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話は遠く海の底と過去に戻る。
そこにいたのはブルーや白い髭の老人をはじめとする深海に生きる人々。
誰も老人の名を知らない。
あまりにも年を取りすぎて古い時代の言葉を発音出来るものがいないのだ。
まわりの海の者達はそれぞれ年寄りにふさわしい名で呼び問題はなかった。
ただひとりを除いては。
「あのくされじじい、何しやがんだっ!」
いつものように朝は問題児の怒号で始まる。
青い髪の十代の少年。
頬に傷のある海人の学生である。かつてのブルーは
そこでオンディーンと呼ばれていた。
「わけのわかんねえもの飲ませやがって」
彼は神学校の学生だが寝泊まりは宿舎ではない。
勿論実家などもない。
孤児として遠い辺境のスラム街で育ち、少し前に
この海流神の神殿都市にやってきたのだ。
他人の片腕と血まみれの金貨袋を握りしめて。
オンディーンは安酒を飲ませる酒場の二階に居座っていた。
本来店主がそこに寝泊まりするのだが、事実上毎日やってくる酒飲み学生に占拠された。
一応手伝いという名目だが、賭博やケンカ、バカ話で
誰よりも安酒を満喫していたのはオンディーンだった。
彼は時折やって来る後見人の老人さえいなければご機嫌だった。
腕のいいイカサマ、妙な薬の調合、朗らかな放歌、卑猥な雑談....
そんな彼も寝る前にひとり戸棚から店主用の酒をちびちびと飲む時は
過去の事など思い出して顔をしかめていた。
ある夜。
いつものように盗み酒をたしなみながら彼は、ふと妙な味がする事に気付いた。
はじめは店主が減って行く事に頭に来て入れ替えたのかと思ったがそうではないようだ。
何かの薬が混入されているような味がする。
「ここの店主ならわざわざこんな事なんかしやしない。
あのじい、いったいオレに何を...?」
わけのわからない薬を無断で飲まされる程、気味の悪いものはない。
オンディーンはボトルを床に叩き付けかけてやめた。
あの老人には、いつだってタコ殴りにされてきた。
口も手もすべてにおいて勝てない。
そんな圧倒的優位な者が何故こそこそとこんな真似をする?
オンディーンはベッド代わりの長椅子に座って頭を抱えた。
朝を告げる海の光が窓を差す。
深海は本来光もない暗闇だが、彼等は海流神と呼ぶ
光の塔によって太陽のような恵みを手に入れた。
勿論辺境にはその光もほとんど届かない。
よって、中央都から離れた場所は貧困層や流れ者の住むスラム街となった。
オンディーンはひとつ不安を抱えていた。
それは自分がこの神殿都市に来るきっかけになった日の事。
始めて会った母親との絶望的な決別は、頬にくっきりと心の傷のように残っている。
そしてそれ以上に苦いのは血の味。
あの夜、はっきりと味わった。
記憶も曖昧だがひとりを殺し、ひとりの腕を喰いちぎった事だけは覚えている。
それは時が経つにつれはっきりしてくるのだ。
彼は眠る度その悪夢に苛まされる。
母親は自分を蛇蝎の如く、遠ざけ捨てた。
リラは自分を乳飲み子の頃から可愛がってくれた。
生みの親が何故あれ程自分を忌むのだ?
いったい赤ん坊の自分が何をしたというのだ。
連れていた少女の顔を思い出し彼は俯いた。
何故こんな違いがあるんだ?
彼女には自分と似た面影が確かにあったというのに.....
オンディーンはグラスに残った酒の匂いを改めて嗅ぎ、ふと思い出した。
この匂いは...そうだ、あの老人の偽りの海辺に呼ばれた時
まずいと吐き出した酒に似た...
あの時、オンディーンは老人に中央都の人間の思い上がりをなじった。
たった三人、自分と老人、そして兄弟子のガレイオスだけが辺境に赴き、
ただ事後処理をしただけだった。
それが日常的な事実だと知ってはいたが老人さえそれを肯定した事が許せなかった。
何故こんな違いがあるんだ?
たまたま生まれて来た場所が違っていただけなのに...
オンディーンは頬の傷を治そうとしない。
傷跡を目立たなくする処置くらい知っていたが彼はそれをしなかった。
この傷はモニュメントのようなものなのだ。
あの時流した血で過去とは決別した。
今でも涙と血の混じった味を覚えているけれど...
彼には決別する必要があった。
あの夜、自分は人を殺し、そして貪り喰らった。
怒りに飲まれた絶望はあまりにも理不尽な形で自分に起こった。
そうとしか考えられない出来事が確かに起こったのだ。
何故.....何故なんだ?
オレは、誰かを憎んだから殺して喰ったのか?
怒りにまかせて血祭りにあげてそれを喰ったってのか?
獣や妖魔のように?
だからオレは母親に捨てられたってのか?
だからオレは....
くそったれ!!
あの老人はそんな自分を受け入れた。
何も話しはしなかった。
このままだと自分は、再び人を喰うかもしれないと怖れている事、
人の臓物は反吐が出る程まずかった事、底の知れない不安と怯え。
惨めで血まみれの金貨....
だからオレは、区別されたってのか?
いったいどうすりゃいいんだよ?
何故?という繰り返しの疑問の答えを薄々感じながら
オンディーンは否定を探し続けた。
学問に励み、知性と対応する為の知識を求めた。
あの老人がそれを持っているから師事するのだ。
オレは、獣なんかじゃないって事を自分で証明するんだ。
オレは、優しくされたからすがるなんてみっともない真似だけはしねえ。
オレは、捨てられて泣くガキのままでいるのはまっぴらだ...
あのじじいを利用してやるんだ...
オンディーンは力なく呟くと立ち上がった。
考え事をしているうちに夜明けが近付いていた。
そろそろ神殿へ行かなければならない。
朝の時刻を知らせる鐘を鳴らす当番だった。面倒くさいのは見張り役の人魚。
四六時中付き纏い遅刻すればうんざりする程聞いてくる。
口をきくのもごめんだ。
どうせ逐一報告しているだろう。
オンディーンは不機嫌な顔で昨日の服を脱ぎ捨て着替えた。
彼は己の青い肌が嫌いでいつも長袖の服を身に付けた。
人魚達はもっと抜けるような美しい青と白銀の中間の色を持ってそれを誇りにしている。
オンディーンも海人や獣人の中では人と呼べる姿をしていた。
獣化さえしなければガラの悪そうな海人で通る。
それでも神学校ではいつも人魚達に差別された。
時には寄ってたかって暴行を加えられる。
彼等は自分が認めない存在を服従させなければ許せない。
服従するまで身体、精神、あらゆる手段で叩きにくる。
オンディーンはそれが何よりも胸クソ悪かった。
服従するくらいなら殺された方がマシだ。
己の劣等感を誤摩化しているだけじゃねえか。
他人を引きずり落とし、倒れた奴の上に立ったところでどれだけ高くなるんだ?
まだ椅子や屋根に上ってる方が利口ってもんさ。
「このボンクラクソ人魚共め」
オンディーンはいつもそう叫んで突っ込んで行った。
「クソも積めば山にもなるってかあ!」
結果はいつも数学的な現実。
ここは人魚や裕福な支配階級の子供達ばかりがいるのだ。
オンディーンに味方などいない。
圧倒的な数を敵に回せば時間の問題で叩き潰されるだけだった。
毎日。
それでも彼は薄笑いで10人程は吹っ飛ばした。
それが限界だった。
全身の痛みにムカつき罵りながら毎日『服従』に拒絶の意思を表明し続けた。
ただひとりで抵抗し続ける事だけが彼の絶対感、プライドだった。
死んでも従うものか!
彼はいつも、口をヘの字に曲げ人を寄せ付けず歩いた。
唯一彼が心を許したのは弱い存在だけだ。
それも本当に弱い者だけだ。
今、手を伸ばさなければ死ぬ程、切羽詰まった存在には
オンディーンでなくとも己を飾る暇などあるまいが。
彼は、急を要する存在にまで自分の流儀だの価値観で行動する人魚達を憎んだ。
せいぜいその空洞の頭を『知性』だの『思想』だので飾るがいいさ。
着飾って何もないみじめさを守るがいい。
どんな奴だって、死ねば汚ねえ臓物と骨にウジが沸くんだ。
そいつが何者であったかすらなんの意味も持ちはしない。
せいぜい生きてる間に誰かを引き落とし、服従させ自分を守ってるがいいさ。
オレには何もかも関係ねえ。
そんな連中に従うくらいなら、殴られて死んだ方がまだ
死に目に気分がいいってもんだ。
だが、オンディーンは黙ってその酒を飲み続けた。
その酒を飲んで眠るといつもの悪夢を見ないのだ。
いっそすべて打ち明けて老人に助けを求めようかとも思ったが
それは彼のプライドが許さなかった。
「てめえのケツはてめえで拭くさ」
オンディーンはそう呟いて神学校へ通った。
多くの事を学んだらいつかあの辺境に帰ろう。
彼は嘆いたであろうリラの顔を思い出しては書物を読んだ。
あの街は絶望的な場所だった。
だけどあそこには自分を愛してくれた人がいる。
そこへ帰るのだ。
痩せた小さな少年は急速に栄養を体や頭脳に付け成長していた。
そして口には出さなかったが、そうさせている老人にも感謝していた。
彼がいったいなんの為に自分を神殿に置いているのか真意を計りかねてはいたが。
そして成長していたのは彼だけでない事も知る由もない。
長い悪夢の種は最後に『ブルー』を糧とし、地上に花開く機会を待つばかりで...
混乱の街、ヒダルゴ。
夕刻の迫る街に立つ黒衣の男。手にした鎌の長い影は死神。
カノンが一歩進む。
「ひっ」
ブルーは後ろへ下がろうとして人々の壁に阻まれた。
「いっいやだーっ!オレ、こいつだけはこええ!」
喚くブルーを青い人間達がずいと押し出し、カノンの前に再度立たせる。
両手で頭をかばいへっぴり腰で『英雄』は叫んだ。
「皆逃げろって、オレはただのチンピラなんだ。
カノンさん、あんたもそいつはわかってんだろ、頼むからその鎌収めて...ぎゃ」
ブルーの突き出した右腕が一本数人の青い人間の頭と共に飛んだ。
死神は無言でもう一度鎌を旋回させた。
「くそったれ!」
「!」
死神の鎌がブルーの顔面直前で弾かれるように後方へふっ飛んだ。ルーの時とは違う。
それはブルーの罵倒と同時に起こった。カノンは鎌と共に瓦礫に突っ込み倒れて動かない。
ブルーはブルーで久しぶりの『声』に戸惑った。
幼い頃よく、危険な場所で使った牙以上の武器...
背後の人々が一斉に歓声をあげた。
「...冗談じゃねえぞ、カノンを怒らせりゃ逃げられるもんも逃げられねえだろ」
ブルーは落ちた腕を拾うとろくに血も流れない、まるで数日経った死体のような断面に舌打ちした。
そうだった...オレは戦闘種とかいうなんかの出来損ないだったんだっけな。
「おい全員逃げろ!今ならあの死神は寝てる。どこでもいい。この街から出て好きなとこへ行っちまえ。
ここは海なんかじゃない。ましてやあの浜辺でもなんでもない。いいかげん気付け!」
誰一人動くものはいない。誰かが叫んだ。
『やっとその時が来たのに何故逃げなければならない?
我々はどんなに時をかけても約束を果たすと言われてついてきた。
あなたはそれを破るのか』
「...オレじゃねえ。そんな約束オレはしてない」
『あなたの体の全てが我々との契約だ』
ブルーは背後にとてつもない寒気を感じ振り返ったがそのまま頭は胴体から離れ
カノンの鎌の軌道の先に転がった。
青い人間達は首のない体をこともなげに支える。
額から赤い血を流して立つカノンの方が今にも死にそうに見えた。
「コンチクショウ!」
ブルーの頭部が叫び
青い人間がひとりくずおれるように倒れ二度と動かなくなった。
その体から首と腕が血を流す事もなく転げて離れた。
ひとりの青い人間がカノンにきっぱりと告げる。
『地上の人よ、私達は最後の一人まで彼に魂を預けたのです。
あの約束が果たされる日まで私達は彼の血肉であり命であるのだ』
「.....」
カノンはふらつきながらブルーの頭部を拾い上げた。
「では燃やしても無駄か」
「うげっ」
「体ならもうひとつあるからやるならやっちまいなよ、ナマグソ司祭」
瓦礫の後ろから黒髪の女が現われた。彼女、デライラはルーの腕を掴んで離さない。
小さな青い少年は寝耳に水の表情でデライラを見上げていた。
「デライラ、てめえ人ごとだと思いやがって勝手な事を」
「うるさい、生首がベラベラ喋ってんじゃないよ!
あんたがぬるい寝言言ってるからそんな事になったんじゃないか」
「女神殿は人にしか見えないが、ブルー殿とは?」
カノンはブルーの頭部を持ったままデライラに問いかけた。もう笑ってはいない。
額の傷から流れる血は普段カノンが前髪で隠していたのと同じように顔を覆っていた。
「あたし?さあね。あたしはアルファルドの言う通りに動いてただけ。
それがなんの為かなんて知ったこっちゃないわ。有利な方へ動くだけ」
「こっこのクソ女!」
ルーは絶句してデライラを見上げている。
さっきまで一緒に逃げて行動していたのだが...
「いいこと、カノンだっけ?大きいのと小さいの一緒に始末すりゃいいのよ。
でなきゃ、あんた時間の問題で死ぬ寸前じゃないのさ。
あたしはどっちだってかまやしないよ」
デライラはドス黒い微笑みを浮かべた。
「お...おねえさん、ちょっと...」
ルーがようやく抗議する。
デライラはルーをしっかり掴んだまま言った。
「坊や、死にたくないなら闘いな。あたしはあの青い連中が気に入らないね。
さっきから聞いてりゃ何?他人任せで何もしない、バカみたいに身代わりで消えてくようじゃ
化けて出る資格もないんだよ。そこの鎌持った人間ひとりくらい皆でやっちゃえとか考えないわけ?
同じダメでもよくこんなアホなチェリーボーイなんかに任せる気になるわね」
「ちょっと待て、チェリーボーイってのは誰のこった」
「ほほほほ!他に誰がいるって?このクソ真面目そうな司祭だってあんたよりマシなんじゃない?
ストーカーみたいに小娘付け回して顔見りゃ逃げ出してどこの中学生だ」
「いっ言うなクソ女!ええい、カノン、てめえオレの頭とりあえず戻せ!あの女の口に石でも突っ込んで黙らせてやる」
「...ブルー殿」
カノンはブルーの頭部を切り離した部分にそっと置いた。
ブルーの体の傍には幼い青い子供が数人しがみついてカノンを睨んでいる。
「ありがとうよ、カノン...じゃなかったカノンさん」
「カノンでいい。僕も君にひとつ言いたい事がある」
「あ?」
ブルーの首は黒いどろどろしたものが継ぎ目を埋めるようにして固定されていく。
腕は比較的早くもとの場所に繋がった。
長い髪は切られたまま肩でざんばらに広がっているが、少しずつ元の長さに伸び始めていた。
「僕もあの女神殿の言う通りだと思う。
君達を灰に帰すのは難しくないが、それでは僕も気が収まらない」
ずいとカノンがブルーに詰めより、微笑んだ。血まみれを通り越して血みどろの微笑み。
「..........」
ブルーの脳裏では警笛が鳴り響いている。
この状態でこの男が微笑んでいるという事は...
「逃げるな馬鹿者」
「え?」
カノンは聞き返したブルーの頬を拳で殴りつけた。
もどりかけたブルーの頭部が思い切り反対に回った。デライラはひっくり返って笑いこけている。
ブルーはあわてて頭をぐるっと回してカノンの前、真正面に目を向けかけそのままわざと回し過ぎた。
「いいか、君が人だかどうかは怪しいが、その様子だと自分で考え行動は出来るらしい。
僕は魔物を滅する者だが、こんな馬鹿で臆病なチンピラに振り回されるのはごめんだ。前にも言ったぞ。
冗談じゃない。いったい何人死んだと思ってる?
僕の鎌で首を飛ばした者はもう戻らない。
自らの意思を奪われ魂も失った者だけを僕は刈り取るのだ」
「オ、オレは...」
「うるさい。君が意思を持っているとわかった以上責任を取れ」
「せ、責任ってそんな...」
カノンはもう一度ブルーの顔を殴ってフラついた。
デライラはルーを鷲掴みにしたまま薄笑いでやり取りを見ている。
「ははん。あの司祭もよく言うわ。自分の限界知ってるわけだ」
「え?」
「坊や、ああいうのを駆け引きっていうのよ。よく覚えときな。
カノンはもう何も出来ない。さっきも言ったけど死にかけだよ、あいつ。
ブルー達を抱き込む以外に手はないってこと。
どう?あいつをやっちまうなら今、ほっといても死ぬだろうけど
じたばたされちゃこっちも怪我するかもね」
「お...おねえさん」
「デライラよ。どうすんの?あたしはどっちについてもいいけど
出来れば辛気くさい青い連中じゃない方がいいわね。
カノンを味方に付けて奴ら掃除しちまうのも手。
どうせどっちも皆運命だ何だで縛られてるアホだからどっちだって同じようなもんさ」
ルーは困ったように下を向いた。胸の銀細工に触れる。
「...思い出さない方が良かった....」
「何よ?」
「うん...なんでもない」
「..........?」
ルーは全てを思い出していた。
気が遠くなるような長い時間の彼方の事を。
この場で一番すべてを知る小さな青い少年。
ブルーの幼少期によく似た風貌で彼は呟いた。
「こうなっちゃいけなかったのに....」
少年はカノンに押されてしどろもどろのブルーを見た。
償う為にぼくはブルーの記憶だけを持ってあとは封じたのに...
少年の脳裏に白髭の老人の苦しそうな笑顔が浮かぶ。
そしてもうひとり。
その顔は恐ろしく歪んで白髪に近い銀の髪を持っていた。
彼は暗い深海の黒に限りなく近い青の瞳で笑っていた。
「カノンに...いや地上の人達に付こうよ、お姉さん」
デライラは、鼻で笑うとカノンの周りの青い人間やブルーを蹴り倒し、カノンをそのまま拉致した。
少年があわてて追うのをブルーは蹴り倒されたまま唖然として見ていた。
カノンが意識を失ったのと同時に銀棍から白刃が消える。
「さっさと手当して休ませないと死ぬね、こいつ」
楽しそうに笑いながらデライラはカノンを引きずって走る。
少年は後ろから支えながら苦笑いしていた。
そしてその頃、街の外れではナタクが何度も同じ道に戻ってしまうと訴える
少年と中年女を比較的青い人間の見当たらない場へ隠れさせ空を睨んでいた。
「まったく...外へ出さんよう囲うとはどれだけごつい鬼じゃ、っちうねん」
空は不自然に歪んで夕陽を乱反射させていた。
ブルーは空を駆けた。
黒い翼、赤く燃える小さな胸の焔。
青空を高く高く突き抜けながら彼はいつかの夢を思い出した。
あの星だ...
空の巨大な獅子の胸に燃える心臓星。
地上ではそれをレグルスと呼んでいた。
何故オレは鳥なんかの姿をしてるんだ?
オレはなんにでも願った姿に変わる事が出来る。
急いでいたから鳥のように飛べと思っただけだがそれなら獅子にだって。
幼い頃に憧れた空の王だ。
誇り高く、孤高にして揺るがない。
あれならどんな辛い事も飲み込んで立っていられる。そう信じた。
ブルーは獅子を脳裏に描いた。そうだ、青の空に駆けるのなら白い獅子でもいい。
彼は念じてみた。変われ、と。
「.....」
何も変わらない。黒い鷲はまっすぐに飛び続けるのみ。
「ちっ」
まあ、いいとブルーは目指すヒダルゴへ目を向けた。
「ん?」
目前に青い光と赤い光が浮かんでいる。
街の上空に唐突に現われたそれはブルーの行く手を遮るようにあった。
「なんだ、こりゃ。..げ!」
赤い光は突然ブルーを飲み込むように膨張し、間抜けな黒い鷲はあっという間に
光の中へ踏み込んでしまった。
.......見るがいい。...を持つ者よ...
ブルーの脳裏に声が響いた時、彼は自分が地面に立っている事に気付いた。
足元は火が燃え....
「あぶない!」
ブルーは思い切り何かに突き飛ばされて吹っ飛んだ。
なに..オレはこんな...
彼は口から血を吐きながら地面に叩き付けられる寸前、滑り込んだ黒衣の男に抱きとめられた。
目の前に巨大な黒い獣が金色の目を三日月のように光らせて舌なめずりをしている。
ブルーは口を開こうとしたが首ががくりとありえない方向へ曲がった。
おかげで彼は自分の体をよく見る事が出来た。
小さな手足。あちこちが焼け折れた無惨な子供の骸。
「くっ...」
その滑り込んできた男は骸を地面に置くと黒い獣の前に立った。
右手には長い銀色の棍。
...どこかで見たような...
「ヴァグナー!戻れ!」
まだ若い声でその男は獣に絶叫した。
黒い獣は多すぎる腕と足に長い爪を血で彩っていた。
その血はそこらに転がる人間達のものだ。血と内蔵の匂い、そしてそれが焦げる嫌な悪臭。
獣は魔獣と呼んだ方がふさわしかった。耳まで裂けた口から覗く歯は人間のようだった。
黒いたてがみは人間の髪のようにも見える。
そして魔獣は金の目から血の涙を流した。
「ヴァグナアアアアア!!」
黒い魔獣は若い男に凄まじい勢いで腕を伸ばした。
明らかに殺す意図を持って。
男はその腕の中へ銀の棍を握りしめたまま突っ込んで行った。
ブルーは骸の目でその横顔を見た。
.........カノン。
「クソ間に合わんかったか!」
正面衝突するように向き合い止まった魔獣と若い男の姿を見て駆け込んで来た男が呻いた。
魔獣の背中から銀の棍が突き出し赤い血に染まる。
「...浄火...」
若い男が絞り出した言葉。
一瞬で魔獣は焔に包まれ崩れ落ちた。
僅かに焼け残った灰に何かが落ちて光る。
ひしゃげて焦げ、変型した護符のような銀。
「うっ...うっ」
若い男は膝を付くと地面を激しく叩きながら慟哭した。
ちょうどブルーの骸の目の傍で何度も。
血が流れ出しても彼は拳を地面に叩きつけるのをやめなかった。
彼は言葉にならない言葉を狂ったように吐き続け転げ回った。
「カノン、もうやめえ」
後から来た男がそう言って彼の血まみれの腕を掴むまで。
「俺が悪かった。すまん、すまんかったなあ」
男はカノンの鳩尾に突きを入れ、動かなくなった彼を肩に担いだ。
黒い丸眼鏡にざんばらで放り出した白い髪。
ぞんざいに染めた黒でまだらになっている。
彼の後ろで何人もの子供たちが固まって泣いていた。
彼等だけがかすり傷以外見当たらない。
子供たちは死んでいる子供や大人達を見て泣き叫んでいた。
「許してくれなあ...カーくん...
ヴァグは俺が頼まれとったのに....」
ブルーはこの男がナタクだとすぐわかった。彼は全く変わらない姿だったのだ。
ナタクはあたりの骸を集めて火に入れて焼いた。
ブルーの目が宿った子供の小さな骸も火に入れられた。
なんだったんだ?今のは。
ヴァグナーって確か....
ゴボ。
ブルーは火に入った瞬間水中に沈んでいた。
「ここは...」
全身が痛い。
さっきとは比べ物にならない激痛が彼を襲った。
岩と岩に彼は挟まって埋もれていた。
手だけが辛うじて出ているのを誰かが必死で掘り出そうとしている。
こんなひどい痛みがするのはまだ生きているからなのか?
あまりの痛さにブルーの意識は混濁してきた....
「これは....」
眠るように岩と瓦礫に埋もれていた幼い児。
傷がほとんど見当たらない。
まるで生きているような......
「...生きてる!生きてますよ。この子は!!」
白銀の男が振り向いて叫んだ。
子供の胸から鼓動を聞いたのだ。
黒い男は一瞬呆然としたあと、眉間に深い皺を
刻んで眺めた。
その子は眠っている。体のあちこちに深かったであろう
傷らしきものが残っていた。
いずれも薄く、一見無傷にすら見えていた。
「....再生種か」
黒い男が立ち上がる。ゆっくりと白銀の男に
近付いて行く。
「刻んで焼き払うしかないな」
「...........」
白銀の男が子供をかばうように後ろへ隠して下がった。
黒髪の男はゆっくりと何も待たない素手を差し出した。
「渡せ」
「渡さない」
その顔は何かを決意したかのように
黒い男を見ていた。
黒い男はまたか、と頭を振り問うた。
「失敗を認めるべきだ。過ちを償うのは残った者の
役目ではないかね?」
白銀の男はその問いにまっすぐな視線を返す。
断固とした拒否の色が浮かぶ。
「犠牲をこれ以上増やすな。
失敗したんだ。もうここで終わりにしろ」
「この子に可能性が残されています。まだ
諦めるべきじゃない」
微動だにせず、子供の前に立つ白銀の男。
その目は穏やかながら、確信と怒りが浮かんでいた。
「何人死んで行ったと思ってるんです。
失敗の名の元に処分され、化け物扱いさえ
された彼等がこのまま化け物のまま
葬られるのは絶対許さない」
「地上への夢はもう潰えた。
お前とてずっと見て来てわかっているはずだ」
「それはこの子が死んでいたらの話です。
この子は生きている。しかも己の生命を
補って生きる力を授けられた。
これこそ私達が求めていた..」
「この様を見てもそう言い切れるか?」
黒髪の男は転がる死体とかつて研究施設だった
残骸を顎で差した。
「あの若い娘もそうやって安心した矢先に
魔獣化したのを忘れたかね。
老人も、子供も、若者も
何人がどんな姿に変わり果て
この惨状を引き起こしたか忘れたか?
我々が出来たのは『女神』を護る事だけだった。
この塔を護り、彼等に安息を与える事しか
残ってなどいない」
白銀の男は一度だけ下を見た。
足元に転がった死体の半分は集められた人々だった。
黙とうのように目を閉じ彼は再び顔を上げた。
「覚えていますか?」
白銀の男はひとつの童話を諳んじはじめた。
むかしむかし、南の浜に
特別な椰子の木がはえていました。
その木はまっすぐ
月に向かってはえていました。
一本だけの神様の木で
月や星をひとやすみさせるために
はえている木でした。
それはとても高く
空にむかってのびていました。
月や星はその枝に腰掛けて、こっそり
ひとやすみしては
夜空へ登っていったのです。
ある夜、ひとりの少年が月をさわりたくて
木に登ろうと思いました。
とても高い木です。なんにちもずっと
登り続けなければなりませんでした。
少年はとうとう力尽き、下に落ちました。
まっさかさまに落ちて行く少年を
風が吹き飛ばし
その体は海へ落ちて
沈みました。
黒い男は聞きながら表情を歪めて言った。
「どけ...。過ちは償わねばならない」
「いいえ。こんなことは償いなんかじゃない。
理不尽な悲しみには怒るべきだ。
抵抗すべきだ。
諦めてまだある命を絶つのは間違っています」
「その子を誰が保証するというんだ」
黒い男がイラついた声で問う。
「それが我々の仕事ではなかったか」
静かな声。はっきりと白銀の男は答えた。
「死んでしまった彼等こそが犠牲だ。
集められた人々は昔話を信じて自らやってきた。
空へ、南へ行こう、と。
遥かな地上へ。
遠く、道は長いけれど、誰かが行きつけば
あとに皆が続いて行ける、と。
そう皆が信じたからこそ彼等は身を投げ出して
実験台になったのだ。
地上で生きられる強い抵抗力、身を守り
荒野を切り拓く強い肉体と精神力。
困難を乗り越えて導く海流神のしもべ。
その誇りを彼等は命と代えたはずだった!」
「もう夢は終わった。無理だったんだ....
このまま引きずれば犠牲を増やして行く。
それがまだわからないのか。
俺だって好き好んで処分してきたわけじゃない。
最後の通告だ。
..................渡せ」
白銀の男は首を振った。
黒髪の男の手が彼の喉元に近付いても。
「あなたの選択は間違って...」
白銀の男は最後まで言葉を続ける事はなかった。
ゆっくりとその頭部は後ろに
赤い血を噴き上げながら海流に流されて行く。
黒髪の男の指先はその細胞配列を変え
固く鋭い刃となってその言葉を永遠に断ち切った。
頭部を失った体はゆっくりと崩れ落ち...
....おのれ...おのれ...裏切るのか、女神よ、いや信じた全てが..
人の願いを踏みにじり、笑顔を奪い、失敗の償いを負わせて殺したのか...
流されてゆく白銀の男の頭部は血を呪詛に海流に流した。
愛していた。人々を。
信じていた。海流神と未来を。
今はなくとも明日の為に願いを叶えようと挑んだ筈だった。
集めた人々から犠牲が出る事は覚悟していた。
しかしこれは違う!
責任のすべてを血で誤摩化し屍の上に未来を積むというのか。
我々は誰かが笑う日の為に命を捧げたのだ。
これでは誰も笑うものなど
だれひとり....
ただのひとりも!!
在ったのは悲鳴と絶叫と絶望だけだったのか?
転がる生首は何億回もその疑問を繰り返した。
笑ってくれ...誰かお願いだから笑って今日を明日に繋いでくれ....
たったひとりでもいいから笑って命の代償を彼等に返してやってくれ...
ああ、だれか...お願いだから...
小さな子供は目を見開いた。
彼は笑い始めた。
ただひとりの小さな生残りは慟哭する男の傍で笑い続けた。
その子供はブルーと同じ顔をしていた。
そして横にいる黒い髪の死刑執行者はやがて白髪になった。
嘆きの果てに深く刻まれた皺は恐ろしい早さで彼を老いさせた。
しかし子供は笑い続けその願いを呪いに変えた。
老人の姿のまま死ぬ事が出来ない。
奪われたおびただしい数の命が子供と老人を生かし続けた。
生首は海中に呪詛を吐き散らし海中の命を掻き集め呪いに変え続ける。
いつしか白銀のオンディーンと呼ばれた若い男はなんの為だったかも忘れた。
彼は怒りと憎しみと悲しみで命を喰らっては種を蒔き続けた。
ブルーの父親にもその種はいつしか巣食い.....
ブルーは笑いながらようやくすべての真実を知った。
自分が地上へ出た理由、老人に出会うまでは別の人生で生き、死んだ。
しかし深い呪いはその命を飲み込み、小さな子供に注ぎ込んだ。
全ては地上へ出る為に。
かつて夢見た日を叶える為に...
ブルーはそれを叶えるまでは死ぬ事がない。
彷徨い、掻き集められた魂が願いを叶えるまで生きなければならない。
...そうだ。ルーは笑い声で人の傷を治した。
この小さな子供の姿をした魔獣。
オレはこいつに喰われたのか....
オレは片腕の野郎に騙されたあの日、死んでいたのだ....
ブルーは突然空に引き戻された。
彼の脳内におびただしい数の声が流れ込んでくる。
どの声も生きたい、生きたいと悲痛に叫んでブルーを混乱に陥れた。
「やめろ!やめてくれ!オレは何も見てない!知らない!何も...」
黒い鷲は真っ逆さまに落下して行った。
下はヒダルゴの街。
落ちて行きながらブルーはつきまとって笑うバカな子供の目が
本気で笑ってはいなかったのだと気付いてしまった。
老人は何故オレとルーを分けたんだろう...
それだけがわからない。
何故あの似た顔の男は.....ブルーはその疑問を理解した事を認めない為に思考をやめた。
思い切り頭から地面に激突する事で思考停止を試みたが
彼は大きなこぶを作っただけでその考えから逃れる事はできそうになかった。
目の前でカノンが鎌を振るうのが見える。
「別人みてえだ...」
ブルーは頭を振ると人の姿で立ち上がった。
いつの間にか回りには青い肌をした人間達が集まってブルーに手を伸ばした。
ひとりの若い女が駆け寄りブルーを抱きしめる。
『待っていました。さあ、連れて行って。
私達をあの浜辺へ』
カノンがこちらを向いた。
眼鏡は飛び、赤と氷青の瞳を見せたまま。
「どうしろってんだ....」
ブルーは青い人々を従えるような格好で立ち、カノンと向き合う羽目になっていた...
夕刻が近い。