銀座のYAMAHAでピアノを見る。 といっても、買う予定があるのは友達で、私は楽譜を買いに行ったにすぎない。もっと正確にいえば、楽譜を買いに行く私をきっかけとして、友達が買いたいと思っているグランドピアノの下見をした、というべきか。 でも結果は逆転で、楽譜を買ったことなどほんの些細なこと。ピアノ購入を考えることだけで、楽譜なんて吹き飛ばされてしまう。同じ楽譜でもヴェラムの上等なのだと多少風圧に抵抗できるかもしれないけど。 私はコンコーネの音とりぐらいにしか使わないから、永遠にアップライトだし、買い替えなんて考えも及ばないが、同じアップライトでも200万からするアップライトはいい音だったし、象牙の鍵盤の優しいタッチが魅力的でした。サイレント機能が進歩したことにも驚かされる。電子ピアノのくせに、イッチョマエに矮小なグランド気取りの楽器にも。木目は以前からあったが、白木のピアノにはちょっとびっくり。そりゃまあ、黒の鏡面仕上げがピアノだと無条件に刷り込まれているのかもしれないけれど・・・ そもそも、あの塗装にはどういう効果があるのだろう?防虫効果はありそうだが、内側までは塗ってないもんね(あ、200万のアップライトは内側もピカピカ)。ハープシコードになると、美術品みたいのもあれば、梱包解いたそのまんまみたいなのもあるよね。一体いつからピアノがあんなふうになったのかな? 今度は松尾楽器にスタインウェイの下見についていってみたいです。浜松あたりの工房でも、誰か連れて行ってくれるのなら、喜んで。
大昔、アメリカで過ごしたとき、お世話になった方(日本人)が本を出した。別に初めての本ではないのだが、いわゆるアメリカ生活もの。もう30年以上、あちらで専門職につき、家庭を持っている方だから、それだけで立派なもんだと思うが、どうも「アメリカでこんなに素敵な生活しているんだよ〜〜」という自分語りがしたくてしょうがないらしく、出版を喜んであげるより、なんか哀しい感じ。 週末にホースライディングを楽しんだり、自分のボートで釣りを楽しんだり、とアウトドア満喫なことはわかるけれど、それって、その土地でそこそこの収入のある人なら、望めば誰でも出来る暮らしじゃないか、と思うのだ。彼が渡米した30数年前じゃあるまいし、いまどき、アメリカ暮らしの報告って時流に遅れているよ、という浦島太郎的哀しさも感じれば、自分の成功を日本人に認めてもらわないと安心できないのかしら、という同情に似た哀しさも覚える。 彼は前にも2冊ばかり、アメリカ生活ものの本を出している。いずれもさほど評判になることもなく終わった。出版社はだんだん小さなところになった・・・ご本人がとてもイケメンおやじで、素敵な人であるだけに、私は何か悲しくってさ。外国で年をとるって難しいことなのね。本当は凱旋して故郷に錦を飾りたかったのかなあ。
昨日書いた原稿を丹念に読み返し、またちょこちょこ手を入れたら、少しだけ納得がいく仕事に近づいた。そろそろ拙い頭では限界か、と思う。たぶん明日送ってもう手放そう。世の中にはいい加減な仕事が多い。私のが一つ加わったからといって、そう迷惑を引き起こすことはあるまい。まずその前に読む人がいるか??? さて、読む人がた〜くさんいる村上春樹。 私が『海辺のカフカ』はいい、といったものだから、息子が読み始めた。が、彼は大変厳しい。中途半端だとか、ご都合主義だ、ベストセラーにありがちの甘さとか・・・あげくは「楽に読めるけど、時間の無駄みたいな気がするんだよね」と。 そりゃあ、あいつはちょっと前まで『ダロウェイ夫人』だったから、それに比べれば、歯ごたえも描写の妙もありますまいよ。 もう読む気がしないといっていたから、じゃあ、とネタばらしをした。前半部に出てくるもののすべてが、後半の何かときっちり符合するとは私にも思えないが、でも、あの小説で作家が言おうとしていることは、書かれていることではなく、それに象徴されるものではないかと思う。変化を受け入れ、自分も変化し続けることがテーマじゃないか、なんて安直に思うのだけど。 息子と私のこの作品に対する読みの差に結構影響を与えているものは、性差と年齢差である。彼にとっては15歳の少年だった頃がほんのちょっと前でしかないのだから、主人公をある種のシンボルとして捉えることが出来ないのではないだろうか。女教師の経血云々も含め、性的経験の部分も私とは受け止め方が違うだろうし。 でもまあ、いいんだ。息子と同じ読書体験を持つことは面白いから、とりあえずヨイショをしておいた。 2,3日前、兄と電話で話をしたら、村上龍のほうの『半島を出よ』が面白かったとか何とか言っていた。でも、私、小説の新刊は高くてかさばって嫌なんだよね・・・文庫になるまで我慢しよう。
くだんの原稿が本当に難航して、自己嫌悪もいいとこでワープロを叩く日々でした。入力と同じくらい削除もするという、理不尽さ。 で、ようやく先ほど書けたんですが、それがね・・・ 全然快感ナシ。 柔道で双方が「注意」だの「警告」だのを受けながら、ろくな技もかけないまま、ごろごろしているうちにタイムアウトで判定勝ち、といった書きあがりの原稿です 脳内モルヒネだかヘロインだか、ドーパミンだか何だか知らんが、そういうものがドバドバ分泌されて、ハイ・テンション、一本背負い、みたいな気分で書き終えられるといいのにね。 ほんと、やだ。 でもこれを手放さないとゴールデンウィークが来ない。 最近、老犬は体臭が変わった。 人は弱ってくると重病人特有の臭気が漂う。 犬もそうかもしれない。 ただ、失神したり、ふらついたりはしないし、食も便もOK. 健やかに逝って欲しいというのが私の願い。 用足しのあと駆け出すのは今までどおりなので、できれば、天まで駆けて行け、である。
昨日発見した大ポカの穴埋めに終日費やすつもりが、いまだに全然穴を埋められないまま。 というのも、さきほどまで、息子の小学校の友達の女の子×2とライアンがしっかと居座って遊んでいったからである。日中、もう一人の子も入れて5人でボーリングをしたら、盛り上がっちゃって、結局場所を求めてうちへやって来たのである。ここらへんはさすが地元、といったところ。 私としては、ライアンに食べさせることは予定のうちだったから、じゃあ、まあ、いいか、と「ごはん、食べていったらどう?」と、まとめて食べさせた。 お料理なんかてんで得意ではないが、数年前、息子の友達が1ダース押しかけたときに、<食べさせる>ということは、一人二人を相手にするより、おおぜいで突然、が楽だということを悟った。一人二人だと好みを聞いてきちんとまっとうなものを食べさせないといけないが、人数が増えれば、適当なものを何品か作って、皿と箸を与えて、好きにして頂戴、で放置すればいい。それぞれの好き嫌いを気にする必要もないし、約束なしで接待するのだから、多少量が少なくても構わないし、ありあわせでも堂々と出せる。 本日は、ミートローフ、ベークドポテト、サラダ、どーんと大皿のグラタン、豚肉とかぼちゃの煮物(ゴマ味)、味噌汁といった程度。あとからイチゴとケーキ(たまたま切り分けるタイプを買っていてよかった!)。「白いご飯が欲しかったらいってね〜」といっただけで、特にそのあとすすめにもいかなかったので、結局誰も食べなかった(おなか減るかも)。 昔のビデオを見たり、他愛もないゲームをしたりしていただけだが、結構、みんなで大騒ぎをやっていたから、親としては、親の仕事がしてやれてよかったなあ、と思う。 ライアンの日本語も3週間でかなり改善されたところがあり、よしよし。でも、授業がたるいらしい。わからなくもない。一流私大の交換留学生としての来日だが、留学生ビザの要件を満たす程度に留学生相手の授業があるだけだから、はっきりいって、そんなに責任をもった教育内容を提供するわけではない。さりとて、ライアンの日本語力では、まっとうな日本人相手の講義は到底理解できないから、かわいそう。 だったら、自分でもっと必死になって漢字でも覚えたら、と思うが、わがライアン君は根が勤勉な学生とは言いかねるので、そんな気にもなれないらしい。困ったもんだ。あんまり屈折する前に、またいらっしゃい、である。
懸案の原稿も上がったし、お天気もいいし、と今日は今日とてカルテットを聞きにでかけた。前半は睡魔にまつわりつかれて、きわめて贅沢な昼寝。午後3時からという時間のせいか、あちこちに居眠りさん出没していました。 さあ、後半は気合をいれて、と思っていたら、突然、先日上がったはずの原稿の大ポカに気付いた。まだ手元にあるのが、もっけの幸いとはいえ(〆切30日)、気付いた途端に音楽どころじゃなくなって、ポカの始末で頭が一杯。 使えないところはどこか、その穴埋めは?結論の落としどころは?論理は?整合性は?と頭の中はぐ〜るぐる。 終わると同時に飛び出して、それでもPAULのパンだけしっかり買って電車に乗る。中で忘れないように、考えたことをあれこれ書き留める。「まいったな〜」と「あほだな〜」の反復横とびですわ。 最近我家で流行中の台詞「シランデは頭が悪いのです」(『海辺のカフカ』のナカタさん)。頭がよければポカはない。もっと悪いと気付かない、つまり、単に悪いのでギリギリのへんなところで気付いてしまう。中途半端はダメね。 ところで今日聞いたのはフェルメール四重奏団。オッサンぞろいで手堅い音かなと思いきや、非常に明るい響き、特にチェロが軽快、ヴィオラもよく歌う・・・ただし、まともに聞いたのは本当に断片的にです(泣)。
通勤時間が終わりにさしかかった朝9時台の電車。鎌倉あたりへお出かけのおばちゃんたちが多い。スケッチにでもいくのか、画材をもったグループのおばちゃんの一人にに、乗り込んできた人懐っこい不良白人が話しかける。迷彩柄のパンツに編み上げブーツ、上はダンガリーシャツで、髪は周囲をそりあげて中心だけ伸ばした、なんともいえないポニーテール。 どこへいくのか、絵を描くのか、オレも絵は好きだ、など、他愛のない話なんだけど、見るからにヒッピーくずれみたいな50男(60かも)。おまけに手には缶ビール。繰り返すけれど、朝の電車ですよ。相手をしているおばちゃんは50代前半、人品卑しからぬばかりか、そこそこ英語もお上手である。 だけんどさ、立ったまま、朝からビールをぐびぐび飲んでいるような男は電車じゅう探したってそいつだけさ。普通に日本人の男だったら、奥様、そんなに愛想よくお相手なさいます?「アメリカへ行ったことがあります」なんて自分から話題を提供しなくてもいいでしょうに。 英語を話すだけで、途端に人を見る目が霞むのかしらん。「マイワイフはオレが酒を飲むのを嫌うんだ」なんていう話をニコニコ聞いてやります?アル中のオヤジだよ、さりげなく場所を移動しません?サークルのお仲間らしいおばちゃんたちは、「○○さんって英語しゃべれていいわね〜」なんて話しているけど、そんな酔っ払いと話すのがうらやましい? 多分、半分はそのおばちゃんも当惑していたとは思うのだけれど、語学って拒絶の言葉をあまり教えないから、こういう場合に大変だよね。私だったらどうするか―その男は見るからに、変ななりをしたダメっぽい奴だったから、話しかけられてもわからない振りをします。そして離れる。それが一番安全でしょ?
珍しく従姉から電話。 家庭教師の時給についてである。 「bちゃん(息子)はいくらもらってるの?」 「小6受験生で3000円/時、業者を通さない分、たくさん頂いてる」 「うちは高3受験生なんだけど、いくら払ったらいいと思う?上の子のお友達。」 「よく知っているお嬢さんなら、3000円位が気楽かも。盆暮、誕生日、成功報酬で調整できるし。bの友達は高3受験生で、業者経由だったから、2000円しかもらっていなかったわ。」 なんていう話のあと、「最近、みなさんお元気?」となったら、お互いに親の愚痴がてんこ盛りで出てきた。ついで兄(弟)の連れ合いの問題。なにしろこういう話は登場人物やこれまでの経緯がわかる人を相手にして話して、初めて面白いのだ。 母は弟の嫁との折り合いが悪く、父は夫との折り合いが悪い。舅はいいんだけど、娘たちがお爺ちゃまを嫌うのよ、と延々と出てくる、出てくる・・・ こちらだって、そういうカードは不自由しないので、父のボケ振りに加え、母が実家をいかにゴミ屋敷にしているか、そのため私がいかに同居の兄一家に遠慮しているか、兄嫁にどれだけ頭を下げるか・・・という類、まったくネタに不自由なし。 「おばちゃんがねぇ、信じられないわね」 「お互い様よ〜、××伯母ちゃんちも去年いったんだけれど、凄まじかったわよ。」 「そうなんだー。あの姉妹には困るよね、気ばっかり強くて。」 「育つときに問題があったのかしらね、×○叔母ちゃんもあんなだし。・・・あと20年は持たないとしても、10年?・・・」 「それくらいはあるかも」 「・・・なんともいえないわね。思えばおばあちゃんは立派だったわ。」 「そうよねー。結構いわれていたけど、おかあさんたちよりはマシよね」 とエンドレステープのように続き、十分発散したところで、犬が吠えた。 「犬は元気なのね?いくつ?」 「12歳。元気でもないけど、婆さんたちみたいに『死んだほうがいいんでしょ』とはいわないわ。」 「あ、そりゃエライわ。あの人たち、二言目にはそういうもんね。」 「まったくよね、やんなっちゃうわよ。」 そんなことをいう犬がいたらお目にかかりたいけれど、私はせめて「死んだほうがいいんでしょ」といわない年寄りになって、犬のように褒められたいものです。
村上春樹って、大昔に『羊たちの冒険』を読んで、つまんない、と思い、中昔に『ノルウェーの森』を読んで、子ども相手じゃん、と思い、こちらはますます年をとるので、読まないことにした作家だった。 なぜこの本を手に取ったか・・・理由は簡単、駅構内で万札をくずしたかった。 予想外に引き込まれた。こういう言葉づかいでこういう話が書けることにちょっと驚いた。こういう話、というのは、人が人であることへの問いかけや、愛すること、成長することの意味など。深刻な内容であるにも関わらず、軽いタッチで、気持ちよく描き出す。これなら翻訳されても十分通用するわねえ。 なかなかの日本語の使い手であるね。 登場人物の性格づけも無駄がなくて結構。ということで、少し村上春樹を読んでみようか。
横浜駅で入ったとき、しかとsuicaの残額を見た。これは絶対確か。 新宿駅でちと胸騒ぎがして、かばんを探ってみたら、定期いれがない!ない!ない! 定期とつきあいが出来てから、このかた、なくしたことなんか一度もないぞ。でも、ない! カバンに放り込んだつもりで、駅構内に落っことしたのかしら? 狭いホームで人とすれ違ったときにすられたかしら? カバンから本を取り出したときに、車内で落としたかしら? 内容物は suica-view card(残額3800円くらい)、 定期券(6月まで、これは家の近くの1駅分だけ)、 ジャパン・ネット銀行のATMカード、 パスネット(残額1000円くらい)、 横浜市営地下鉄回数券(残額1500円くらい)、 現金2000円、 テレカ、以上。 すぐにカード類は止めたから、全部なくしたとしても損害は1万数千円程度だけれど、ショックは肩パッドの比ではない。 降りた駅でJRの駅員さんに、遺失物届けを出す。 「明日の5時以降じゃないと検索できないからね」とのこと。 横浜駅に電話をしようとしても、なかなか番号がつながらないし、遺失物係は時間外らしくてダメ。ご親切な人が構内で拾ってくれているかもしれないのに。 ご親切な人かぁ、と己を振り返って反省しています。 夕方のせわしい時間帯に駅構内で定期券を見ても、わたし、きっと手を出さない。拾ったら届ける、届けると自分の時間をとられる、と思うから。誰か拾ってあげたら〜、とそんなもん。 神様、これから改めます。 当たり前のことが出来る心のゆとりを持ちます。 ですから、私の定期を・・・ 明日は朝いちで横浜駅遺失物係です。 肩パッドなくし、定期入れなくし、この次は何をなくすか心配だったので、さっきおまじないをしてきました。 門の前に財布をわざと落として後から夫に拾いにいかせました。猿芝居と笑ってください。これで三つめを落とさずに済めば幸せなことです。
本日重症鼻炎の私と熱のある息子、それでも行ってまいりました紗矢香ちゃん@オペラシティ メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、誰でも知ってるイ短調。こんな平凡といえば、平凡な曲をどう演奏してくれるのかと楽しみにしていました。 紗矢香ちゃん、ちょっと痩せた。ふっくら若乃花顔がかわいいのに、どうしちゃったの?痩せた「天満敦子」じゃシャレにもならんよ。オバサンはこれ、ちと心配。五島ミドリも天才少女を卒業してから大変だったらしいから。(今は大丈夫、立派な大人です。) さて、メンコン。 理屈っぽ〜。 技術に文句はなーんもありません。 でも理屈っぽ〜。 私が思うにメンコンは青春の抒情を感じさせる曲。若いときの悩み、ご本人はひどく深刻になってもみるけれど、何かの拍子にふとそれを忘れて溌剌とした感情に身を任せて過ごしたりもする、というような、暗いところがあっても若々しさを歌う曲だ、と思うのですが、紗矢香ちゃんは、根源的な深刻さを予感している若き求道者みたいな歌いぶり。能天気に悩みを忘れてメロディーに乗っかったりしないわさ。 うまい下手ではなくて、私は紗矢香ちゃん向きの曲じゃないと思う。ショスタコとか、プロコとか、ベルクとか、そういう20世紀的な曲のほうが向きじゃないかな。 アンコールのカプリースのほうが彼女らしい気がした。 ただし、不満たらたらで帰宅したわけではなく、この頃、生のメンコンというと、息子やその仲間のひくのしか聞いていなかったので、「いやあ、うまいもんだなあ、ひいてるって感じしないわ」というのがもちろん感想の第一であります。 息子たちのは最初から最後まで<メンコンをひいている>という行為が営まれているわけです。<メンコンをひき終わること>がそのゴールです。紗矢香ちゃんのはメンコンというメディアを借りて、譜面ではないものを表現しているのです。レベルがてんで違うのです。 以前、丸山真男が天満敦子に、「天満さんのベートーヴェンというのも結構だが、演奏者である天満さんを感じさせない<いいベートーヴェン>の演奏をしてほしい」といったという話を聞いたことがあります。これにのっとって言えば、紗矢香という媒体を通して、メンデルスゾーンという人間を表現する、ということになるのでしょうか。「いやあ、今日のは<いいメンデルスゾーン>だった」っていえるような演奏。 さて、今日のは<いいメンデルスゾーン>だった? 紗矢香ちゃんのメンデルスゾーンでした。
原稿が仕上がったので、かなりやれやれ気分。出来がいいとはいえないけれど、迷惑をかけるほど悪くもないはず。溜め込んでいたお礼状を書いて、例によって、悪筆を歎き、クリーニング屋へ行って、ここ数週間分のものを引き取る。勢いがあるうちに片付ける。 と、ブラウスの肩パッド・・・はずして出した、と思ったのに、ない、ない、ない! えいやっと清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったブラウス。ポリエステルだから自分で洗おうか、いやこれは高かった、とクリーニング屋に出したのに、なんで肩パッドないの、と必死で探す30分。片方だけが見つかった・・・それを見た途端、うすらぼんやりとした記憶の中に、肩パッドをゴミ箱にいれたシーンが浮かび上がった。「なんで一枚だけ、こんなん、あるんやろ」と。 私は大体肩パッドが好きではないし、薄っぺらなパッドだったから、「こんなんもういらんわ」と思ったのだろう。涙なくては語れない・・・ぐすっ。 ユザワヤで新しい肩パッド、探してつける?
ひさしぶりにゲルネ×ブレンデルpfの『冬の旅』を聞く。 いいなあ・・・ゲルネの息の長さ。 ソフトにして包み込むような暖かさ、 そして息遣いのあとに残る切なさ。 この声はゲルネにしかない声。 お師匠さんのディースカウはもちっとリリカル。 といって、ゲルネの声が重いわけではなく、 ふわっと拡散・・・ 私のボキャブラリーでは説明できないだけ。 明るくはないけれど、不思議な魅力がある。 今年も来てくれるんです。 シューマンもって来るんだと思ったけど、違うかな。 ゲルネが水車小屋を歌ったときには、オジサン臭さが災いしたが、『冬の旅』はいい!私にとって「いい人」はたくさんい過ぎることを承知の上で、それでもいい! 確か三年くらい前にこの組み合わせで来日する予定だった。ところが急遽キャンセルで、ブレンデルだけが来日。『冬の旅』のリサイタルは一転してブレンデルのベートーヴェンとあいなりまして・・・ピアノに疎い私には残念な思い出。おまけに席もかぶりつきだったし・・・かぶりつきでのピアノは悲惨でした。 そのあと、別のピアニスト(シュナイダーさんだっけ)と初めて来日して『冬の旅』と『水車小屋』を歌ってくれた。予想よりは小柄で、いってみりゃ小太り。衣装もくたびれていたなあ・・・ビジュアル的には満点じゃないけど、そんなこと全然問題じゃありません。すばらしかったです。歌い手は声だ。 歌い手が違い、ピアニストが違うと、同じ歌の別の姿を見せられてしまうので、『冬の旅』だ、『水車小屋』だ、なんていう定番曲はついつい何枚も買うことになる。さんざん歌いこまれてきた歌曲を自分のものにして舞台で歌ったり、録音したりするのは、実はすごく厳しいことじゃないかと思う。いや、ほんとに。 歌曲に限らず、クラッシックはみんなそういうところがあるね。でも出来不出来の責任の持って行き場は、歌曲の場合、歌い手とピアニストで分かち合うしかないんだよ。ヴァイオリンは一応、「楽器と弓」っていうものがちょっとだけ余分についているもの。
昨日今日、暖かくなったから庭の草が勢いづいている。 「雑草という名の草はない」というのは、昭和天皇の数少ない名言である。私もこの庭の主である年月が長いので、大体の草の名は把握している・・・が、世間ではそれを雑草という。 以前は人並みに庭仕事などやったものだが、ある夏にメチャメチャ指があれて、爪が変形して以来、庭仕事とはすぱっと手を切った。そうしたら、冬のアカギレが直った。相当重症のアカギレだったので、当時を知る人には驚かれる。夏に健康な指で過ごすと、冬も傷みにくいのだ。夏から秋にかけての原因不明の湿疹も出なくなった。実は私ってやわな育ちなんですね。 隣近所の暇な年寄りは、庭をきれいに出来ない私に、陰口どころか、正面きって「パートにも行かないんだから、庭の手入れくらいしたら?」と言ってくれる。何で勝手に仕事していない人だって思うんだろうね、忙しくしているのにさ。引っ越してきたとき大人しすぎたんだ、きっと。なめんなよ、ばばあども。 とにかく、今年も荒れた庭になりそう。夏には八重葎しげれる宿ですわ。なにしろ、先週、土筆が出てきたくらいで・・・。
ヴァイオリンのレッスンを終え、先生と雑談しているうちにどのへんからか、ヒラリー・ハーンの話になり、 「聞きに行きましょうよ〜」と先生から押しが入った。「もうないかしら?ハーンは音楽のつくりが違うわよ」 「2,3日前はありましたよ、いい席は無理でしょうけど」 「仕方がないわ、娘(プロのヴァイオリニスト)も今聞くならハーンだっていっていたわよ」 この先生にはうちのバカ息子を育てていただいた、というご恩があるので、先生がおっしゃることには、私はyes以外の言葉を持っておりません。で、当然、早速ジャパン・アーツに電話して、冴えない席ながら2席ゲット。オペラシティだと1割引だけど、いくらなんでも3階じゃねえ・・・。 息子は無事、某アマオケのオーディションに通り(そりゃ通るだろうとは思ったが)、昨晩は歓迎会とやらで終電アウト。「社会人が行くのだから、もっとましな店かと思ったら、きったねー焼き鳥屋だった・・・しかも、座敷なんだよ」とびっくりしていた。何を考えていたんでしょうね、この子は。社会人ならホテルでパーティーだとでもお思いかい?いい年こいてバイオリンを夜遅くまでひいているようなオジサンの大半は飲み屋にまで小遣いは回りません。回るはずがない! 大学のサークルオケでちんたらひいているよりは、真面目でそこそこ腕のいいアマオケのほうが楽しいだろう。それにいろんな年代の人と関係を作ることはきっと将来にプラスのはず・・・なあんて思うけれど、親の目論見って必ず外れるもんだよね・・・。 そんでも今日は、今度やる曲のスコアを買ってきていた。こりゃ、中学生以来のこと。
某有名ホテルに就職したい という若い子の相談を受けた。エントリーシート見せてくれたけど、「あんた、こりゃだめだよ」。 ホテル側はあからさまに若い子から何かヒントを得ようとしているのに、若い子のほうは、みっともないほど、いわゆる<ホテル>のイメージにあわせようとしている。企画や提案を求めている相手に「あなた好みでやります」なんて従順なことをいってちゃあ第一次選考で落ちること必至。ウェルカム・ワインだのブーケだのって冗談じゃない。 いい子だから“Good Luck”を祈ってやりたいんだけれど、これじゃあね・・・。エントリーシートでは自分の責任で自分を語って冒険してみないといけないのに、どうしてみんな就職セミナーだの雑誌だので見て、人と同じように書こうとするのだろう?ネットのBBSにある他人の経験をすぐ自分にあてはめてしまうのだろう? ずうっと学校では人と同じようにやってきたのだから、同じにしたいのもわからないではない。でも、それってまさに、均質的な労働者を効率よく生み出すという19世紀的学校制度の弊害だよね。 とはいえ、それぞれの子がそれぞれにあった形で時間を過ごせるような学校では、ものすごくコストが高くつきそうだ。強制的にある程度時間を共有させることの長所ってのもあると思うし・・・まあ、私はあんまり教育には熱くないので、こういう議論は熱い人に任せます。(けど、この道に熱い人ってやけどするぐらい熱いんだわさ。)
あまりの寒さに言葉もない! スプリング・コートではなく、普通のコートを着て、中にウールのカーディガンを羽織って、いくら寒いったって、4月だからね、とばかりに出かけたのだけど、帰りの駅で息が白いのに気付き絶句。 帰宅してニュースを見たら、2月中旬の寒さだと・・・ 寒くて湿気ているのは何より嫌い。 明日も寒いって。 冬服、もう9割以上片付けたよ、私は。
先月に引き続いての勘三郎襲名披露公演。 毎日遊んで暮らしているわけではありません。ま、そうだとしてもテメエの金でチケット買ってるんだから、文句はないだろ、ですが。 勘九郎くん、改め勘三郎さんです。「娘道成寺」お見事でした。「切られ与三」は本当は蝙蝠安をやってほしかったけど、軽く鳶頭金五郎、これも勘三郎さん、お手の物みたいな役だよね。 ミーハーな私のお目当ては,勘三郎さん以上に「切られ与三」そのもの、与三郎の仁左衛門さんです。堪能しました。仁左さまの立ち姿美しいよぉ。お富さんは玉三郎さんだから、玉・孝時代以来の当たり役。 予想外に私の心を捉えたのは海老蔵くんでありました。新之助時代から心に留めたことはなかったのですが、本日の「源太勘当」での平次役、ビビッと感じました。これまで三之助というと、あでやかな菊之助くんしか気にしていなかったけど、今日からは海老蔵くんも気にせねば。忙しいな。 歌舞伎はなんといっても体格的な不安がありません。これはいつもバレエマニアのオネエサンと言い交わすことであります。誰が出ても舞台のバランスが崩れたりしないのです。バレエやオペラで主役だけ西洋人を使っているときに味わうあの哀しさと無縁の舞台なんですもの。
今年は花粉症がしつこい。 ヒラリー・ハーンのバッハのCDを聴いていると、やっぱり生ハーンが聴いてみたくなる。GW明けのコンサートチケット、まだ残っているようだし、ちょっと食指を伸ばしたくなる。さて、どうしよう??このみずみずしさは今しかない。 もう2、3日考えてからにしましょう。内心、チケット完売になることを期待しています。 今月はそういえば、庄司紗矢香×ベルリン・ドイツ交響楽団があるのでした。あの紗矢香ちゃんがメンコンなんていうあまりにも当たり前の曲をひくからかえって聴いてみたくて。 そうなるとますますハーンも同時期に聴いて見たいものですが・・・。 いいえ、私はそんな迷いごとをぶつぶつ言っていないで、原稿を書かねばならんのです・・・原稿料あてにして買う?だいたい原稿料出るのかしら?
『フィガロの結婚』@新国立劇場。 去年、ウィーン国立歌劇場の引越し公演『ドン・ジョヴァンニ』でレポレッロを歌ったムラーロ君がタイトル・ロールだったものですから、楽しみにしていました。 ムラーロ君、豊かな音量、安定した歌唱、バスなのだけれど、決して硬いバスではなく、柔らかい歌声で、はい、当分の間私の若手イチオシ。 スザンナの松原有奈さん大健闘。相対的に音量不足ではあるけれど、演技もうまいし、ま、いいんじゃないですか。体が貧弱なのは、わが同胞の特徴であります。あきらめましょう。 脇役一同わが同胞頑張っておりました。バルトロの妻屋さんに大きな拍手送ります。 ブレンデルはどうしちゃったの?去年『マクベス』を聞いた人が厳しいことをいっていたけれど、私も今年厳しいこといいます。「昔の名前で出てこなくていいよ。」声量はあるけれど、音程怪しくない?ブレンデルにブラヴォーいった人、信じられないよ。どこがよかったの?(かくいう私、DVDで見るブレンデルのハンス・ザックスなどは見事だったと思うのですよ・・・) 伯爵夫人のエミリー・マギーもなんか陰影のない歌いぶりだったなあ。ケルビーノ(ミシェル・ブリート)は元気よくて好感が持てました。 演出×。子供じみた仕掛けは止めて。衣装最悪。わが同胞の体にも関係はするけれど、最初、ジョン万次郎ご一行が難破船から降りてきたかと思ったぜ。領民だったのですが。後半はご一同さんで水垢離かと思いましたわ。
『老年について』 E.M.フォースター 久しぶりで仕事と関係なく面白い本に出会った。フォースターの随筆集『老年について』。私はイギリスのことなんか知らないけれど、洞察力といい筆致といい、満足できる。以前に『眺めのよい部屋』を読んだときには、作風に今一つ感じるものがなかったけれど、この随筆は笑える。2,3日楽しめそう。 ライアンのママからメール。 朝ポットに残ったお茶を捨てるのに慣れなくって、だって。 残ったお茶はライアンが夜中に飲み干していたんだそうな。一緒に読んでいた息子いわく「ほろりとさせるねえ」。 ライアンのほうはどうしていることやら。今週末はきっとお花見コンパだよ〜と教えておいたのだけれど、その通りになっているだろうか。連れて歩いて見せびらかせるようなカッコイイ男ではないですが、かわいがってやってくださいね〜、願わくば、もっと日本語の勉強に尻を叩いてやってください。 そうそう、英会話教師でも英文のエディター仕事でも、何でもやるそうですから、ご用の折はご連絡ください。人物は保証します。料金委細面談です。
昼ごろからワープロに向かい、原稿を仕上げようと思ったのですが、はた、と思いなおして、もう一度よく調べてみたら、公けの場所には「ない」と思い込んでいた和本が内閣文庫にあることがわかり、急遽竹橋までぶっとんで行きました。びゅ〜〜ん。 ありがたいことです。内容のないでっちあげ原稿にちょっとだけ内容が盛り込めそう。別にその本にものすごく役に立つ記事があった、というのではないのですが、その本の内容を確認しておくことが重要だったのです。でも、2行くらいは使えるかも。素直にうれしいです。 竹橋は北の丸公園のお花見族に加え、ゴッホ展のお客さんたちでごったがえしておりました。(普通あそこがごった返すのは、科学技術館でよっぽどお得なバーゲンセールが開催されるときぐらいです。)そのあおりでか、国立公文書館(内閣文庫)の展示「将軍のアーカイブズ」にもずいぶん人が入っていました。図書閲覧を終えてから、ざざっと見学。 この公文書館にはUさんという著名な人がいて、この人の手にかかると、つまらない公文書でもいっきにジャーナリスティックなソース味に仕上げられます。したがって愛想のない展示物も相当一般的に楽しめるようになります。ただし、今回、吉宗が清の朱佩章に清の刑法について尋ねたという一冊について、解説付きで開いてあったページが「密通した女に対する刑罰がなんで清ではその程度なのか?男も女も同じことをしているのに女には軽過ぎないか?」なんていうところ。面白ければいいってもんじゃないと思うけどな。Uさん、ちょっと下品かも。オヤジ丸出し!(以前の展示のときにはスカトロの気味があったような・・・)
今日は見る見るサクラが開いた。 朝、職場の窓から見るサクラはまだ3分咲き程度だったのに、夕方には5分咲き以上。急に暖かくなったからだね。週末まで持つのかしらん。 息子は明日お花見だというておった。 彼は今日、上野まで出かけていっているが、夜桜を見て帰るなんていう風流心はないだろうに。 私はアマノジャクなので、おおぜい人の集まる場所で花見をするなんて滅相もないことだ。最後の花見は、というと、記憶にないほど昔かな。学生の頃、4月の最初に研究室に行くと、コンパ代わりに今日花見〜♪なんてことがあったような気もするのだが、どうだったのだろう。 「木のもとに汁も膾も桜かな 芭蕉」 こんな世界は嫌いだ。青い空とピンクの花と春風で十分じゃありませんか。夜ならばおぼろ月。汁だの膾だのって持ち込むと変な匂いが漂って嫌だ。 本当は思い出したい詩があるのだけれど、タイトルも作者も思い出せない。室生犀星の「春の寺」にちょっと似ていて、あれより長くて、文語調の詩。三好達治かその辺りだったような気がするんだけれどなあ・・・まさか朔太郎じゃないよね、「憂鬱な桜」になっちゃう。 日付が変わる頃になって探し出しました。 やっぱり三好達治で「甃(いし)のうへ」という詩です。
先日来悩みの種だった「性」のお話がようやく何とかなりそうな気がしてきた。私に割り振られた分野では、もとよりそんな人の喜びそうなネタはないので苦労していたのだ。もちろん「ない」ものはどうやったってナイ。でも「そんなものここにはない」とだけ書いてもお金はもらえない。そこで人をちょっとだけ騙さないといけなくなる。つまり「あるのかも」と思わせてから「ないのよ」と種を明かすのである。その仕掛けを今日になってようやく思いついた。 当たるのかも、と期待させて、やっぱハズレだった、とがっかりさせるのが福引と宝くじ、すごくエロエロかな、と思わせて、なあんだで終わるのが映画の予告編。それでも世間は許すんだから、私のささやかなインチキも許されるでしょう。 このために今日は午後からずう〜っと座りっぱなし。夕食の支度がないのが幸いでした。昔は頭のプライム・タイムが深夜11時〜3時くらいだったのに、この頃、どうも夕方4時〜11時くらいに早まった。ここで夕食の支度、食事、後片付けって本当に頭のぶち壊し。頭が煮詰まってきたとき、台所で立ったまま適当に食べるの大好きです。お茶碗片手に箸持った手でワープロ叩くのも好きです。でも、夫や子供が帰って来るとそういうわけにはいかないからね。 明日はくだらない会議。バカほどとりあえず会議をしたがる傾向にないか?明日もう一日座ることが出来たら、かなり整って来るだろうに残念。あさってとにかく草稿レベルのゴールインができるといいんだけどな。
「今日こそ」と思って大仏次郎の小説を持って電車に乗ったが、読む気がしないまま職場に着いた。帰途も同様なことは目に見えていたので、職場においてきた。返さなくてはならないし困ったことだ。 森田義一『柳沢吉保』 (新人物往来社)、先日触れた林氏のものと同じ題で、昭和50年に書かれたものがある。事実中心の叙述という点で、内容的にも近似しているのだが、対象にかける熱意が違う。森田氏の本は読んでいて飽きる。大正9年林氏の『柳澤吉保』はなにしろ熱いから、語り口の熱っぽさに引っ張られる。ほとんど同じような一次資料を見ているのだと思うけれど、周辺知識の該博さの違いだろうか。ただし、森田氏の本がよろしくない、というわけではない。 野口武彦『忠臣蔵』 (ちくま新書)どこか薄っぺらさを感じる。3分の2ぐらい読んだら欠伸が出た。まず初めに「忠臣蔵」ありき、といった解釈をしたくないというのが、著者の立場であるが、それにしては、各種資料からの照射が不十分な印象。それに何だかちょこちょこ言い訳が多い。言い訳といって悪ければ、話の運び方の説明。たぶん執筆時には今ひとつ気分が高まらなかったのではないか。 その昔『わんわん忠臣蔵』というアニメがあった。ストーリーの詳細はもう忘れたが、犬の敵討ち物語だった。幼い私はそれを見て涙せずにはいられなかった。赤穂浪士に泣いたご先祖さまのDNAが影響したかしら。 なお、このアニメ、宮崎駿だか高畑勲だかが関係したものらしい。幼いときに見て、立派なおばさんとなった今も思い出すのだから、名手は駆け出しの頃からいい仕事をしたということか。でもさ、いったい歳いくつなんだろ?
夕方、息子の運転練習もかねて、車で40分ほどのライアンのアパートへ行き、ライアンを連れて、とんかつ屋で一緒にごはん。 英語と日本語と5:1くらいの会話なので、ヨコメシがちょっとかしいだ斜めメシか?1年後にはタテで食べたいなあ、と思いながら、トンカツをおいしそうに食べてくれる姿にちょっとほっとする。昨日は食が細かったもの。1日一人でのんびりすごし、ようやくリラックスしたのだろう。日本の母、やれやれである。 「今日は料理をしましたか」 「いいえ、ぜんぜんしませんでした」 「何を食べましたか」 「くだものを食べました」 アパートの諸設備をチェックして、表札を書いたりしたら、もうすることがないので、ご近所探検をしたそうな・・・で、最初に行きついたところが、「トイザラス」・・・ぎゃふん! 買い物の中身についてはライアンの名誉のために黙っていよう。 (おばさんはね、あんたみたいな留学生はしらんぞ!親にいいつけるぞ!) さらにご近所めぐりを続けると遊園地「○○テック」を見つけたそうだ。さすがにそこには入らなかったそうだ。それにしても、今後の留学生活の行方を占うような場所である。もちろん「○○ソープ」なんてのを見つけるよりは救われるけれど。 これで性格が悪かったら悲惨であるが、神様は慈悲深くいらっしゃるので、そこのところだけは◎ 「明日、ぼくは何をしますか?」そんなん、私がしるわけないやん、と思いながら、大学主催のオリエンテーションだということは知っていたから、 「市役所で外国人登録をしたり、銀行口座を開いたり、留学生としての権利や科目の登録方法を教えてもらうんじゃないの?それに医療保険のことがあるわね。携帯電話やインターネットの接続手続きの説明もあるんじゃないかと思うよ」 そっかー、と素直にうなずくライアンである。 サクラの花も咲き始めたし、来週はきっと学生コンパでお花見ご招待だろう。嫌いな食べ物を断る日本語を伝授しておいた。手でさえぎるふりをしながら「それはちょっと・・・」、なおも強いられたら「ちょっとだめ。食べたくない。」こういう口真似は大変うまいので教えがいがある。
昨晩、成田までライアンのお迎え。 結構待たされて、息子と二人、「まさか、アレじゃないよね?」といったのがまさにそのアレでありました。 ま、いい子なんです。 日本語ちょっとも上達していません。 永遠の初心者。発音は悪くないけれど、反応が遅い。パターン・プラクティスを馬鹿にしちゃいけません。コミュニカティヴな場面でさっとフレーズが出せなくっちゃ。穴だらけでもいいからさ。 というわけで、私の英語>息子の英語>ライアンの日本語。わかりそうなところだけ、日本語にしてやる。「食事にいきましょう」「何を食べますか」の類。 成田で食事をすませて、家に帰ったら11時近くだった。夫並びに老犬と再会、老犬は最初おびえ気味であったけれど、すぐに安心した模様で、こちらのほうがほっとした。 さて、一夜明け、昨晩はどうやら着の身着のままで寝たらしい客人ライアン(やだな〜、不潔)、朝のシャワーは15分なんていいながら、30分見込んでおいたこちらをさらに裏切り、40分のおめかしタイム。車で大学に連れて行くが、当然、お約束の時間には遅刻。 ボランティアの女子学生が大学借り上げのアパートに案内してくれる。 ずいぶん立派な設備に日本の母はびっくり、ライアン大いに安心。しかも、前の住民(母はフランス人の女性と見た)が炊飯器からオーブントースター、テレビ、ミニコンポと一杯残して行ってくれて、のっけから宝くじに当たったようなものである。日本人の学生に見せてやりたい。しかもガス水道電気大学持ち!!!棚のなかにはフランスのお薬がたんまり。調味料もライアンには使いこなせないようなものまで(例「香菜」)。案内の女子学生は「ここの部屋、ラッキーですね〜、昨日の留学生は貧しかったな〜、何にもなかったわ」と正直なこと。 そのあと、当座の食べ物を買いにスーパーへ。肉の値段、野菜の値段、何を見てもライアンの目を点にするのに十分でした。かわいそうに、ろくにお肉も買わないで、いったい体が持つのかしらん、何食べるつもりかしら、と思わないではいられません。大体、好き嫌いも多くて、魚の出汁が×、煮た野菜が×、牛乳×・・・レジで「今日は私が払ってあげるから、何かお肉でも欲しいもの、買っていらっしゃい。ここだったら買えないほど高いものは何もないわ。」と声をかけたら、「え、いいの?」とばかりに、それでも遠慮してチキン胸肉1枚。「ビーフ買わなくていいの?」「オーストラリアでたくさん食べたからいい」・・・気の毒なこと!ママが聞いたら泣くよ。
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