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この季節は、花粉のおかげで目が赤くても目立たなくて、安心です。 花粉症はとても辛いのですが、まさかそんなところに慰めがあるとは、去年までは思いもよりませんでした。 お参りに行っては、猫の成長をみて時の経過を思い知ります。 桜吹雪が雨のように散るのを見て、雨の季節の近いことを気づかされます。 もうすぐ一年がやってきます。 まだ、Hの唇の感触も、肌触りも、匂いも思い出せるというのに、顔も、声も、遠くなってきていることを最近気づいてしまいました。 苦しくて行けなかった店に、行ってみたらなんとか取り乱さずに過ごして出てこられることを知りました。 仕事に忙殺されてるとはいえ、容赦なく(そして無事に)時間が経ち、どんなに拒んでも少しずつ私の心を「時が解決」しつつあるようです。 解決、でなく、癒し、でしょうか。 癒されて楽になっている気はしません。 痛みに鈍感になっているような感じがします。 それを癒しというのなら、やはり時間から逃れることはできなかったのでしょう。 物理的な時間だけは過ぎても心の時間だけは止まっていてほしいと、永遠にこの苦しみを忘れたくないと、あの時どんなに願ったか知れません。 そのことは今も覚えています。 しかし「思い出す」という時点で、もう今の心とあの時の心の間に一年という時間が横たわっている、そしてそれを受け入れてしまっています。 でも、後ろめたいのです。 そのうち、この後ろめたさも解決されるのでしょうか。
先日、一つ年をとりました。そのことに特に感慨はありません。 私の時間だけが動いてしまっているということです。 Hの時間が二度と動くことは無いということです。 あと、3ヶ月で一年目になるということ、ただそれだけのことです。 忙しくて忙しくて、息つく暇も無くただ終わってしまった誕生日でした。 正直なところ、もっと辛くて不安定になると思っていました。 何も無かったとは言いません。泣かなかったとも。 でも、自分の誕生日よりHの誕生日のときの方が辛かったのが意外でした。 それは、Hを置いていってしまうという不安よりも、Hを祝ってあげられなかったことへの悲しみの方が私にとって大きく、それはまだ私がHのことを単に自責の念を起こさせる過去の人とだけ捉えているのではなく、確かに去年のその日には一緒に過ごした大事な人であったと思えている証なのではないかと、勝手に思っています。 プレゼントなんていらなくて、ただ、一緒に年をとろうという約束を守ってほしかっただけなのに。 でも、私の力と、思いやりが足りなかったゆえの結果なのだから、そんな簡単で、あまりに重い約束を守ってもらえるような私ではなかったのだから、勝手ないい分でしかないのでしょう。
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