草原の満ち潮、豊穣の荒野
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94 草原の満ち潮   1 遺言〜Head Like A Hole

   

「...あなたの為にやるのだ」


街道に立つガレイオスの低い呟き。
対峙するは長い白髭の老人。


「不祥の弟子と言うべきかわしが至らなかったというべきか...」

「じじい!何やってんだ、そんなとこにいたらあんた...」

老人はガレイオスに掴まれ這いつくばった獣に目をやった。

「ええ、うるさい。このたわけ。情けない姿になりおって」

老人は魔獣の額を指差し一喝した。


「う...ああ、いや...ええと」


ブルーは己の体を見回すとモジモジと下を向いた。


「人喰いの記憶を怖れ、逃げてとっつかまるとは。
考える事をやめた阿呆の見本のような化け物ぶりじゃて。
ここまでバカ面の魔獣なぞそうそうおらんわ」

老人は魔獣の耳を掴んでぐいとひっぱると魔獣の頭をひっぱたいた。


「...相変わらずムカつくじじいだな。
カン違いすんな、オレはビビって捨てたわけじゃない。
死んだ連中が頭ん中でギャーギャーうるせえから収拾をだな...」

「我らの創ろうとした『戦闘種』はそんな姿ではなかったぞ」

「あ...」


「おほ、ますます阿呆面ブラ下げおった。ほっほっほ。
お前はどこまで行っても未熟なまま
命に関わる場に出てすら能天気なままとは紛う事なき阿呆じゃ」

老人は片手で魔獣の耳を掴んだままバシバシ頭をはたいた。

「やっやめっ!耳放せ、耳ー!!
ガキじゃあるめえし恥ずかしいからやめろって!いでででで」

「恥ずかしいのはお前の空っぽの頭じゃ。ホレ、空のええ音がしよる」

「コラー!!だから昔から言ってんだろ、
殴らなくたって言えばわかるっつーんだってこのくされじじい!」

「殴り納めじゃ、おとなしゅう受け取れ」

「いでーっ!!」



ガレイオスは無言でふたりのやりとりを見ていた。




「さて、と」

老人はにっこり笑うと両手で魔獣の頭を掴み、手に持ったバケツの中に勢い良く突っ込んだ。

「おぼぶろゲボオ!!」

古いバケツの中には少しばかりの水といくつかの光る石...
魔獣は思い切りそれを飲み込んだ。

「ぶは!」

そしてバケツごとバリバリ噛み砕いて飲み込んでしまった。

「ちっくしょう、じじい、てンめえ昔もこうやって....」


ブルーが喚き声を飲み込んだ。
老人の姿が透けるように薄れ始めている。

「...おい...」

更に魔獣にも変化が起こっていた。
飲み込んだ光る石は凄まじい勢いでブルーの全身を駆け巡り、彼のあらゆる想い出を脳裏に再現して見せる。
幼い頃から最近の事まで入り乱れた記憶の渦。
ひとつひとつ自覚する度に彼の体は元の人へと戻って行く。
再びベキバキと骨がきしみ全身に激痛が走る。
上半身はすでに地上へ出た時のもの。
人。
下半身だけがまだ蛇とも海獣ともつかないまま形を決めかねるようにのたくっている。

舞い散る金貨の黄金と水晶の欠片の雨、無情な都市、
すべての者がブルーを疎んだ神殿で唯一見守り教え、手を貸して来た老人。

いつも反抗ばかりしていた...


「冗談はよしてくれ!あんた戻らねえとマジで消えっちま...ギャッ」

忌まわしい食事の場面を『見た』ブルーは頭を押さえ転倒し、叫んだ。

「よせ!やめてくれ!オレは好きで喰ったわけじゃないッ!」

半透明の老人は静かな表情でそれを見つめている。
ブルーは顔を覆ったまま懇願した。

「信じてくれ!いや、あんたしかいねえんだ。だからどうか消えないで戻っ...」

彼は子供のように老人の足にすがりつこうとした。

「!」

掴もうとした手の先は空。


老人が微笑んだ。


「怖れるな。お前はもうあの頃の子供ではないじゃろう?」

「...」

「誰ひとり信じずともかまうな。
お前が一人前の男なら、正しい道へひとりでも行ける。

怖れるな」


ブルーは老人の足元の空間に膝を付き、その顔を見上げていた。
何かを言おうと口を開けるが言葉が出ない

そうだ、いつもこうだった....オレは...

目の前でさらさらと消えて行く懐かしい姿。



「ビビったらキンタマを確認するがいい、小便小僧。
それから...」


老人は真顔でガレイオスの顔を見つめると言った。


「ガレイオス、忠告じゃ。海へ戻れ」


ガレイオスが唸る。
海の老人の体はふたりの弟子の前で砂のように崩れ、消えた。


無。何もない。

ブルーは口を開けたまま固まっていた。
海の獅子はそんな硬直したブルーを無言で殴り、倒れた体を更に蹴りはじめた。
二度、三度、四度、五度...
人の姿に半分戻った魔獣は何度も骨が砕ける音を聞いていた。
ガレイオスはブルーに何度も致命傷を与えたが魔獣は死なない。何度でも息を吹き返す。
ブルーはうめき声ひとつあげない。

ガレイオスの拳が止まったのは7度目にブルーが息を吹き返した時だった。


「...貴様は海と地上を滅ぼそうと目論んだ大罪人だ。
それ以外の何者にもさせるものか」


ボロボロの半海獣男の尾を海の獅子は掴んで走り出した。
男を何度も岩にぶつけ、その度彼の腕がちぎれても止まらない。
白銀のオンディーンの待つ荒れ地へ向かって獣のように走って行く。
もはやカノンの面影はなく、得体の知れない獣の顔で
水溜まりをえぐりはねながら駆けて行く。

ブルーは逆さまに引きずられ、抜けた腕を再び生やしながら
ブツブツとひたすら呟いていた。



「何がキンタマだ...何が...くそじじい...」