目次|前ページ|次ページ
彼はいつもゆっくりと歩いている。
肩で荒く息をしながら
ずるずると足を引きずり
壁に手を付け、赤い染みを長く残して
歩いて行く。
毎日、来る日も来る日も。
怒号。
彼の叫ぶ声が聞こえる。
ひとり、ふたり、三人....
彼を殴っては殴り返され
壁に叩き付けられる学生達。
ぼくは耳を塞いで教室の隅で見ている事しかできない。
彼が動けなくなるまで。
大勢に叩きのめされて
嘲笑の声が遠ざかるまで。
ぼくは臆病者だ。
彼が立ち上がる。
誰もいなくなった教室。
散らばった本、倒された机、椅子。
彼は唾を吐きよろよろと立ち上がりかけ
また崩れ落ちた。
腫れ上がった頬と瞼。
彼の表情は全くわからない。
腫れ上がった唇で何かブツブツと呟いている。
ぼくには何を言っているのかもわからなかった。
彼は廊下に出た。
這うように、壁にしがみついて
少しずつ立ち上がって歩く。
ずるずると。
すれ違う神官や学生は皆振り返るが
苦い笑いで彼を追い抜いて行く。
ぼくはやっと彼に近付いた。
壁を掻いた指に手を差し出す。
「さわるな」
ぼくはそれ以上動く事もできなかった。
彼は壁にぬぐった鼻血の染みを
壁に残しながら
ぼくの前を通り過ぎて行く。
のろのろと。
彼は顔をあげて歩いて行く。
よろけた足取りで元の歩幅を戻そうと試みながら。
何度となく頭から転倒しながら。
ぼくは近寄らずにおられない。
彼に殴られる事もあるけれど。
ぼくは聞いてみたいんだ。
何故君は.....
彼は決して答えない。
その生い立ちも名前すら語る事はない。
ガレイオス様に彼の行動を報告しながら
彼の事を訊ねてみたが何も答えて下さらなかった。
彼は長い廊下の角を曲がって姿を消した。
いつも彼はそこに辿り着く頃には
立ち上がって歩いている。
何事もなかったかのように。
ぼくは廊下にひとり残される。
彼の見ている世界を
ぼくも見てみたい。
だけどぼくには
勇気がない。
オレの名前はブルー。
ここではわけあってオンディーンなんて
イカレポンチな名前で呼ばれている。
海流神の神殿に来てそろそろ一年。
頭に来るあのじじいにはいまだに
やられっぱなしだ。
学生共にはまあ、そうだ、10対1までならなんとかなる。
仲間なんかいらない。
奴らだってそう思ってる。
口をきくより手の方が早い。奴らのゴタクを聞いていると
殴りたくて殴りたくてムズムズする。
乱闘になった時だけ気が晴れる。
ひとり鬱陶しい奴がいる。
人魚の野郎だがやたら声をかけてくる。
ごていねいにもオレが11人相手でボコられていたら
割って入ってきやがった。
オレはそのまま抜け出し、奴がひとりでボコられていた。
バカじゃねえか。
助けろなんて言う気なんざ死んでもねえよ。
それ以上にバカ野郎なのは学生共だ。
ボコられてるのがオレじゃないって事にも気付いてない。
オレはバカバカしくなって飯を喰いに行った。
オレだって金を持参してこの神学校に入ったんだぜ。
もっとも女神像をぶっ壊したけどな。
母親が払った金だ。
使えるものは使ってやるよ。
どうせここから出られないんだ。
せいぜい学んで魔法でもなんでもブっぱなして
出て行くさ。
それまでは喰うものも喰って体を鍛える。
宿舎の食堂なんざ反吐が出るから
いつも酒場へ行く事にしてる。
じじいに煮え湯を飲まされた場所だが
唯一肌に合う場所だ。酒場の親父達は懐かしい匂いがする。
「おう、弟子が来た来た」
「弟子はやめろ」
「じゃあオンディーンか」
「もっとやめろ」
酒場の親父が鼻髭についた鼻糞を飛ばす。
「汚ねえな」
「うるさい。ここは上品な店じゃないんだ」
「だから来てるんだよ」
「まあ、座れ。待ってたんだ」
酒場のマスターと親父達が手招く。
サイコロがコップに入って無造作に置かれていた。
「博打かよ」
「やるだろ?」
「当然」
こいつらオレをガキだと思ってカモる気だな。
思わず顔が緩む。
小一時間経過。
「なんでだよ。お前教えてやろうと思ったのに」
「そう言ってカモり倒すつもりだったんだろ」
オレはサイコロを放り投げて弄びながら親父達の
くしゃくしゃの金を回収した。
「絶対おかしいぞ。こいつ。なんかやらかしただろ」
ひとりのおっさんが悔しそうに立ち上がって喚いた。
当たり前だろ。イカサマに決まってんじゃねえか。
オレはニヤリと笑って言った。
「おっさん達に教えてやってもいいんだぜ。
そんじょそこらの奴にゃ見破れねえヤツをさ...」
オレはおっさん達の奢りで酒を腹いっぱい飲んだ。
マスターが鼻くそをほじっている。
目が合うと笑ってごまかしやがった。
「その手でオレの酒は注ぐなよ」
「ちゃんと見とけ。あっはっは」
おえ。
オレは飯をすませて猥談に混ざった。
ひとしきり女やら怪し気な話に興じたあとマスターに
話しかけた。
「なあ、おっさん。あのじじい何者だ?」
「ああ、司祭の事か。あの爺さんの正体は誰も知らんよ」
「嘘つけ。口止めか」
「いや、誰よりも長く生きてるって噂だ。皆誰も爺さんの
若い頃を知らん。」
「若い頃?」
「ああ、名前だって誰も知らん」
「はあ?」
そういや誰ひとりじじいの名を呼んだのを聞いた憶えがない。
「知らんというより古い世界の言葉らしくて
誰にも発音できんのさ」
「なんだそりゃ」
「名前だけじゃない。あの司祭には伝説がいっぱいあるのさ。
あの体格だろ?若い頃素手で鯨をふっ飛ばした武勇伝もある」
「んなわけねえだろ」
「いやいや。その証拠にあのガレイオスっていう
マーライオンの弟子を見ろ。
奴らの種族は人魚と同等もしくはそれ以上の能力と地位を持ってる。
それが一介の海人の年寄りに頭を下げるんだからな」
親父が話しながら鼻の穴に指を近付けたんで
オレはその手を掴んで阻止した。
「ガレイオスの野郎は気に喰わねえ。
スカしてやがるからな」
「あれは次期指導者になる男だぞ。あんまり逆らうと
あとが面倒だ。おとなしくしておけよ」
「やなこった」
「あいつもとんでもない怪力だ。海の種族最強の体力と
知力を誇る連中さ。お前なんか逆立ちしたってかなうもんか」
「ふん、好かねえモンは仕方ねえよ」
「司祭もなんでこう妙なのばっかり連れて来るんだか」
「他にもいるのか?」
「いたけど大抵すぐおとなしくなって神殿務めに励んでたさ。
お前みたいに一年たってもそんな減らず口叩くガキは
はじめてだ」
オレは横を向いてベロを出した。
実はじじいの前では言葉遣いを矯正されつつあったのが
面白くなかったからだ。
じじいは言ったもんだ。
『お上品な連中を嫌うのは勝手じゃが、その口のきき方では
交渉ひとつできんぞ。
まともな交渉ひとつできん奴は吠えて愚痴るだけが関の山じゃな』
私だと。
貴方だと。
てめえとオレでいいじゃねえか。
だがスラムに戻ればいつかそんな連中の裏をかく必要だって
あるかもしれない。ここはがまんするしかない。
『貴方にお会いできて光栄です』
『アナタニオアイデキテコウエイデス』
『お前はどこの怪しい国からきたんじゃ』
やかましい。
ムカついたので講義のあと寄って来た例の人魚を
ブっ飛ばしてすっきりした。
こいつは可哀想な外れ者を哀れんでいるつもりなのか。
実は一番こういう奴が頭に来るんだ。
ここのとこ一日一回はボコっている。
でも寄って来る。なんて奴だ。
「で、鯨がなんだって」
「だから怪力なんだって。酔っぱらって
ケンカなんかされたらどうなるかわかったもんじゃない。
お前だって酒桶に漬け込まれてベロベロだっただろうが」
「忘れたな」
「まあ、自分から乱暴な事をする人間じゃない」
「嘘つけ」
オレは何度頭からあの妙な海に叩き込まれた事か。
あのじじい絶対楽しそうにやりやがった。
口より先に手だ。どこが乱暴じゃないだ。
「司祭は慈悲深くて人望も厚い。
辺境の連中だって彼の世話になってるんだからな」
「.....」
辺境と言うのはスラムの事か。
信じるかよ。オレの街にはそんな奴いなかった。
「慈悲深い聖職者か。そんな奴がなんでこんな
掃き溜めに来るんだ。人の話してる間に鼻くそほじってやがる
店主に説教でもすんのか」
「オンディーン。そのくらいにしておいたがいいぞ」
「その呼び方はやめろ。あのクソじじいが勝手に付けたんだ。
思い出しただけでもじじいブチのめしたくなる」
「やめろって」
「おい、店主いっそじじいが来たら鼻クソ酒でも飲ませてやれ」
「....後ろ見てみろ」
「あ?」
オレが意識を取り戻したのは数時間後だった。
ガンガン痛む頭の後ろでじじいが
博打に興じている声を聞きながら
絶対いつかブチのめしてやると誓った。
そしてオレが教えたイカサマはあっさりじじいに
見破られていた。
じじい、覚えてやがれ。
荒れ果てた海の墓場。辺境。
沈んだ船の残骸。
篭に捕らえられた水死者の魂。
ごつごつした岩、死んだ妖魔の巨大な骨、まだ新しい骸。
はるか遠くまで、大量に転がっている。
彼は巨大な骨の上に立ち、己の領地を見下ろしていた。
冷たい海流の渦巻く音は、心踊る唄。
水妖に捕らえられた篭の魂の嘆きが混じる。
彼は高らかに笑う。青く長い鬣のような髪をなびかせて。
水妖共は、全て己の配下にある。
化け物じみた姿の水妖、妖魔を打ち倒し
勝利の雄叫びを轟かせる。
青い髪は色を変えながら広がり、唇からの咆哮と共に
力強い振動を呼び起こす。
その雄叫びに隠れていた水妖はひれ伏した。
岩や砂の中に隠れながら。
流れて来た、青い肌の男を領主として認めた。
その瞳は蒼く、荒々しい輝きと力強さをたたえている。
体にはまだ癒えぬ、無数の傷跡。
激しい闘いの名残り。
その固い指先には鋭い爪。まだ妖魔の肉片がこびりついたまま。
.....小さな咳が聞こえた。
男は視線をひとつの岩場に落とすと
骨の砦から飛び下りた。
歩きながら腕の肉片と血を拭う。
岩場の前まで来ると、彼は立ち止まり
青い髪をほんの少しだけ整えた。
腰に下げた皮袋から、赤い石を掴み出す。
熱そうに足元に放り投げられたそれは
水の中にも関わらず、焔をあげて燃え始めた。
妖魔の肉を切り取り串に刺し、焔にかざす。
もうひとつ皮袋を取り出すと、きれいな包みにくるまれた
肉片を同じように焔にかざした。
冷たい荒れ地に暖かい焔が燃え上がる。異様な姿をした水妖達も
ふう、と穏やかな動きでまどろみ始める。
彼は岩場に向かって、おいでおいで、と手を振った。
岩場からおずおずと顔を覗かせるひとりの娘。
「おいで、エナ」
娘は彼と同じ青の髪だったが、はるかに透明で鮮やかな蒼。
肌は透き通るような白磁。そしてその半身は魚のそれ。
人魚...海でそう呼ばれる存在。
青い男は獣人、そう呼ばれている。人魚に比べると
肌が青く、いつも鱗とツメのある固い二本足で歩き
毒牙を剥き出した荒々しい風貌をしていた。
獣と化せば巨大な海蛇のような姿で荒れ狂う事から
『海ヘビ』と呼ばれている種族。
獣人は蔑称でもあり、種の特定ができないものは
ひっくるめて「獣人」と呼ばれた。
人魚よりやや下の位置にあった種族は
『海人』と自らを呼び
時に獣人を奴隷として売り買いする者も多かった。
「私の名はエウジェニアです。いつになったら覚えて下さるの?」
「呼びにくい。舌を噛みそうだ」
肉にかぶりつきながら、舌を出して笑う青い男。
寒そうな人魚を己の傍に座らせる。
優美な仕種で座る人魚。暖かい、と男に微笑んでみせた。
青い男は、向けられた微笑みを嬉しそうに眺める。
荒々しい風貌の奥に、恥ずかしそうな表情を浮かべたまま。
「明日には家を作る。風邪をひかないように喰っておけ」
彼は水妖のではない、上質な肉片を人魚に差し出した。
「慣れないもの喰うと腹を壊す」
人魚は笑って、差し出された肉ではなく水妖の肉を取ると
ぱくり、とかぶりついて見せた。
「おい。そいつは固いだろう、エナ」
「エナじゃありませんてば」
海ヘビと人魚の笑い声が海の荒野に響く。
悲痛な唄を歌う篭の魂がしばし黙り込む。
ここは都から遠く離れた辺境の地。
〜青い赤ん坊のこと〜
中央都市から少し離れた小さな街。
うらぶれた路地裏を小走りに走って行く姿があった。
生まれたばかりの赤ん坊の泣き声。
青い髪をベールから零して走って行く女。
人魚、と呼ばれている種族。この街には珍しい姿。
深い紫のフード付き長衣で、真珠色の鱗の半身を隠し
建物に紛れて走って行く。
角をいくつも曲がり、手元の地図を確認しながら、何処かを
探し求めるように走り抜けて行った。
赤ん坊を抱いた人魚。
泣き止まぬ我が子を時折抱きしめなおしては、走った。
やがて街はずれの暗い建物に辿り着く。
入り口で一瞬足を止め、赤ん坊を見つめる女。
嗚咽がこぼれる。青い瞳、青い髪....自分と同じもの。
ただ。わずかばかり肌の色が青白い事と
生まれながらの小さな牙を除けば。
首をふると、階段を駆け上がって行く。
みしみしと古いそれは、嫌な音を立て、人魚を怯えさせた。
「こ...こんにちは.....」
奥に灯がもれる扉を見つけ、そっと開ける。
「...遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ」
しわくちゃの老婆が安楽椅子に腰掛けていた。
キイキイとこれも耳障りな音を立てている。
人魚はベールもとらぬまま顔を背けると赤ん坊を差し出した。
老婆は床に引き摺った黒衣とあまりにも皺だらけの顔で
種族の見当もつかない。
魔女、と呼ばれてはいたが。神殿に属さず、魔法や
闇の 力を持つ、とされている人種。
「ふん...海ヘビかね。この子の父親は」
老婆が覗き込む。赤ん坊はじっとあたりを見つめて
おとなしくしていた。母親の胸で落ち着くように。
人魚は堪えきれず泣きだした。
海ヘビでさえなかったのだ、と叫ぶように話し始めた。
優しかった男は、心どころか姿さえ変わり果て
化け物と化したのだ、と。
見境なく殺戮を繰り返した果てに
自らの命すら断った恐ろしい妖魔だったと。
死ぬ思いで逃れて、ようやく街に辿り着き
やっとこの子が生まれたのに...
人魚は赤ん坊を抱いたまま座り込んで泣いた。
「妖魔にたぶらかされたって事かい、馬鹿な女だね」
「.........この子をお願いします」
「二度と.....まあ、会う気もないだろうねえ、これじゃ...」
「育てられる子じゃ....ないでしょう!」
ヒステリックに叫ぶ。
その目は赤く泣きはらし青い瞳なのか
赤いのか見当もつかなくなっていた。
「....ふん。誰も好き好んで己の子は、捨てまいて。
わかったよ。
こっちで引き取るさね。.....いくらだい?」
「お金なんかいりませんわ...そんな....」
「馬鹿だね、こんな厄介事頼むんだ。
いくらで頼むのか、って聞いてるんだ」
老婆が捲し立てる。どうせ人買いに売るつもりだったが。
人魚はすすり泣きながら、身に付けていた装身具を全部渡した。
高価な宝石、貝、真珠。そして....
男がくれた竜の牙で作った花の髪飾り。
老婆は小さく上玉だ、と呟くと急いで装身具をしまい込んだ。
人魚は赤ん坊の顔を覗く。
やや青白い肌、牙以外、その顔はただの愛らしい赤ん坊だった。
覗き込まれて笑う赤ん坊。
母親は泣きながら笑って、額に唇をそっとあてた。
くすぐったそうに笑い声をあげる赤ん坊。
人魚はそのまま老婆の腕に、その子を渡した。
「おう、よしよし」
老婆があやす。赤ん坊はおや?という顔で老婆を見た。
「ほら、お行き!さっさと!!」
老婆はしっし!と追い払うように手を振る。
人魚は後ずさりながら部屋から出て行く。
たまらず唇から溢れたもの。
それは静かな子守唄。
少しずつ我が子から離れながら唄う人魚。
扉をあけたまま、階段をゆっくり降りながら
最後の子守唄を歌い続ける。
唇の唄に合わせるようにぱさり、とフードが
落ち、青い髪が波に広がって行く。
伝わって行く振動。
老婆でさえ、思わず目を閉じて溜息をもらした。
赤ん坊は子守唄を穏やかな顔で聞いていた。
体中を包み込む優しい響き。
人魚はしばらく唄いながら
振り返り、振り返り遠ざかって行く。
通行人はその響きに誰もが立ち止まった。
やがて。
唄は届かなくなった。
代りに泣き叫ぶ赤ん坊の悲鳴だけが、呼び続けるように
海に響き渡って行った。
その日、彼は怒っていた。
「腐れポンチな呼び方しやがって」
足元には数人の人魚が倒れている。
全員海流神の紋様の入った紺色の長衣。
神学生といった出で立ち。
殴られて気を失っている。
青い髪の少年の前には最後のひとり、年の頃も
同じであろう人魚。
「ちょっと待ってくれよ。だって君の名前は...」
青い髪の少年が腰の引けた相手の顎を狙って
拳を叩き込みかけたその時。
鈍い音と共に倒れたのは青い少年だった。
呆然と立つ人魚を掠めて飛んで来た酒の大瓶が
きれいに彼の後頭部に直撃したのだ。
「おっ、御大!!なんとかして戴けませんか!!」
中年の神官が回廊を走って行く。
先に歩いているのは長身に長いあご髭をたくわえた老人。
片腕に人ひとりほどの布袋を抱えている。
「い、いったい何人の神学生が毎日....」
追いついた神官が言いかけて黙る。
「ほれ、ここにその疫病神がおるわ」
「オッ...オンディー.....」
抱えられた布袋。
そこからぐるぐる巻に縛られ
これ以上ないくらい鼻に皺を寄せ歯をむいた
少年の顔が覗いていた。
「学生共にもあまり田舎者をからかうな、と
言っておけ」
布袋が暴れる。
「うるさいわ!」
軽く空いた手で手刀一発。
静かになる布袋。
「神官とて辺境に飛ばされる事もあるからの。
温室育ちはよろしくなかろ」
神官は辺境という言葉に固まった。
老人は神殿の中でも最も年老いている。
高位のマーライオンですら彼に学ぶ事は多かった。
ただの司祭とは言え、うかつな言動で機嫌を損ねれば
どうなるか知れたものではない。
「まあ、主らは他の学生をしっかり指導せい」
老人は笑いながら布袋を担いで回廊を抜けると
あるひとつの扉の前に立った。
古い言葉が詠唱され静かに扉が開く。
「ここなら雑音もないわい」
老人が中に進み扉はひとりでに閉じた。
波の音。
そこはまるで地上の海辺のように
砂浜と水平線が広がっていた。
地上を模した箱庭。
海鳥や海獣達の姿もあった。
この老人とわずかな弟子以外知らぬ場所。
「このくそじじい!何しやが..」
言葉は波間に消える。
布袋は、力まかせに波間へ放り込まれていた。
老人はのんびり波に流されて行く布袋に手を振った。
「少し頭を冷やしてこい」
身動きも出来ないまま、波に沈んで行く布袋。
巨大な海ガメや海竜が影を作り
近くを通り抜けて行った。
「...!?」
なんだ?こいつら。
泳いでいる生き物は見慣れないものばかり。
海竜なんか童話や法螺話でしか聞いた事すらない。
海底にはゆらゆら揺れる見知らぬ海藻や
異様な姿の生物がうろうろしている。
この海は変だ。
大体深海に浜辺などあるはずもない。
それどころかほとんどの者は
古い童話や伝承物語に砂浜や地上の浜辺を知るのみ。
....魔法の浜辺....?
古い童話が頭を過る。
「........」
いったいここはなんなんだ?
ここ数日学生達と一緒だった。
じじいに捕まえられてから、何度も逃げようとしたが
どうしてもこの神殿から出られない。
じじいの裏をかく事ができない。
くそったれ。
油断させてやる、と少しはおとなしく言う事を
聞いていたが、何から何まで気に入らない。
特に学生達。
ゴタクばっか並べやがって。
学校?なんなんだ、それ。
守られた場所で何を教わるってんだ?
妖魔の倒し方を本で教わってやがった。
魔法はわけがわからねえ言葉が並ぶ。
大体のんびり呪文なんか唱えてる暇があるかよ。
薬学だってスラムの飯炊き女にも劣る。
拾った地上の本を読む方が面白かった。
天文学だって地上の波間から星を見た奴すら
ろくにいない。
それに、女神。
アレを見るとオレは
頭に血が登りそうになる。その度じじいに
ボコられてこのザマだ.......
「?」
中型のクジラらしき生き物が泳いで来た。
複雑な旋律を唱っている。
周り一帯が音楽の振動に震え袋の紐がほどけた。
自由になった体で暖かい潮流に滑り出る。
居心地がいいが、寂寥さえ感じる暖かさ。
浮上して波間に顔を出してみる。
「あ...」
頭上には満天の星。
幼い頃見たあの夜空とよく似た...
いや、あの時そのものの空間がそこにあった。
波のない空間こそ深海のそれと
同じ処理が施されてはいたものの
部屋の一室とは信じがたい別世界が広がっていた。
思わず獅子の心臓星...レグルスを探すが見つからない。
微かな溜め息を洩す。
心地良い波間に揺れながら長くいたくなかった。
じじいが眺めている。
ざばりと砂浜に上がって砂を踏む。
満天の星空の下をはじめて歩いた。
「どうじゃ?」
「.........」
斜めから睨みながら、離れて座る。
「ここはどこだ」
老人は波を見たまま言った。
「夢の跡じゃよ...」
砂浜の彼方に建物だか瓦礫だか知れぬものが
点在していた。
深海とは異質の波がその先端を洗っては
引き返して行く。
「けっ、あんたでも夢なんか見るのか?」
「長いながーい夢....は見たよ」
「ふん」
老人が波間を見つめて呟いた。
「わしひとりだけの夢、ではなかったがの」
「もうろくじじいの夢なんか知ったこっちゃねえ」
「名前に文句があるなら名乗ってはどうかの。小憎」
「....ふん」
少年は立ち上がると
砂地に棒切れで何かを書き殴った。
くそったれ
とてつもなく大きな文字。
「....悪餓鬼が」
苦笑いしながら老人が立ち上がる。
少し警戒して後ろに下がった少年に
懐から本を取り出して差し出した。
「........?」
「地上の天文学の書物じゃ」
ぴら、とめくってみせる。
それは少年が波間から見た地上の星が
ぎっしりと描かれていた。
春夏秋冬の星空。
獅子の一等星はそこにあった。
欲しい。
こんなものはじめてだ。
講義で見た書物とはまるで違う。
恐る恐る老人の顔を見る。
読みたい。
老人は本を差し出したまま知らん顔をしている。
....くれるってのか?
幼い頃危険な潮流をくぐっては
海上に出てわずか数度だけ見た星の海。
あの空に手を差し伸ばした時のように
彼は本に手を伸ばしかけた。
ゴス!
本の角が少年の頭を直撃した。
「....なっ..」
「修行が足りんわ」
老人はからからと笑いながら本を少年に
放ると歩き出した。
「学ぶ気があるなら、秘密の書庫に
入れてやらんでもな...」
老人が言いながら振り向いた時。
少年はすでに座り込んで本の星空に
没頭していたあとだった。
『兄弟子の見解 』
〜オンディーン、弟弟子に関する記述〜
あの少年がここに来てそろそろひと月になる。
老師の気紛れにも困ったものだ。
あんな素性もわからぬ者を神学校に
入れられるとは。
己から学ぶつもりもない者を学ばせる必要が
どこにあるのか、理解に苦しむ。
託された以上、己の勤めは果たすが
態度と言い物腰と言い
全てに問題がありすぎる。
.......ぼやいても仕方が無い。
今日は神学生達と、朝から一緒にしてみた。
様子はとりあえず落ち着いて見える。
神学生服も、黙って着るようになった。
同世代の者達と一緒の方が早く馴染むだろう。
そう考えて講義に出した。
神殿内講堂。朝の講義が始まる。
奴は最後列に座っている。
教壇で始められる講義。
天体と海洋学。
どうやらまともに聞いている。
だが....さっぱりまわりの学生とは話もしない。
学生達も胡散臭そうに見ていた。
数刻後。講義が終わる。
「おい見ろよ、あの青い奴。オンディーネだってさ」
「オンディーヌちゃん」
「...ガラの悪そうな顔だな。
おい、アレもしかしてウミヘビじゃないか?」
「獣人の?そんな連中がなんで」
「獣人ってさ、辺境に流された罪人が獣や妖魔と
交配して出来た種族なんだって」
「うわ、やばいよ、それ」
人魚の学生達が早速品定めを始めた。
まあ、仕方あるまい。
見た目以前に本人に溶け込む意思がない。
「挨拶もなしか」
「礼儀を知らないらしいね」
「.....教えるか?」
血の気の多い学生達が面白そうに目配せしあう。
ほっておくか。身から出た錆だ。
奴はそそくさと席を立ち講堂から出て行きかけた。
「おい、待てよ、君はどこから来たんだ?」
行く手を塞ぐように学生達が取り囲む。
質問の言葉は穏やかだが明らかに敵意を含んでいる。
脅して、相手の出方を見るつもりのようだ。
「ここは神聖な学び...」
学生がひとり飛んだ。
喋っている顔の真正面、奴はなんのためらいもなく
蹴りを入れたのだ。
鼻から血を吹いて数人を薙ぎ倒し
その学生は飛んで行った。
「何を....」
「この...」
「君..」
「やめたまっ」
4人飛んだ。
...........人の話を全く聞いていない。
いや、聞く素振りすらない。
腕に覚えのある者は数人。しかし全員ケンカ口上を
言う間もなく、いきなりやられた。
「い、い、いきなり卑きょ..」「ケンカなら1秒で来い」
喋りかけて殴り倒された学生を
踏んで立ち去りながら
奴が吐き捨てた。
「眠っちまうだろうがよ」
........協調性ゼロ。
好戦的、粗暴。口も悪すぎる。
こんな奴は百年たっても神官など、ましてや司祭など無理だ。
老師には、適正極めて悪し、と伝えるのが妥当のようだ。
全く冗談事ではない。