研修の1週間。 半軟禁状態で普段、自由にしている私にとってつらい状況。 表面的には感じよく、にこやかにしているが 早く1人になってゆっくり過ごしたい欲求にかられる。 お昼もずっと一緒。
去年のフランス旅行の時も、 友達と二人で行って、一人行動できない子だから かなりのストレスを感じた事を思い出す。 やはり、旅は1人かもしくは、放し飼いにしてくれる人じゃないと 駄目だ。
「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読了。 素敵な作品だった。 ラテンの血が流れているから、決して暗くならない所がいい。 続いて、川端「眠れる美女」 川端作品は、最初は、日本文学の格調の高さを感じた。 でも、だんだん、川端の本を読んでいると、くどいなという気持ちが 湧き上がってくる。なんでだろう。 まだ途中だから、最後は印象が変わってくるかな。 両作品も香りからくる記憶や恍惚感の表現が素晴らしい。 少女が発する乳臭い香りというのも分かる。 電車で隣に女子高生が座ると、汗っぽく乳臭いような香りが 時々する。 私は女性だから、その香りを嗅いで、官能的な気分になると いうことはない。 男性だと、自分の記憶の扉をたたくきっかけになり、 過去の女性との思い出に浸るのだろうか。
マルケス「わが悲しき娼婦たちの思い出」と 川端「眠れる美女」」、そして「テヘランでロリータを読む」も購入。 川端は、マルケスも影響をうけたと書いてあるし、 解説が三島由紀夫というのも興味深い。 これで川端の私の評価は変わるかな。 「テヘランでロリータを読む」は、戦時下のテヘランで なぜ文学、芸術が心のよりどころになるかを語った作品らしい。 今、プルーストを読んでいて、マルセルも 文学は果たして何なのかに悩んでいる。 私も、いったいなぜ貪るように本を読み、 時には心のよりどころになるのかを知りたくなった。 この2冊を読んで、果たして答えはでるのだろうか。
「若者のすべて」をみる。 駅を降りて、「国際交流センターはどこですか?」 とあやしい人に道を聞かれた。 嫌だ、この人もヴィスコンティ見に行くんだと心の中で思って 道の説明をした。 会場に到着すると、やはり彼もいた。挙動不審。 開場されるやいなや、こけながら全速力で最前列を陣取っていた。 最前列は、変な人の確率高いとみた。
ヴィスコンティの作品だけあって、素晴らしい。 貧しいイタリア南部の家族4兄弟が、ミラノでそれぞれの人生を送る話。 身を持ち崩す兄弟もいて、人間模様が面白い。 アドリアーナ・アスティの気品と毒のある美しさもいい。
今日の朝日新聞の島崎今日子のコラムで 山口智子のエルミタージュ美術館特集を批判してあった。 私もあれを少し見ただけで、胸がむかむかしたからすっきりした。 山口智子に対する嫉妬というより、品のなさが画面一杯に溢れていて 嫌だった。
映画受難時代だと思っていたら、 ヴィスコンティ100年祭で 「ルードヴィッヒ」「山猫」「イノセント」が上映される。 嬉しい。 それに、11月は大阪ヨーロッパ映画祭で、 ヴィスコンティ写真展もある。
本物の美を追求するにはヴィスコンティははずせない。 目の保養に行ってこよう。
ガルシア・マルケスの「我が悲しき娼婦たちの思い出」を 少し立ち読みしてみた。 数行読んで好感触。全集を買おうと決意。 ハードカバーの重みと行間の隙間が贅沢。 読書心をくすぐる。
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