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ルー、青い髪と肌の子供はいつも笑っている。
生まれた時から他の感情すら知らないように
いつもにこにこしていた。
時折年上の少女達にからかわれても彼は笑った。
普通に話す事を学んでからも彼は口数少なかった。
彼の通う神殿のとある教室。
そこにはいつも鳥達がやってくる。
窓辺から見える木々や緑は豊かに茂り、神官達は不思議そうに
眺めては通り過ぎて行く。
ルーをからかう少女達も彼に近づいて声をかける事で
気分が軽くなるのを感じていた。
彼を頭の足りない子供、と密かに呼んでいた中年のある司祭も
ルーと目が合って笑いかけられると持病の偏頭痛が止んだ。
カノンは毎日それを見ていた。
手隙の折にはわざわざその教室の傍を通る。
授業が終わればそれとなく帰るルーを見送った。
そんないつもと同じ午後。
空は新緑の季節にどこまでも青い。
「司祭様、さようなら」
「ああ、気を付けてお帰り」
少年少女やもう少し小さい子供達が街へ戻ってゆく。
ルーも最近はブルーが迎えに行かなくてもひとりで帰っていく。
見た目はまだ少年と子供の中間にいる背の低い『子供』。
胸に青い焔を燃え立たせている以外はカノンの目にも普通に映っていた。
相変わらず素性も何もわからないままだったが。
「ルー君、君も気をつけて帰りなさい」
カノンは見慣れ始めた姿にそう声をかけた。
「....」
「ルー君、何かいるのかい?」
彼はぼうっと木を見上げて立っている。
鳥が騒がしくさえずるその木は豊かな青葉が揺れていた。
時折、風や飛び立つ鳥にこすれ合った葉が音を立て
それを見上げているようでもあった。
「あ、司祭様」
ルーはようやく振り返るといつものように満面の笑顔を向けた。
カノンにも『それ』は心地良い。
「珍しい鳥でも来たのかな」
木を見上げるカノンにルーは手を大きく振って駆け出して行った。
「また明日!さようなら、司祭様」
「バカ!あぶねえだろ!前見て走れ!!」
カノンの耳にやはりここ数日馴染みかけた声が飛び込んできた。
「オレは荷物が多いんだ!
まったくクソガキ共は考えなしで突っ込んできやがる」
司祭は溜め息と共に眼鏡を指先で押し上げた。
「...ブルー殿、毎日ご苦労だね」
「あ、こりゃお出迎えですか。あんたほんとに親切だね」
「そうじゃなくて...」
神殿の行きは上り坂。頭からブ厚いマントだかボロ布だかを被った
青い男が両手に抱えた大荷物を下ろした。
「こいつが割れたらどうしてくれんだ。やっと最後だってのに」
「...本当に50本運んで通うとは君もマメだね」
「祭り用だかなんだか知らねえけど、やたら飾りつけやがって
一度に運べる量が少ないんですよ」
ブルーの言う通り、果実酒の入った瓶には一本一本
小さな馬の硝子細工が施され少しでもぶつけたら壊れてしまう。
ひとつひとつ緩衝布で包み、両手に抱えて坂道を往復するのだ。
子供達が元気良く走り抜ける度、この臨時の酒屋は怒鳴り散らした。
「少し持とうか」
「いや、あんたは祈ってくれりゃいいんです。
ってか、カノンさん、あんた重いもんなんか持てねえんじゃないか?」
「君はどこまで悪気があるのか判断に苦しむよ」
「なんかオレ、悪い事言いましたかね?」
「いや、別に」
ブルーは一瞬考えたあと少し声を落として言った。
「もしかして痩せを気にしてるとか?」
「.....」
どちらかと言えばブルーの方がカノンより背が低いものの
基本的にがっしりして見える。
それは古風な司祭服をきっちりと着て露出もほとんどないカノンと
そのへんの適当な服やボロ布をひっかぶり室内では腕まくりどころか
酔っぱらいと力比べに興じているようなブルーとでは
身体特徴以前の問題でもあったが。
「デブよりいいですよ。ありゃヤセより体力ねえし、喰う量は多い。
まあ、そりゃ男ならさ、筋肉くらい少しはあった方が女にゃ
受けがいいってのは確かだけど、あんた聖職者だろ」
「...君はまだ潜在的に悪意を持っていないか?」
「失礼な!」
「どっちが失礼なんだか」
カノンは人差し指で眼鏡を押し上げ、少し不機嫌な目をごまかした。
どうも彼はこちらのペースを崩してくる。
まわりから慇懃無礼を影で囁かれるカノンにとってブルーは
そのポーカーフェイスをまともに覗き込んで来るような節があった。
そもそもカノンの前で愛だの恋だのバカ丸出しで晒すような
無防備な人間はほとんどいない。
彼に面と向かってタコと言える人間もナタクやごく一部の人間だけだ。
...にしてもブルーは無防備にも程がある。
カノンは話題を変えた。
「ブルー殿、それはいいとして、最近はルー君も
すっかり馴染んで君も安心したかい」
「あ.....ああ。あいつね。
うん、そりゃ願っても無い。
まわりのジャリ共とうまくやってくれりゃ何よりだし」
ブルーはボロ布越しに空を見上げた。
まともに見上げればまた日差しを浴びて面倒な事になる。
「あ....」
「?」
ブルーの視線の先には別に何もない。
ただ青空が広がっているだけ。
「どうかしたかい」
今日二度目になる問いかけをしている事に苦笑いが出る。
見た目も同じならやる事も同じなのか。
「あのさ...」
「うん?」
ブルーは何か言いかけてそのまま頭を振った。
「いや、なんでもない。
じゃ、オレ酒を祭壇に持って行きますよ」
彼はボロ布の奥に亀のように首を縮めると
すたすた行ってしまった。
「やれやれ...」
カノンは溜め息でそれを見送った。
下り坂。
ブルーは口笛まじりで下ってゆく。もうすぐ新緑祭だ。
あの娘を近くで見られる。
ブルーはあの娘が女神に決まったのか確認する事すら、頭になかった。
彼にとってあの娘以外が女神をやるなどという事はあり得ない。
確かめる必要などないのだ。
まだ夕方には早い。なんとなく彼は立ち止まってあたりを見回した。
「....」
誰もいない。
口笛はやみ、ブルーは肩を落とした。
この前、すれ違った場所で彼方を眺める。
何処にもあの姿は見当たらなかった。
「ふう...」
用心深くボロ布をほんの少し上げて彼は空を見上げた。
少し雲が出た青空。
空の青と雲の白。
遠くで風が並木を揺らして過ぎる。
懐かしい風景。
寄せては返す波。
沖へ向かい、浜へ寄せる波の先は白い。
海の青と波の白。
「...娘さん、こいつがあんたにゃ
どう見えるんだろうね....」
ブルーはボロ布を無様な亀のように被り直すと街へ歩いていった。
時折街人が通りすぎるが誰も彼の想いを知る者はない。
その頃。
日が暮れはじめ、風がやや強くなった神殿の庭園を
歩いていたカノンが立ち止まり、木々を眺めていた。
ざわざわと豊かに茂った『特別』な場所の緑が揺れている。
ルーがいつも通り抜け、笑い声を振りまく小道。
カノンはふと思った。
波の音によく似ている、と。
商業都市ヒダルゴの朝。
ブルーはいつもの宿にはいなかった。
彼は昨晩、よく行く森の泉に沈んだまま朝を迎えた。
正確には一晩中ぼうっと月を眺めていた。
朝日の気配にようやく彼はのろのろと岸辺へ這い上がり
朝早い掃除人に悲鳴を上げさせた。
「ああ、驚いた。あんた水死体かと思ったじゃないか」
「...すんません。
見ての通り生きてるし怪しくもないですよ...」
びしょぬれのボロ布を頭からひっかぶり半開きの目でブルーは歩き出した。
泉の傍にある公園を抜け街路へ出る。
この道は二股に分かれていた。
ブルーはしばし考えながら両方を行ったり来たりした挙げ句座り込んだ。
何度目かの大きな溜め息。
寝ても覚めても脳裏に焼き付いて離れない面影。
風に翻った長い銀髪。金色の瞳。
淡く初々しい桜色のドレス。
「...名前なんつったっけ...」
座り込んだままブルーは石畳を眺めた。
彼の耳は何も聞かなかった。
思いがけない娘の姿に見えない手が彼の耳を塞いだ。
見開いた目は己の願い以外映さない硝子玉。
例え相手がどんなに大股で走り抜けて行っても彼の脳裏には
特殊なフィルターによって修正された姿しかない。
「....可愛かったなあ....」
ブルーは密かにいつも持ち歩いているハンカチを取り出した。
娘が自分の為に差し出した布切れ。
ひどく汚れてしまったものを何度も洗ってそのまま持ち歩いていた。
使うわけではない。眺めては仕舞うだけ。
絵に描いたようなアホ面でブルーはハンカチを眺めては溜め息をついた。
どうせ叶うわけもない。
自分はロクデナシの詐欺師まがいの商売人で、相手はまっとうな街娘。
しかももうじき自分はこの街を出て行く。
声をかける気もなかったし、ただ見ていられたらそれで良かった。
...はずだった。
「女神とか言わなかったか?もしかしたら....」
ブルーは急に立ち上がると急いで酒場の宿へ走り出した。
あのパン屋とは反対の方角。
「お前明け方まで一体どこで遊んでたんだ?」
ルーの食事を揃えながら店主がブーイングで迎える。
「馬祭りっていつだ?」
「熊祭り?」
「クマじゃねえ、ウマ、馬。
えーとなんかが馬にのってうろついてだな...」
「馬鹿かお前。そりゃ『新緑祭』だ」
「なんでもいい、だからそのなんかで女神が出るっていつだよ」
「来週末だ。なんだお前興味あるのか」
「そ..そりゃ女神が拝めるってんなら見たいよ」
「その女神なんだけどな、デライラも出るんだそうだ」
「.........」
ふたりの男は顔を見合わせると同時に溜め息をついた。
ルーはにこにこしながらスープを飲んでいる。
「想像つくよな。あいつがどうやって女神になったんだか」
「ありゃ女神というよりあばずれ馬だな」
「......やっぱ見るのやめようかな。あんな女神、オレは見たくない」
「誰があんな女神だって?」
「うぎゃ」
噂の主が黒衣のドレスで仁王立ちしている。
足は腿まで割れたスリット、コルセットで過剰に絞られた細いウエスト、
生地は透けた蜘蛛の巣状レースを重ね、女神と言うより森の魔女。
「朝っぱらからお前濃いよ」
「うるさいわね。新緑の女神になんて失礼な事言うのよ。
全くねんねや年増ばっかでどうしようもないからあたしが出てやったのよ」
「男を喰い殺す死神女だな。ルー、喰ったらあっち行きなさい」
「この親父殺していい?」
「オレに聞くな」
酒場の店主はルーを連れて行く振りをして難を逃れた。
爽やかな朝の酒場、誰もいない店内にはボロ布を被った怪しい男と
派手な鴉のような女。
「...と言うわけで悪いけど例の予定は祭りの後にしてちょうだい」
「はあ?」
「女神は忙しいのよ。
これからこのあたしにふさわしい馬を選ばなきゃならないし」
「へっ、『馬並の』なんとかだろ」
「朝から下品な事ばっか言ってんじゃないよ。このファッ○○野郎」
「...お前女神ん時、口開かねえ方がいいぜ」
「なんですって?」
「だからさ、あんた黙ってりゃ美人だ」
「...黙ってなかったら?」
「男が全力で逃げる」
酒場の店主が戻って来た時、『黒い女神』はいなかった。
股間を押さえてブルーがひとりのたうち回っているだけ。
「はっはっは。若造。お前はへらず口が多いんだ。
人生経験がまだまだ足りんな」
「くそっ!あの猛禽女!!なんであんなのが女神になんだよ!」
「まあ、女神は数人選ばれるからな。ありゃ番外ってとこだろ。
新緑なんだからもっと初々しい娘が選ばれてるだろうし心配するな」
「...............」
のたくって悪態をつきまくっていたブルーが静かになった。
「どうすりゃ女神に会える?」
「そりゃあ祭りを観に行くしかないだろ。
女神は期間中花を配って歩く事になってる。
お前も運が良けりゃ初々しい女神から花が頂けるってもんさ。
ただしお前みたいな奴が街中山のようにいるから競争率は高いぞ」
「なんとかならないか?」
「なんとかしたいか?」
酒場の親父はにやりと笑うと会期中、酒の納品人を確保した。
「奉納する酒を運んでだな、休憩中を狙うことだ。
あ、但し酒は神殿で祝福を受けなきゃならない。ちょうどいいから
これから持ってって頼んで来い。数本じゃ無理だぞ。
たっぷり運んでだな、機会をものにするんだ」
「.....なんか納得が行かねえんだけどな」
「嫌なら人ゴミの中で遠くからちらっと見てるんだな」
「やる、やる。やります。やらせて下さい」
「じゃあ、ルーとこれから神殿に酒持ってけ」
「神殿......」
数時間後。
渋面をした黒髪の司祭が酒を受け取り、溜め息まじりに言った。
「...で、全部でどのくらいになるのかな、ブルー殿」
「50本ばかりお願いできますか」
「普通はもう少し、少なくてもいいんじゃないかい?」
「信仰の証に多いも少ないもありません」
「...君は正式な儀式も受けてなかったと思うのだが」
「今受けます」
「...いや、わかった。とにかく残りの分も持って来なさい。
まとめて祝福の儀式を行うから」
「面倒だったら形だけでいいですよ」
「...ブルー殿」
「あ、いや、だからこっちも仕事なもんで生活がかかってるんですよ。
ガキひとり面倒見なきゃなんねえし、頼まれものだから断れない。
悪事に使うわけじゃねえし、なんとかお願いします」
「使われてたまるか。
君にはあまり関わりたくないんだよ。
事情も害がなければ何であろうとかまうつもりはない。
例え小物の悪党でもね。
ただし目の前でおおっぴらにやられるのは迷惑だ」
ブルーはいささかムっとした顔になったが、おもむろに懐から何か取り出すとカノンに差し出した。
「これでお願いできないですか」
ブルーの手には以前会った時、差し出して突き返された獣皮があった。
貴金属や眼鏡を磨くなめした鹿の皮。
「こういう事は不要だと以前断らなかったかな」
カノンの声色が硬い。目も少し険しく細められている。
「あのさ、オレだってあんたに頼みたかないよ。それでも必要があって頼むんだ。
やってもらえりゃ相手が誰だろうとありがたい。
勿論あんたがオレを嫌がってるのは承知だし、その上で頼み事するってんだからさ
手間かけさせりゃ悪いな、くらい思うよ。それ以外なにもねえよ。
それでも文句あんのか?」
「...頼み事にしては少し納得行かない物言いのような気がするんだが」
「うるせえ!頼むからやってくれ。オレは困ってるんだ。
あんたがやってくれたら感謝する。あんたの邪魔もしないし迷惑もかけねえようにする。嫌いなのもなんとか努力する。
口で言っても仕方ねえから手土産持って来たんだよ。このタコ。
こいつはこれでけっこういい品なんだ。あんたのその眼鏡やらあのクソったれな銀の棒だってこいつならピカピカだ。
とっとと受け取ってくれ」
「....タコと言われてなんで頼まれなきゃならない」
「ああ、わかったよ。もうあんたにゃ頼まねえ。
人の恋路を邪魔するクソったれは馬に蹴られて海に沈みやがれ!
ちくしょう他の奴探すからもういいよ」
「恋路?」
「あ」
ブルーが頭を掻いた。
「勘弁してくれよ....
オレは祭りの酒の準備をしに来ただけだってのにさ。
もういい、帰る」
カノンが眼鏡を指で押さえてふむ、と呟いた。
ブルーはすごすごと見るからにしょぼくれて司祭室から出て行く。
「待ちなさい。手土産を自分で持って帰ってどうする」
「!!」
カノンは仕方ない、と酒を祭壇に運び始めた。
「あ、あんたいい奴だ!」
ブルーは駆け戻ってカノンの手から酒瓶をひったくると
代わりの土産を押し込み、奪い取った酒瓶を丁寧に祭壇へ並べた。
「そいつは極上のセーム皮なんだ。宝飾品を磨くのにも使える。
なんなら飲みに来てくれりゃおごるよ。ほんとに助かった。
今まであんたにゃ悪い事言っちまったのは勘弁してくれ。
あんたを誤解してた」
ブルーが一気に捲し立てる。
「....?」
カノンは自分の手に押し込まれたものが普通の白いハンカチである事に戸惑った。
彼は獣皮だと言ったし、さっき見た物と違う...
「ブルー殿。これは一体...」
「うわっ!これじゃない、こっちだ!」
ブルーは自分の『宝物』と『手土産』を間違えて渡した事に気付くと
猛スピードで取り替えた。
顔は耳まで赤い。ひったくったハンカチを彼はうろたえながら仕舞い込んだ。
「そういう事か...」
カノンはおおかたの見当をつけ苦笑するしかなかった。
祭りには女神が出る。恋路だのあの態度のかわりっぷりはそういう事か。
どうでもいいにも程があるが。
「カノンさん、よろしく頼みます。残りはまた明日持ってきますんで。
今度ぜひナタさんと飲みに寄って下さい。歓迎します」
ブルーは別人のようにカノンに頭を何度も下げながら帰って行った。
「歓迎か...」
彼があそこまで態度を変えるとは。人の恋路など全くもって興味はなかった。
しかしあそこまで変えさせてしまう相手に驚愕するやら呆れるやら、複雑な気分でカノンは眼鏡を磨いてみた。
数分後、ぴかぴかに磨き上げられた眼鏡と銀棍に
少しだけ彼は気分が良くなった。