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2007年10月18日(木) ヤッターマン3

尾崎「先程おっしゃってたように、ちょうど視聴者と作り手のシーソーが平衡になったという時だったんでしょうね」

唐沢「ある意味、エポックメイキングではないけれども、エポックではありましたよね、その転換期が。ガンダムがブームになってからが本当の意味でのメカとキャラを主軸にしたブーム、そしてオタクブームが始まるわけなんですけれども、そこに行くまでのプレの時代の総まとめというのかな、いわゆるオタクムーブメント、発言する・作品に関与してくるファンというのがどんどん出てきた時代の総まとめみたいなものがヤッターマンだったんじゃないのかな。作品ひとつひとつの、この話はどうと言ってもあまり意味がないんですね。ヤッターマンという作品の存在そのものをグロスで語るというか。そういうことでしか語れない作品なんじゃないかなとは思います」

尾崎「今度は作品の中のことに入っていきたいんですけど、つくりは時代劇ですよね?」

唐沢「そうですね。ただ、水戸黄門とか暴れん坊将軍であるとか、そういう作品は悪人は最後に必ず斬り殺されちゃうんで、名キャラクターは登場しても名悪役は登場しないんですよ。名悪役って難しいんですよね。悪役は最後にやられちゃうんで。怪人二十面相のように逃げるとか、そういうのはあるんですけれども。ヤッターマンではギャグ漫画という設定であるがゆえに生まれた悪役トリオ。僕がヤマトの活動に関わる前に作っていた同人誌というのが、「悪役ファンクラブ」という同人誌で、デスラーとかの悪役達を特集してオリジナルストーリーを作ってみたりだとか、という同人誌を企画して出したことがあって。やっぱり子ども達というのはひたすら正義の味方を応援するものですけど、ある程度成長してから見ると、どうしても悪のほうが魅力的になる。自分達のやりたいことをやってくれているのは実は悪の方だと。最後に正義の味方のほうにちょっとだけ針をふらすと、よかった自分は悪人じゃないんだとほっとできるというかね。それまでは絶対に悪役の方を応援している部分が内心ではあったわけなんで。直前に美形悪役ブームというのが起こってますよね。ライディーンのプリンスシャギーンとかコンバトラーVのガルーダとか、一連のサンライズ作品の。女の子達は男の子たちよりももっと素直に「悪でも美しいからいいのだわ」というところがあって。ガルーダやシャギーンが美しいから、という理由で、逆に女の子も自分が悪に魅力を感じるという心を、ごまかすことができるんじゃないかと。「美形だからいいわ」というような。でも、美形だからではなく、本当はストレスがたまったときにメカで街を壊したりしたらすっきりするんじゃないの、みたいなね。あるいは悪巧みをするときのワクワク感であるとか。だから、あの3悪人を見て思わず応援してしまうというのは、ギャグだからというエクスキューズはあるんだけれども、そういう部分が根底にはあるんじゃないかというのはありますね。あと、声優さんでいうと、昔の声優さんというのは個性派のひとたちがものすごく多かったですよ。どんな役をやらせても、その場を盛り上げるような芝居ができるという。いわゆる声優ブームというのは、神谷明さんであるとか富山敬さんであるとか石丸さんであるとかヒーローもののひとたちでやってきたけれども、ヒーローものよりも、やっぱり人間性を出せる役をやるひとたちのほうが魅力的であるというね。それを見ていて楽しいという、ひとつのファクターでしたよね。ベテラン声優がのりにのって乗ってやっているときの楽しさ。「ポチッとな」なんて、絶対あれはアドリブだと思うんですけどね。あれはもう日本語になっちゃいましたよね。何かを押すときには「ポチッとな」というね。アニメーションっていうのは、基本的に脚本化が書いたものを演出家の指示に従って、コマのなかで何秒という制約の中でやらなくちゃいけないというのがあるので、あまりそこに書かれた以外の芝居の魅力っていうのは出しにくい場だと思うんですけれども、そこでアレだけのものを出しちゃうっていう力ですかね」

尾崎「完全に声優さんたちが超越しちゃってますよね」

唐沢「超越しちゃってますね。逆に絵のほうが声優さんたちが喋りやすいようにしてありますよね。アドリブしやすいように。ファンよりも作り手のほうが楽しんでいる。作り手の中でも音響さんや声優さんにどんどん遊んでもらおうとしている、その遊び心というのかな。ジャズのアドリブのようなものがあるという。だから、完成度ではないんだ、その場の即興でありノリなんだというかんじで、非常にジャズのセッションに近いようなね」

尾崎「また一方で、アイちゃんとドロンジョさまという、清純な萌えとある意味女としての萌えというものが」

唐沢「ああいうキャラクターが受けたっていうのはよかったなぁ、それから先のアニメーションっていうのは、ロリ一辺倒に萌え一辺倒になっていって、大人のキャラクターっていうのが出てこなくなっちゃった、というか出しにくくなっちゃった。峰不二子とドロンジョぐらいじゃないのかなぁ。未だに若い人たちだってこの二人を語る、そういうのが好きな人たちがいますから。しかもその後継者がいないという。不幸かもしれないけど、永遠にそういう色っぽさの代名詞で色っぽい姉御といえば、という代名詞になるというね。実はヤッターマンがどれだけのものを生み出しえたのか、どれだけ後進の作品にいい影響を与えたり進歩させたのかというと、あまりないと思うんですよ。ギャグだし、ストーリーや絵についてもそんなに力を入れているものでもないし、特に70年代後半から、制作の予算であるとか放送コードの締め付けであるとかで、あまり斬新なものはできなくなっているから。それだからこそ、苦労せずに作れるヤッターマンが続いたっていうのがあるんだろうけれども。ただ楽しめばいいっていうものが、今のように話題作であるとか問題作であるとかでないと話題にならない今のアニメーション業界自体が、業界にとって不幸なんじゃないかと思うんですよね。深夜アニメという枠だから、残虐描写をしようとしたりだとか、性的な描写によって放送禁止になったりだとかという騒ぎはあるんで、そういうものがアニメーションの行き着く先だとか今生み出したものだと思うとちょっとさびしいんですよ。もっと皆でわいわい楽しくできる場というか、僕や岡田斗司夫なんかがオタクの原点といっていたのは、わいわい言っているのが楽しいんだと。わいわい言うことも含めてアニメなんだ。作品だけで考えてはいけない。それをあーだこーだ薀蓄をいうのが楽しいんだ、という理念からいうと、もう最適なものでしたよね」


2007年10月17日(水) ヤッターマン2

尾崎「作り手のほうもかなり変化しているんですかね?」

唐沢「なぜかというと、そういうことが当たり前だと思っていたファン達が成長して、今作り手になってしまったから。昔は、作り手はプロ、見るほうはファン、というそこに明確な線があったんだけれども、日本のアニメーションというのは何故この短期間にぐっと質を上げて、世界に誇れるものに成長したかというと、作り手と受け手の距離というのが非常に短かった。だからこそ、こちらの声が即作品に反映され、そしてその反映された作品の感想や批評なんかが、ネットなどを通じてすぐに全国に広まる。そういう、きわめて距離が短い、悪く言えば同じ括弧の中にファンと作り手が両方いる、という状況があるので、それが非常に作品を先鋭化してくるというのは確かなんだけれども、逆に括弧の外にいる人たちには分かりにくいものになってくるということと、パワーがなくなってくる、ということ。下駄を履かせているという安心感がある程度あるということで、とりあえず、何がうけるかというのは分かっているわけだから。今は完全に、どういう声優さんや作画監督をおさえるかということで、大体視聴率が何%かというのがわかってしまう。そういう計算も市場の成熟があるから分かっちゃうんですよね。60年代とか70年代前半というのは、逆に作るほうも手探りで作っているから、下手をすると視聴者が置いていかれるという作品が一杯あったんですよ。伝説のとか、幻の、とか言われる。混迷期にはそんな作品がたくさんあるわけですよ。ガンダムが生まれるその前に、ザンボット3だとかダイタン3だとか混迷化した作品がたくさんあって、中には何でこんなものが生まれたのか、と今でもちょっとという作品がいっぱいあります。カムイ外伝だとか。そういう玉石混交のなかから、なんとか玉だけを拾い出すっていう、玉が出るのを幸運で待っているのではなくて、なんとか、こういうのが見たいんだという声を制作サイドに伝えられないかな、という思いを僕たちはアニメの初期の頃から持ってきたわけですよ。その、作り手と受け手の両側の比重が平衡した、はかりがつりあったっていう時期が、77~78年あたりで、ここに出てきた作品でヤッターマンというのは本当に象徴的だったと思いますね」

尾崎「それはさっきおっしゃってたように、タツノコだからというのはあるんですよね、きっと」

唐沢「タツノコという、アマチュア的な好奇心とプロ的なすさまじい技術の高さ。プロというのは案外、こんなものでいいだろうというところがあるんですけれども、それを必要以上に凝ってしまうアマチュアイズムというようなものがいい具合にあったということがあるかもしれませんよね。こう言っては悪いけれども、あの頃の東映動画ってプロの集まりみたいな形で、ある意味、非常に見て驚きがないというか。安定はしているんだけれども、見て驚きがない作品ばかりだったんですよ。ところがガッチャマンって、特に最終回近くになってくると、大人向きとしか思えないような深刻なストーリーで、何しろレギュラーキャラクターのひとりが不治の病にかかって死んでしまうというあたりだとか、政治を巻き込んだりして、人間の汚さだとかを巻き込んだむちゃくちゃなストーリーになっていって、あれは大きな会社だと絶対に、上のほうから何をやっとるんだ、ということになるでしょう。小さい会社であって、ファンとの交流が近しい会社であったからこそ、こういうの! って望めば、反響が大きいからやっちゃおうってことができたっていうことでしょうね。同じようなことをガッチャマンとは反対の、重くするのではなく軽くするという方向に行ったのがヤッターマンだったんだと」

尾崎「これは書き方に気をつけなければならないんですけど、タツノコの黄金期があって、そこからI.G.とかに別れていって、タツノコっていうと今は版権で食べてるっていう感じになっちゃってるじゃないですか。その辺って、やっぱりそのあたりが仇になっているんでしょうか」

唐沢「タツノコの罪というのもあるし、逆にアニメーションの業界全体が、ファン達を取り入れつつ、作品をきちんとパッケージングするということの方面に向いてきて、完全に業界先行という形にまたなってきちゃったということがありますよね。そうすると、面白いことをやりたい、刺激的なことをやりたいという人たちにとっては、なにもできなくなっちゃうという状態ではあるんですよ。ファン達も今までわあわあ言ってる世代が変化してきて、アニメファン自体が特化して、キャラとメカとというこのふたつの方向にいっちゃって、全体になにか新しいものを求めるような第一次、プレの世代っていうのがあんまり発言権がなくなってきちゃったっていうのがありますね」

尾崎「まあ、萌えキャラであったり、ガンダムみたいなメカであったり」

唐沢「それの原型みたいなものは、ヤッターマンにもあるわけですよ。メカは毎回出てくるし、ヤッターワンのデザインもなかなか斬新なものがあるし。キャラで言うと、元祖萌えキャラといわれるアイちゃんがいますし。そういう要素っていうのはあって。もし、この蜜月時代がもっと続けば、と考えることがあるかといえば、それはあんまりないんですよ。やっぱりこれはこうなっちゃうよね、と考えてしまうわけですよ。だからこそ、あの時代に奇跡的に、他のところの系列とも似ていない、タイムボカンシリーズはあれからも続きますけど、その中のどれとも違うヤッターマンという独特のテイストが生まれたんじゃないのかなと言うふうには思います。


2007年10月16日(火) ヤッターマン1

唐沢 『タイムボカン』のように見る側と作る側が切り離されているというのは、ほぼ全てのアニメーションに通じる形ですよね。『ヤッターマン』のように、視聴者とあそこまで遊びながら作った作品は、唯一なのではないかと思います。ちょうどプレオタクから今のような後期オタクに移行する中間地点だったんですよね。自分達の存在を認めてくれる人たちが作品を作っているんだという、わくわくした喜びを持った世代だったからこそ、奇跡的にできたことだと思うんです。ただ、あまり時代に密接化してしまうと、古びるのが早いという欠点もある。今やアニメは商品ですから、あまり長く作らずに2クールぐらいで終わってしまいます。それは、再放送とパッケージングをしやすいようになんです。あまり長い作品だと再放送がしにくくて、どうしても二次使用がしづらい。だから、短く作ってまずは一纏めにしてしまうのが、一番効率的にお金を回収できる方法なんです。昔は人気があればずっと続いていたんですよね、『ヤッターマン』なんかは108週続いている。そのおかげで再放送しにくいという欠点はあるんだけれども、


ほとんど何年にもわたって、土曜日の18時半に、テレビを合わせればヤッターマンをやっているという。生活の一部に組み込まれちゃっているという形ですよね。それがあったっていうのは、サザエさんみたいな特殊なものを除けば、正義のヒーローもののアニメとしては、こういうものというのはあの時代だからこそ、アニメーションが商品としての一番能率的な・経済的な消費の仕方をされる直前のあの時代だったからこそ、ファン達もよりアグレッシブに作品にかんでくるという時代の息吹というのかな、今見ると古いんだけど懐かしくて涙が出てきますね。あの時代がよみがえって」

尾崎「今はおっしゃっていただいたとおり、1クールか2クールの作品が多い中で、時々1年やるものもあるじゃないですか。1年ぐらいあれば、ヤッターマンのようにお客さんと共にコミュニケーションしながらというアニメが作れると思うんですが、今は向こう側とこっち側で切り分けられちゃったアニメしかないというのは、見る側が成熟してしまった、ということなんでしょうか」

唐沢「成熟というのを通り越して、ちょっとすれてしまっているんですよ。ネットの荒らしのようなものですよ。ああいうふうに視聴者の声を大胆に取り入れるというのは、ある程度作り手と視聴者の間に信頼関係というものがなければいけないし、声を出すほうも「俺たちが作ってやってるんだ」と天狗になるのではなく、ただ、反映してくれているのがうれしいという、そういうものすごい蜜月の関係があったからで。今の人たちって言うのはすれちゃってますから、逆にいうとサービスしてもらって当たり前というところがある。そうなってくると、たとえば作品とブログというようなものを上手くやれば、今もっと面白いことができると思うんだけれども、グレンラガンのような例があるように、変な言葉尻を捕らえるという問題とかそういうのがあって、また、ファンがあまりにも長い間、1970年代が終わって、80年代から2000年にいたるまでの数十年間、ずっと続けてアニメーション作品が、オタクたちの方を向き続けて作品を作るというのが続けられすぎたがゆえに、ファン達が、こういうとファン達が怒るかもしれないけれども、ファンが増徴している。「俺たちによって成り立っているんだ」という。それは、正しいんですよ。オタク的なファン層があると、下駄を履かせることができるわけですよ。DVDやグッズの発売なんかで。だから、そういうような意識があって、ある種作っているほうがまさかこちらにこたえてくれるとは! というドキドキ感とかワクワク感とかハッピー感とか、そういうのがなくなっちゃってるんですよね」


2007年10月04日(木) se017

 君の望みを叶えてあげることはできない。
 そう告げたときの少年の顔を、巽は忘れられずにいる。
「だったら」
 悲愴な面持ちで、少年は深く黒い双眸を伏せる。
「だったら、誰が僕の望みを叶えてくれるんですか」
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
 巽は思わず、テーブルを叩いた。手をつけられぬまま冷めている珈琲の表面に、黒いさざなみが立った。
「分かっています」
 手元のカップに浮かんだ荒波を無表情に見下ろして、麻生貴行は小さく顎を引く。頷いたようだった。
「僕だってどうかしてるのは分かっているんだ。だけど、それ以外に何もないんです。ずっと昔から感じていた寂しさを癒してくれるのは、多分」
「何をそんなに焦ってるんだ、別に今日明日に死んだり殺したりっていう話じゃないだろう。バレずに生きていく方法ならいくらでもある―――」
「だから!」
 低く重い声音で、貴行は巽の言葉をさえぎった。
「だからもう僕は……どうかしているんでしょう」


            *


「もう俺は行きます」
 苦渋の表情で黙り込む名家の息子に、巽は静かに告げた。
 貴行の、痛みをこらえるような笑みを思い出していた。
「あの日、」



如月冴子 |MAIL

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