書泉シランデの日記

書泉シランデ【MAIL

My追加

『密やかな結晶』 
2004年12月31日(金)

『密やかな結晶』  小川洋子

ゆうべ、FMで今年のバイロイトを聞きながら読了。『ジークフリート』ミーメ役のG.クラークってなんてうまいんだろうと毎度のことながら感心する。アクロバット的なうまさだと思う。

それはさておき、この小説の魅力は、「存在しないものを言葉だけで存在させる」ところに尽きる。

どこの島かわからないが、そこではある日「消滅」がおき、特定のなにかが消滅する。それはフェリーであったり、鳥であったり、ラムネであったり、オルゴールであったり、実にいろいろなのだが、人々はその物を廃棄し、記憶をも消滅させねばならない。ほとんどの人は、物がなくなるにつれ、記憶も薄れていくけれども、中には記憶をキープできる人たちがいる。そういう人たちは記憶狩りをする秘密警察に連行されていく。

主人公は小説家。父はなくなり、母は記憶狩りの犠牲となった。元フェリーの整備士のおじいさんが爺やのように彼女に仕えている。おじいさんの協力を得て、彼女は自宅の隠し部屋で記憶狩りの対象となった編集者をかくまっている。

この3人の生活を描くと同時に、劇中劇よろしく、入れ子のように主人公の書く小説が進行する。声を失うタイピストの話。

「消滅」は次第に肉体に及ぶ。足が消え、腕が消え・・・人の存在は何によって確かなものとなるのだろう?記憶を持って、言葉を持って、語ることの力って何なのだろう?これは寓話なんだろうか?メッセージがありそうで、声高には語られない作品・・・いろいろ考えさせられる。

小説の面白さは読み終わってからしみじみと思い返すところにある。読了したら、それっきりになる作品は結局「消滅」の対象なんだよね。

講談社文庫
★★★


さてさて、今日もせっせと朝からワックスがけ
その最中に息子、朝帰り
さすがにやばいと思ったのか、窓拭きを一通りやってから、自室の大掃除に励んでくれた。でも、そんなにゴミを出されても、当分収集はないんだよ・・・。

夕方、雪が10センチ近く積もった。夏みかんと金柑は、枝が折れるといけないので、雪を払う。重い雪である。老犬は雪ではしゃぐ性質なので、用足しに出たとき興奮させないよう気を遣う。

今年も例年並みに大掃除完了。客間のワックスかけはサボるつもりだったけれど、結局やってしまった。ここ数日掃除の間、あっちへ追われ、こっちで閉じ込められの老犬も何とか無事。お餅もつきあがったし、おせちも必要最小限で都合がついたし、めでたし、めでたし。

どうでもいいけれど、「プライド」に出ていた戦闘竜って、うちの隣の息子さんに酷似している。あれで滝本が勝ったというのは私には納得できない。今日初めてわかったのだが、我家は大晦日に格闘技を見るのが好きなようだ。誰一人として、実践する人はいないのに。


今日も家事ガテン系
2004年12月30日(木)

筋肉痛で背中や腰がキシキシ痛むのにも関わらず、ここは年末、よたってはいられない。今日はリビングや寝室、廊下などワックスかけにいそしむ。こんなことを3ヶ月おきとかにやっている人は超人である。私には1年に1回が限度、それでもここの家に来て18年間続けてきた(拍手!)

明日はまた天気が悪いというので、夫と二人で網戸と窓の外側を洗う。玄関も。玄関は先日、老犬が倒れて失禁したときにお掃除したので、いつもより少し楽。夫はコマンドを出せば動いてくれるのでありがたいが、基本がだらしないので、汚いところを発見してきれいにするということが出来ない。息子はそれよりもマシな男に訓練しようと思ったが、訓練期間にトンズラするので余り進歩しない。しかし、昨日彼が掃除をした階段はなかなかの出来である。

肉体労働の間隙を縫うようにして、年賀状書きをする。気持ちはあるのだが、雑になる。でも、ゆうべ2時までかかって消えた住所録を入力したんだからね。

ほんの少し若いときだったら、すっかり暗くなるまで仕事が出来たのに、いまや3時少し過ぎたところで肉体労働は×。今日やり終えたはずの部分でも、いろいろと思い残すところが多い。今年はお天気のせいにするとしても、来年以降体力増強というようなことは、私の場合ありえないので、これからは早めに始めなくては・・・(反省)。

今日は忘れずに、スマトラ津波被災者募金をした。日本赤十字社って好きではないのでネットバンクからユニセフに。

明日はワックスかけの残りと餅つき(もちろん機械)、おせちの支度(といってもこれはほんの形だけさ)。今年はお正月休み短すぎ。


年末は家事の日か
2004年12月29日(水)

朝から。基本的に雪は嫌い。

雪に加え、昨日の庭掃除の結果、背中と肩が筋肉痛。よって大掃除の意欲大幅減退。でもパーティーのお礼状を投函しなくてはならず、ムキになって、雪の中を歩いてポストのあるスーパーまで行く(いつもは自転車)。歩いているうちに、要るものを全部買ったら重いがな、と気がつき、相当間引く。だから明日また買い物に行かねばならない。やっぱ車で行くんだった。

スーパーでスマトラ地震の津波被災者への募金をしていた。協力しようと思いながら、帰るときには忘れてしまった。忘れてしまえるような日常のうしろめたさ・・・。これも明日の用事。

午後になってからようやく大掃除の意欲を取り戻し、とりあえず、洗面所と台所をやっつける。ワックスがけもスタートした。明日は遊びに行くという息子に命じて、窓拭きのほか、部屋のドアや棚の扉などをきれいにさせた。本人も明日のことがあるので、極めて従順に働いた。夫は年賀状作成に従事。

毎度のことながら、年末は家事を集約的に片付ける忙しい数日間となる。本当はまったりと過ごしたいのだけれど、それこそ日ごろの精進なくては叶いそうもないよねえ。あ~あ。


ホーム・パーティー もちろん私はゲスト
2004年12月28日(火)

ヴァイオリン仲間のおうちでパーティー
持ち曲披露が義務となり、恥は掻き捨てモード。
海外生活でホームパーティーに慣れた方がホストだったので、おもてなしもお見事でした。11人を招いて、みんなに夕食を食べさせて、楽しく遊ばせるってすごい手腕だと思う。11人に加えて、家族が7人おられる。立派なお宅ではあったが、そうそう誰にでもできることではない。なにしろ店屋物、冷凍物なし、紙皿、紙コップなしである。

持ち曲といっても発表会じゃあるまいし、ほとんど初見大会となる。フィンガリングのない曲をひくのは私には大変。優秀なピアニストが2名いて、伴奏はばっちり。しかもピアノはシュトゥットガルトの博物館に入っていて最近売りに出されたものを入手したという、由緒正しい古いピアノ。とても柔らかい、優しい音がする。

フルート吹きやチェリストもいたので、結構バラエティーに富んだ出し物となった。

「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」や「パッヘルベルのカノン」を合奏した後、「タイスの瞑想曲」、「フィガロの結婚」、「白鳥」などのヴァイオリン・デュオ版を順番に適当なペアでひいて遊ぶ。正確にいえば、ひいて遊べる気分なのは上級者のみで、私なんぞは息子頼りに・・・のど自慢のアコーディオン伴奏よろしく、私のひくのにあわせさせて、息子にセカンドをひかせるしかない。苦労しまくって冷や汗をかいているのは私なのに、「母をいたわる優しい息子」というその場限りの情景に人の心はひきつけられるのであった。それって本当にその場だけなんだよ。

幼稚園のお嬢ちゃんのブルグミューラーから、70歳のおばあちゃんのパッヘルベルまで、一晩楽しく遊ぶことができた。みんなでテニスをしたり、スキーに行ったりするのと結局はおんなじことなんだと思う。


『源実朝』
2004年12月27日(月)

『源実朝』 大佛次郎

以前、小川国男を薦めてくれた知人が、大層な大佛次郎ファンなので、一度読まないと義理が立たない、と思っていたときに、ブックオフにあったのがこれ。

なんか説明の多い話で、結局、頼朝の魅力も、源氏の血とやらも、今一つ感じられないまま読了。説明しすぎだと思うんだけれど・・・薦めてくれた人はとてもまじめな人だから、この説明が丁寧に読めるのだろう。せっかちな私にはダメね。これだけ直接的な説明を書き込むのなら、実朝なんかより新たな義時像を提示してくれたほうが、面白いような気がする。

以前読んだ大佛次郎のエッセイは悪くないと思ったけれど、でもまあ、あれもちょっとご立派すぎかな。

徳間書店


さて、ルネ・コロの歌う『冬の旅』、一風変わっていて、結構面白かった。正しい歌い方はこちらです、ではなくて、それぞれが解釈を披露してくれるのが、聞く側には楽しいことだ。歌そのものが下手じゃ話になりませんがね。ルネ・コロの場合は、最初いかにもトリスタンが歌ってます、みたいな力強さにあふれている。で、最後も決して虚無への歩みではなくて、むしろそれなりの光が見えているような印象。

65歳を超えてからの録音であの声がでるのはすごい。

こんなことをしているから、ついに今日も大掃除に手が出せなかった。今日した仕事といえば、ようやくオーストラリアにクリスマスプレゼントを送り出したことくらい。あ~あ。


じれんま
2004年12月26日(日)

10日ほど前にHDD-DVDを買った。
我家はケーブルだのスカパーだのとあれこれつながっていて、途中に切り替え用のチューナーまで入ってややこしい。そのため高いことは承知の上で、地元の電気屋さんで買った。夕方には持ってきてくれて、配線すべてセット、初期設定すべておまかせ、と楽々で、改めて地元の商店のよさを感じたのであった。

持ち場を追い出されたビデオと再生専用DVDのために、あらたに小さなテレビを買った。これはこっそりと量販店で。放送の受信をするわけでなし、機械をつなぐだけなら、楽勝。

ところが今朝、「ねえ、(ケーブルTVにする前の)昔のアンテナって生きてたっけ?」と思い出したが運の尽き。
死んでいる理由はないだろう、生きているのなら、せめて地上波だけでも見られるテレビにしてやろう、と欲が出た。
古い同軸ケーブルを探し出し、接続してみるが・・・雑音ザーザー。
新しいケーブルを買ってきて、接続してみても・・・雑音ザーザー。
思い余って、ベランダでアンテナ線に直付けしてみたら、今度は映る。
なぜだ?

-これは電気屋さんの力が要りそうだ。
-でも、何ていって頼む
 お宅は高いから、テレビだけよそで都合してきましたって?
-それって仁義にもとらないか?
忘年会の福引で当たりましたって、どうよ?
-そんな調子のいいこと、誰が信じる?
-だって、こんな小さいテレビ、わざわざリビングに置くために買う?
-で、福引でひいてくるのか?

来年夏にでもあの電気屋さんで大きい液晶買うとかどうだろう?それまでがまんするの?もともと地上波見ないし、いらないんじゃない?でも、アンテナあるのにもったいないよね。古いテレビが実家で遊んでないかなあ?それだったら、バツが悪くないよ。ま、あればね。

悩むこと1時間、結論出ず。

-なんで電気屋さんにこんな遠慮せなあかんのやろ
-これまでにあれこれ買ってるよなあ。食器洗い機に、インタホン、そんでDVD。遠慮することないよなあ。DVD、コ○マより2万円近く高かったぜ。
-電気屋さんも損するわけじゃないし、頼めばやってくれるよ。
-やってくれるよ。で、頼みにいける?

かくして話は振りだしに戻るのでした。

これを機に電気屋さんに全面降伏して、家電は万端お任せすることにしようか、と気が小さいばかりでなく、どどっと弱気になった老夫婦予備軍でありました。商店とのつきあいも難しいです。ちなみにこの店を紹介してくれた知り合いは万端お任せのようです。(で、どんなときでも電気屋さんが駆けつけてくれるって・・・。)

我家を襲った第2の不幸・・・住所録ソフトが消滅。夏にPCを変えたときに移したつもりがうまくいってなくて、何一つ残っておりません。年賀状、大幅に遅れそうです。あしからず。


読響の第9
2004年12月25日(土)

いったんは辞退した招待券を結局もらったので、今日は夫と第9を聞きに行く。暮れに第9を聞くのは5年ぶりくらいかな。招待券大盤振る舞いの公演であったようで、ちょっと間際に行ったら、3階横のオケを見下ろすような席だった。音的には問題があるけれど、自腹ではまず買わない席なので、これも一興。指揮は下野竜也さん。

読響の弦はとても美しい。コンマスは藤原浜雄さん・・・私この人、なんとなく好き。コンマスかくあるべし、みたいな人。各パート間の音の受け渡しがなんともきれい。このごろろくなオケを聞いていなかったから、なおさらそう感じるのかもしれない。ホルンのソロもお見事。第9って結構ホルンが頑張らないといけない曲なのね。ティンパニーもずいぶん表情豊かに演奏していることを発見。高い山から谷底みると、なかなか勉強になる。

割合あおるような感じで終楽章に進む。三原剛さんがしょっぱなのソロ。嫌じゃないけれど、第9はもっと重い声の人がいいような。中鉢聡さんは澄んで通る声のテナー。女声の佐藤しのぶ、好きになれない。坂本朱さんも期待したほどじゃない。合唱は東京音大だった。申し訳ないが、合唱が入らなければもっとよかったんじゃないか、と思うほど。発音不明瞭でやかましい。わあわあ、わあわあとオケにかぶるだけ。

終楽章の前にかなり満足していたので、総合点合格。読響のほうがN響より上等なんじゃないかと思うけれど、どうなんだろう。

演奏中にうっかり携帯をきり忘れていて、メールが入ってしまった(なんつうホールだよ!)。幸いマナーモードだったから救われたが、大恥をかくところであった。オネエサンに送ったクライバー追悼写真集のお礼。大層お気に召したようで、よかった、よかった♪



今日はクリスマス・イブじゃないですか
2004年12月24日(金)

地元図書館で正月休み用の小説を数冊仕込む。この頃、小説は誰のがいいんだか、さっぱりとんとわからない。適当に選んで、当たれば得したと思うし、はずれればさっぱり忘れてしまう。あんまり単純なのはすぐに読み終わっちゃって損した気分になるので、そういうのは避けることにしている。10年ほど前、私がしょうもない小説を読んでいたら、15歳以上年上の知人が「そんなものを読むなんて時間が惜しいわ」と言った気持ちが多少はわかるようになった。私の場合は惜しいというより面倒くさいのだが。しかし、そんなこと、わざわざ人にいうものかねえ??もしかして彼女、因縁つけていたのかしらん?

クラシカで「ベルリン シャウシュピールハウスのクリスマス」という10数年前のコンサートをやっていて、ジークフリート・エルサレムの若さにびっくり。ワーグナー歌いが歌うとグノーの「アヴェ・マリア」なんぞも一味違ってなかなかいい。テルツ少年合唱団の子供たちがそれぞれ懸命に歌っていたのもよかった。どこやらの国の児童合唱団のようなお利口そうな感じはないが、体で音楽をしている。コヴァルスキーもかっこよかった。カウンターテナーこそ美形じゃないとちょっとね・・・その点で昨今評判のソプラニスタ氏はラジオだけにして。

買い物に出たら、やはり食品売り場がごったがえしていた。あの喧騒でガッツが湧く人もいるのだろう。隠元、大葉、牛乳、パスタを買ってこそこそ退散。こういうときに、自分がひよわな生き物であることを実感する。食べ物を求められないというのは、根本的な弱さではないか?

小さい子供がいないとイブは盛り上がらない。うちなんか、もうダメ。食卓も鶏には義理立てせず、せいぜい付け合せの野菜をクリスマスカラーにしたぐらい。ケーキも賑やかなのはナシ。エディアールのツリー型の3次元もんじゃ焼きみたいなケーキを切って、クリスマスブレンドの紅茶を飲んで終わり。プレゼントだのサンタさんだのといっているうちが花である。


新宿お買い物の記
2004年12月23日(木)

新宿へ出た。
人の波、また人の波・・・はぁ~~~。

美容院へ行って、伊勢丹へ行って、頼まれた商品券を整えてから、ちょいと着るものなど見る。おおっと思うほど素敵なオーバーがかかっていたので、お店の子に「素敵なオーバーね」といったら、見せてくれた。カシミアの1枚仕立てでとても軽く、これはきっとお値段も立派に違いない、と思ってみると、¥430,000也。さすがにそうだろう、と思って終わる。衝動買いするにはゼロが一つ多い。

地下食へ行くと、夕方にはまだ早いのに、ごったがえしていた。今日は一体何羽の鶏がしめられたのであろうか。あと2日間で日本中の鶏舎が空になるのではなかろうか。浮世の義理のお礼の品を手配したら、一刻も早く逃げ出したくなった。

タワーレコードに寄って、CDを物色。声楽の先生に頼まれた原稿を書くためにマスカーニ「友人フリッツ」を買う。その他、ボッケリーニの弦楽五重奏やルネ・コロが歌う「冬の旅」やシェリング大人の「四季」やいろいろ。シェリング大人のひく「四季」はスローテンポで堂々としていて妙に風格が備わっている。スローで美しくひくのは名人芸だ。

レジの近くに、この間亡くなったクライバーの追悼写真集があったので、オネエサンへのクリスマス・プレゼントに買う。プライベートの写真はゼロに近いが、仕事中のかっこいい写真が何枚もあるので、お気に召すこと必至。



『ペンギンの憂鬱』
2004年12月22日(水)

『ペンギンの憂鬱』  A.クルコフ 沼野恭子訳

表紙カバーのペンギンの絵がこの作品のペンギンを見事に描き当てている。集団で暮らすはずのペンギンが、動物園のリストラで里子に出され、売れない小説家のもとに送られる。冷凍庫から鱈やカレイなどを出して与え、バスルームで泳がせながら、小説家はペンギンと暮らす

小説家は新聞社から生きている人間の追悼記事を書くという奇妙な仕事を請負う。それがうまくいき、生活は安定するが、次第に追悼記事の対象となった人間が不慮の死を遂げ始める。

一方、ペンギンと暮らすアパートに、追悼記事の依頼を通して知り合ったミーシャの娘ソーニャや、そのシッターを勤めるニーナが同居するようになる。無愛想なペンギンが孤独に気ままに歩き回るアパートに擬似家族が生まれる。ペンギンがらみで知り合った警官のセルゲイや元飼育係の老人とも主人公は温かみある友情で結ばれる。

しかし、平穏な日はそうそう続かず、セルゲイも老人も死を迎え、主人公とペンギンがマフィアの葬式に招かれるようになり、日ごとに不可解な状況に取り巻かれていく。ペンギンも病気になって入院。何でそうなっていくわけ?と思いながら、読者はこれがほのぼのとした小説ではないことを知らされる。そして現代ウクライナの深い闇を垣間見させられる。

ペンギンという生き物がこんなに示唆的な存在であるとは!
犬も猫もサルもペンギンの代用にはなりませんね。

新潮社
★★★


ペンギンって好きです。
『バケツでごはん』(玖保キリコ)というマンガもありましたね。あのペンギン「銀ちゃん」もなかなかだった。



『花雪恋手鑑』・『勧進帳』
2004年12月21日(火)

歌舞伎@国立劇場。
厚着と暖房のせいで睡魔に襲われた。
割合、前の列で端のほうだったため、首と腰が疲れた。

芝居そのものは、全然期待していなかった『花雪恋手鑑』染五郎が実に軽薄であほらしく面白かった。ハッスルハッスルだの、ジャパネットたかだだの、っていうじゃな~い、だのと、駄洒落も軽薄である。相手役の小雪(芝雀)がしっかり者には見えるが、愛らしさも色気もないので、彼女の不幸にあまり心が動かなかった。

『勧進帳』は、幸四郎の弁慶はいうまでもなく、染五郎が富樫、芝雀が義経。もひとつ私は乗り切れないままに幕となる。義経、ばか殿的で魅力なし。弁慶、芝居がかっているっていったら、当たり前か、芝居だものね。もうちょっと自然な豪快さがあってもいいと感じるけれど、どうなんでしょ?先ほどの軽薄な若ダンナ演じる富樫は全然ダメ。

同じようなくだらない芝居を見ても、必ずどこかじじ~んと来るのはオペラで、歌舞伎だとそうなることが少ない。これってきっと音楽の差なんだろうと思う。邦楽に身を任せられるほど邦楽に慣れていないというか、わからないというか、だから、どこか醒めている・・・残念。

毎度のことだけれど、国立劇場って遊びの雰囲気がお粗末でつまらない。場所柄もあるけど、ちゃっと行って、ちゃっと帰ってくるしかない劇場。


どうでもいいこと尽くし
2004年12月20日(月)

年の瀬も押し迫ってきたというのに、いまだ実感ゼロ。
こんなんで、ちゃんとお正月が迎えられるのだろうか?
その前に年賀状が作れるだろうか?だいたいPCを変えたから、先々代のwin98のときから使ってきた年賀状ソフトはうまく使えるのだろうか?だめだとしたら、アドレスは??

人事に関するメールが間違って届き、おやおや、と思っていたら、それへの返信まで間違って届いた。しかもご丁寧に「個人情報の漏洩には気をつけましょう」とまで書いてある・・・最初の差出人がお間抜けでメーリングリストに出してしまって、次の差出人はそれにレスをした、というわけだ。実際、たいしたことが書いてあったわけではないが、失態ではある。続けてきたメールには、謝罪の上で「読まなかったことにしてください」と。そう書くしかないけれど、聞かなかったり、読まなかったりは難しいねえ。

ま、過ちは人の常、許すは神の業。

神といえば、東照宮の煤払いをニュースでやっていた。家康が神様になっていいと決定したのは、確か時の天皇だったと思う。後水尾天皇か誰かが神号を授けたはず。授与する側が上位にいるのが普通だから、天皇>神(東照大権現) という序列なんだろう。でも、現実的には、徳川将軍>天皇 だったわけだから、あわせると、将軍>天皇>神(東照宮) という式が成立して、家康よりも、実は綱吉とか、吉宗とかが偉いことになりそうな・・・東照宮に限らず、職業としての神職は何を考えながら、毎日出勤するのだろう?

帰りにキャベツを買って重いなあと思いながら、電車を降りたら、ちょうど息子も同じ電車だった。持たせて一緒に帰った。キャベツとお揚げのゴマ酢あえにした。あとは鰤の照焼にきんぴらごぼう。お味噌汁はなめこ。



インドの自然公園?
2004年12月19日(日)

息子のオケ定演
大学祭のときよりは数等マシになっていた。が、マシなだけ。

アンケートとか、あれこれ書いてみるのだが、厳しくなりすぎたので、結局出さないで帰る。いくらアマチュアだからって「いい子いい子、おじょうずね」とは書きたくないし、でも、まさか「コブラに象でインドの自然公園内の演奏のようでした」だなんていえない。指揮者は気合をいれるたびに、「シューッ」とも「ショーッ」ともつかぬ声をだすし、ホルンはどうも曲のレベルに達することなくこの日を迎えたようで、「ブォーン、プォーン」・・・。ホルンが下手なのはしょうがないとしても、指揮者は一応プロの先生なんだから、無駄な声だしは止めて欲しい。卓球の愛ちゃんみたいだった。ムーティさんなら「楽譜に書いてありません」というだろう。ハイティンクみたいな端正な指揮が私の理想形です。指揮は体操じゃねえぞ。

知っている名曲をやりたい気持ちはわかるけれど、3曲に1曲は実力相応のものもやったほうがいいのになあ。

夫がi-pod miniを私へのクリスマス・プレゼントにしたいというので、買いにいく。(しかし現金払いがお徳だというので、結局私の財布から支払う・・・ナニソレ?)付属のソフトがうまくインストールできなくて、試行錯誤。結局2時間ほど苦労した。このごろの電気製品は買った時点ではまだ安心できないから嫌だ。

i-pod miniそのものはなかなか軽くてかわいい、と思う。ピンクが欲しかったけれど、夫の内心が鼻息とともにもれ伝わってきたので、彼が持っていても変態じみないゴールドにした。

最初に入れたのは、やっぱりバッハ先生に敬意を表して、「無伴奏ソナタとパルティータ」。この曲なら私は「テツ」のが好き。(テツラフです。ヴェンちゃんの才気はないものの、カタギの兄ちゃんぽくていいではないですか。)


シュウマイ饅頭
2004年12月18日(土)

B級銘菓ご紹介



横浜伊勢崎町の「シュウマイ饅頭」
もらいものです。
最初は、肉まんの中にシュウマイが入ったようなものだろうと思っていました。箱をあけたら、あらどっこい。いかにもシュウマイ様のものが、せいろの中よろしく整列していました。

お味は、というと、周りは饅頭の皮、中身はくるみの餡なので、しっかり和菓子の味です。・・・頭と舌がついていかない・・・まずくはないのです、でも、この格好の食べ物がこんな味であるはずがない、と頭がエラー信号を出し続ける感じ。

お笑い種に、といって下さったものだけれど、まさにそういうお菓子です。

今日は夜、高校の同級生たちとミニ同窓会の会食。年齢を考えると、あらら、と思わないではいられないけれど、高校のお友達は気楽でいいものです。今日の占いは「わがままに振舞っていい」と出ていたので、そういう都合のいいことは即実行してみるのでした。






「藪の鶯」 三宅花圃
2004年12月17日(金)

最近、なんだか樋口一葉づいているが、その流れで、一葉に小説が金になるということを教えた三宅花圃「藪の鶯」を読む。もちろん、出来そのものは一葉と比べ物にならないけれど、明治のご令嬢の願望の程度が垣間見えて興味深い。(内容はあほらしい。)

極端な西洋かぶれはダメ、無知蒙昧はダメだが生意気だと思われない程度の教養、陰で男を支える美徳などなど。教師として自立することも許容範囲だが、あくまでも許容範囲で、幸せかどうかは?とされる。思うに、この考え方が私たちの親世代まで(つまり、今の70代の人たち)大手を振って通用していたのではなかろうか。

この短編には、若い女性がたくさん出てくるけれど、実際にストーリーを動かす要因となるのは男である。女が男を動かすのは、容貌や仕草によって魅惑する程度のこととしてしか存在しえないようだ。

意外なことに、花圃お嬢さんは、勝手口での車夫や下女らのおしゃべりにも通じていたばかりか、逆美人局ともいうべき場面まで挿入していて、なかなか下世話なこともご存知で、と感心した。会話が多いので、役を振って読むと面白いかもしれない・・・斉藤孝氏の著作は読んでいないし、あまり読むつもりもないが、この話は『声に出して読むナントカ』に入っているのかなあ。転げまわって笑えそう。そういうの、立派な日本語に対して不謹慎だから入っていないか。



久々にカーン様
2004年12月16日(木)

久々にカーン様の雄姿を見る。

カーン様といえど、私の運動音痴のオーラの犠牲になったようで、先のワールドカップ以来、不倫・離婚騒動やら、原因不明の眼病やら、ろくなことがない。気の毒だ。そういうわけで、手を抜いて観戦する。オープニングの国歌は日本もドイツもへたくそだった。呆れた。

どだい私が身をいれて応援しはじめるスポーツ選手はその後も華々しかったためしがない。

室伏くんも怪我をしたり、故障したりしないといいけど・・・。

再来年のことだからどうしようか、散々迷ったゲルギエフの「リング」。ともかく「ワルキューレ」だけは買おうと思って先行発売に手を出した。抽選で外れればいいなと思いつつ、申し込んだのに当たった。当たったということは、お金を払うということだ・・・かくしてボーナスは溶けていく。




また、倒れっちまいました
2004年12月15日(水)

本当は忘年会だったのだけれど、犬当番で忘年会を休む。
夫も息子もそれぞれによんどころない用事があって、最もキャンセルしやすいのが私の職場の忘年会でありました。

犬当番のお仕事
1.帰宅するとよろこんでひっくり返りやすいので、まずはケージからそおっと出して、走り回らないように抱いて興奮を鎮める。
2.次に玄関まで出し、ゆっくりコートを着せる。(急な温度差に用心)
3.庭で用足し。目を離さないこと。
4.用が終わると駆け出すので、そうさせないよう注意。
と、ここまでOKだったのに、
最後に駆けられてしまった、玄関の段を飛んで上がった・・・玄関にはいるとタタキで身動きもしなくなり、あ、やばっ!と思ったときにはもう遅く、どさっと倒れこんだ。あ~あ。

狭いところに靴が散らかっていたから、ひきつった足だの頭だの、変な具合になって、まず水平にしてやるのにあせってしまった。水平にして、少しでも息の通りをよくしてやると、毎度のことながら、悲鳴。目が回るとはよくいったもので、文字通り、黒目がかなりの速さで激しく動く。意識があるときにはありえない動きをする。

本日も<シリウス特急>に乗ることなく、無事息を吹き返した老犬は、後始末をする犬当番を尻目に、次なる仕事、給餌の要求をしてきたのであります。

夫は毛布片手に用足しに付き添い、この頃は用が終わると毛布をかぶせて抱き上げて家にいれていたが、やっぱりそうしないと危なさそう。

今はこんな感じで、まったりしています。着ているのが色気と無縁のニットのキャミです。(私にはベストと区別がつかないんだけれど、売り場ではキャミソールとして売っていた。3000円近いキティちゃんのついたのはキャミらしく肩紐だったけど、うちはそれより1000円安い無名の羊柄でベストと大差なし。でも一応ワコール。後ろ前に着ると犬にはよいみたい。)




ふたご座流星群~電飾キライ
2004年12月14日(火)

昨晩のふたご座流星群、しし座やペルセウス座の流星群より、我家からは見やすい場所=街灯にじゃまされない場所、屋根の陰に隠れない場所にあって、ほんのちょっと庭先に出ただけだが、5~6個確認できて大満足。当たり前だが、流れ星は音もなく流れるし、そんなに長く流れるものではないから、見つけて「あーっ」と声をあげると大体それで終わり。流れる星に願い事を、なんていうけれど、それって至難のわざじゃない?

昨日のような流星群の見える日は少し街の明かりを消したらどうか、と思わないではいられない。街灯の明かりが目に入るだけでも、しばらく目がバカになる。ましてや、空全体が明るかったら、星なんか見えない。

暗闇はそんなにいけないことですかね?
犯罪は多少増えるかもしれないけれど、でも、こうこうと明るいコンビニでも犯罪多発するよね。暗いからこそわかる美しさもたくさんあるのに、何だか暗いことは世間から目の敵にされているみたい。

大体、ルミナリエだかライトアップだか知らないけれど、あの手のものには全然感激できない。昼間見るとがっかりするようなワイヤー細工。それだけに夜の華やかさが虚ろ。街路樹のライトアップなんて、木に負担だと思う。何がうれしゅうて、そんなに電飾で騒ぐよ?電力会社の回し者か?

駅から自宅まで歩く間、小さな建売ハウスにクリスマスの電飾がたくさんついていたりすると、何だか切なくなる。幸せ家族ここにあり、って感じかな。本当にそうならいいけれどさ。



『山口晃作品集』
2004年12月13日(月)

『山口晃作品集』 

洛中洛外図の屏風絵みたいな画集なんだけど、買わない?」と息子が言ってきて、親に金を出させた画集。なかなかお手柄の発見でした。

開いてみれば、洛中洛外図風の俯瞰図だけでなく、伝頼朝像の似せ絵風のものや、厩図やその他、ああ、これ見たことあるわ、というような古典作品を模しつつも、実際に描かれているものは、紛れもなく現代、という絵の数々。ご本人が「山愚痴屋」と署名するのも、むべなるかな、と思えるような職人風のタッチ。これが出来るのは、山口氏に職人並のすぐれた技術があるからだ。

職人の技量が惜しみなく発揮されるのは、ディテールの書き込みである。馬上の武士と思いきや、馬の代りにバイクだったり、旗印がスマイルマークだったりするのはほんの序の口で、なにげない住宅風に描かれた建物の屋上にさりげなく高射砲、祇園祭の山車かと思えば、長い砲塔が飛び出していたり、侍と現代人とが語り合っていたり、と、とにかく枚挙に暇がないほどのディテールの面白さ。「九相図」風のものも、倒れているのが死体ではなく、機械であるのに、周りにいるのは時代劇風の人たち。合戦図の盾の裏に水洗トイレがついていたり、東京図のビルに破風がついていたりもする。本来ありえない組み合わせのものが、何の違和感もなく一つの画面に収まっている。しかもそれが、げげっと感じるほどの強烈な現状批判だったりする。

2800円という廉価のため、紙型が小さく(B5)、ディテールを見るにはルーペ(おまけ)が必需品。私の年だと、めがねをはずして、目をこらして、である。この5倍までの価格なら買うから、もっと大きい紙に上等の印刷をしてほしい。

是非とも実物が見たいものだが、残念なことに公共美術館に所蔵されている作品がない。せいぜい、六本木ヒルズの森アーツセンターミュージアムだろうか。しかし、発注して描かせたのであろう東京図があるだけのようだ。あとは三越だけど、確かに三越はこの人の絵を以前CMに使っていたけど、オリジナルは日本橋店に展示されているのかしら?

1969年生まれという、まだ若い画家だから、これからどんな作品を送り出してくれるのか、楽しみ。前衛美術といった難しさの代りに、面白さが満載。息子が買ってきた本は、著者のサイン入り限定本だった。でかした、でかした。ミーハーな私にはささやかな喜び。

東京大学出版会
★★★



お歳暮
2004年12月12日(日)

人生最重体重記録更新中・・・ちょっと悲しい。悲しんでいないで、何とかしないと・・・。

以前、仕事をしたことのある会社からお歳暮到来
カツオだしセットと銘打って、だしパックあり、けずり鰹あり、焼き海苔に桜えび、はたまた松前漬け用のするめと昆布などなど、一箱丸ごと乾物。乾物屋の匂いでもするのか、開けないうちから老犬が匂いを嗅ぐこと、嗅ぐこと。

去年は確か、鶴屋吉信の銘菓セットだった。
どっちがいい?

私は断然、今回のほうが実用的でありがたいけれど、独身の人はこれもらったって、しょうがないよねえ。会社のギフトは人を見て送るわけではないから、ギフト担当者が変われば変わるのだろう。で、今回の担当者はきっと家庭持ち、実質本位の人。おばさんかおじさんかは、さあ、どうだろう?

我家のお歳暮は、そこそこ親しい相手には、おいしそうだが、自分じゃわざわざ買わないというようなものにする。「料亭の○○」の類とかちょっと洒落たお菓子とか、上等なお酒とか、お花とか。

個人的なことを知らない相手には、叶匠寿庵の世話になったり、虎屋の世話になったり、夏ならお素麺。生ものや冷凍物は迷惑になりかねないから、基本的にパス。

お歳暮は虚礼だろうか?
私はあんまりそうは思わない。虚礼だと思える相手にはしていないからかもしれない。1年の間には、わざわざその時にお礼の品を送るほどではなくても、感謝申し上げたいことも多々ある。そんなとき、お歳暮というチャンスはありがたい。何か送ったことをきっかけに、久しぶりのおしゃべりが出来る相手もあるので、おつきあいをキープするためにも、この習慣は悪くないんじゃないかしら。クリスマスプレゼントもそう。・・・ん、デパートに乗せられている?


『韓洪九の韓国現代史』
2004年12月11日(土)

連れて行って欲しいと頼まれて、樋口一葉文学散歩。私自身は前に行ったから気が重かったのだが、頼まれるとつい嫌とはいえず、午前中から吉原遊郭の跡地やら、一葉記念館やら一葉旧居跡『たけくらべ』がらみの神社仏閣。最後は東博の講演会(山田有策「生きている一葉」)。その後、常設展の見学にまで付き合わされて、骨の髄まで疲れました!講演、つまんなかった。寝ている人多数。私もその一人。東博平成館の講堂の椅子、とっても気持ちよく寝られます。

さて『韓洪九の韓国現代史』 韓洪九/高崎宗司 監訳

この手の本って、読む前にイデオロギー的な立場、あるいは、政治的なスタンスから選別されてしまうことが多い。私はこの本がどういうふうに選別を受けているのか、あるいは評価を受けているのか、不聞にして知らない。私には学ぶところの多い本であった。右にせよ、左にせよ、ふるいにかけてはいけない本である。

そもそも急激な近代化による弊害、近代的市民層が育たないまま日本の支配を受け、解放されてからも植民地支配の負の遺産が残ったこと、朝鮮戦争とその前後の混乱によって、半島の未来を担えるような人材が闘争の中で次々と姿を消していったこと、長い軍政の招いた問題などなど。具体的に取り上げられている事件の数々は、おそらく韓国人ならほとんどの人が知っているものなのだろうが、私は知っているものでも、ほんのアウトライン程度にとどまる。でも、著者の語り口は、そういう無知な読者を置きざりにすることはない

隣国がどれほど複雑な年月を経過してきたか――国家にはそれぞれ独自の複雑な事情はあるだろうが、しかし、朝鮮半島の場合は比類ないほどの複雑さに置かれたのではないか。日本が驚異の戦後復興を成し遂げつつある間に半島で展開された戦争や混乱のことに余りに無知であったことを反省した。また、韓国人の行動様式(と断言できるほどステレオタイプ化するのは問題だけど)についても、ふ~ん、と思わせられた。朝鮮半島と日本は、植民地支配のみならず、今も昔も全く立場を異にする問題は多いが、共通する問題も少なくない。双方、理解しあって(そのためには学ぶべき事柄はきちんと学んで)共生していかなければならないと思う。

著者は韓国人にこれまでの出来事を先入観や自己弁護に陥らず、素直に見つめて考えてみたらいかがですか、というような立場で解説をしている。まず結論ありき、ではないため、私のような無知は無知なりに考えながら読み進めることができる。歴史認識の問題に関心があったり、市民運動に参加している人には是非読んでもらいたい本だと思う。(まあ、実際に運動している人たちは所属したり、信奉したりしている組織の推薦がないと、なかなか読まないもののようだけど。)

平凡社

★★★



はじめてのアルバイト
2004年12月10日(金)

2日ほど前、夜10時過ぎてから、近所の知り合いから、「算数がわからなくて~」とママの悲鳴にも近い電話がかかり、息子がにわか家庭教師に出向いた。中学受験の算数って、未経験者にはちょっと特殊だから、ママの気持ちはよくわかる。徒歩1分ほどの歯医者さんのお宅だったのだけれど、その日は歯ブラシ数本とチョコレートをもらって帰り、息子大真面目に「歯医者らしい心遣いだなあ」

今日は改めて、時々カテキョーに来てくれないか、と頼まれる。息子、はじめてのアルバイト。近所でやるカテキョーは楽だけれど、結果から逃げられないし、暴利はむさぼれないから、なんともいえないが、本人はそこそこ乗り気なので、直接交渉をさせることにする。この程度ならバイトもいいでしょう。どうせマンガに消えるに違いないけど。

職場からこっそり電話かけをして、4月の庄司紗矢香×ベルリン・ドイツ交響楽団のチケットを取る。高~っ、と思ったが、息子も行きたいといっていたし、2枚注文。紗矢香ちゃん、半端じゃないうまさ。あの値段も仕方あるまい。会員先行発売のわりにはお席がしけているのが、ちょいと残念。ホールの会員なんて、先行発売だけのために入っているようなもの。

うまいといえば、昨晩、テレビでベルクのヴァイオリン協奏曲をカヴァコスの演奏で聞いた。この人も温かく、深々とした音色で気に入っている。2月にどんなコルンゴルトを聞かせてくれるか、今日のベルクで一層楽しみになった。結局、好きなことを楽しみにして暮らしていくのが、いいことなんでしょうね。



『アンジェラの祈り』
2004年12月09日(木)

『アンジェラの祈り』 F.マコート   新潮社

貧困のアイルランド人家庭を回想した『アンジェラの灰』の続編。あれにはまったくもって美化することなく貧しい家族の喰うや喰わずの日々を書かれていた。

さて、続編と名のつくものにろくなものはないのが世の常だが、これは例外。566頁もある一人称もの(回顧録)であるにもかかわらず、冗長にならず、しつこくならず、まずその筆致に感心した。自分のこれまでを振り返りながら、母アンジェラをも浮き彫りにしているあたり並じゃない。

19歳でアイルランドからニューヨークに単身渡って、顔を上げることも許されないような床掃除人からスタートする。その後、従軍して欧州へ。除隊後も苦労の末、大学を出て、何とか高校教師の職につき、自分の家庭を持つフランク。その間のエピソードだけでもいろいろあるけれど、ここでいちいち言及することもないだろう。

アイルランド仲間と離れられず、失敗を重ねるのだが、アイリッシュであることに逃げ込みもせず、それから逃げ出しもせず、どこか醒めた目で自分を見ている。同時に、暖かい目で他人を見ている。日々の生活の中で出会う人が実に魅力的に描かれる。まるでクロッキー画のように、あっさりと、でも、ぬくもりのある線で。

アイルランドから徐々に家族を呼び寄せるが、幸せなホームドラマ的展開とはいえない。アイルランドを何度か訪問するが、母なる土地の感傷に襲われることもない。じゃ、何なんだ?といわれそうだが、どんな劇的なことでも、生きてしまえば、案外平凡なことの積み重ねではないだろうか。振り返ってなお興奮したり、大げさに書き立てるのこそ、うそ臭い。『アンジェラの祈り』は後からとってつけたような自己顕示と自己憐憫、自己弁護であふれた回顧録の対極にある。

この作品の魅力は、アイリッシュの個性というか、文化を感じさせること。人が生きるということの重みをずしりと伝えるところ。

★★★



「第9は聞くかい?」
2004年12月08日(水)

組織改変をめぐる当局案を担当課長の前で同僚とともにボコボコに叩いてやった。みなさん、せいぜい発言してください、という上司の根回しもあったのだが、なんか終いには担当者がもごもごと口ごもるのが面白くて、順番にモグラ叩きよろしく叩いていたような感もある。運の悪い日だと思って帰ったんだろうな、帰ってから奥さんに叩かれればこれまた面白いのだけど。

勉強不足もはなはだしい課長さんであった。でも実際、企画を担当したのは見るからに冴えない部下の女性だったようで、明日は彼女がいびられるのだろう。まあ、いびられなさい、その程度の仕事しか出来なかったんだから。

同じ職場で同じ立場で働くなら女のほうが潜在能力は高いということを今日も感じた。それとも私の職場の男どもがひどく不出来なのか。保身をはかるにしても、もう少し能力をアピールしないと、これからは厳しいよ。私たちは辛らつな当局案叩きをして、墓穴を掘っているのかもしれないけれど、それでも、出来の悪い企画に身を任せるのはゴメンです。「墓穴ぐらい自分で掘らあ!」と景気よくぶち上げてみたいものである。

上司が「第9は聞くかい」とチケットをくれそうになった。たぶん読響のかな。でも、年末の第9の趣味はないので、「お忙しいことでしょうが、このところお疲れのようですから、思い切ってお出かけになれば」と丁重にお断りをした。チケットって手に入れてはみるものの、いざその日が近づくと、気が重いというのはよくあることだ。

2,3日前、クラシカでムーティがボリショイ劇場でやった第9を聞いたけれど、全然つまらなかった。バリトンのマイルズもぱっとしなかったが、サバッティーニってこんなにヘボかったっけ、と思い、来年のナポリ・サンカルロ劇場はリチートラのほうに決めた。サバッティーニの声じゃドイツものは何にせよ無理かも。

第9ってなんか胡散臭くて嫌いだ。上手なプロがやるのを聞くならともかく、素人衆のはなんともはや。大勢でやればいいってもんじゃないし・・・これって要するに団体行動が嫌いだからだろうか。



おとなのこくご 年賀状ソフト「筆まめ」
2004年12月07日(火)

問題は株式会社クレオ「筆まめ」ver.15の車内広告からとりました。各文の前の数字は便宜上つけたものです。それでは読んで、後の問に答えてください。

①新年の風物として誰もが親しんでいる年賀状。②中国の唐より弘法大師空海が伝えたとされる書が平安時代には日記文学・随筆から恋文まで、流行や政情に影響をうけ、形を変えながら発展していったそうです。③ネットワーク社会の今、新年の挨拶まではがきの代わりに便利な電子メールを利用する人がふえているようですが、やはり元旦にポストを覗くあの情緒には代え難いものです。④そうして日本の誇るべき伝統が徐々に消滅しつつある中で年賀状という心を伝える文化、大切にしたいものですね。

問1 ②の文において、流行や政情に影響を受けたものは何ですか。
問2 ②の文において、何が何に形を変えたのですか。
問3 ②の文において、発展していったものは何ですか。
問4 ③の文において、何が情緒に代えられないのですか。
問5 ④の文の「そうして」は何をさしているのですか。

解説
問1 文章から読み取る限り「空海が伝えたとされる書」です。

問2 これも同様に「空海が伝えたとされる書」が「日記文学・随筆から恋文」に形を変えたということになります。

問3 「形を変えながら発展した」というのですから、形を変えたもの=「空海の書」なんでしょうねえ。それにしても日記文学が空海の書から生まれたなんていう説は、初めて知りました。そもそもここでいう書とは、書道の書なのか、本のことなのか、いったいどちらなのでしょう。また、冒頭の文①の年賀状とはどういう関係を持つのでしょうか?

問4 文意から「便利さ」だと思いがちですが、そのように読めるのでしょうか。「便利さ」は主に出し手が感じること、「情緒」は受け手が感じること。この二つはそもそも交換できる関係ではありません。電子メールならではの即時性や、e-カードの楽しさであれば、ポストを覗く「情緒」と置換できます。ですが、この文中の表現で言及しているのは、便利さだけです。

問5 「そうして」はその前の「何かする/した」ことを指して、次へと続く表現です。基本的には一番近いものを指すわけですから、「ポストを覗くこと」です。でも、それはむしろ「誇るべき伝統」に近いと考えられますから、不適。その前には「ふえていること」がありますが、これは「何かする/した」ではなく、状態です。うんと無理をして「電子メールを利用する(人)」というところに「利用する」があります。おそらくはこのことを指したつもりかと思われますが、さて、大人のみなさんは、そのように読解なさるのでしょうか?

****

車内広告を見ながら、書き写しつつ30分も悩んでしまいました。とりわけ、②のところに合点がいきません。空海の書と年賀状に関係があるのなら是非知りたいです。でも、そこに日記だの随筆だのって・・・(絶句)。「中国の唐」というのも私には抵抗大です。

③から④は、むしろ「そうして」がないほうがいいように思います。

この広告、代理店が作ったのか、クレオ本社で作ったのかわかりませんが、どっかの誰かはこんなわけのわからん文章を書いてお金をもらっているのですねえ・・・いいなあ。企画会議とか誰一人、この文章が気持ち悪い、と思わなかったのでしょうか。それとも、あえてこういう文章を仕立てて、注目をひきたかったとか?まさか。

隣の人が読んでいた新聞に「学力低下」とあったこと、しみじみと感じられました。

年賀状ソフトの「筆まめ」信頼できますか?

****

わかった!

さっき一旦日記を書いてから、お風呂に入り、一体あの文章の真意は何なのだろうと考えて、ようやくわかりました。お風呂でわかるなんて、まるでアルキメデス。「ユーレカ!」
きっと以下のようなことがいいたいのですね。

現代の書は)弘法大師が唐で学んだ書法が、日記や随筆や恋文など、いろいろなものに用いられて、形を変えながら発展してきたものだそうです。

最初に読み損ねた私が「学力低下」なのでしょうか?いいえ、そうは思いません。やっぱり舌足らずな文章なのです。なんだかんだと私は5時間ほどこの文章が頭から離れませんでした。みなさんはすぐに上のような意味に理解できましたか?



ゲルギエフのリングは?
2004年12月06日(月)

声楽のレッスンのあと、先生から用事をいいつかった。先生とお仲間のコンサートで使うナレーションの原稿書きである。ただ立っているだけでも舞台に立てといわれると、滅相もない、何卒ご勘弁、というしかないのだが、ナレーションの下原稿なら、朝飯前とはいわないものの、三食食べれば出来そうである。出来そうなことについては、基本的に断らないことにしているので引き受けた・・・めちゃめちゃ喜ばれた・・・変なの。このアリアがどういう場面で歌われるか、という導入を書くだけなのにね。これまでよっぽど苦労して書いておられたのかしらん。

「誰が歌うか未定なんですけれど、ゲルギエフとマリインスキー劇場のリングは期待できますか?再来年の公演ですが」と聞いたら、ロシア人だから一応声はワーグナー向きなんじゃないか、悪くないんじゃない、という。もっとも先生はイタリア一筋だから、スカラ座のリングはつまらなかったね、といいつつも、リングなんてどうでもよさそう。

再来年のことなんてどうなるかわからないのに、一応は先行発売の案内が来ているから、どうしようかと思案中。誰が歌うのかもわからないのに、今からチクルスに10数万投資するのは痛い。「ワルキューレ」だけにしとこうかなあ・・・それとも・・・いやいや、やめとこう。 「ワルキューレ」だけ!「ワルキューレ」だけ! 「ワルキューレ」だけ 「ワルキューレ」だ  「ワルキュ・・・・・・

オペラのいいところは、普通にチケットを買うのでも、半年前はざらなので、見るときにはチケット代のことを忘れていること。来年5月のフェニーチェは9月に買った。数字に弱いことを本当にありがたく思うのはこういうときである。今年はいくら使ったかと計算するような恐ろしいことは絶対したくない。実際本当に高いんだからさ・・・


キャミソールはお犬様に
2004年12月05日(日)

お犬様冬対策のため、リビング・ダイニングを大幅に模様替え。というか、家の者が出払ったあと、老犬にエアコンの暖気が十分届くようにと、犬の一坪サークルの位置を移動したのである。そのあおりで、家族は壁を向いて食事をすることとなった。これまでサークルを置いていたところに何年ぶりかでカーペットを広げたら、とたんに老犬お得意のポーズで占領。実は昨日も私の留守中に、夫は犬用ヒーターや暖かげなベッドを買い込んでいた。





この後、近所のスーパーで若い娘が着るニットのキャミソールを老犬用に買う。フリースのコートはおなかが出るので、夫が「庭に出るとき腹が冷えるのではないか」と、心配していたのである。そこで思いついたのが、最初は腹巻、でも、腹巻は丈が短い。はて、と悩んだところで目についたのが、キャミソール、¥1880。犬の足も通りやすくて、なかなかいい按配。これを買った娘たちは、まさか老犬とお揃いだとは思いもしないだろう。ほほほ。

ただし、こうやって気を使ってやっても、体調は日ごとに下り坂。

昨晩のモーツァルトが最悪だったので、今日はモーツァルトの聞きなおし。いろんな盤を聞きなおして、改めてデュメイのモーツァルトはいいなと思う。グリュミオー譲りの美音だし、モーツァルトのコンチェルトは軽やかでスピーディで、音の粒がよく立った演奏。モーツァルトが輝いて聞こえる。こうじゃなくっちゃ!




思いつきで動きまわるの巻
2004年12月04日(土)

山梨県立文学館の樋口一葉展を見に行く。行かないつもりでいたのだけど、朝起きたら、なんとなく遠出をしてもいい気分だったので。

1時間も見れば終わりだろうとタカをくくっていたら、かなり充実した展示で、驚いた。常設展も見たら、2時間たっぷりかかった。夏に第1部の展示があったことをしらなくて、見逃したから、それについては残念至極。両方見ていたら、一葉研究の基礎資料の全部が出ました、というような展示だったのではなかろうか。

常設展のほうは、山梨の文学者というコンセプトなのだが、そこんところはかなり拡大解釈されていて、芥川も太宰も入ってしまう(入れすぎだ~)。一葉は常設展でも主役の一人だが、一葉の両親が山梨の出というだけなんだよね。

ご愛嬌のお土産を一つご紹介。瓦せんべいです。



広い敷地のお向かいは、「種蒔く人」の入手で名を馳せた県立美術館。特別展はマン・レイだし、ここへ行くつもりはなかったが、文学館の展示の充実に感心した勢いで、行ってみることに。まず美術館に到着するまでに、ムーアだの、ブールデルだの、マリーニだの、彫刻が点在するので、それも一応見る。

マン・レイは以前、NYのホイットニー美術館で展覧会を見たことがある。その時は、グリコのおまけのようなガラクタ的な作品が多くて、辟易したため、印象が悪い。それに比べれば、見やすい展示だった。印象大幅に改善。特に写真がいい。ま、どうやっても好きという言葉は出ないけれど、ああいうタイプの人を芸術家として大事にするくらいの余裕は社会に欠かせないと思う。

当分また来ることもなかろうと欲を出して常設展も回った。「種蒔く人」はいうまでもなく、バルビゾン派あり、日本画あり、版画あり、コンテンポラリーあり、何でもあり、というに近く、ちょいと散漫なんだわね。山梨をキーワードにしてしまうと、ジャンルにこだわって、この人を入れて、あの人をはじく、というわけにいかなくなるからだろうか。

ともかく山梨県ってお金持ちの自治体だったのね。そんな景気のいい産業があったっけ?武田信玄の埋蔵金は実は県庁の金庫にあるのではないか?

帰りの特急に乗ったところで、今日、コンサートのチケットを買っていたことを思い出した。どうしようかと思うが、夫が駅まで持ってきてくれるというし、ついに家に帰らず、コンサート会場へ。

フィンランドのユヴァスキラ交響楽団というのだが、がっかりするようなモーツァルト「ジュピター」。ヴァイオリンのお粗末なこと!音量なさすぎ。オケ全体としては各パートがかろうじてつながっているような危なっかしさ。

2曲目もモーツァルトでヴァイオリン協奏曲第5番。これがお目当てだったのに、やはり失望。アゴーギクをばりばりにきかせて個性的な演奏を図ろうとするあざといソリスト(ジョーン・クォン)。音は立たず、音程は怪しく、絹糸を期待するところが皮ひもになったような演奏。5番ってこんな曲だったっけ??休憩の後にベートーヴェンの7番ともう1曲フィンランドの作曲家の小品があったけど、期待できそうにもないから途中で帰ってきてしまった。

以上、発作的な一日。基本的に私は出不精なんです、信じてもらえないでしょうが。



今更ながら『女たちのジハード』
2004年12月03日(金)

『女たちのジハード』(篠田節子)ってもう7年も前の本なのね・・・ようやく読みました。ずいぶんよく売れたし、評判にもなったし、あれこれ迷ったけど、自腹を切ってまで読もうという気にはならなかったから。図書館で借りた1冊ですが、いかにも直木賞らしい作品でした。<いかにも>というのは、さわやかに元気の出そうな本だからです。

「当世独身職業婦人気質」とでも題したらよさそうな内容。OLものというと、すぐ林真理子なんかを思い浮かべてしまうけど、あの人の物欲と出世欲にだけ支えられたようなOLさんよりは、こちらの登場人物のほうがよっぽど共感できる。小粒といえば小粒ですが、その分、若い人は感情移入はしやすいんじゃないのかなあ。あるいは、等身大で、手が届きそうな感じかも。

ただし、何がジハードなのかは私にはよくわからなかった。男社会を敵にしているわけでもなし。でもまあ、こういう話はあんまり思い返して、ああだ、こうだ、言ってみないほうがよさそう。登場人物、それぞれがそれぞれの形で頑張りました。はい、私は長距離通勤の往復で楽しめました。
★★




富士山
2004年12月02日(木)

仕事で富士山麓へ行って来た。全然面白くはないが、天候には恵まれた。

富士山がきれいな山であることは確かである。太宰治だって、「風呂屋のペンキ画」なんていっていたが、最後は富士山だけのスナップ写真をとるのだものね(『富嶽百景』)。

きれいな山だけに、俗物にあれこれ食い物にされてきた。山自体とは何の関係もない概念をいろいろと押し付けられて、素の姿が見難くなった山だ。霊峰富士なんていわれるとぞっとする。大観の富士山の絵なんて、ああもう勘弁してちょうだい、である。それと同時に、さんざん商売に使われてきて、通俗のきわみに至った観光資源だけれど、このごろは環境問題のほうで取り上げられている。豊かな自然の象徴として、気持ちのよい形で新しい富士山のイメージが育つといいなあと思う。

鳴沢から携帯でとった逆光の富士山をアップします。


鳴沢の富士山博物館には、展示の目玉に、富士山噴火で流れ出た溶岩とおぼしき流れに首まで埋もれて、グォーグォーとあがき苦しむティラノサウルスがあります。・・・こういうものがないと客が喜ばない、ということを無条件に信じ込んでいるんじゃないかしら。いくらティラノサウルスでも溶岩にのまれたら、首までつかる前に死んでるわよ。

『富士山の文学』(久保田淳、文春新書)というのが手許にあったので、車中ぱらぱら読みながら出かけた。富士山で日本文学に検索をかけたらこうなるんだろうな、というような本。面白いかと聞かれれば、しばらく読むと飽きると答え、便利か、と聞かれれば、富士山ネタで薀蓄をかたむけたいなら便利だ、と答えよう。

さて、帰宅したら、ネットで注文した巌手屋の南部せんべいが届いた。この店のりんご南部とかぼちゃ南部は一度騙されてみて。予想外のおいしさよ。




BACK   NEXT
目次ページ