名簿かもしれない。彼の人生で男女混合名簿だったのは保育園だけだから。それともそれ以前の保健所関係?
2年ぶりのリサイタルでした。 この春、メンデルスゾーンのコンチェルトを聞いたとき、徹底的にうまいけれど、なんかなあ、と思うことがあり、その思いが拭えないままリサイタル。 シューマンのソナタ、音が響かない。ホールのせいがあるにしても、疲れました。 ショスタコヴィッチ、さすがにお見事。この曲をこれだけひける人はそうたくさんはいません。そして第3楽章の頭で堂々とあれだけ大きないびきをホールいっぱいに響かせるお客も。(本当に静かなところで、延々いびきがヴァイオリンにかぶるんです。犯罪的でしたね。)ただし、ライティングまで演出したのは、私としては「あざとい」印象。 シュトラウスでちょっと気持ちよくなったかなあ・・・ショスタコはくつろげるという曲じゃないもの。 観客は熱狂的に感動していた人が半分、案外あっさりしていた人が半分ではないでしょうか・・・私はあっさり組です。これまでぐんぐん伸びてきたあの健やかさの頂点が2年前のリサイタルだったように思います。今は成熟への過渡期なのかもしれませんね。少なくとも、私には彼女の訴えがよく聞き取れません(いい加減な耳ですから)。 やや気になったのは、この人、腰でも悪いんじゃないかってこと。おばさんらしい余計なお世話だと笑わば笑え。でも、あの弓を振り上げて、上体をえびぞらせる巫女めいた演奏スタイルは長く続けれられるのでしょうか。今日のいでたちはややエスニックなドレス、足元はフラットシューズというか、女子体操の選手が履きそうな靴でした。結構動き回ってひく人だから、足音をたてないためかもしれませんが、どうなのでしょう。舞台を降りるときに、やけに元気がよくて、弓を振り振り、上体を揺さぶらせながら入るのも、気になったんですが。(思い出すのは、キリ・テ・カナワの優雅な後姿・・・タメイキ) 庄司紗矢香、しばらくは聞かなくてもいいかな、と思いました。30歳くらいになったとき、また聞いてみましょう。今日の演奏はNHKで流すらしいです。音響的には録音のほうがバランスがよくなるかもしれません。いびきは消されるに違いありません。 サントリーはヴァイオリンには向いていませんね。
今日は出光美術館で「平安の仮名、鎌倉の仮名」展示を見る。私としては珍しく友だち2人と一緒で、2人とも書を嗜む人である。私は多少読めるだけで、自分で筆を持ったのは中学生で終わり。 五島美術館の展示と似ているかなと思いながら行ったのだけれど、フォーカスが異なり、書そのものはこちらのほうが味わいやすかった。なるほど、平安の仮名と鎌倉の仮名とはかように違いがあるものか、と納得。 比べれば、そりゃあ、平安の仮名がいい。かすかなピアニッシモの響きを思わせる線がなんて美しいことでしょう! 鎌倉の仮名の自己主張というものがなんとなくわかったような気がした。(後鳥羽院の「人」という字はちょっと派手だねえ・・・。)定家の書が「予もとより文字を知らず」というのにもうなずける気分。だけど、寂蓮は悪くないし、尊円親王のような能書家の手はやはり美しく気品に富む。 今回は、実際に書く人と一緒だったから、書き手の立場からのあれこれを教えてもらうことが出来て、3人で2時間以上も鑑賞した。私が提供できるのは、歌人の背景を説明することぐらい(それもうろ覚えだが)。 来年は新年早々出光で歌仙絵の展示があるし、東博では日中両国の書の展示がある。お楽しみはまだまだ。
歴博で買った歴史ネタのブックレットである。ブックレットという定型があるのかどうかはしらないが、岩波ブックレットなどと同じく簡単な製本のA5版80ページちょっとくらいのものである。軽いし、薄いし持ち運びに便利。どんないい本でもハードカバーはちょっと持ち運ぶのに体力のみならず、気力も必要とするが、その点、こういうものはいい。 私が買ったのは『洛中洛外図屏風を読む』(なんといっても洛中洛外図屏風は歴博のお宝)と『江戸図屏風の動物たち』(ひところ私の本棚は動物園のようでした)。 歴博お宝屏風に限らず、洛中洛外図のように細かく書き込んだ屏風はなかなか見るポイントがわからない。見はしても、見なかったも同様という思いを何度か重ねて、やっとそれなりに見て楽しめるようになるものだが、この『洛中洛外図屏風を読む』、『江戸図屏風の動物たち』のような本に目を通しておけば、屏風に対する視点がつくりやすくなる。両方とも、実際の屏風の一場面をとりあげ、そこで描かれる風物を楽しみながら説明を加えるという形式である。作品自体の成立や美術史上の位置づけといった七面倒臭い説明は少ない。それでいて歴史好き用に安直に書かれた、よくありがちなものと違って、幼稚な煽りがなくて読んでいて気持ちがいい。江戸図屏風のほうは、動物を拾いながら、江戸という町の特性を描き出すところがきわめて見事。 昔の人はこの手の屏風を見ながら暇をつぶしたに違いない。いろんな人がいて、建物や車があって、あちこちにいろんな生き物が隠れている。発見の楽しみが満載。惜しむらくは、屏風のおける座敷なんぞどこにもない。博物館や美術館の硝子越しに見なくてはならない。せめては、座敷で座ってみてみたい。そうそう、屏風展示用の20畳かそこらの座敷を作ればいいのよね。20畳じゃ狭い?
ある喫茶店の小冊子で顧客から投稿されたエッセイを読んだ。なお、その店は間違っても若者対象の店ではない。題して「加齢の喜び?!」 「年は取りたくないものだ・・・」そう思う瞬間が少しずつ増えていく 今日この頃だが・・ という書き出しではじまる。だが加齢と共に好みが変わる、それによって嗜好や趣味の幅が広がる、何か運動をということで、見るのが好きだった「バレエ」を始めた、体の無様さにも若いときと違って耐えられる、とこういう具合に展開し、加齢のある一面を積極的に評価する小文である。ところが最後に「三十路半ばである」と結ばれ、脳天が~ん、であった。 「三十路半ば」はどう考えてもまだ人生半分未満である。「年は取りたくないものだ」とのたまうにふさわしい年齢とは思えなかった。年取ったなんてナマイキだ~とどなりたいくらいである。 もちろん「年を取る」感覚は十代であっても存在する。私自身は17歳になったときに寂しい気持ちがしたし、19歳なんて嘘、嘘、というくらいショックだった。だから三十路半ばもわからなくはない。名実ともにオバサンの年齢である。 だが、そんな年をとっくに通過した今振り返るに、30代半ばこそ、世の中がよくわかってきて、それなりに一人前扱いしてもらえる年齢で、多少からだの線がくずれようが、こじわが出来ようが、それに値する大人の力を授かる年頃ではないか。何かを失ったとて、普通の暮らしをする人ならば、生活に支障をきたさないものを失うだけだ。 ひきかえ我が身はどうか? ついに生活の支障を感じる「老化」に直面している。「目」である。見栄なんか張っていられない。実際見えないのだから老眼デビューして久しい。足腰はまだ何とかいいようなものだが、駅の階段ではたぶん気持ちだけ走っているのである。物忘れも30代の忘れ物と比べれば格段に深刻。白髪も嬉しくはない。 三十路半ばで年を取ったも何もないだろう、と若さゆえの想像力の欠如を非難しつつ、一方で、じゃあ自分は80歳を越えた両親や義母のことが想像できるか、となると黙るしかない。理屈をこえて、その年にならないとわからない感懐が伴うのだろうと思う。人生突き進めば進むほど孤独が待っているんだろうな。結局それが自分の人生ってことなんだろう、ととりあえず40代の想像。
夕方、三越で「山口晃展」見ることは家族イベントとしてかねてから決まっていた。それだけのために日本橋まで行くのは面倒、さりとて盛り場を出歩けばお金が消える。長居して財布にやさしいのは美術館。そこで一念発起して都美の「プーシキン美術館展」へとでかける。 混雑は覚悟の上とはいえ、人多すぎ、多すぎ、多すぎ。上野公園なんだか、駅のコンコースなんだか。展覧会そのものは都美とは思えぬゆったりとした展示で◎。絵の分量も手ごろ。個人的にはもう印象派はいいよ、なのだけれど、きれいなことは間違いなし。ピサロ「オペラ大通り、雪の効果、朝」イチオシ。マチスの「金魚」も実物はやっぱり立ち上ってくるものがありまんな。 一通り見ても、まだ約束の時間までに間があったので、同じ屋根の下、日展に行く。日本画だけ見るつもりで、まさにそうしただけなのだが、まあ、似たような大きさの絵がいくつもいくつも次から次から・・・画題と画法でいくつかのカテゴリーに分けてしまうと、個性が半分くらい埋没しそう。どの絵も会社の受付に飾ったらきれいよ~ってなもんで、やんなった。やっぱり日展はお師匠さんとか知り合いとかの絵を目指して「あった~」「これだ~」と叫んで終わりにするのがよい。 ようやく日本橋に出て、家族集合で「山口晃展」。これはたっぶり丁寧に堪能して、面白かったです。あの細密性は画集じゃ到底再現できません。描きたいものを描くだけの確かなデッサン力には驚きます。細部の遊び心たっぷりで、これを見ないなんて同時代人の甲斐がないってば! 三越のポスター描いた人です。ファイン・アートに対してはいささか物申したい人のようですが、難しいことを抜きに、私はこの人の絵、すごく楽しいと思う。表現の「可能性」を感じます。(日展では表現の限界とか閉塞とかいう言葉が頭に浮かんだ。) 3ヶ所はしごしたら、さすがにちょいと疲れました。それにしても、東京一極集中って、こういうことなんだろうなと思わせるこの秋の展覧会の多さ。とりあえず東京に住んで享受できるのは幸いというべきでしょうが、よく考えると、コレデイイノカって・・・。
ヴィオリストのバシュメットのエッセイということになるのだろう。たぶんもっと正確には、断片的聞書、本当の著者は小説家/ジャーナリスト志願者。違うかな? 2400円も出して、いつこんな本を買ったのだろう?いつ買ったのか記憶にない。このところ、ぽつぽつ読んでいたのを今日読み終えた。 シューマンの「おとぎの絵本」が気に入っていて、一時バシュメットにはかなり入れ込んでいた。ところが数年前にリサイタルを聞いてから醒めてしまった。ヴィオラそのものは相変わらず好きですけどね。バシュメットはなんだか器用にこなすステージっていう印象が強かったのだ。もちろん一定以上のものは提供してくれた。だが、その先の真剣勝負がなかったのだ。たぶんVIPでもご来場の節は違うのだろう。(今年のリサイタルに行った知人が図らずも同じようなことを言っていた「お仕事って感じの演奏だったわ」) それはともかく、このエッセイ、リヒテルとのからみは面白かった。リヒテルは古きよき時代の音楽家だったのですな。あとはクレーメルとかロストロポーヴィッチとか、その人に興味があればまあ目を通すのもよいだろう。シュニトケやゲルギエフも出てくる。ムターもちらっと通りかかり、美智子皇后はしっかり登場する。でも、深い内容の話は何もない。政治的な話もない。つまらない。同じエッセイならクレーメルの『小さなヴァイオリン』や『琴線のふれあい』のほうがいい。(それだって、クレーメルに関心のない人に面白いかどうかは?だが。) 手持ちのCDにリヒテル×バシュメットで、ヒンデミットとショスタコーヴィッチのソナタが入っている。この本を読んでから聞くと、ははーっとありがたい気持ちになる。私の耳はロバではないが、いい加減である。
昨日、佐倉のお土産に「落花生の甘納豆」を買った。これがなかなかおいしい。それから伊能忠敬にちなんだ佐原のクッキー「はじめのいっぽ」も、足の裏型という趣味の悪さを除けば、結構いける。単純な落花生はいうまでもなくご当地名産であるから、相応のおいしさに富む。 なんでもっと買わなかったのよ?という素朴な後悔。折しも海外向けクリスマスプレゼントのシーズン。Kちゃんに送ってあげたい、Aさんにも送ってあげたい、Gさんも好きかもしれない・・・混んだデパートであれこれ物色するより、よっぽどいいじゃないの。なんで自分ちの分だけにしたのよ、と。 それはですね、事前に佐倉のHPを見たときに、あまりにも魅力を感じさせないやる気のない観光協会だったからです。HPが悪いの一言。街道端のみやげ物屋も車を止める気にならないような店でした。 それに加え、歴博の食堂がいただけなかった。早いことはいいとしても、暖めムラが露骨でした。チンでもいいけど、上手にチンしてよね、です。それでもう、ここの食べ物は期待してはいけない、と。 歴博の売店にだってね「佐倉のピーナシ」と書いてあったんですぜ。まともに「ツ」と書けない落花生屋なんて信用できますか? それでも手ぶらで帰るのも何だからと思って、一袋ずつ留守番の息子に買っていった3点がなかなかのヒットだったのです。わからないもんです。以上、ピーナツぽりぽり齧りながらでした。
ようやく行くことが出来ました。開館以来、20年以上、行ってみたいところだった・・・と書くとずいぶんな熱の入れ方と思われるが、「行ってみたい」と思い続けながら、重い腰を上げるほどの魅力をもう一つ欠いている上、遠かったので、今日まで行かないままだったのである。 夫が車を出してくれるというし、天気もいいから、じゃあ、行こうか、と。 なんとものどかな田園地帯に大きな建物がありました。この大きさを確保するには、このくらい不便なところじゃないとダメだったでしょう。佐倉城址のきれいな公園です。 でも、大きすぎて、いい点数は上げられません。 大きい博物館であればあるほど、何度も通いたくなるような施設であるべき。その足の便が確保されないと、さあっと見て終わりにするしかない。結局、何を見たのか、どういう勉強になったのか、印象が残らないまま、足腰が疲れて終わる。歴博はせめて五分割すればいいのにと思う(常設展示室が五つある)。 それに、レプリカ展示が多いのだから、思い切ってもっと体感できるようにしたらいい。ただ並べて見せるだけの展示なのだ。時々、ビデオがあるけれど、ちょっとまだるっこいのよね。順にPCに出来ないものか。アイテム数を減らしても見せる工夫が欲しい。 博物館の展示担当者はディスプレイのデザインを勉強するのかしら?歴史学者だけで展示運営をしているのではないでしょうね??銀座の和光のウィンドウを手がけているような人に少し知恵を借りたら楽しくないかしらん。 南方の歴史は割合早く出てくるし、民俗をうたうだけあって、山の民、海の民の展示もあるのに、アイヌはなかなか出てこない。「日本」に入れていないのかしら、と思い始めた頃、屯田兵がらみでようやくアリバイ的に登場。日本を構成する人々の問題については言いたいことが他にもあるけれど省略。 本日の一番の目的は、「うたのちから」と題した特別展だったのだが、ここに到達するまでに相当のエネルギーを費やしてしまった。高松宮家伝来禁裏本を沢山展示してくれたことは大変結構。うたの周辺に関する展示はもうちょっと工夫できなかったかしらね。思い出したように太刀が出してあったり、文台が出してあったりする程度では、一般人にはつまらないですよ。最後に着物が何点か出ているのも、なんだか無理してたねえ。 招待券もらって入ったくせに文句多すぎでした。
はからずも横浜港の一角につながれている「日本丸」を見学した。 思いのほか小ぶりなことにちょっと驚く。みなとみらい地区に行く度、動く歩道から片目で見てはいたのだけれど、大きさを気にしたことはなかったから。 中に入ると、これがまた、狭い場所を登ったり、降りたり、回ったり、という具合で、狭いのだろうが、狭いとも広いともわからなくなる。動いている船ならば、もうそれだけで船酔いしそう。 昭和20年代には「マドロスさん」という言葉があった。「あこがれのハワイ航路」なんて歌もあった。(私、リアルタイムで知っているわけではありません。私の記憶は東京オリンピックあたりから。)石原裕次郎、加山雄三なんていう「海の男」俳優もいた。つまりは「海」というか、海を渡ることは、かつて人々のあこがれだった。 今、海はマリン・スポーツの場だけれど、外洋への思い、その向こうの外国への憧憬はどうなっちゃったんだろう。海外旅行がお気楽になった分、船の魅力が色あせたかしら。「マドロスさん」とはいわないまでも、船員を恋人に持つような歌ってあるのかしら。なんといっても今、日本人の船員を探すのは難しいものね。それに新天地への夢を抱いて海を渡った人の子や孫が日本に出稼ぎに来ていたりもする。海は変わらなくても、私たちの心の中での海の位置はここ数十年でかなり動いたのではないかしら。 今日は青空がきれいな日だったのに、灰色のビルをバックにするしかない日本丸はちょっとかわいそうでした。日本丸のバックが青空や大海原になることはないのです。カレンダーとして売られていた写真が、いつ撮られたものか、大海を帆走中のかっこいい一枚であるだけに切なさひとしおでした。
「日本語王」とかいうTBSの番組をちょっとだけ見た。段々面倒になったので消した。そもそもテレビを見る根気がないのである。 世間には漢字が気になる人が多いから、こういう番組が受けるのだろう。「甘味処」や「茶房」、あるいは「在庫僅少」なんて読めなくても全然かまわないと思うのだけれど・・・。あ、ここは甘いものを食べるところだ、喫茶店だ、品物があんまりないんだ、というような情報がわかればそれでいいのではないか。 たとえば本屋の店員が「この本はザイコキンショーですから」と口にしたら、その店員はコミュニケーション能力が乏しいのだ。耳で聞いてわかりやすい表現をするのが望ましい会話だから。大体、「カンミドコロで何か食べましょ」なんていう人、どこにいる? ただ「幅員減少」とか「迂回路」というのは用語自体を考え直すべきだろう。でも、「道幅が狭くなります」だの「まわり道」だのと書いた場合、視覚的に、本当にただのサインとして、車の運転者にわかりやすいかどうかは検討されなくてはならない。漢字は音として読まなくても意味がわかるところに表記の特性があるのだから、何も無理に音にすることはない。これじゃいけないのかなあ。(フクインゲンショーと入力、変換したら「福音減少」と出た。時代を言い当てているようで笑ってしまった。) 「聞く」と「聴く」の使い分けにいたっては、まあ、わかるんだけれど、これをメモして受験生の子どもに渡すような親がいたりするとちょっと恐ろしい。でも、いるんだろうね。中学受験まであと3ヶ月ないものね。個々の状況を考えれば、たとえば、音楽にしても「聴く」ときと「聞く」ときがあることはいうまでもない。そこでどういう字を使うかがセンスだと思うのに、これだという規則があると安心なのかな。 というわけで見る気がしなくなった。 思うに、漢字をどうしましょう、ではなく、現実の日常生活と規範的な漢字漢語の齟齬をネタにして遊ぶ番組なのだろう。たぶん最後まで見れば、日本語のいろんな部分がオモチャにされていることがわかるのだろう。とやかくいうほどのことではないけど、私は世間とずれているようだ。 ついでにいえば、タレントの不出来を笑うのも、何がおかしいのかよくわからない。
岩波のこのシリーズ「もっと知りたい!日本語」は、研究者たちが専門的な成果を一般向けにわかりやすく書下ろしたもので、論文として要求されるデータや検証過程はかなり省かれているが、もとより私はそういうものを必要としないので、すっきりと勉強になってとてもよい。ただし、書き手によって説教調が抜けず、どうにもつまらないのもある。 その中の『ささやく恋人、りきむレポーター』では、会話を自然な会話たらしめているフィラー(「えー」「あのー」の類)や、イントネーション、りきみ、果ては空気のすすりこみまでを扱う。(恋人やレポーターが出てくるのはほんの一瞬なので、タイトルを真に受けると騙された気がする。むしろ「自然な会話の構成諸要素」とでも付けるほうが、内容には即してる。しかし、そんなタイトルでは誰も買うまい。岩波もアカデミズムからポピュリズムへまっしぐら。) 「あのー」と「えー」はどう違うのか。「さあ」というときはどんな気持ちなのか。りきみや空気のすすりこみ(シーッと吸う音)はいったいどういう場面で出るのか。などということについて、自分の体験と照らし合わせながら読める。イントネーションの高い、低いの変化についての考察も面白かった。「はい、はい」を<高・低>でいえば、「待ってました、やりますよ~」という意気込み、<低・高>でいえば、「わかってますよぉ、うるさいなあ」である。我が家においては、前者は夫に「おやつ」の声をかけたとき、後者は息子に説教するときに生のデータが入手可能である。 空気のすすりこみについては、著者の私怨がちょいと顔を出して、この本に人間味を与えている。どうやら同業者の女性から、そんなことをするのは「関西のオヤジだけ」と断定されたことを根に持っているのである。関西の男性である著者は、そこで、すすりこみは関西オヤジの独占物ではなく、東京の若い女性もやっているぞーと論じるわけである。え、まさか?と思うあなた、ご一読あれ。してるんですよ、ちゃんと。 ともかく、そういう「雑音」が会話において立派なコミュニケーション機能を果たしている事実は大変興味深い。我々はそれをどうやって身につけたのか、そして、どうやって人に教えることができるのか・・・さあ、そこへ来ると研究は緒についたばかり。 日本語ウンチクの好きな人にはお勧めできます。でも、これ一冊読んだからって、ウンチクたれる人はお友だちリストから抹消。
日曜日に初めて知った古谷紅麟の図案集を入手。ささやかな喜びである。2800円。CD1枚ってところだ。 神坂雪佳のお弟子で、洋画は浅井忠に学んだらしい。図案集は草花模様ばかりで、犬とリスがちらりと画面を掠めるだけ。アヒルがいないのが大層残念だけれど、木版の暖かさをよく計算しつくしたデザインが素敵。線の流動感がとてもいいし、シルエットの処理も洒落ている。 こんなポチ袋があったら、こんなグリーティングカードがあったら、と思うようなデザインが沢山。もちろん帯や扇のためのものも。でも、その反面、安っぽく消費されるのは嫌だな。(この冬の髙島屋のカタログの表紙は雪佳だ。髙島屋の手垢がついちゃったよぉ。) 近代の日本画系の作品は、洋の影響を受けた和だから面白いし、なじみやすい。今はわざわざ「和」テイストなんていって、気持ちの悪いことを平気でしている。でも、それって本来逆でしょう。もうすっかり表面は「洋」になっている私たちの文化だが、それは接木されたもので、その上にさらに元の枝を接いでみるのだから、ほとんど倒錯的。 それにひきかえ、明治の人のものは、実生の木を洋風に剪定してみた、という感じで、「洋」の香りのする「和」。とても健康な明るい美しさ。しみじみ眺めていると、「手に入る値段」なら一枚くらいオリジナルが欲しい気持ちになってくる。
森達也×森巣博の対談。私たちの国のどーしょーもないメディアを語る。 森巣博は例によって煽り役。以前の姜尚中との対談『ナショナリズムの克服』(同じく集英社新書)と同様、これも刺激的だった。(ただし、彼の小説についてはあまり評価しない。) 私は片方の森達也という人についてはあまりしらない。オームのドキュメンタリーを撮った人なのかな。 この二人の話は微妙に噛みあわない。森巣の餌に森が喰いつかないというところか。で、お前はどちらを信頼するか、と問われれば、森のほうが信頼できそう。森巣の饒舌は、おそらく十分計算されたものなのだろうが、うっかりすると絡めとられてしまう。極端な一つの事例を万事に変えるという論法がやや目立つ印象。そこへいくと森のほうは慎重に言葉を選ぶ。 つまりこれは、才気あふれる「評論家」の観察と実際に現場で動いた者との言葉の重みの差だろうか。 ただ、二人共に日本のメディアの現状 - その堕落のさまを鋭く突くことは共通している。そうなんです、おっしゃる通りです。「正義」を振りかざす大新聞や放送局は、みんな彼らのシナリオにある「正義」を報道しているのです。私も日々そう思っています。 ナサケナイデス。でもそれが支持され信じられている国なんです。 報道は事実ではなく、切り取られた風景に過ぎない。切り捨てたものが何なのか。それをいつも忘れないで報道に接することがせめてもの自衛・・・けど、いつまでそれでやっていけるのだろう? それに、たとえば「被害者の身になって」というようなこと、そんな不可能なこと、やめたらいいのに、と思う。報道に限らず、日常的に私たちは「相手の身」になれると思いすぎてやしないか?だから、何かあると外野の大合唱となる。人の身になれるなんて思いあがりだ。 人の身になんて実はなれっこないのだ。想像してみることは出来ても、それが当たりかどうかは当該の人に確認するまでわからない。まずは自分のことを責任をもって話せるようになること。それが出来ないのに人の分まで話さなくていいよ。
学生時代の仲間と恩師とで出向く。1人ではなかなかここまでいかない。そうじゃなくてもこの秋は見たいところが多いのに。 私は今回の企画にはそれほど興味をそそられなかった。誘われたから、つきあった、という程度である。 「浮世絵モダーン」と称して展示されていたものの中では橋口五葉がダントツだと思った。切り口も技術も。でもまあ同時代のものとの比較対照の結果、である。風景画は「お土産用」みたいな感じがしてぱっとしない。でも、S先輩にいわせると「これはお土産用の作品ではありませんよ」と来る。そーかなー・・・ 安井曾太郎や梅原龍三郎の版画はなかなかうまい。特に曾太郎。でも油絵のほうがずっといいし、なぜ版画?という答えが見つからない。たくさん見れば見つかるかもしれないが、でも私、そこまで近代の洋画@日本には入れ込んでいない。 古谷紅麟なる人の挿絵版画のあひるが大層気に入った。線に温かみがある。なんでも神坂雪佳の系統だとか。つまり琳派の末裔。ふんふん、やっぱりね、である。S先輩が「紅のコーリンなら、まだ買える値段ですよ」と教えてくれる。そうか、買えるのか。買えるなら買ってみようか。でも、私が欲しいのはカエルじゃなくてアヒルだ、とくだらない洒落。
最近、脳に微細な傷があるのではないかと半ば真面目に考えてしまうほど物忘れが激しい。 固有名詞はもちろんである。とりわけ覚えたくない事柄に関しては恐ろしいほど忘れる。覚えたいことでも、インデックス代わりの一文字を覚えているのが精一杯。この本は持っていただろうか、と迷うことも多い。固有名詞に近いものとして、先だっては自宅の電話番号を忘れた。ようやく思い出してかけたら、昔の番号だった。 行動の理由も相当怪しい。今日も××屋へ買い物に行かなくっちゃ、と数あるご近所スーパーの中から××屋を指定したはいいが、なぜもっとも不自由な××屋でなくてはならないのか、という理由がどうしても思い出せなかった。行けば思い出すかと思ったが、行ってもついに分からずじまい。きっと買い洩らしたものがあるに違いない。 その流れで物の置き忘れ/取り忘れも茶飯事である。何巻か揃いの本を順番に買うとき、一体どこまで買ったかを忘れることも多い。だぶって買うのは避けたいので、この次、と思い、この次にまた同じことを繰り返す。 漢字もこれまたひどい。書けないこと甚だしい。これまで漢字検定だの漢字博士だのという物知りをバカにしていたが、考えを改めないといけないかもしれない。が、とりあえず「誤字は誤字と分かった時点で、文字としての機能を果たしている」という金田一春彦の言葉を座右の銘として暮らそう。外国語の単語も涙が出そう。 同じ話を繰り返すという年寄り臭いこともまま起きる。こればかりは指摘されるうちが花である。老父など言って5分もたたないうちに同じことを言い始めるから、さすがにもう指摘すらしないで、はい、はい、と相手をしてやるのだが、遠からず自分の番になりそう。 深刻なのは予定である。予定に関してはかなり緊張していないと危うい。予定が決まった時点でちゃんと手帳に書くこと、携帯に入れること。宅配便の配達予定もちゃんと書いておかないと、いつ物が届くのかわからなくなり、配送伝票をどこにおいたかも忘れ、あげくは「配達いつにお願いしましたっけ?」と店に電話をかける破目になる。 これが老化なんだろうが、あたかもイノコヅチのようなトゲトゲのある小さなものが脳に紛れ込んで、あちこち傷をつけて動き回っているようだ。脳みそ微細損傷、損傷したところが治るときにひきつりが出来て、脳みそ萎縮。
神谷美恵子、素敵。品がある。 自伝(と呼ぶしかない)『遍歴』はまさに、その遍歴の一端を綴ったに過ぎず、しかも全体に統一のとれた作品ではない。妙に細かいところもあるのに、結婚や転職、育児など実際に読者が知りたくなるような部分、「神谷さん、悩んだりしなかったの?」と言いたくなるような部分は極めてあっさりと通過する。物足りない、と思う向きもあろう。 が、そういうことって実は読んだところでしょうがないのだ。神谷さんの葛藤を「だよねー」と読むことは多分、私のような凡下の徒には心休まることだが、まったく参考にはならない。くだくだしい思いを吐露しない姿勢こそ参考にすべきものだと思う。「私」を「私」の中で持ちこたえることを倣うべきだ。 PH学寮の話が私には一番楽しかった。神谷さんを神谷さんたらしめたのはここでの経験ではないか、と思う。一方「愛生園見学の記」には隅々まで若さがあふれて、これも上等。 神谷さんの生涯を振り返ると、彼女が大変なスーパーウーマンのようであるが、実は相当に才能を分散させてしまった人だ、ということを思わないではいられない。失礼を承知でいえば全部中途半端。西洋古典の学者としても業半ばで、医学に転身するのだし、その医学も途中で家庭中心になったことでの中断があり、医学の進歩に貢献した、とまでの評価は難しいのではないか。英文、仏文等はディレッタントの域だろう(もちろん大変優秀な、と付言せねばならないけれど)。有名な一節を持つ詩はあるが、詩人という肩書きはいかがなものか。 だが、素晴らしいのは、そういう神谷美恵子だということだ。目指すものを持ちながらも、環境に逆らわず、その時々の方面で自分を磨いている。そうしてじっくり涵養された力が、ようやく愛生園で働けるようになった神谷さんを支えたといえるのではないか。また、その力があったからこそ、医療だけでなく、文章を通して人間の深遠さを我々に伝えられたのではないか。 まわり道は悪くない。目指すものを見出せるだけの教養、志を持続できるだけの強さが揃えば、まわり道は決してただの道草にはならない。問題はその二つが揃うかどうか、だ。 最近、しょーもない仕事がらみの本しか読んでいなかったけれど、久々に読む甲斐のある一冊を読んだ。長距離通勤もよきかな、よきかな。
谷川俊太郎に「ネロ」という詩がある。教科書に載っていたから知る人も多い。愛犬が死んで、どこやらの夏がどーのこーの、というあれである。 何十年ぶりかに久しぶりに読み直した。 ああ、谷川俊太郎も若かったのだなあ、と至極当たり前なことを感じた。ネロの死を過去に残したまま、彼は新しい夏に向かって歩く。 この間から、死んだ犬のことが妙に気にかかっていたから読み直したのだが、どうも若き俊太郎くんとはシンクロ不可能だ。うちの息子はどうなんだろうな、と思うが、親が聞くようなことでもないから聞かない。 犬との日々は私にとって永遠にひきずっては愛でる過去になるのだろうか。愛犬の思い出話をいつまでも繰り返すなんて心底やだね。夫のほか誰に迷惑をかけるわけではないからいいようなものだが、そういう話をくどくどするのはダラシナイ。しかしこの先、私に新たな地平が開けるような新しい夏が一体来るのだろうか。まあ、まだ10回や20回は夏を迎える心積もりではいるけど、なかなか俊太郎くんのようなわけにはいくまい。 若いときは谷川俊太郎の詩が好きだった。でもだんだん面倒くさくなってきた。特に最近は御用詩人のようになり、耳ざわりのいい言葉を並べた小奇麗なキャッチのような詩が目立って、広告以外の場所でお目にかかるのはご遠慮申し上げます。(それなのに私は何度も街角でご本人と接近遭遇をしている。) それはそうと、和泉式部の歌に「今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりのうきこともがな」というのがある。「忘るばかりのうきこともがな」とはよくいったものだ。おばさんの私にはこちらのほうが、はるかに共感できる。もちろん私の場合は式部と違い、亡くしたのは愛人ではなく愛犬ですなんで、誠に申し訳ありませんが。 ・・・犬の死から2ヶ月以上たった今、ようやくそのことを感情的にも受け入れようとしているのでしょうね。
正式な名称は忘れた。 バナナを吊しておく道具である。ずいぶん前に友だちが絶賛していたが、そのときは「あ、そう」という程度の関心しか持てず、数年を経た。台所というのは、そうでなくても余分な道具が増えるところである。わざわざバナナ風情のために専用の台なんぞ、と思っていた。マスクメロンだ、白桃だというのならともかく、バナナである。 しばらく前、高級木製バナナつるしを買った。単なるハズミではあるが、<高級木製>である。確か友だちが、百均にあるような安いのはいけない、大きいバナナがつるせないから、とかなんとか言っていたので、生協チラシの<高級木製>にしたのだ。高級とはいえ、いくらだったか忘れる程度の品である。真横からみると数字の「2」のようになっていて、「2」の先端にバナナを吊るすというだけの簡単なものだ。 ところが、これが案外のスグレモノで、バナナの持ちもいいし、それと同時に売れ行きもよい。バナナがおいしそうに見えて、朝ごはんに1本、お弁当用に1本、と無駄なく家族の胃袋に納まっていく。もっと早くに買えばよかった。 フィリピンとかタイとか、実際こういう道具が家庭にあるのかしら? ただし、いけないのは、最後の1本になったときだ。宙ぶらりんに1本、ヘタの具合によっては吊るすのも難しいが、うまく吊るせたとしても、なにやら気持ちがよくない。縁起でもない感じだ。これについては友だちは何も教えてくれなかった。一人暮らしだったから、最後の1本が常に存在しただろうに。
駅から家まで歩く途中、北の空を東から西に大きな流れ星を見た。流れ星、というよりは、成層圏に入ってきた隕石の類だったのかもしれない。見事な尾をひいていて、ほぉ~と見惚れた。 しし座流星群、なんていうと、私も一応は庭に椅子を出して頑張ってみたりする。 今日の流れ星がとりわけ感慨深かったのは、たまたま夏に逝った老犬のことを考えながら、歩いていたからだ。 2日ほど前に珍しく夢に見た。人に話せば、「よかったわね、天国で幸せにしているのよ」といわれそうな夢であった。(天国で幸せにしてくれるよりは、うちで不機嫌な顔をしていてくれるほうがいいけれど。) そして、昨晩、生協の箱にリサイクルものを入れておこうと、たまたま夜更けに庭に出た。そのとき、シリウスが目に留まった。犬が元気なとき、私はいつも「死んだら犬はシリウスへ行くのよ」と勝手な作り話をしながら、用足しに出してやったものだ。そのシリウス(天狼星)、犬が死んだときは、夏だったから見ることもなかった。ゆうべは夢とシリウスが合体して、ひどくセンチメンタルな気持ちになった。 まあ、そんなことをつらつら考えながら、歩いていたら、大きな流れ星だったのである。何にも関係はないんだけれどね。死んでしまったんだなあ、と今更ながら・・・。
「見本」という無粋なスタンプとともに、我家のポストに入っていた「赤旗」日曜版。試供品のシャンプーがポストに入っているよりは、宗教系のパンフのほうが、面白くて好き。ときどき、天理教とか生長の家とか、真光とか、もちろんご近所のキリスト教会のも全部読んでますよ。 で、今日は「赤旗」日曜版。やった!これ、読んでみたかったんだ。 別に支持者じゃないけれど、共産党の財政基盤に大きく貢献している「赤旗」、そして、その日曜版の充実振りはかねてから風聞するところ。まさか買いに行って、シンパと思われるのも嫌だし、ポストに入れてくれるなんて気が利いてるわ、である。 2週間前のものだが、B4サイズで36ページ。一面は「パキスタン大地震」、これはまあ小学生新聞並みの情報。文章は「です・ます」体です。続いて暮らしを脅かす原油高騰、〒民営化法案、障害者自立支援法案ときて、党の中央委員会総会報告、小選挙区制の解説、参院神奈川補選、中越地震のその後と、政治社会的なものが11ページ。あとはスポーツ、ファッション、料理、健康、読書、教育、旅行、相談、漫画、芸能、文芸、その他投書欄とちょっとした家庭週刊誌である。広告もある。露骨な政治臭、宣伝臭もなく、これで一ヶ月800円は納得できる(買いませんよ)。安さでサン○イを取る人なら、転ぶかも。あ、でも、テレビ欄がないから日刊紙の用は足さないか。 「○教新聞」と異なり、共産党は電車で人目に触れるように読みなさいという指導がないのだろう。「赤旗」を車内で見かける機会はなくはないが、うんと少ない。車内で読ませるようにしたら、少し部数が伸びるかもよ、と例によっていらんお世話である。また、見本紙、入れてください。読んでから捨てます。 昔、志位さんをオペラシティのホールで見かけたことがあります。なかなかの男ぶりでした。オーラ漂ってました。奥さんはとても美しいかたです。
篠田桃紅の美術館が岐阜の関にあるらしい。 桃紅と関の関係なんぞ思いもよらず、驚いた。 (実のところ、さほど大した関係があるわけではない。大垣の守屋多々志とは違う。) 岐阜県が「売り専門」の美術品(たとえば日曜の新聞の通信広告に出る鶴亀とか、朝日と松みたいな軸)の産地であることは聞いたことがある。ただし昔のことで、今は中国で作らせたもののほうが多いかも。 それはともかく、桃紅の作品は素敵だ。私たちが持っている書道の概念をくつがえすものがある。 古筆と比べてどうこうというものではないが、東京文化会館へ行くとき、うきうきした心にはいつもあのロゴが心に浮かぶ。桃紅の字なのだ。 さて、桃紅美術館、一度行かねばならない。行かねばならないが、相応の中身なんでしょうねえ?関の孫六じゃ売れなくなったから、とか、文化的なイメージアップのために作ってみた、というようなものじゃないんでしょうねえ?まっとうな学芸員さんを雇っているんでしょうねえ?市役所職員が順繰りに来て管理しているような施設じゃないことを祈りつつ。お楽しみは来年でしょうか。
聞きしにまさる立派な書の数々でした。 そりゃ、五島ですから、大東急ですから、と想定の範囲内ではあるのですが、「古今集高野切」(第一種)巻一巻頭には思わず絶句するほどでした。(混んでいたので、「後撰集」から見て、最後に「古今集」を見ました。) 書についてはどこがどういいのかは、全くわかりませんが、でもこれは特別。他のものがつまらないということではなく、公任も行成も立派ですし、定頼も健闘していますが、でも高野切には敵わないということです。あ、もちろん貫之は別に今更、賛嘆者が一人増えようが、二人増えようが、全くどうってことはないでしょう。 ともかく、鑑賞に堪える美しさを持つ文字は、東洋の書道に限らず、イスラムでもあるいは西洋でも、一種独特の風格があります。書かれた文字だけでなく、金石文でも同様です。その形に託すもの―歌でも祈りでも―への思いが表出するのでしょうか。 たまたま岩佐美代子先生の「八代集の歌人たち」と題するご講演があり、これがまた素晴らしくて、今日、突然思い立って出かけたことは、殆ど天佑の域だったかも。岩佐先生のチャーミングさはこれまた格別です。ご学問の深さはもとより、漂う品位!浅ましさとの対極にいらっしゃる方です。しかも、お声が凛として美しく、迦陵頻伽もかくや、と思われるほど。80歳だなんて信じられません。耳に心地よい講演でした。まるでリサイタルみたい・・・うっとりいたしました。お召し物も素敵でしたよ、古代紫に扇の小紋。 素敵な80歳を見ると、これからの人生に元気が出ますね。
理解不能。 一個157円の焼き菓子を「3個ください」といったら、472円だといわれた。計算の苦手な私でも1の位が1になることぐらいはわかる(7×3=21)。 「え?」と聞き直しても、売り子さんは全然不審を覚えないらしい。 面倒だからいいや、と思ったけれど、でも念のために「1個157円でしょ」と質した。すると、先輩格の人が来て、「うちは端数を切り捨てているんで、本当は157.5円なんです。」という。 切り捨てているのなら、常に一個157円であるべきで、2個買うと157.5×2=315円になるという仕掛けは、単に端数を隠しているにすぎない。1個ずつ買えば157円だが、まとめて買えば買うほど客は損がふくらむという奇妙な売り方である。こんな売り方が通用するとすれば、物不足で行列を作るような、かつてのソ連みたいなところだけだろう。 1個ずつ3回に分けて買うという選択も当然考えられたが、そんな手間をかけてまで正義を実現しようとするガッツは私にはない。どうせ相手はただのバイトだ。せめて「じゃあ、端数をつけた値札にしないとインチキよね」といったら、即、その場で158円の札が出た。ナンナンダ、コレハ?! どうせなら、1個158円、2個なら315円にするほうが、客の印象はいいと思うのだけれど、税込み表示になるとなかなか不思議なことが起きる。二度と買うもんか、近所に言いふらしてやる、といいたいところだが、イベント出店の店だったし、幸か不幸か、その価格にしてはなかなか上等の味であった。そして、これまた幸か不幸か、店の名前はもう思い出せない。大阪のどっかのケーキ屋であった。関西の人はこんな売り方に文句を言わないのだろうか、それとも東京人は見栄っぱりだから、こうしても払うと読んだのだろうか?
あ、日付が変わってしまいました。 もう寝なくっちゃ。 今日も古今集・新古今集がらみの講演を聴いて、学生時代の不勉強を補った。でも、聞きながら、学生のときなんて、絶対話のツボがわからないわよ、と思う。それが学生のとき分かった人は、会場で壇上にいる人なのだ。 (けど、壇上の人も時に口が勝手に暴走していたなあ、ふふふ・・・) もちろん今日も中高年。あんまり高校の先生とか来ないんだよね。本当は一番来たほうがいい人たちなのに。 歴史の人が文学を見る目は面白い。 今日の話で一番印象的だったのは、後鳥羽上皇が宋銭をかけて連歌をやって、現在の貨幣価値で20万だか勝った話だ。そこから始まって、橋だの湊だのの傍にはお寺があって、そこで連歌をやる(ここまでは資料の裏づけあり)、おそらく賭けたに違いない、でテラ銭は、橋や湊の管理をするお寺が公共事業費に使ったのではないか、という仮説。裏付けられる資料の発見に期待したいです、はい。 歴史の人の話を聞くと、古今集の仮名序の「天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ」という一節も虚飾じゃなくて、「やまと歌」は立派な行政手段じゃん、と思ってしまう。 思い切って佐倉の歴博にも行って見ますか。ただ券もらっちゃったし~。
大人の塗り絵、なんてものがあるのである。 しかも何種類も平台においてあったところをみると売れているのだろう。「きいちのぬりえ」ではなく、ボティッチェリ「ヴィーナスの誕生」だの「春」だのゴッホ「ひまわり」だの、という名画ばかりがA4サイズの塗り絵本になっているというしかけ。 なんなんだ、いったい! しばし考え、ひところ流行った大人のドリルみたいなもんかと想像する。 あの計算ドリルといい、書き取りといい、馬鹿げたものであったが、ついに塗り絵かよ、である。この次はお子様用の迷路に違いない。 どっかのつまらんワイドショー学者が脳の活性化にいい、とでもいったのだろうか。みのもんたが「お嬢様がた」にささやいたのだろうか? で、誰が買うのだろう?ボケを唯一の敵と怯えるご老人衆?ボケられたら困ると思うご家族?人の足元みやがって、何でも売ればいいと思っている。 大人の塗り絵というなら、せめて原寸大でやったらどうか?どうせなら、黄色だけでも濃淡何色も揃えた色鉛筆でも添えて、まさしく「大人」のやるようにやってみたらどうか?お金はあるんだから、紙じゃなくてキャンバスにしたっていいんだよ、油彩の絵具一式添えたって、本当に欲しい人は買いますよ・・・ 子供だましで脳が活性化できるもんですか。いくら使っていたって、老化はちゃ~んとやってくるんだもの。わたしんちへも毎日来てます。 なんだか幼児退行現象を社会全体で後押ししているようだ。中高年がせっせと台所のテーブルかなんかで塗り絵していると思うとつくづく気色悪い。
国文学研究資料館の講演会に行く。 聴衆は200名近いが、驚くほど年齢層が高い。ぎょっとするほど高い。 「古今集から新古今集へ」と題した、事前申し込み制の連続講演だから、思いついてすぐに出席、というわけにはいかないせいもあるが、年金をもらっていそうな年恰好の人がほとんどである。 平日の昼間だから労働年齢の人は来られないということはわかる。でも学生は?それにカルチャーマダム族は?とにかく会場に若さ、華やかさはゼロ。要は古今集だの新古今集だのでは、どんなに立派な講師でも関心が集まらないということなのだろう。こんな体たらくでは、あと10年もしたら、講演会を開いても閑古鳥が鳴くに違いない。 大体、今年が古今集奏覧1100年、新古今集竟宴800年だということを知る人がどれだけいよう?けばけばしい記念切手は出たけれど、「日本におけるドイツ年」とかいうほうがまだ認知度が高いのではあるまいか。 同時に古今集・新古今集関係の展示があった。立派なものも沢山出ていた。出ていたが、いかんせん説明が一般の人に向けて書かれているとは到底思えない。ムズカシスギル。一般公開の成果として入場者数は大事だから見せてあげるけれど、中身はわからなくていいのよ、ということだろうか。 もちろん専門的な施設であるし、ある種の事柄は専門用語を使うしかない。先ほどつかった「奏覧」なんていうのもそうだ。(勅撰集は出来たものを天皇に見せることで完成と見なす。その見せる行為が「奏覧」。ただの「完成」ではどの時点を指すか、かなり揺れが生じる。・・・ここで「勅撰集」って何よ?という問があっても驚きはしないが、勅撰集が何かは高校で学習済みのはず。) だから、ある程度専門的なことを語ろうとすれば、それ相応の用語がいることはわかるのだが、それ以外の部分でもひどく古めかしい表現が多用されていることには抵抗を通り越して、腹が立つ。たとえば「蔵儲」、ゲットしてキープすることだが、漢和辞典を引いたって手元の中辞典程度ではそんな言葉が出てこない。 人文系の研究機関は多くの人の支持がないと潰されかねない。経済に何も貢献できない存在は、今のこの国では穀潰しでしかない。それを避けるためには、生涯学習の機会にもっと工夫を凝らして、古典も楽しいな、と思ってもらうことが大切ではないか。研究者ばかりを相手にしていたのでは、先細り必至である。内輪での高い評価と同等に、一般来場者の「ためになりました」「おもしろかったです」の一言をもっと大切に考えるべきだ。 まずは高校を卒業した程度の現代人にわかりにくい修辞は使わない。専門用語での解説が専門家のために必要だとするなら、用語解説のハンドアウトを配布するなど、わかりやすくする方法はあると思うのだけれど。 こんなんじゃ、本当に先々心配。古典文学愛好者はいまやトキのキンちゃんみたいなもんですよ。
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