草原の満ち潮、豊穣の荒野
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37 母と娘と兄〜遠くへ

「騙したのね!」

人影の消えた街外れで娘が叫んだ。


「親子揃って面白いくらいに引っ掛かりやがる。
どいつもこいつも」

片腕の男が笑いながらもうひとりの女を引きずり出した。
娘より年輩の人魚。
心そこに非ず、の佇まい。


「母様...」

人魚の娘は母を見て顔を伏せた。

「行方知れずの母親に会えたってのに薄情な娘だ。
お上品な連中には気狂いは死んでくれたほうがマシなんだろうよ。
ま、約束は守ったぜ。その後の事は知らんがね」


手際良く、数人の男達が交渉を始めていた。
年輩の放心した人魚より若い娘を取り合った激しいやり取り。





「兄貴にも会わせてやっただろ。
奴さんもさぞかし喜んだ事だろうよ」

「冗談を言わないで!私達が何をしたって言うの」


ジャックは左腕で娘の頭を掴むと
無い右腕に押し付けた。


「こいつはお前の兄貴に喰われちまったのさ。
あっはっは、ほら、からっぽだろう?え。
あいつはとんでもねえ化け物なんだよ。
なあ、かわいいお嬢さん」


男はジョークのようにげらげら笑いながら
その時の地獄図を語って聞かせた。
母親の引きつった顔が唇だけを震わせている。
娘は男の片腕から顔を反らし叫んだ。


「そんな人兄なんかじゃない!!」

「母親が母親なら娘も娘だぜ。全くよ。
あのクソガキがやった事は身内に責任を取ってもらう。
右腕がねえ、ってのは不自由で仕方ねえ。
あんた達もそんくらいはわかるだろ?
なんならひとつもいでやろうか」

言葉尻の殺気。
娘が悲鳴を上げて後ずさる。



「値が落ちるような事はやめてくれ」

男達のひとりが割って入り、ジャックは
冗談だとせせら笑った。


「あのクソガキが母親に会いたい、って言うから
オレは親切にお膳立てしてやってコレだ。
人の好意をなんだと思ってやがるのかね。
なあ、そうだろ?奥さん」


人魚の母親は顔を覆って泣き伏した。
嗚咽と繰り返される後悔の言葉。


「母様....」


「あの化け物はな、人喰いだ。オレはひとり喰われるのを
この目で見たんだよ。
お嬢さん、あんたも人を喰うのかね?」


娘は答える代わりに男の顔に唾を吐いた。


「このクソ人魚共が!」

娘は平手打を喰らって母親の傍に倒れた。





「おい!続きは街に戻ってからにしろ。
長居は無用だ。こんなとこでのんびりしてると
足が付く。とっとと....」


ジャックが目を見開いた。


「....」



そこにいた数人の男達も全員
上空を見上げて顔色を変えた。
潮流の温度がすっと下がり背筋にただ事ではない
気配を伝える。
人魚の母子も同じように呆然とそれを見ていた。


黄昏れ。

夜よりも暗いそれはあっと言う間に
それ以上の漆黒と化した。
街の灯すら同時に消え失せていた。


「な...なんだ!」

「灯が...」


彼等は皆いっせいに
海の塔を探したが足下すら見えなかった。


「ありゃなんだ!」


突然押し寄せた寒さに身を縮めてひとりの男が叫んだ。

一本の光。
青くまっすぐに上空へ伸びたそれ。





「母様!」




一瞬見えた姿を頼りに娘は母の手を引いて
『走り出した』
彼女は美しい色彩の衣装をかなぐり捨て
長く豊かな尾と鰭を全開に開いて『走った』


「逃げたぞ!追え!!」


ジャックが叫んだ。
だが一筋の青さえすぐに消え失せ、辺りは完全な闇に包まれた。

「は...破滅だ...」

「バカな事を言うな」

「あの灯が消えたらオレ達の街なんか!」

ひとりの男が悲痛な声で叫ぶ。



僅かに届く光で永らえているスラム。氷の街。
待っている女達。
ひとり紛れていた少年は泣き出しそうなのを
堪えて立っていた。
人魚などジャック以外、誰も頭にすらない。
母と娘は手探りで少しでも遠くへと逃げた。
何処へ向かっているかは全くわからぬまま。



やがて。


再び光が海を照らし出した時
男達は人魚を見つける事はできなかった。
彼等は再来した光に照らし出された荒野が
別世界である事に息を呑み
しばらく動く事すらできなかった。
少年だけがまっさきに駆け出し、暖かい潮流に
汚い外套を脱ぎ捨て歓声を上げた。
やがて男達も帰路へ急ぐよう歩き始めた。
ジャックも呆然としながらそれを追うしかなかった。



無人になった街外れ。
かつての寂し気な荒野への入り口は
明るく照らされ、戸惑った生き物達がそれぞれ
心地よい場所を探して移動して行く。
寒さを耐えてきたものは明るく暖かい場所へ
冷たさと暗闇に惹かれて来たものは強い光から
逃れられる場所へと。



穏やかな潮流が街の賑わいを運んで流れて行く。
少年が脱ぎ捨てた汚い外套はそれを見ていた。
その外套は何度も丁寧に補修された跡があったが
旅人すらそれを拾う者はなく、何処かへ流れて行った。

その外套を始めに着ていた者のようにその行方は
誰にもわからない。















「青い髪のね...強くてとても優しい人だった...」



人魚の母は荒野を彷徨いながら生涯、それ以外の言葉を
口にする事はなかった。
娘は狂った母親をいたわりながら
街や特権階級の庇護を失ったまま旅をした。

戻る道も見失い、追う者を恐れひっそりと
流浪の運命を歩く事になった。
道中荒野にて、不思議な老人に出会う事になったが
兄はそれを知る由もなく
彼もまた、地上の荒野を流れ歩いて行く事となる。



遥か彼方へ。
繰り返される旅路。旅人もその果てもそれぞれに
生きとし往ける者は歩き続けて止まる事は無い。
寄せ返す海の波のように、
吹き渡る地上の風のように

遠く遠くへ。

小さな青い少年がかつて願ったように。





草原の満ち潮、豊穣の荒野 〜深海編 終了









36 決別(3)〜サクリファイス

夜。

塔に夜の光が灯される。
青い焔が激しく燃え上がった。
絶やされる事のない深海の焔。

広場中央には3人の罪人。
開かれようとしている地上への道。
二重三重と複雑な紋様を描き刻まれた
四方に立つ司祭の詠唱が響く。

集まっていた人々は神殿から全て出された。
数名の司祭と上位の者達だけが
遥か上空で渦を巻き始めた海流を見ていた。




地上へ。
オンディーンは仰向けのまま上空を睨んでいる。
かつて一度彼は行った事があった。

酔っ払いの老人の法螺話を真に受け
季節ごとに現れる僅かな道を見つけ、夜の海上へ出た。
彼は幸運だった。道を踏み外せば死。
昼の太陽を見ていればその眼を潰していただろう。


加えて今開かれようとしているものは人の手による
強引で不安定な道。
罪人の安全など考慮されるはずもない。
熱と氷の潮流を抜け、更に生きる為に調整された
全ての恩恵を剥ぎ取られるのだ。

『自由』の代償。


「運が良ければ地上へ辿り着く前に潰されるだろう」


ガレイオスが結界を挟んで立っている。
オンディーンだけを睨んで彼は言った。


「犠牲だと?笑わせるな。
この海で従わぬ者は悪だ。それが嫌なら
さっさと夢でもなんでも追って去るがいい。
貴様の後に同じような輩が現れば
何人でも送り届けてやろう。

地上で仲間と暮らすがいい。
生きていられたなら、の話だがな」



「.......」



オンディーンは空を睨んだまま兄弟子を
見ようともしない。






「下がれ!結界の傍は術者以外立つな!
巻き込まれて肉片にされたくなかったらな」


ガレイオスの声と同時に広場は紋様から浮き上がった
光で包まれた。



「仕上げだ」


ガレイオスが最後の呪言を口にしかけた時。

背後を爆発音のような振動が走り抜けた。



「何事だ!!」


バランスが崩れるのを恐れた術者達は
詠唱を中断した。


「ほ、宝物殿が襲撃されました!」

「バカな事を抜かすな!!あれは何人たりとて....」


ガレイオスの鬣が逆立った。


報告に駆け付けた司祭がきれいにふっ飛んだ。
彼は広場の結界まで転るとその身を粉々に散らして消滅した。




「あなたともあろう方が血迷ったか!!」



ふっ飛んだ司祭の背後から現れた男。
この海で一番年老いた者。
片手に海の宝物をぞんざいに突っ込んだ袋を抱えて
彼は立っていた。


「土産を持って行け。このバカ弟子めが」



老人は広場へ歩き出した。


「何をしている!老師を止めろ!!僧兵!!」


数人の屈強な男達が老人を取り囲んだ。
心なしか遠慮がちに老人の行く手を塞ぐ。


「どうかお戻りを」

「お前達には止められぬよ。死にたくなかったら退け」

「.....」

兵達は困惑の表情で顔を見合わせた。
その手の長刀や槍は、動くか否か
迷いの位置にあった。

「何をしているのだ!!」


いっせいに兵が動いた。彼等の任務に従って。


「!」

老人が突っ込むように走り出した。
ひとり、ふたりと立ちはだかる兵士を片腕一本で
薙ぎ倒しながら。
倒れた者は全てその体を真二つに割られ
二度と起き上がらなかった。

数人が瞬殺されるのを
蒼白な顔で術者達は見ていた。

彼がやってくる。
白髪と髭を返り血に染めた悪鬼のような姿で。
普段の温和な顔は消え失せ、双眼には異様な光。
その指先を長く鋭い刃に変え
血を足下に滴らせた化け物が近付いてくる。


ガレイオスが呻いた。

「あなたは....」


「ガレイオス、真の大罪人というものを見せてやろう。
お前はわしに似ておるよ。同じになりたくなくば
黙って見ておれ」


老人は術者のひとりの頭を掴むと情け容赦なく
結界に叩き付けた。凄まじい悲鳴。
無惨な姿を見た残りの術者達は逃げ出した。
ガレイオスの傍をためらいもなく走り抜けて。


「魔獣はここにおるわ。
償いという名の元に殺戮を繰り返し
屍の上に未来を積んだ大罪人よ」


老人は複数に張られた結界に踏み込んでは
その足を粉々に砕きまた『再生』して進む。
囚人達は呆然としてそれを見ていた。
子供の笑い声が何処からか響き渡る。

傷付いた者が起き上がった。
瀕死の者は意識を取り戻し周辺を見回した。
死者だけは何も変化がなかった。



「じじい...」


オンディーンの折られたあちこちの骨や
損傷した内臓が修復されていく。
他の囚人は二人とも既に立ち上がっていた。


「持って行け」

老人はぞんざいに抱えていた袋を放った。

「どうせ使う事もないガラクタじゃ」

オンディーンは袋を覗いて絶句した。
一目で宝物と知れる輝きを放った透明な球体。
取り出して手に乗せたそれは中で青い光が揺れていた。


「老師!!」


ガレイオスが絶叫した。
あれは先程己が受け取った海の宝珠だ。
海の灯。
失えば海は生きるシステムを失う。



「あなたはこの海を絶やしてしまうつもりなのか!!」


老人はかまわずオンディーンを掴んで立たせた。

「取りあえず生きておけ。何処かで必ず帳尻は合うよ。
わしが出来るのはここまでじゃ」


オンディーンの手の上で青い火が燃え上がった。
同時に塔の灯が消えた。
突然の暗闇の中、オンディーンの手の中の焔だけが
まっすぐに遠く
どこまでも道のように暗闇を照らす。


「この世の終わりだ!」

「灯が...海の灯が消えた!!」


神殿と街中がパニックに陥った。
今まで絶える事の無かった灯。
『太陽』が消えた。

数世代に渡って彼等は灯のもとで生きて来た。
突然の事態に皆空を見上げ怯え
女神に祈った。



ガレイオスは牙を剥き出しながら広場へ走った。
己が誰よりも敬った存在が。
何故だ!!
この海を壊すというのか!


「ああ、これもついでに持って行け」


老人はあっさり刃と化した指先をへし折り取ると
その刃をオンディーンの腕に突き立てた。

「!」


刺さったはずのそれは瞬時に解けるように消え失せた。
痛みすらない。
弟子は老師匠の顔と己の腕を交互に見て
ただ唖然とするばかり。



「達者で暮らせ」


老人は笑って短い呪言を唱えた。


遠い昔の言葉はオンディーンにも聞き取れなかった。
あれだけ術者が準備をかけたものを彼はただ一言で
開いた。

暗闇に差された光を中心に
一本の道が空に向かって現れいずる。
それは海のどんな場所からもはっきりと見えていた。
人々は海の破滅の予兆だとひれ伏した。


「老師よ!」

「じじい!!」


ガレイオスとオンディーンの声が同時に重なった。


















暗闇。
そして沈黙。


ガレイオスは広場に踏み込みかけたまま目を閉じていた。
彼だけではない。
全ての者が恐ろしい暗闇の中息すら潜めた。







「さて、大罪人は行くかの」



老人は一気に老け込んで見える姿で歩き出した。
もぎ取った手を押さえふらつきながら。
広場にはオンディーンも囚人の姿もなかった。
光も完全に消え失せ深海は暗闇の中にあった。



「....なんという事だ...」



ガレイオスが眼を開いた。
去って行く老人の気配を暗闇で探りながら
半ば獣化した爪と牙を剥く。

「老師よ、ならばせめて
この手で始末を...」



咆哮と共に獅子は暗闇を疾走した。
弱々しく歩く老人を追って。




「あなたは乱心されたのだ!」


獅子が老人の背にその巨大な爪を振りかざした時。
彼の背後で歓声が沸きあがった。


「!?」



塔の頂上。
かすかな光の点滅。
僅かだがそれは重い暗闇を切り払い
人々に声をあげさせた。


「灯....が...」


ガレイオスが塔を振り返った瞬間
それは勢い良く燃え上がった。
かつてのどんな時よりも強く明るく。



「ひ...灯が....戻った!!」



海はその一瞬で光に満ちた。
青く明るい光の渦の中、ガレイオスは
眼をくらませながら老人に叫んだ。


「どういう事です!これは...」



彼はゆっくりと獅子を振り返るとにやりと笑った。


「言わんかったかの。
しょせん人の造った物にかける命なぞ」

「.....」

「伊達に長く生きたわけではない。
女神の慈悲にすがらずとも自力で歩く術くらいは
積み立てられたつもりじゃがの」


老人はおぼつかないながら
からりと笑って歩き出した。



「何処へ行かれるのです!」

「酒のある場所へじゃよ」


膝を落とした弟子に背を向けたまま
老人は手を振り門をくぐった。




都市の外は荒野。
それでもその先を照らす光は以前より強く
どこまでも伸びていた。




そしてその後、老人は二度と
都市に戻る事はなかった。






35 決別(2)〜遠い空のむこうに

神殿の敷地は人でごったがえしていた。

深夜に起こった事件は口を封じる間もなく
街まで広まった。

人魚の遺族が悲しみを叫びに変えて歩き
人々は様々な推測を流す。
神殿を荒らす者はいないわけではなかったが
人魚が殺され、その上犯人が神殿内の者であった事など
前代未聞。人々は皆神殿に詰め掛けた。

制止される前に潜り込んだ人々だけでも
広場は埋まった。ばらばらと投じられる石や物。
皆が『大罪人』を一目見ようと集まって去ろうともしない。
石を投げる者の大半は理由などどうでも良かった。
ただ、日頃の些細で積み重なった憂さを晴すため
石を握った。


繋がれた罪人は神殿の紋の入った長衣も汚れ果て
何者か一見ではもうわからない。
ただ長い髪だけが人魚のそれと同じ青を覗かせ
何人かの手から石を落とさせた。



「何故人魚がそんな恐ろしいことを」

「あれは違う。似た色だが辺境の蛮族だ」

「そんな奴がこんな中央まで入り込んだなんて」

「殺してしまえ!」



海人や獣人すら石を取った。
血まみれで倒れ伏す姿を哀れむ者はいたが
口に出さず目を背けた。

オンディーンは死んだように動かない。
打たれる痛みに時折体を震わせる以外顔すら上げなかった。
かつて寄って集って殴打される事もあったが
今度は規模が違う。
足を打つ石は立ち上がる力を奪い
頭部を打つ石は思考能力をもぎ取って行った。



「じいさん!!奴を放っとくのか!
あれじゃ死んじまう!」



人だかりの中、酒場の親父が叫び続けていた。
老人の姿を探すが見つからない。
それどころか打たれるオンディーンの姿すら人の背中で
見えない。


「なんてこった!だからあれ程忠告したんだ!」


中年の男は空を仰いで嘆いた。
オンディーンが望んで誰かを殺すとは信じられなかったし
信じたくなかった。
彼は己と限り無く近い身の上なのだ。
この街でやっと人並みの暮らしを手に入れ
酒を飲みバカ話や博打に盛り上がっていただけだ。
人生にそれ以外のなんの価値がある?
わざわざ誰かを死なせてまで彼が
何を欲しがったというのだ。


「じいさん!あんたはそれでいいのか!!」


悲痛な叫びは人々の新たな歓声に飲み込まれて消えた。
別の囚人が二人引き出されたのだ。
オンディーンを見た囚人達は逃げようとして
兵士に殴り倒された。
声高く彼等の罪状が読み上げられる。
子供を殺害した男と窃盗と詐欺を繰り返してきた男。

たちまち石に打たれて半死半生の有り様となった。
ガレイオスは注意深くそれを見ていた。
オンディーンが死ぬ寸前で止めなければならない。
本当の地獄を見せる為に。
二人の囚人はオンディーンへの投石を減らし
長引かせる為の道具だった。


それでも異様な興奮に包まれた人々の投石は激しかった。
集団の意志は良心や抑制というブレーキをへし折り
死を要求してやまなかった。


「おやめ!あぶない!!」


何処からか女の叫び声があがった。
広場の中央に現れた鮮やかなストールの白。
ひとりの女がふらつくような足取りで
オンディーンの元に駆け寄った。


「およしったら!エレンディラ!」


病み上がりのやせた女がひとり、頭からすっぽりと被った
白いストールをはためかせてオンディーンの前に立った。
群集が静まり返る。


彼女は何も言わず倒れたオンディーンの前で両手を広げた。
長いストールから覗く紺の瞳。
その眼には言葉の代わりにとめどなく流れる涙。
唖の女には彼女のみが知る、彼の真実を叫ぶ事すら出来なかった。
ただ彼の前に立って遮る事しか。



「あの女も仲間だ!」


怯んだ人々の中から声が上がる。
それと同時に彼等はリンチを再開した。
エレンディラに情け容赦ない石が降り注ぐ。


「頼むからもうやめてくれ」


酒場の親父は頭を抱えて座り込んだ。
男の腰には妻が行くな、としがみついて泣いていた。



折れそうな枝の防波堤は数秒で膝をついた。
老人は口を引き結んでそれを見ていた。
全ての者を助ける事などとうの昔に諦め
手の届く者だけに手を伸ばしてきた。
公の場に出てしまった事には一切関わらなかった。
物事にはルールがある。
正面切って壊してはならない事がある。



倒れたエレンディラの白いストールは血が滲んでいた。
それでも彼女はもう一度立ち上がろうと顔を上げた。
頭から被った長いストールが滑り落ちその顔が露になった。


「!!」



全ての人が凍り付いた。



彼女の顔半分は長いいくつかの病で崩れていた。
そして同時にその舌も
言葉を発音する機能を失ってしまった。

おそらく元は美しい娘だっただろう。
深い紺のウェーブがかった長い髪。オンディーンがせめて
髪の毛くらいは、と指の動きもままならなかった彼女の髪を
整え続けていた。顔はもうどうにも戻し様がない。
それより足や指の機能を戻す事の方が先だった。
手足の崩れた肌は鮮やかな色の服で隠しながら
数年に渡った治療が続けられていた。




彼女は立とうと2〜3度もがいた。
流石に老人も広場に向かって足を踏み出した。
ガレイオスは渋面でそれを睨んでいた。


「......」



老人の足が止まった。







オンディーンの指が一本ずつ開かれ
空を掴んだのだ。

何度か何かを探すようにゆっくりと
開かれた手のひらだけがゆらゆらと彷徨う。


人々は固唾を飲んでそれを見ていた。


やがて彼の指先はエレンディラの髪に触れた。
紺色の髪を辿ってやせた肩に腕を伸ばす。
片腕もまた、地面に突き立てるように伸ばされ
地面に振り流した青い髪が起き上がって行く。



左の腕は拳を握り地面を突き支え
右の腕はエレンディラの肩を抱き抱えながら
彼はゆっくりと顔を上げた。

乱れた長く青い髪の隙間から覗く眼光。
深いブルー。



腫れ上がった全身と
いくつかの折れた骨をきしませながら
彼はエレンディラに覆い被さった。
骨折した足は不自然に曲がりあらぬ方向へ。
異様な抱擁。



喉の奥で威嚇の咆哮を洩しながら
彼はエレンディラを完全に、己の体で隠しきった。
たったひとつの小石すら当たらぬように。
そしてその眼に激しい怒りの色を浮かべ
取り囲む者達を見た。


ひとり、ふたり。


女が、男が後ずさって行く。
子供が両親の顔を見る。
老人が項垂れた。
司祭は蒼白な顔でガレイオスをせわしげに伺っている。





「......」

老人は反対方向に歩き出した。
広場に背を向けて。





「罪人の追放執行を執り行う!!」



ガレイオスが吠えるように叫んだ。

彼はびくついた司祭達に地上への通路を
開くように命じ、
ヤジ馬を散らすよう兵士に指示を出した。

「女も一緒に追い払え」




引き剥がすように兵士はエレンディラを連れ去った。
唖の娘は水鈴をオンディーンに渡そうとしたが
兵士の足に踏まれて砕けた。

仰向けに倒されたオンディーンは両の眼を
見開いたまま遠く遥かな『空』を見ていた。




深海の『空』は夕暮れ。



34 決別(1)

独房。

まだ夜も明けきれぬ薄闇。
小さな窓から海の光が囚人の顔を照らす。

俯いて青い髪に隠れた顔。
床を見つめた眼は何も見ていない。


「盗賊の一味だったんだと」

「海ヘビなんか置くからこんな事になったんだ」

「何人死んだ?」

「門番が3名と人魚の神学生がひとりらしい」


厚い扉を隔てて聞こえる会話。
見張り番のひとりが格子の隙間から中を覗く。

「おい、殺したのはお前だろ。
人魚殺しは極刑だぜ」


オンディーンは何も答えなかった。
聞こえてすらいない。
肩を落として座り込んだまま。


「....おい」

「こいつさっきから全く動かないぜ。
生きてるかどうか試してみるか」


見るからに荒そうな男が立ち上がった。
もうひとりは素早く扉を開け、囚人の口に粗布をねじ込んだ。


「押さえてろ」
















夜明け。



囚人を引き出しに来た司祭達は
彼を引きずって行かねばならなかった。
全身を叩きのめされた囚人は歩く事もおぼつかず、意識も
朦朧としていた。肩を貸す者などいない。
物のように縄をつけて神殿内広場へ引きずって行く。
早朝だというのに黒山の人だかりがそれを見ていた。


「裏切り者!!」

「盗人の人殺しめ」

「神聖な場所でなんという真似を」


石を投げる者すらいた。
人魚の学生達は仲間が殺された事に戦慄しながらも
己でなくて良かった、と罵声を浴びせ続ける。
ガレイオスはそれを黙って見ていた。
彼を広場に引き出し、就任の式典が終わるまで
晒しておくように指示すると表情ひとつ変えず立ち去った。


駆け付けた人魚の親族は司祭にすがりついて
囚人の極刑を嘆願して叫んでいた。
誰ひとりオンディーンを弁護する者もなく事情聴取もない。
人魚殺害と盗賊の手引き、窃盗。
そればかりか大量の余罪が密かに加えられた。


神殿始まって以来の『大罪人』は動物のように
一本の杭に繋がれ投石を受け続けていた。













「いかにあなたでもこの状態であの者を庇う事は
ありますまい」


ガレイオスは式典の最中、頭上に海流神の紋章が刻まれた
見えない冠を戴きながら笑った。
建て前上、人魚の王族が権力を所持していたが
実際にそれを支える4つの神殿の総指導者こそ
真の権力者だった。

4人のマーライオン。
彼等は表面に出る事を避けていた。
人魚の姿は海流の女神を象徴し、人々の畏敬の念を容易く手に入れる。
知力、体力共に秀でてはいても彼等は獣人。
神殿をバックに人魚の一族は海を治めていられた。

海の灯をマーライオン達が守らねば都市も
まわりのスラム同様に荒廃する。
豊かな生活と支配者としての名声の上に
人魚は生かされていた。



そしてひとりの老人。

人魚でも獣人でもない
彼は初代の守人として特別な位置にあった。
彼以上に生きた者はなく、都市の機能の基礎を作り上げた
偉人とも呼ばれていた。
女神の寵愛を受け、不死になったと噂する者もあった。
その老人がマーライオン達を指導、教育してきた。
だが、あまりにも長い年月はそれを必要としなくなるのに
充分だった。
老人もまた己の組んだシステムが最早自分から離れている事も
知っている。

任を退くその日、最後の問題は最悪の形となって
彼の前にあった。




「さて、お前に任せる以上、庇うもへったくれも
あるまい?」



老人は祝福を詠唱し終えると素っ気なく呟いた。
僅か数人の上位者に見守られ、ガレイオスの手に海の宝珠が
手渡された。海の水晶、と呼ばれるその透明な球体の中に
青い火が燃える。

東西南北に渡って4つ。
この火をひとつでも失えば海は破滅に向かう、と言い伝えられていた。
事実は老人しか知り得ないが、穏やかな気候と
めぐみをもたらす物には間違いない。


「女神の灯はこの命に換えても」

「.....人の造り出した物と等価の命など...」

「何か申されたか?老師」

「いや。だが、ガレイオス。最後の教えとして言うておこう」

「我が恩師なれば、慎んで」


ガレイオスは敬意を最大級の拝礼で表した。
彼にとって老人は親のようなものでもあった。
その恩師に認められる事は何よりの誇りでもあったのだ。
老人は静かに言った。





「失われて良い命などない」





ガレイオスが顔を上げた。
一瞬青ざめたが、即座にそれを隠して笑いに変えた。


「ひとりのために何人もの犠牲を出せと?」


老人は困ったような微笑みを返すと
寂し気に答えた。


「さてなあ。わしにもそれがわからんのじゃよ....」







式典後。

皆が立ち去った後、ガレイオスだけがそこに残っていた。
豪奢な椅子、柔らかな敷布、強力な結界を誇る奥義の紋章が
壁全体に刻まれている。人魚の最上位一族ですらここには
彼の許可なく入る事はできない。

ガレイオスはただひとり、そこに立っていた。
肩で息をしながら彼は歯を喰い縛っていた。
憎悪と怒りに鬣をざわつかせながら。

耳に広場の罵声が飛び込んでくる。
彼は獅子の獣面と化した顔を片手で隠しながら
遥か下を見下ろした。


凄まじい咆哮が響き渡る。
ガレイオスは一冊の書物を床に叩き付けた。




「おのれ!!」







鬣を震わせながら海の獅子は老人の記録書を
踏みにじった。
オンディーンの素性以前に何もかもが気に入らなかった。
己が敬う恩師を軽んじ、ありとあらゆる秩序を乱してきた。
調べあげただけでも充分追放に値する。
それが選りに依ってこの日に殺人を犯したのだ。
それでも尚、老師は....


「絶対に許さぬ。立派な化け物ではないか!
過去の思惑など知った事ではない。
今生きる者に仇なす者なら殺せ!
老師はいつまで過去に囚われておられるのだ。
ならば、俺が代わりに断ち切らねばならぬ」



散らばった数項に眼を向ける。
かつての無謀とも言える計画の顛末。
そして童話や祈りの言葉も丁寧に記されていた。
ガレイオスはそれを読むと高らかに笑い出した。
怒りを含んだ激しい嘲笑。
ひとしきり笑った獅子は吠えるように叫んだ。


「生きられるものなら生きてみろ!
この海に貴様の生きる場などはなからないわ。
死の潮流を抜け、地上へ行くがいい。

そして焼けつく焔に焼かれ
愚かな願いの結末をその身に刻んで死ね!!」




戦闘人魚の記録。
負の遺産。妖魔や魔獣の種となった存在が
長い間に渡って書き綴られていた。
懺悔、祈り、願い、後悔、弔いの言葉と共に。

そしてオンディーンに施された処置が
最新の記録になっていた。



「切り捨て損なった愚かさの結末がこれか。
我が使命は海の守護なり。
塔の灯を護り、民に平和と秩序をもたらす。

化け物はこの海に一匹たりとて生かしてはおかぬ。
薄汚い化け物に命などはなから無い。
そうだ...楽に死ぬ事すら許すまい」



獅子は怒りに任せて飾られていたひとつの
『アクアリウム』を叩き割った。
そこには地上の鳥がひとつがい
入れられていた。

激しい音と共に彼等の『空気』は深海に散り失せ
一瞬で小さな『地上』の籠は地獄と化した。
深海で生かされていた鳥が苦しみ
のたうつ様を見ながら
獅子はその獣面を元の人型に戻して行った。



ガレイオスは部屋の外へ出ると司祭に他の囚人も
引き出せと命じた。




「見せしめだ。秩序を乱す者の結末がどういうものか
すべての海の者は知るがいい。

死体は後で回収しろ。
永遠にその姿だけはこの海に残しておく。
遺族にもその旨を知らせてやるがいい」




穏やかな海の昼下がり。

















33 就任前夜(4)果たされなかった約束





老人が宝物殿から立ち去ったほぼ、同刻。



ふたりの学生は夜勤に駆り出されていた。
オンディーンは特別な日を控えて
足りなくなった人手として書庫から出されていた。


その不機嫌な顔は殴られた痣で
いつも以上の険を刻んでいる。
人魚はいつもの事だと気にも留めなかった。
彼にもまた友人がいなかった。

華奢な体に弱気な性格。
彼は目立たぬ事でスケープ・ゴートになる事を
避けてきた。常に相手の顔色から答えを読み、周囲に
溶け込む事をいつも考えていた。


例え人魚でも男であれば腕が物を言う。
格下の海人に威張るには小心すぎた。
気付けばオンディーンはおろか、誰ひとり彼の名を呼ぶ
者などいなかった。覚えてもいない。彼もまたその方が
余計な事に名を挙げられずにすむと思っていた。

オンディーンの監視を言い付けられたのも貧乏クジだった。
結果としてそれが彼にとって一番親しい人間になった。

「ぼくは君に感謝してるんだ...」


ぽつりと人魚が漏らした。

オンディーンは完全に無視している。
それでも良かった。
聞いてくれてさえいればいい。突っ込まれればまた
答えられなくなるのはよくわかっている。


「ぼくはケンカひとつできないんだ。
自分でも情けないと思うよ。君みたいにはっきり
強く言えればいいのに、ってよく思う」


「知るか。そんな事」


いらついた声が投げられる。
さっきまでの慇懃さが消えている。
人魚は笑った。それだけでいい。


「君の代わりに殴られた事もあったけど
度胸がついたかもしれないね」


「そんな度胸なんざ小魚に喰わせても足りるか。
いいか、お前の話はイライラするんだ。

黙れ」


「君の罵倒が一番ひどくない」


オンディーンは大きな溜め息をついた。
今はそれどころではない。
少なくとも尋ねて来た少女の言動は彼を動揺させた。
加えて薬で抑えられた面倒な嗜好への不安。
何年も口に出さなかった事を喋ったのは動揺していたからだ。
老人が自分に何をしていたかは薄々気付いていた。


酒に混ぜられた成分は強力な抑制剤。
本来獣人が街で暮らす時、極力獣化を避ける為に投与される。
整えられた環境で獣化の必要はない。
むしろ獣化が激しい者は街に住む事ができない。
獣化時の傷害は一発で追放になる。

オンディーンが最初に漬け込まれた酒にもたっぷりと
それが忍ばされていた。
自分でも獣化時がまずい事は知っていた。切れ切れの記憶でも
充分己が人を殺害した自覚はあった。
それでなくとも彼の体は喰った『人間』を拒絶した。
全身に刻み込まれているのだ。



今でもそれを思い出すと彼は怯えた。
本当の彼の精神は弱い。
それを隠す為、彼は他者を拒絶してきた。
学生達を殴るのも弱さを悟られない方法にすぎなかった。
酒場の酔っ払い達に心を許したのも、安心していられた
幼い時代にすがっての事だ。

薄汚れたスラムにいた頃、少なくとも彼は愛されていた。
親がいなくとも愛情を注ぐ大人達がいた。
彼にとってそれは重要な事だった。




あの日、母親の拒絶にあってからだ。
何もかもが変わって崩れて行ったのは。
彼が憎悪と弱さを自覚した日。
あれほど憎悪した母に似た女神像にさえ
彼はすがった。そして女神は受け止め切れず
粉々に砕け散った。



老人の心も彼は知らないわけではない。
一度でも愛されて育てば、己に愛情を持った者の
判別がつくようになる。

『母親に愛されなかった子供』として泣き叫んだ程
15の彼は弱く、悲しかった。
保護されてそれは尚更激しく深くなった。
一見こわいものなしの傍若無人の真実は
その逆だった。
病んだ女をいたわるのも己の弱さを知っているからだ。

弱者の痛みを知り、ひどく恐れた。
エレンディラは歩ける程回復していた。
それを見る事で彼自身も救われていたのだ。
彼には目の前で弱者が踏まれる事程恐ろしいものはなかった。
見る度、それは彼の古傷を開かせる。

そして昼間の少女。
老人の言葉。



ひどい形で愛情を見失った頃が甦る。
母親も死んだと少女は叫んだ。
喰った男の断末魔は脳裏に焼き付いたまま。
老人が救おうとしているのはわかっても
真実を話せばそれを失う。
オンディーンはそれがこわかった。
あんなものが自分の手に負えるわけがない。
あんなにもあっさりと人を殺して喰らったのだ。


老人の元にいればなんとかなる、悪態を付きながら
彼が自分を救ってくれる、と思い始めていた。
そして、いつか安心して元の街へ帰る事を
願ってもいた。

リラ、小さい子供達、べろべろじいさん、街の気のいい大人達。
あの日の事は悪夢だったのだと自分に言い聞かせていた。
老人に従っていれば不安は取り除かれる。






「.......」






オンディーンは焦り始めていた。
何もかもが落ち着かない。
明日はガレイオスが神殿の実権を握る。

いっそ、このまま街を逃げようか。
エレンディラを連れて行く約束が頭を過る。
まだ彼女は荒野を旅するには不安がある。
しかもどうやって連れ出す?




「...駄目だ...」

「え?何が?」


人魚が問いかけた。


「なんでもない」


思考を中断されるのが腹立だしかった。



こいつは何もわかっちゃいねえ。
わからなくたっていい。
関心すらない。
今はそれより己をどうするかだ。ガレイオスに
いいようにされるなんざまっぴらだ。元々世界が違う。

じじいもオレを見捨てるだろう。
仕方ねえ。
どうせオレはあの街に帰るしかないんだ。
夜が明ける前に出よう。
支度の準備だけは密かに整えていた。
街と外への結界も今の自分ならなんとか破れる。
もう潮時だ。
そうだ。リラおばさんも待っているはずだ。

そうと決まればこの鬱陶しい人魚を適当に追い払わなければ。


「....オンディーン」

「........」

「オンディーン!」

「なんだうるさい」

「あの建物の蔭、今誰かいたような気がする」



人魚が声を落として指差した。
灯を左手に持ち替え
ささやかな得物に右手を添える。


くそったれ。


オンディーンが舌打ちをした。

「見間違えだろ。気になるなら見て来たらどうだ」

「えっ?ひ、ひとりで?」

「ふたりで行ってどうする。もし待ち伏せでもされてりゃ
いっぺんに畳まれるぜ?
どっちかが知らせないと意味ねえだろ」

「ぼ、ぼくひとりで行けないよ」

「こわいってか?」


人魚は速攻で頷いた。

「根性無しめ。面倒だ、オレが行く」

流石にここまで自分も臆病じゃない、とオンディーンは
呆れながらさっさと歩き出した。


「き...気をつけて」

「オレがやられたらせいぜい大声でも上げるんだな」


オンディーンは闇に紛れるとすぐに走った。
絶好の機会だ。このまま荷を取って出て行っちまえ。
どうせこんな中央まで忍び込める奴は、そうそういない。

夜の闇に紛れて少しでも遠くへ行けば追う者もないだろう。
都市の外なんざ誰も出ようとしない。
見張りも夜なら奇襲をかけりゃなんとかなる。
とにかくチャンスは今だ。
エレンディラも仕方がない。後は彼女の人生だ。
オレがどうこうできるわけじゃない。


人魚の指した方角と反対に走る。
講堂を横切った奥に宿舎があった。
人目を避けて横切らず裏に入った。

「ここなら...」


建物裏に続く小道。
一歩足を踏み込んだ瞬間全身が総毛立った。
本能的にその場に凍り付いた。

凄まじい殺気が複数。警告のあからさまな殺気。
今一歩でも動けば....

目の前を影がいくつか駆け抜けて行った。
嫌な汗が背中を伝う。
瞬きすらできなかった。
殺気に竦んだだけではない。彼には心当たりがあった。


...そうだ。囮だ。
わざと注意を引いて反対に誘き寄せる。
自分が子供の頃、大人達とやっていた事だ。
数回、自分も囮になった事がある。
騒ぎさえしなければ殺される事はない。ここはおとなしく
やり過ごして彼等の『仕事』が済むのを待つしかない。
騒いだ見張りがどんな最後を遂げたか見た事もある。
今動けばすみやかに殺されるだろう。


...どこから来たんだ。
この都市はともかく神殿内だぞ。
そこらの盗賊には突破できないはずだ。



宝物殿の方向とは反対へ彼等は走って行く。
彼等は知っているのだ。
宝物殿を開ける事は不可能だと。
ヘタな盗賊ならまっ先に宝物殿を襲うだろう。
司祭達の隠し財産でも狙ったのだろうか。




「.......」



しばらくして殺気が突然消えた。
殺されずにすんだ、とオンディーンはすぐさま自分の宿舎へ
飛び込んだ。部屋の寝台の下から僅かな旅の荷を取り出すと
後は捨てて窓から飛び下りた。

あいつらはもう去っただろうか。
鉢合わせは避けたいが門の警備兵の相手をせずに
すむかもしれない。

闇と建物に紛れて走る。
一見なんの変化も無い。ずいぶん鮮やかに
仕事をすませたものだ。余程手慣れていたものか。


「オンディーン!!」

人魚が叫ぶ声がした。

「どうしたんだよ!おーい!!」


深夜に大きな声が響く。
くそったれ!大声を今出すな。
よりによってオレの名を呼びやがって。



人魚は戻って来ない相棒を必死で呼んでいた。


「くそ。仕方ない。適当に当て身でも喰らわすか」


オンディーンは後ろ手に荷を隠して姿を見せた。

「うるさい。深夜に大声を出すな」

「だって君が言ったんじゃないか」

「やられたらって言わなかったか」

「暗くてわからないよ」



用心深くオンディーンは人魚に近付いて行く。

「そんなヘマ、オレは...」


「!」

人魚とオンディーンが同時に振り返る。
何か物の倒れる音。
先刻人魚が指差した場所だ。


「やっぱり誰かあそこに隠れてる!!」


人魚が叫んだ。


「お、おい!待て。奴らがまだいるんなら叫ぶなっ!」

「奴ら!?やっぱり誰か侵入者がいたんだ!
捕まえなきゃ!」

「バカな事を言うな!相手は人数もわからないんだぞ」

オンディーンは人魚の腕を掴んで壁の蔭に
引きずり込んだ。どうにもならないと人魚の口もふさぐ。

「いいか、奴らがやばい連中なのは間違いない。
死にたくなければ動くな。ここで隠れてやり過ごせ。
連中の顔も絶対見るな!」


「......」





人影が動きだした。


「いいか、絶対見るな。顔を見られた事を知れば命を
取られるぞ。下を向いていろ」

人魚はオンディーンの手で口を塞がれたまま目を見開いた。
彼の背中に旅用の革袋。
普段そんな物を持ち歩く事などない。
人魚はオンディーンの手を振払って叫んだ。


「君は彼等の仲間なのか!?」

「なんだと!?」


思わずオンディーンが立ち上がった。


「あ!」


丁度その時、彼等の目前を人影が走り抜けた。



「こっ...子供!?」

「え?」


小さな人影は慌てふためいて走って行く。
あまりにも不手際だ。


「....まさか置いて行かれたのか?」

「やっぱり君は彼等を...」

「もう一度言ってみろ!!」




オンディーンの怒鳴り声に小さな人影が驚いて立ち止まる。

「じゃあその荷物はなんなんだ」

「こ...これは関係ない」

「じゃあ、止めるな!」


人魚は相手が子供だと知ると勢い付いた。


「バカ!追うな!!」

再び走り出した子供。人魚が追おうと立ち上がる。


「よせ!」

人魚は掴んだ手を叩き払った。


「あの子だけでも捕まえる!
あんな幼い子供がこんな事しちゃいけない!!」

「.....」


オンディーンが怯んだ。
その隙に人魚は走り出した。
不自然に開け放たれた門に向かって
走る子供を追って。


「まずい!戻れーッ!!!!」


オンディーンが顔色を変え
あらん限りの声で叫んだ。




「......」




静寂。




オンディーンは立ち尽くしてそれを見ていた。
追った人魚の上から数人の人影が
滑るように覆いかぶさったのを。
人魚はゆっくり屑折れて行った。


数人の人影もまた、オンディーンを見ていた。


「.....」



オンディーンは彼等の元へ歩き出した。
顔を見られたのだ。
意を決して突破を試みるしか無い。
背後も目前ももはや崖。


用心深く彼は男達に近付いて行った。
彼等と同行を試みるか、突破か。
これが最後の夜になるかもしれないと覚悟して彼は
倒れた人魚の元に立った。





「よお、ブルー」

「.....」








ひとりの男が左手を上げた。
その声には聞き覚えがあった。
そして何より『そいつ』には右腕がなかった。



「お前さん、ずいぶんお上品な人間になっちまったなあ」






「.......ジャック.....」



数人の男達を見たオンディーンは愕然とした。
彼等には皆見覚えがあった。
年こそ重ねてはいたが間違いなく彼等は
『ブルー』の育ったスラムにいた男達。
懐かしい匂いすら感じられた。


「ブルー。何やってるんだよ。自分だけ」


子供が険しい目で吐き捨てた。
汚い身なりに汚れた顔の子供。
彼は立ち尽くすオンディーンの足下に
壊れた木の玩具を放り投げた。

いつだっただろう。水鈴の少女に会った日だったか。
一番小さかった幼児に与えたもの。
自分はガキじゃない、ともらった玩具を渡した。
オレは年長なんだ、と密かに得意になりながら。
幸福だった頃の記憶はどんな些細な事でも
忘れはしない。今でもよく覚えている。

幼児の顔はすっかり少年になっていた。
背だけは伸びずに小さな子供のまま。
手足も細い。


「..ジャック...てめえ....」



「久しぶりに会ったってのに
もう少し嬉しそうにしてはどうだね」


ジャックだけが笑っていた。
少年も男達も『ブルー』をまるで敵を見るような目で
見ていた。



神殿のあちこちに灯が灯る。
何度も響いた叫び声。皆が異変に気付いていた。


「おっと、名残り惜しいが達者でな、ブルー。
お前をブチ殺すのはやめだ。
俺達からの土産を持ってとっとと戻りな」

片腕のジャックは倒れた人魚を顎で指して笑った。


「俺達がやるより面白いコトになりそうだからな」







「ずらかるぞ!」

「待て!教えてくれ!!リ...リラおばさんは
どうしてる!」


走り出した男達の一番最後の少年が振り返った。

「元気でいるのか?」

懇願するように『ブルー』が言った。






「死んだよ」






少年はただ一言吐き捨て、走り去った。






「...............」






オンディーンは惚けたように
そのまましばらく突っ立っていた。
足下には横たわった人魚と門番。


「オ...オンディーン...」

人魚がオンディーンの足を掴んだ。
擦れた声に液体の絡む音が混じる。

「ぼくは....君のようになりたいと...思ってた」


オンディーンは蒼白な顔で人魚を見下ろした。


「だけど...ぼくには...勇気がない
せめて小さな子供くらい...」


「...だから行くなと言ったんだ....」



オンディーンの声もまた、擦れてよく聞こえなかった。



人魚は血を吹き出した口で呟いた。


「...助けてやりたかったんだ....」



それきり彼は目を閉じる事も喋る事も無かった。






冷たい夜の光が彼等を照らす。
背後には人々のざわめき。



オンディーンはそのまま一言も
口を開かず連行されて行った。
まだ夜明けには早い時刻。


32 就任前夜(3)思惑

数日程遡る夕暮れの街角。

足早く歩いて行く人魚の娘。
青く長い髪。瀟洒な街並にふさわしい令嬢。
後ろから片腕の下男がついてくる。


「お嬢さん、大丈夫ですか」

娘は透明な鰭を翻して振りむいた。

「約束は果たしました。
これで母を探して下さるわね」

堅い視線。怒り、憎悪、疑惑、不信。
様々な表情が入り混ざった顔。

「勿論。俺は約束を守る男ですぜ。だが
中の様子と道順も教えて頂かねえと」

娘は神殿内の様子と宝物殿近辺の通路を
差し出された紙に書きつけた。



「間違いありませんね。もしいい加減なら
お母上を探しに行く者がいなくなるだけですぜ」

「礼拝堂へは何度も母と行きました。
わざわざ行かなくてもいいくらい頭に入ってるわ」

「やっぱり兄上に会いたい、という事ですか」

「.....」


娘は答えなかった。


「面影がおありで。やはり家族に会えるのは
悪いもんじゃないでしょうな」

「冗談じゃないわ。あんな男。
訴え出て素性を暴いてやるだけよ」

「...何をされても自由ですが、お嬢さん。ご自分の首を
締める事はやめたがいいと思いますぜ」

「なんですって」

「いえ、ねえ。あんた方一族の汚点になるのは
どうかと思うんですがね。
その青い髪や眼は一発で同族だと知れるでしょうな」


片腕の男は笑いながら続けた。


「特にお嬢さん...あんた、兄上そっくりですぜ。
その人を睨む目付き、俺はよーく覚えてますがね....」

「あなたは何を企んでいるの」

「別に。俺はこうやって生きているだけでさあ。
多少人に危ない便宜を図って歩く分、頂くものも
それなりに」

「あたしは盗賊かと思ってたわ」

「その盗賊に頼まにゃならんとは、難儀ですなあ」



男は小娘の挑発など気にも止めず
神殿の見取り図を見ていた。

「さて、俺はこいつを欲しがってる奴に渡さねえと。
連中が無事に戻れば分け前を頂いて
母上を探しに行きましょうか」



片腕の男は暮れ始めた街角に消え
人魚の娘だけがいつまでもそこに立っていた。







神殿。


翌日に総指導者就任式を控え、誰もがいつも以上に身なりを整え
緊張していた。『彼』は歴代の中でも特に厳格だった。
学生として学んでいた頃から近寄りがたい厳しさを漂わせた男。
友人と呼べる者はない。
規律を友に選んだような男だった。

ガレイオス。

マーライオンの中でも突出したその知力や器を
老人に見い出された男。
海流神と正義に仕える、と誓った男に偽りなど微塵もない。
それを妨げるものは絶対に許さない。


神官達は頭を抱えて話し合っていた。
ごまかして来た全ての事が通用しなくなってしまう、と。
彼は潔癖すぎる、と耳打ちで嘆き合う。



「ここは何か目を向けさせる材料を探して身辺を整えねば」

「この前、些細な規律を破った者が破門、追放されたそうだ」

「冗談じゃない。この都から出て生きて行けるものか」

「ああ、死ね、と言う事だ」



数人の太った司祭と神官達。
免罪符や遊廓で潤った生活を捨てるのが惜しい。
なんとか抜け道を探しては話し合っていた。

「そう言えば昼間、書庫が騒がしかったな」

「ああ、書庫ならオンディーンだろう。毎度の事だ」

「人魚や貴人の出入りする場所で面倒はごめんだぞ」

「今はそんな疫病神の事など.....」

「!」



数人がいっせいに顔を見合わせた。



「....いたな」

「おあつらえ向きだ」

「あれならいくらでも...」

「被せてしまえるか?」

「誰も奴の言う事など聞きはしないさ」

「老司祭が後見人だぞ」

「相手が悪すぎないか?」

「でっち上げてしまえばいい。どうせ老司祭も明日で
ガレイオスに『任』を譲る。事実上の引退だ」

「でっち上げなくともあいつなら充分ガレイオスの
不興を買っているだろう。傷害沙汰も掘り出せば
いくらでも並べられる。身から出た錆とはこの事だ」

「いや、念を入れよう。遊廓に結びつける材料も
作らねばガレイオスの眼は我々にも向くぞ。
あの男は融通が効かん。賄賂を渡せばその場で首が飛ぶ。
心してかからねば」

「遊廓ならオンディーンは遊女をひとり囲っている。
堂々と通っている事は周知だ」

「病持ちの女だろう?治療じゃないのか?」

「言いわけに決まってるだろう。誰が遊廓くんだりまで行って
そんな事をする。バカバカしい」

「では供物は決まりだな」

「そういうことだ」








宝物殿。


そこにはいくつもの海の秘宝が奉納されていた。
そこへ入れるのは神殿総指導者のみ。
閉ざされたそこにひとり、老人が立っていた。



「魔獣が一匹、人をふたり喰うたか....」


明日になればここにガレイオスが入る。
老人は一冊の古い記録書を灯にかざした。

「生かすか殺すか....」



『お前は海に住みなさい。
あの木は登ってはいけない。
お前は空で生きるものではないのです』



古い童話が脳裏で繰り返される。
15で飛び込んで来た子供の記録。
それよりもっと古い記録や研究記述。
これをガレイオスが見れば間違いなく
オンディーンの息の根を止めるだろう。
遠い過去己がやってきたように。


「お前は今も同じ事を言うのか...
それとも....」

老人の一人語り。
彼は膝をついて伏した。


「...まだ...南への道は在るか。
まだ願いはあるか。
忘れ去られて誰も祈る者のない今でも...」


老人の背中を子供の笑い声が包む。
かつて遠い昔に慟哭した時のように。


「人を喰ろうた魔獣が人を導くというのか?
辺境の地で、生きる糧もろくにない場所で。
抱えきれぬ荷を負った者が
他者を新天地へ導くと言うのか。

否。
........地獄へだ」


老人は立ち上がった。記録書を元の場所へ戻し
宝物殿を閉ざすと警備の者に一言告げた。


「オンディーンを呼べ」


これはガレイオスの役目ではない。

「終わらせよう」

老人はまっすぐに回廊を歩いて行った。