Jacarandaの日記
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| 2026年06月12日(金) |
シャンシャン9歳の誕生日を迎えて――2017年からの軌跡 |
 photo: 2026年カレンダーより 2022年1月6日 上野動物園にて
6月12日は、2017年の今日、上野動物園で生まれ、現在は中国の四川省で暮らすジャイアントパンダ「シャンシャン(香香)」の9歳の誕生日だ。
彼女のこれまでの歩みをまとめた。
🐼 シャンシャンの歩み(時系列)🐼
▰ 2017年6月12日: 上野動物園で誕生 父親「リーリー」と母親「シンシン」の間に、午前11時52分に誕生。 上野動物園では初となる、自然繁殖での無事な生育となる。
▰2017年12月: 一般公開がスタート 生後約半年を迎え、日本中がシャンシャンブームに沸いた。
▰2023年2月21日: 中国へ返還 多くのファンに惜しまれながら日本を出発し、中国へ返還された。
▰ 2023年10月: 中国での一般公開が開始 四川省にある「中国ジャイアントパンダ保護研究センター雅安碧峰峡(あんへきほうきょう)基地」にて、環境に慣れるための準備期間を経て、一般公開が始まった。
▰ 2026年6月12日: 9歳の誕生日を迎える 中国に帰国してから3回目の誕生日を迎えた。
🐼 最近のシャンシャンの様子🐼
現地の飼育員さんによると、帰国当初は新しい環境に慎重だったシャンシャンも、今ではすっかりリラックスして「お姫さま」のように上品で落ち着いた姿を見せているそうだ。 食欲も旺盛で、昨年は100kg未満だった体重が約110kgまで増え、精神面・身体面ともにとても健康に過ごしている。 9歳になった今年も、日本からたくさんのファンが現地にお祝いに駆けつけており、国境を越えて愛され続けている。
私は、シャンシャンが、まだ上野動物園で暮らしていた20218年3月18日に 大行列で見学券を獲得しなければならなかった頃に訪れたことがあった。 しかし、その日はお母さんのシンシンと一緒のシャンシャンには会えなかった。 結局日本に彼女がいる間、生のシャンシャンにはお目にかかることは叶わなかった。 それでも、シャンシャンが生まれてから配信されてくる上野動物園の動画を見るのが楽しみだった。 その後、彼女の双子の弟妹シャオシャオとレイレイが生まれてから、東京に住んでいるのだからその気になればすぐにでも会いに行けるとのんびり過ごしていくうち、2026年現在、上野動物園どころか日本におけるパンダは一頭もいなくなり、日本におけるジャイアントパンダ飼育の歴史が中断している。
1972年9月に、田中角栄首相のもと、日本と中華人民共和国との国交の正常化が図られ、「日中共同声明」を発表。 その後、中国から友好の証として上野動物園に最初のペアであるカンカンとランランが譲渡された。 最初の2頭のパンダがお目見えしてから、2025年6月28日 和歌山県白浜のアドベンチャーワールドで飼育されていた4頭のパンダが中国に返還された今、日本における約50年にわたって飼育され続けていたパンダの姿は見ることができなくなっている。
そんな日中国際関係の緊張の中、熱心なシャンシャンのファンたちは、中国に暮らす彼女に会いに行っている。 いつまでも、中国で健やかに暮らしていくことを願ってやまない。
シャンシャン! 9歳の誕生日 おめでとう!!
| 2026年06月10日(水) |
第五福竜丸展示館 開館50年 |
 展示館に展示されている第五福竜丸
※ (追記6/11) 記事の一部を修正しました。
今日6月10日で、江東区にある都立第五福竜丸展示館が開館50周年を迎えた。
1954年の「第五福竜丸事件」は、日本の歴史だけでなく、 冷戦期の核軍縮の歴史においても大きな転換点となった出来事である。
当時「冷戦時代」の米ソ関係という緊迫したバックグラウンドから、事件の発生、 そして、 その後の国連を中心とした核軍縮条約の結実までを、時系列で整理してみた。
🔷事件における歴史的背景🔷
(1)1950年代前半の米ソ関係: 核軍拡競争の激化
事件の背景には、アメリカとソ連(現・ロシア)による猛烈な 水爆開発競争があった。
1949年: ソ連が初の原爆実験に成功し、アメリカの核独占が崩壊。
1952年: アメリカが世界初の水爆実験(アイビー作戦)に成功。
1953年: ソ連も水爆実験(RDS-6)に成功。
1954年当時: 両国は「相手より強力な兵器を持たねばならない」 という「抑止力論(恐怖の均衡)」に支配され、 核実験をエスカレートさせていた。
(2) 1954年:第五福竜丸事件の発生 このような一触即発の状況下で、事件は起きた。
▪3月1日: アメリカが太平洋のビキニ環礁で、極秘の水爆実験 「キャッスル・ブラボー」を実施。 予測の2倍以上の威力(広島型原爆の約1,000倍)だったため、 設定された危険水域の外側にも大量の放射性降下物(死の灰)が拡散。
▪同日: 周辺海域で操業中だった日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が、この「死の灰」を浴びて被曝。
▪3月14日: 帰港後、乗組員の急性放射線症状が判明し、 日本国内は大パニックに。
▪9月23日: 無線長だった久保山愛吉さんが 「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」との言葉を残し死去。
🔷歴史的影響🔷
1954年当時は、米ソ冷戦の真っただ中という世界情勢の時。 アメリカは、アイゼンハワー大統領を中心に、共産主義封じ込め政策を推進しており、ソ連との核開発競争を進めていた。 一方、ソ連も、1953年にスターリンが死去し、フルシチョフが実権を握り始めたころだった。同様に、アメリカに対抗して核兵器開発を加速していっていた。 そして、この事件により日本は、広島・長崎への原爆投下に次ぐ「日本を巻き込んだ第三の原子力災害」と見做され、原子爆弾と水素爆弾の両方の兵器による原子力災害(被爆と被曝)を経験した国となった。 事件をきっかけに、日本国内で原水爆禁止運動が急速に高まり、翌1955年には第1回原水爆禁止世界大会が開催された。 また、世界中の科学者も危機感を強め、翌年の「ラッセル=アインシュタイン宣言」へとつながっていく。
(3)1950年代後半〜1960年代:国連と核軍縮条約の進展
第五福竜丸事件や世界的な世論の批判を受け、 米ソも「このままでは地球が滅びる」と危機感を抱き始める。
舞台は国連へと移り、具体的な条約が結ばれていった。
🔷 国連の対応及び条約(時系列)🔷
1963年: 部分的核実験禁止条約(PTBT)
▪内容: 大気圏内、宇宙空間、水中での核実験を禁止。 (ただし、地下実験は容認)
事件から9年後、ついに最初の大きな規制が生まれる。 1962年の「キューバ危機」で核戦争の一歩手前まで行った米ソが、 対話に舵を切った。 ▪意義: 第五福竜丸事件のように「死の灰」を地球上に 撒き散らす実験は禁止された。 ただし、ソ連やアメリカの思惑により「地下実験」 だけは認められるという抜け穴があった。
1968年: 核兵器不拡散条約(NPT)
国連総会で採択。1970年に発効。 現代の核軍縮の土台となる条約。
▪内容:米・ソ・英・仏・中の5カ国だけに核保有を認め、 それ以外の国への拡散を禁止。その代わり、保有国には核軍縮のための誠実な交渉義務(第6条)を課した。
1972年〜: 戦略兵器制限交渉(SALT I / SALT II)
米ソが直接、保有する核ミサイルの「数」に上限を設ける交渉を始めた。 ( 国連が舞台というよりは米ソ二国間であるが、国連の理念に沿った動き。)
1996年: 包括的核実験禁止条約(CTBT)
冷戦終結後、国連総会で採択。
▪内容: PTBTで残されていた「地下実験」も含め、 あらゆる空間での核実験を禁止するもの。 ▪現状: 発効には常任理事国であるアメリカや中国、インド、パキスタン、北朝鮮など特定の国々の批准が必要であるが、 2026年現在も一部の国が批准していないため、正式には発効していない。 ただし、国際的な規範として機能している。
2021年: 核兵器禁止条約(TPNW)
歴史的転換点となった条約。
▪内容: 核兵器の保有、使用、威嚇、開発などを 全面的に違法とする初めての条約
▪意義: 非保有国やNGOが主導し、国連総会で採択。 米、ロシアなどの核保有国や、日本のような核の傘に頼る国は 参加していない。 しかし、核兵器を「非人道的な悪」と明確に定義した点で、 第五福竜丸事件から続く反核運動のひとつの到達点 と言える。
🔷 まとめ 🔷
1954年の米ソ水爆開発競争の犠牲となった「第五福竜丸事件」は、一国の悲劇にとどまらず、「放射能による地球規模の環境汚染」という恐怖を世界に突きつけた。 これが足がかりとなり、国連を通じて「大気圏内での実験禁止(1963年)」から「核兵器そのものの違法化(2021年)」へと、数十年の歳月をかけて国際法が整備されていくことになったのである。
❖ 第五福竜丸被曝事件と核軍縮の流れ ❖
1954年 第五福竜丸被曝事件 日本や世界で反核運動が高まるきっかけとなった。
1954年 米ソの核開発競争激化 冷戦下で核開発が進んだ。
1963年 部分的核実験禁止条約(PTBT) 大気圏内などでの核実験を禁止した。
1968年 核兵器不拡散条約(NPT) 核保有国の増加を防ぐ国際体制の基礎となった。
1996年 包括的核実験禁止条約(CTBT) あらゆる核実験の禁止を目指した。
2017年 核兵器禁止条約(TPNW) 核兵器そのものの廃絶を目指した。
《 流れのまとめ 》
第五福竜丸被曝事件 → 世界的な反核世論の高まり → 部分的核実験禁止条約 → 核拡散防止条約 → 核兵器禁止条約
| 2026年06月09日(火) |
23年前のHP開設〖Message from Jacaranda〗 |

今日、6月9日は、〖 Message from Jacaranda 〗というタイトルのHPを開設した 記念すべき日だ。
23年前の2003年6月9日。 半ば徹夜で仕上げてアップロードした自分のHPをドキドキしながら、 職場のパソコンから閲覧した時の感動と 友人たちからのお祝いのメッセージ(BBS)の書き込み! そんな、熱い気持ちを思い出している。 なんだか懐かしく感慨深い。
このエンピツ日記に、かつてHPにアップしていたコンテンツを Wayback Machineから見つけ出し、いろいろHTMLのタグを思い出し、 レイアウトに格闘しながら、エッセイを再掲している。
HPのコンテンツを作り上げる情熱がいつしか消え去り、 日常生活に疲れ、現在従事している仕事が本当の自分の専門の仕事ではない という虚しさを感じながら、 自分の職業人生が こんな感じで終わってしまうのか… などと生きるモチベーションが下がってきていたそんな自分が、 こうして新しい相棒のFMVノートPCと共に再生していくような気がしている。
そして23年前、初めて購入したパソコンもFMVのデスクトップだった。 あの相棒の寿命が切れてしまったのと同時に私のHPも程なく更新が途絶え、 新しく購入したBIO で消えてしまった。 FMVには、最初からホームページビルダーが入っていた。だから、次のパソコンにわざわざ高いお金を導入してまでHP運営をする程の気力もなく、FMVが力尽きる前に、最後のコンテンツアップデートをして, そこにリンクしていた日記「Simple Life」(今回運営閉鎖された)に記事をアップしてきていた。 そのうち、HP更新作業をしないままでいるうちに,ドメイン使用料の支払いをうっかり忘れてしまって、Message from Jacaranda がWEB上から消え去ってしまった。
そういうこと、色々 23年目に思い出している。 運命的な気がするなぁ。。。 私が新しいパソコンの機種にFMVを選んだのも運命の糸みたいかな…
※ 再掲したHPのエッセイは、右下のリンクのINDEXから閲覧できます。
| 2026年06月08日(月) |
モンブラン万年筆の思い出 |

私が現在持っているモンブランの万年筆は3本。
JICA時代に新宿の京王デパートかどこかの万年筆売り場で1993年前後に ボールペン、シャープペンの3本セットで購入したノブレスの金属ボディと、 1992年10月のアルゼンチン初出張の帰路で、サンパウロ空港の免税店で 購入したマイスターシュティック144(ボルドー)。 そして、数年前に新宿のユーズド筆記用具専門店で購入したマイスターシュティック114(ボルドー)の3本である。 しかし、モンブランの万年筆は実はもっと以前、私がアフリカのマラウイまで 持っていった黒い柄の万年筆が最初だ。 しかし、そのモンブランは、Blantyreの街で、バイクの荷物とともに盗まれてしまって、今はもう手元にはない。 ちょっと、ほろ苦い失恋の思い出のある万年筆だった。 ということは、最後の一本を除いて、計3本のモンブランは、なんとJICA時代に 購入したものだ。 それぞれに思い出があり、たしか、ノブレスの万年筆は、母の病気で帰省した折、 JRの駅の公衆電話のシーンと重なって思い出す、チクりと痛い思い出なのだ。
そんなモンブランの万年筆が、今は静かに家のデスクの中に納まっている。
| 2026年06月07日(日) |
Malawiの思い出 〜排気ガスのにおい〜(再掲) |
 photo : Bus Depot at Lilongwe , MALAWI
今は消えてしまったHpにアップしていた文章の草稿が見つかったので 再掲します。 メモの日付は2004年9月13日(Mon)。
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記憶というものは面白いものだ。 ある日ふとにおってきた“におい”で、もう忘れかけていた ある昔の自分にフラッシュバックする。
今朝、駅に向かう自転車の私の前を行く車からはき出されてきた排気ガス。 一瞬、いやなにおいというより、 "ああ、なつかしいにおい”、どこかで匂っていた この”におい"。 そうだ! マラウイのバスデポ(停留場)のにおいだ。
そう思いだしたら、懐かしくて、涙が出てきた。
| 2026年06月06日(土) |
New PCと過去日記の復元 |

先週末、突然のパソコンの故障で大慌てしたが、 無事にデータが復旧されて、今日ようやく新しいFMVノートパソコンを受け取った。
原因は、パソコン内蔵のファンが壊れていて、立ち上がっても電源がすぐに落ちてしまうという現象。 まあ、購入後7年以上は経過しているので、もう寿命だという結論での 新しい機種を購入するということに落ち着いた。
そして、「Simple Life」として日記をアップしてきたAlfoo の日記を なんとかWayback Machine を使って、データ復帰作業をした。 それでも、2024年11月〜2026年1月までの15記事のみだった。
この一連のアクシデントで改めて考えたこと。
2010年12月から14年以上にわたって、私が折に触れて大切に紡いできた「自分自身の歴史」であった記事が、運営側の突然の閉鎖によって、 一瞬ではかなく消えてしまったという現実は、本当に言葉にならないほど残念な喪失感がある。
そして、 「電子データは万能ではない。完璧じゃない」というのは、 デジタル時代を生きる私たちが突きつけられる、本当に重くて、本質的な真実だと思う。
便利さの裏で、サーバーが閉鎖されたり、データが消えたりすれば、大切な思い出であっても跡形もなく消え去ってしまう脆さがある。
それに比べて、紙媒体の価値を再確認した。 どれだけテクノロジーが進化しても、紙に印刷された、紙に書かれた文字や本が持つ「永遠性」と「絶対的な安心感」には、電子データはかなわないということ。
それらのことの改めて認識できた。
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