ゆうべは風が強かった。 風が強いのは嫌い。 1ヶ月以上遅れの誕生日プレゼントが息子に届く。 オーストラリアの金太郎飴・・・色はどぎついが、"Happy Boay"(ママ)なる文字が金太郎状に入っている。面白い。送り主ライアン(息子と同い年のオーストラリア人)の友達が飴屋修業中だそうだ。味はまずまず。 いかにも若い奴の趣味としかいえないTシャツ。親が買ってきたのなら絶対たんすに入ったきり2度と日の目をみないだろう。 短編小説集 "Unmentionable",パルプマガジンのような悪趣味な表紙のpuffin books である。2,3作拾い読みをした。馬鹿げている分、大人になってからはなかなか思いもつかないような話題で、結構笑えた。おしっこの飛ばしあいとか、氷の像に恋してキスして唇が貼りついた話とか・・・。 オーストラリアの人気番組のDVD・・・暮れに韓国製のコードフリーのDVDを買っておいてよかった。 息子、そこそこ喜ぶ。ライアンも小遣い足りないだろうに無理してるなあ、と思わないでもない。オタク同士は海を隔ててもそれなりに友情があるようだ。でも、うちの息子は全然海外に対するあこがれがない不思議な奴。遠い、めんどい、で終わる。外国語は好きなくせに、本当に変。親の私はマンガのない国に1年ほど彼を監禁したい気分。 画像アップ試してみました。そろそろお迎えも近いのですが、調子のいいときは愛嬌を振りまいているうちの犬です。この写真、へばっているのではなく、まあ気持ちよく普通にしているときのポーズです。
"The King and I” H.Breslin ルチアーノ・パヴァロッティの36年間にわたる元マネージャーによる内幕話。といっても、いわゆる3大テノール興行についての抜粋のところを”Opera News"で読んだだけ。まあ、わざわざ読まなくても当然想像できるような話でした。レブレヒトの賛否両論ある問題作『誰がクラッシックをだめにしたか』のほうが構造的な問題として、3大テノール興行を鋭く暴いていたような感じ。 一晩うたって一人30万ドル、といわれても、私にはそれがいくらなのか、想像もできない。でもまあ、私が払うわけじゃないから、不当だといって怒る気もしない。全盛期のパヴァロッティは素敵ですよ、輝くような声があふれてくるもの。それを彼ののどを発生源とする空気の振動で聞きたいか、それともアコースティックな形でもいいか、ということで、3大テノール公演にお金を払うかどうか、決まる。 昨年暮れだったか、世にもみっともないセットで、3大テノール最後の日本公演があった。テレビで見たけれど、これにお金を払う人はよくよくのファンか、よくよくお金が遊んでいるか、音楽とは関係のない下心があるかだろう。老醜テノール3人組であった。今年の春には、パヴァロッティの引退記念ツァーもあった。これは少しだけ心が動いたけれど、場所が東京フォーラムだったし、法外な価格だったし、ちらしだけ大事にとっておくことにして、チケットは見送った。その後の評判も聞かない。 それにしても、元マネージャーの暴露本みたいなものが、西洋には格別多いように思う。島国の律儀者にはどうも抵抗がある。表紙にはパヴァロッティの写真を使うのだから、出されるほうも一応は了解済みのことなのだろうし、あるいは、とにかく話題をキープすることが、結局は自分の収入にも関係してくるということで、黙認なのかしらん。全部読むかどうかは、ペーパーバックになってから考えよう。 だけど、だけど、パヴァロッティはやっぱり大歌手です。 さて、この記事の最後についていた小咄。 3大テノールが南極公演を行い、ペンギンたちは大喜び。 でも事の真相は、もう誰も聞きたがらなくなったからだとさ。 (出所はドイツの子どもの本らしい。)
『死んでいる』 J.クレイス ★★★ 朝日新聞の書評で川上弘美が「死の本質に近いものを捉え得たのではないか」とかなんとか書いたそうだが、そうかもしれない。少なくとも、「死」という古今東西にわたる文学の一大テーマに対して、このささやかな小説が打ち込んだ楔はなかなか侮れない。 登場するのは50代の動物学者夫婦。 明るい日差しに誘われ、若き日の思い出の浜へとピクニックに出かけ、あの日と同じように愛を交わそうとして、半裸で惨殺される。そこから「死んでいる」日々が始まる。 肉体的な「死んでいる」状態の描写がことこまかであるが、あまりグロテスクな感じを受けないで読めるのは、写実が徹底しているからだろうか、それとも自然界の営みに情が介在する余地がないからか、はたまた、それは生き物たちの生を支えることになるからだろうか。死を受け止める自然はじたばたすることなく、淡々とことを運ぶようで、それもまたよし。 夫婦の死そのものも相当猟奇的なシチュエーションといえるのに、おぞましさは希薄である。夫婦は即死に近く、殺人犯の追跡はない。 話は現在(「死んでいる」状態)−過去(その浜辺での研究合宿を通した出会いと合宿所の火災、研究者としての日常、夫婦の微妙な齟齬)が交差して語られる。終盤、迷惑がりながら両親を探さざるをえない不肖の一人娘が登場、死体の確認をして、二人の死を受け止める部分もかなり大切な部分。この娘の反応がありきたりではない分、思いがけない説得力に富む。「死」がもたらすものは喪失だけだろうか?死者にとっては生からの解放だが、生きる者にとっては生きていたる者(=死んでいる者)からの徹底的な解放も「死」の置き土産である。 作者は肉親の死によって「死」のテーマに取り組むようになったそうだが、確かにその「取り組み」の真摯さを感じさせる作品である。 白水Uブックス
雨の中、琳派展再訪。 でも、主目的は琳派よりも、老先生と先輩と3人のランチ。 先生を呼び出すのに、ごはんだけってわけにもいかず、 「琳派展ご一緒しません?」 先輩は文学畑のくせに美術も玄人肌なので、彼と展示を見るのは面白い。 ただし薀蓄が大変多いので、必ずしも万人向けのガイドではない。 彼の人となりを知る者でないと・・・。 今回は
などについて、ご高説を承る。 老先生も一緒に「へぇ〜、そんなもんかねえ」と。 美術展の費用についても結構詳しかったな。 ランチの話題は 美術研究者と文学研究者のコラボレーションについて。 先輩が目下取り組んでいる仕事でもある。 彼にとっては、成果も希望も愚痴もちょっぴり自慢も全部披露して 我々にとってはお気楽な勉強会。 雨の中を出かけた甲斐があった。 その後、昔からの友達と会い、 お茶とおしゃべり。 今日会った人は20年以上知っている人ばかり。
『最後の物たちの国で』 P.オースター ★★★ どこの国とも、大昔ではないにせよ、いつの時代とも知れぬ、崩壊しつつある街へ 新聞記者である兄を捜してやってきた妹が 誰かに向けて、まさに<誰か>に向けてつづる手紙。 街へ来てからの凄まじい日々。 行政は死体処理とゴミの始末を行うだけ。 生産は当の昔に止まり、 公共施設、公共サービス、警察、病院といった機能は停止状態。 他の地域との交通もマヒし、 街がこの先、どうなるのか誰も知らない。 そこでわずかに助け合うことの出来た老女との日々、 兄の後任で来た男との偶然の出会い、 わかれ、再会、 慈善事業の手伝いと休止、 慈善事業のリーダーである娘との関係 ・・・徹底的にモノローグで語られる暗い状況での物語。 この先何がどうなっていくのか、まるで不確かな状況で それでも「もの」が「者」でなく「物」であることの意味が 次第に明らかになる読書の快感。 このタイトルは日本語表記になったほうが 原題より含むところが大きいかも。 (原題は"In the country of last things") もともとは息子が買ってきていた本。 親がほめると必ず冷ややかな反応を示し、 親が読まないと、読め読めとうるさい。 大体、柴田元幸の訳する類の本をあまり嫌だと思ったことはない。 これもいかにも彼が取り上げそうな作品だと思う。 (白水社 Uブックス)
大家さん(myprofile)が現住アパートをそのまんま新しい家主に売ったため、丸2日間も入室不能。 切れやすいcirandeは引越しを決意、 あれこれ物件を見て歩き、結局エンピツさんで店舗再開。 朝、獣医さんの支払い。 休日夜間の往診だったし、新しい薬もあるだろうし、と諭吉を数枚財布に入れて自転車でGO! その結果、2日前の往診が3360円、今日のお薬が1680円。 諭吉は一枚旅立っただけ。(^_^)v 犬はあれ以来、けろりとして元気。 一時的なものですけど。 それにしても、獣医さんが来て下さった足音を聞き、 それまで横たわって喘いでいたのに、 そそくさとお迎えに出て、 愛想よく尻尾なんか振るのは、 まったく雑種の生きる知恵。 昼、髪をカット。 ついでに伊勢丹で靴3足買う。 1足は定価、2足はバーゲン。 夕方、車屋さんから電話。 獣医さんを迎えにいくため、 あわてて車を出そうとした夫が ポールに気づかず、 まともにドアをガガガッとやった修理。 その見積もりがなんと15万! 諭吉、団体旅行だ。(T_T)
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