目次|次ページ
12 傷〜人魚(後)Moonlight Shadow |
月明かりの公園。
スラムで少年を照らしたものと同じ光。
公共物にも関わらず惜しみない細工が施された
オブジェや時計台が並んだ公園。
どれも人魚のレリーフと古い時代の言葉が刻まれていた。
居心地悪そうに膝を抱えた少年。
欠伸をする男。
「そろそろ時間だ」
男が時計台を軽く小突き
思わずブルーの背筋が伸びる。
目立たぬようかがんだまま辺りを見回す少年。
広い夜の公園の片隅。
庭園と言った方がふさわしい。
男がゆっくり立ち上がる。
「お出ましだ」
男が顔を向けた方向から
人目を避けるように人影がやってくる。
目立たぬ色のローブ。頭には黒いレースのベール。
遠目から見ても複雑な光沢を放ちながら
流れる長いひれ。
色鮮やかな中央都、人魚、母親。
何もかもはじめてだった。
少年が頭を傾げる。
えーと。なんだっけ。
「...オレ何て言えばいいんだ?」
「お袋さん、に決まってるだろ」
「んな事わかってら。だからオレが言ってるのは...」
だって隠れて顔見るだけじゃなかったのか?
あたりをおろおろ見回す。
....大丈夫か?
いや、そうじゃなくって、えーと。
だから『母親』がよくわかんねえ。
何するんだっけ?母親って。
人魚だろ?オレ獣人だし...
さっきすっげえきれいなヒレ見たぞ。
あんなもんオレどこにもついてない。
いや、もしかしたら...
少年は外套の下のズボンを引っ張って
覗き込んだ。
「....お前何やってるんだ」
「ああっチクショウ!」
ブルーは頭をガリガリかきながら
近付いてくる人影を見た。
レースからこぼれた長い髪。
己のもので見慣れた色が揺れる。
どきどきと胸が騒ぎ始めた。
慣れない別世界で唯一彼と同じもの。
スラムにはなかった青。
自分につけられた名前の青。
ブルー。
少年は外套のフードをあわてて下ろし
脱ぎ捨てた。
束ねた髪を勢い良く放り出す。
あの人によく見えるように、と。
ほころびかける口元。
「奥さん、こっちですぜ」
男が手招きする。
あわてて立ち上がり、何か挨拶しなきゃ、と
一歩踏み出し凍り付いた。
俯いたままの人魚。
品の良い白い肌。
透明で虹色にゆらめく尾ひれ。鱗は真珠の光沢。
全てが別世界のものだった。
だが、そんなものより.....
白いなめらかな指の先。
その指先を握る小さな手。
青い髪の幼い少女がそこにいた。
母親そっくりの姿。
青い瞳。
青い髪...
「ママ、だあれ?」
可愛らしい声。
答えはなかった。
ブルーは立ち尽くしていた。
すべてが歓迎されていない事を一瞬で感じてしまった。
すぐにでも立ち去りたいような
気恥ずかしさを、持て余しうつむく。
しばしの沈黙。
「お約束の物をお渡しします」
ぎこちない空気を人魚の柔らかな声が砕いた。
その白い手には皮袋一杯の金貨。
男はすかさず受け取り
どうも、と頭を下げた。
「では」
ブルーの顔さえ一度も見なかった。
背を向けて歩き出す人魚の親子。
思わず彼の足が動いた。
つんのめるように後を追う少年。
違う!
違う!!
こんな事を望んだんじゃない!!
肩に手をかけた瞬間。
人魚は立ち止まり振り向いた。
「お...おか...」
何度も練習した単語が途切れる。
見開いた青い瞳で母親を見つめながら
彼はそのまま言葉を失った。
その手には女物の短剣。既に鞘から抜かれていた。
「お行きなさい。人を呼びますよ!
約束の物はお渡ししたはずです。
ここで人を呼べば、あなた方も困るのですよ」
そうじゃない。
言葉が混乱して出ない。焦って母さん、という
一言さえ凍り付いたように出て来ない。
状況すら把握できなかった。
少年はたまらず、すがりつくように母に詰め寄った。
「!!」
白い手の握った切っ先。
振り払うようにブルーの左頬をかすめた。
熱いだけで痛みはなかった。
震える手で短剣を向ける人魚。
初めてブルーの顔を見た。
「お願いだから...行って...」
一瞬だけ目を合わせた後、横を向く人魚。
怯えた少女をしっかりと抱きしめる。
頬の傷が痛みを増した。
流れおちた涙が傷口に入り込む。
血だか涙だか判別がつかなくなった顔。
失望と怒り、悲しみ、寂しさ、いくつもの感情が
渦をまいて沸き上がってくる。
「まずい!ここで騒ぎを起こすな!」
男はブルーを引っ掴むと引きずって立ち去ろうとした。
抵抗する少年。
顔だけを人魚に向けたまま
彼は何か叫びかけた。
男がブルーの口を塞いで
早く行け!と手を振り回した。
足早に立ち去る人魚。
ブルーの眼に後ろ姿だけを残して。
月明かりの公園。
人影もない。
男とブルーもすぐに出て行った。
Image Music/Moonlight Shadow Aselin Debison
次回は「魔獣の少年」を予定しています。
人魚 (前)
暗い洞くつ。
二人の人影が歩いている。
「まだかよ...」
青い髪の少年が呟いた。
「ああ」
手元に視線を落としたまま男が答える。
掌に古びたラベルの小瓶。
「何処まで続いてんだよ、ここ」
「ああ」
「.......」
少年と歩きながら彼はずっと小瓶に没頭している。
少年が溜め息をついた。持ち出した薬。
後先考えずに出て来た街。
置いて来た人....
男は小瓶を眺めて口の端を吊り上げた。
「なんだってこんな道を通るんだ?」
思考とえんえん続く暗闇にたまりかねて
少年は再び問いかけた。
「知りたければ他の道を通ってみるか?」
ようやく男は低い声で答えながら
小瓶を胸ポケットに仕舞い込んだ。
スラムから他の街へ行く事はあった。
中央にとってスラムなどあって無い存在。
流れ者共が勝手に流れ込む掃き溜めの街。
おおっぴらな街道などあるはずもない。
中央都に管理された街は皆水温や水圧が
コントロールされ安定した潮流に守られる。
海上近くに生きる海洋生物と深海の生き物が
同じように存在できる場所。
空気が必要なほ乳類の海棲生物すらドームに
必要な環境を用意され繁殖していた。
スラムの環境がそれ以下にも関わらず。
「仕事で使う道とも違うだろ、ジャック」
「何処へ行くかわかってるだろうが。
いちいちうるさいガキだ。
なんなら洞くつの外に放り出すが?」
「ガキじゃない。ブルーだって...」
少年はもごもごと小さな声で訴えた。
「死体になりたくなきゃ黙ってついてきな。
こないだ見たんだがひでえぜ。
目ん玉飛び出すは、口と鼻から内臓吐いてやがるは...
男か女かもわからなかったぜ」
男が足を早める。
「...知ってるよ」
少年は顔をしかめながら男を追った。
誰かが禁じられた海上へ向かった結果だ。
地上へ繋がる道は立ち入る事すら禁じられている。
簡単な理由だ。
行けば死ぬ。
スラムでさえ流れついた人々の手で整えられた場所だ。
海の者はどこでも生きられるわけではない。
たまに「仕事」でうっかり道から迷った者が
そのままいなくなる。
潮流に巻き込まれた旅人も犠牲になった。
それでもブルーは一度だけ海上へ上がった事がある。
イルカやクジラ達の空調コントロール用に作られた
通路を見つけたのだ。研究者や学者達が使う通路。
海流の流れに合わせて日々移動する通路。
潮流によって通路は狭くなったり広くなったりする。
ブルーが潜り込んだのは狭まって
大人が入れなくなった時の事だ。
通路から飛び出せば耐えきれない水圧が待っている。
無人の数日。
彼はずっと海上に上がり続けた。
尤もこの事は誰にも言わなかったが。
「死にたきゃ好きな道を行きな」
「嫌だよ」
ブルーは着慣れないシャツを引っぱり上げた。
男に渡された荷物を覗く。
ささやかな身の回りの品が入った袋。
持って来た小瓶と引き換えに渡された。
着慣れた外套は置いて来た。
中央であれはあまりにも人目を引く事と
再び取りに戻る事を伝える為に.....
「あっ」
微かな光。
暗い道の先。
同時に暖かい潮流の気配がした。
「いきなり飛び出すなよ。出るのは夜になってからだ。
お前のその頭もちゃんと整えておけ」
ブルーは使い慣れない道具で髪を整えた。
「街の人間になりすますのはひと苦労だぞ。
香油も塗っておけ。
くせえ」
清潔すぎる街。
通路は街の一角の私有地に繋がっていた。
『抜け穴のジャック』
この男に関わる街人がいる事は明白だ。
ブルーにはどうでもいい事だったが。
夕暮れ。
ようやく二人は通路から出た。
やけに重い扉を開いたそこは何処かの家の中庭。
男は慣れた仕種で扉を閉めた。
中庭の飾り岩の陰。
閉めてしまえばそこに通路の入り口がある事など
全くわからなかった。
「行くぞ」
周辺を見回してばかりいる少年を促す。
こざっぱりした服装の男は街人と同じように見える。
種族としても彼は中央に暮らす海人と変わらない。
人魚のように美しい鱗を持った半身こそ無いが
比較的穏やかな風貌に二足歩行の『人間』だった。
「お前は遠くからなら獣人にゃ見えん。
フードは取るなよ。髪だけは少し出しておけ。
その面さえ見られなきゃごまかせる」
「ここ....何処だ...?」
「馬鹿かお前。中央都だと言っただろうが」
「わ...わかってるけど...」
頭上を鮮やかな黄色い魚が飛んで行く。
地上の木々のように珊瑚が整えられて住居や
歩道、公園を彩る。
銀色の魚群が夕暮れの光を
きらきらと反射させ少年の目を細めさせた。
明るい。
蒼と碧の潮流。
今まで来たどんな街よりも適度な暖かさと
鮮やかさをちりばめた街。
暖かい。
彼はシャツを一枚脱いだ。
暖か過ぎるが外套を脱ぐわけにいかなかった。
色鮮やかな街に呆然とした少年。
「しっかりしろ。
これからおふくろさんに会うんだろ」
「え...あ、そうか...」
「頼むぜ、坊や」
「ブルーだって」
歩き出す二人。
男はにこやかな表情で歩いて行く。
時折すれ違う海人。誰も二人を気に止める者はない。
街に溶け込んで歩く二人連れ。
下を向いて歩く少年の胸は
雑多な思いではちきれんばかりだったが。
...会うんだった。
そうだ。母親って言ってたか。
街を歩く。夕暮れはやがて夜に変わった。
まだ人魚は見かけない。
「あいつら高級住宅地に固まってやがるのさ」
男がにこやかなまま呟いた。
「あんまりキョロキョロするんじゃねえ。
焦らなくてもちゃんと会わせてやる。
頂く物は頂いたからな。オレは約束を守る男だぜ」
少年が俯く。
人魚の姿を想像しながら複雑な思いが交錯する。
覚えてもいない母親...母親ってなんだ?
歩く歩道は次第に瀟洒さを増していく。
「!」
少年が息を飲んだ。
すれ違った人魚。
美しい飾り帯と複雑な彩色を施された衣装を
纏った婦人。隣には同じような姿だが
幾分抑えられた装飾の男性。
顔は見なかったが半身から流れる
半透明なひれが海人や獣人と決定的に違う事を
ほのめかすようにゆらめいて去った。
「...お上品なこった....」
男は少年の髪を眺めてせせら笑った。
「もうすぐだぜ。
おふくろさんが会いたがってる。
良かったなあ....坊主」
「ブルーだってば」
少年は緊張した面持ちで別世界に立っていた。
次回は人魚(後)Moonlight Shadowを予定しています。
動きだした歯車
その夜リラはいらついていた。
他の子供達はもう眠った時間。
大きな台所でブルーが海獣の骨やひれを
砕いては薬瓶に詰めている。
積み上がった材料の山は
さっきからちっとも減っていない。
ブルーの手ものろのろ動いては止まる。
手を止めては溜め息をつく少年。
「いいかげんにおし!ブルー!
あんたさっきから何をぼんやりしてるの」
「あ...ごめん。リラおばさん」
あわてて少年が手を動かした。
石盤に鎚を振り下ろし骨を叩く。
「あっ...」
「ちょっと、その石盤割らないどくれ。
なかなか固いものは手に入らないんだから」
今度はリラが溜め息をついた。
振り下ろした鎚は滑って石盤にめり込んでいる。
「骨だよ。骨を砕くんだよ。全く。
始めてじゃないだろ。
その調子じゃ夜が明けちまう」
リラが鎚を取り上げて叩き始める。
いらただしい気分のせいか自分も石盤を
叩いてしまった。
「ごめん...」
「心配な事でもあるのかね。全く。
あんた小さい頃からやってただろ。
いつもならこのくらいあっと言う間だったじゃないか」
リラは焦っていた。
薬を作る時は必ずブルーに手伝わせてきた。
大半のものなら彼ひとりでも調合できる程
手慣れていたし、リラも教え込んできたつもりだった。
だが。
もうそろそろこの少年はいついなくなっても
不思議ではない年になっていた。
出来る事ならそれまでに知識を伝えておきたい。
彼が何処へ行っても何か助けになるように。
それなのに、この少年と来たら
ここ数日上の空。
ぼんやりしてあちこちでも叱られている
声が聞こえていた。
多分、自分でもこの先の事を考え込んでいるのだろうが...
「いいかげんにおしっ!もう、いいよ。
仕方ない。あんたこれからあたしの家に行って
明日の材料を取って来ておくれ。
そしたらもう寝ていいから」
リラが少年を叩き出すように外に追い出した。
手に書き殴った材料メモをねじ込んで。
深夜の海底。
北の海のスラム街。
ブルーは子供の家を出てとぼとぼ歩き出した。
彼はずっと考え続けていた。
自分の将来。
数日前、抜け穴のジャックが持って来た話。
自分がここから出される近い日の事。
そして覚えてもいない親の事。
物心ついた頃には同じような孤児達と集団で
暮らしていた。
寂しいとか思う暇もなく歳月は過ぎたし
この街ではうらやましがるような親子なんかいない。
流れ者と売られた子供しかいない。
街ぐるみが犯罪の組織になって、一定時期ごとに
子供が連れて来られる。親子なんかいたとしても
すぐ子供がいなくなった。
だけど面倒を見る大人達はいる。
飯炊き女のリラがちょうどブルー達の
母親代わりになっていた。
大好きだ。
口は悪いが優しい。仕事で遅れて戻っても
遅くまで待っていてくれた。
ケガや病気をした子供はこっそり
リラが薬を用意して手当てしていた。
それでも致命傷を負った場合は見捨てられたが。
母親はリラみたいなんだろうか。
父親はどんな顔なんだろう。
海蛇の獣人といくつか混じっているんだろう、と
自分の事は聞かされて育った。
小さな牙。身を守る毒を持つ。
特殊な『声』を発する喉の器官。
やや吊り気味の青い瞳、同じ色の長い髪。
海蛇の種族が青い髪や目を持つ、とも
聞いた覚えがある。
ジャックは人魚なんて言ったけど他の大人が聞いたら
ひっくり返って笑うだろう。
『声』を発する時や怒った時の顔は化け物じみて
一緒にいた子供達すら怯えた。
そんな自分に人魚の母親?
口が耳まで裂けて牙を剥く人魚なんか聞いた事がない。
多分何かの間違いだ。
ブルーはそんな事を道すがら考えて歩いた。
リラの家はよく知っている。鍵の場所も教えてもらってる。
親代わりだったから。
.....母親か......。
思考が堂々巡る。
どんな姿なんだろう。
どんな顔をしてるんだろう。
どんな目や唇をしてるんだろう。
リラおばさんは幼い頃
泣いた自分をふっくらとした
腕の中で抱きしめてくれた。
今でもその感触はなんとなく覚えている。
もしかして....
ジャックの....
言った通りだったら。
ブルーはリラの家のドアを開けた。
石灰のような白い壁。
机の上で焔の石を灯す。
ぼんやり照らされた棚からいくつかの
瓶を取り出して行く。
ブルーはずっと何かを考え続けていた。
瓶を揃えながら、ちらちらと
あちこちに目をやる。
いつもなら何処に何があるのか、材料や
大抵の物ならわかっていたから
さっさとすませられる作業。
だが彼はいつもあまり見ない場所にばかり
目をやっていた。
ジャックの言葉が頭を過る。
手配の交換条件。
固く口止めされている。
もし、中央に行って何かあった時リラや他の者を
巻き込む事になったらまずい、と。
それにべろべろじいさんが死んだ時、リラは物凄い
剣幕だった。
まともにくれ、と頼めるシロモノではないだろう事は
わかっていた。
溜め息が溢れる。
持ち出すしかない。
ジャックが言った。
いつか立派な魔術師になったならリラはきっと
喜んでくれるだろうと。
独り立ちしたらリラを迎えに行って
楽させてやりゃあいいと。
自分もどうなるのかわからない不安な未来より
魔術師の下で働く方が良かった。
薬学はリラからかじっていたし、知らない事を
学ぶのは嫌じゃなかった。
海だけでなく天体や地上の事も知りたい。
魔術師の下働きなら教えてもらえるはずだ。
体が細くても重い岩を運ぶわけじゃない。
ブルーはリラの机の引き出しを引き開けた。
棚の奥、壁飾りの裏、器具の倉庫、あちこち
覗いては探った。
一度見たあの薬。
瓶の形や色も覚えている。
しばらく探し回るが見つからない。
早くしないとリラが不審に思うだろう。
しばし考え込む。
そういえば....。
隅に置かれた古い箱に目をやる。
祭壇。
死んだ人間の想い出の場所。
「おばさん、ごめん!」
ブルーは箱の中から小瓶を見つけだした。
しばし黙り込む。
そこには若いリラらしき女と見知らぬ男の
絵姿。心なしか風景がスラムより
暖かそうに見える。
小さな貝細工の髪飾りが傍に置いてあった。
そっと小瓶だけ取り出して唇をかむ。
丁寧に箱を元に戻す。
漁った場所も急いできれいに片付けた。
家のドアの鍵を元通りにして駆け出す。
言われた材料とあの薬を握り締めて。
夜の道。
翳った海の光は月明かりのように
走る少年の背中を照らした。
子供の家。
窓にはまだ灯がひとつ。
リラが自分を待っている。
ブルーは扉の傍に材料を置いた。
物音をたてないように。
おばさん、ごめん....
唇をかんだまま何度も胸の奥で呟く。
多分、もうしばらく会えないだろう。
早ければ早い程、迎えに戻る日も近い。
それまでは....。
...さよなら、リラおばさん....
ブルーは全力で走り出した。
住み慣れた子供の家から。
窓の灯が遠ざかる。
振り返れば決心が鈍る。
彼は一度も振り返る事なく走り去って行った。
街の裏路地へ。
あの男が待っている所へ。
不安、罪悪感、希望、いくつもの想いを胸に
交差させながら彼は走り続けた。
海の月だけがそれを見ていた。
少年は街を出て行く。
やがて。
ブルーが戻らない事をいぶかしんだリラが
全てに気付いたのは数時間後だった。
「ブルー!!」
持ち出された薬。
流れて来た人買い男の良くない噂。
リラは胸の潰れる思いで街中を走り回った。
まだ明けぬ街。
あの男があの子を連れて行ったのだ。
選りによって一番最悪な男に。
何人かの裏商人に尋ねてまわりながら
全てを悟った。
あの少年がこの街に戻る事はない。
もう2度と。
リラは街外れの道で座り込んで泣いた。
目印のように落ちていた彼の汚れた外套。
あの子はこの道を通って何処か遠い世界へ
行ってしまったのだ。
避けられない事だと知っていたが
もっときちんとしたものを彼に持たせてやりたかった。
新しい外套と知る限りの知識、そして。
もう一度だけ抱き締めてから送り出したかった。
リラは汚れた外套を抱いたまま朝まで
そこから動く事はなかった。
赤ん坊で亡くした我が子。
ブルーはちょうど同じくらいの年頃だった。
彼女は3度目に枯れる程泣いた。
そして祈った。
海流の女神と知る限りのすべてのものに。
どうか彼が強く生きていけますように、と。
ブルーは15歳になっていた。
暗い船底。
難破船。
欠片の赤い石がぼんやりと辺りを照らしている。
焔の石。
少年は古い難破船の底で
本を開いていた。
金貨、銀貨、宝飾品の小山に腰かけて
厚い表紙の本が一冊。
水に沈んで壊れそうな
地上の博物誌。
少年は宝物を扱うように
そっと項をめくる。
半分以上もう分解してしまった本。
一枚抜き出しては
まだ残った彩色に目を凝らす。
字はわからない。
しかしそこには様々な地上の生き物の姿や
天体の図版があった。
海の少年が見た事のない生き物。
星だけは見た事がある。
禁じられた道を通って
海上に出た。
ある老人の大法螺を真に受けて
辿った秘密の道。
空には巨大な獅子がいる。
そう聞いて見てみたいと願っていた。
一枚の絵に満天の星空と獅子。
その胸にはひときわ光る星が描かれていた。
彼は本をめくり続ける。
開く度に壊れていく。
色も褪せ、消えていく。
少年は仄暗い難破船の底で本を開き続けた。
わずかな焔が金銀に反射して
地上の本を照らしだす。
老人の法螺話、地上の生き物
空にある星、月、太陽、風。
彼の心の中でそれは豊かに息づいていた。
童話の魔法の浜辺にすべて
その秘密がある。
彼は物心ついた頃からそう信じている。
行ってみたい。
南の魔法の浜辺へ。
そこには見た事のない生き物や人々が
暮らしている。
焔は不思議な燃え方をして
空にも波が浮かぶ。
乾いた潮流。
海上に顔を出した時感じたものは
『風』だと老人は言った。
秘密の難破船。
古い沈んだ遺跡。
遠い昔の生活の名残り。
彼はよくここでひとり過ごしている。
海の歌を口ずさみながら
本を開き思う。
まだ知らぬ遠くへ。
行ってみたい。
行けるところまで。
どこまでもどこまでも。
彼はいつもただ
それだけを夢みている。
暗い舩の底、
黄金や金銀の財宝に腰かけて。
水夫の亡霊達が陰鬱に座り込んだ海の底。
少年の歌に合わせて
ふてくされ気味に歌う。
少年は本を戻すと何ひとつ持たずに立ち上がった。
亡霊達は財宝の金貨をひとつ彼に差し出した。
骸骨の顔で笑いながら。
少年は首を振って出ていく。
悔しそうな仕種で亡霊達は金貨を放った。
転がったそれはどろりと溶けて
亡霊の足の鎖と変わる。
誰もいない場所。
難破船から陰鬱な歌声が響き続けている。
抜け穴のジャック
スラム街。
場末の路地裏に向かって
歩いて行く二人の人影。
ひとりは無精髭で30絡みの男。
肩程の濃紺の髪に白髪が混じり
実年齢より老けて見える。
もうひとりは長い髪の少年。
汚れたボロ布のような外套に
適当にくくられた青い髪。
海の灯が夜のそれへ姿を変えていく。
夜が来る。
「オレ、もう戻らなくちゃ叱られる」
青い髪の少年、ブルーが立ち止まる。
「心配ない。ちゃんと言っといた」
男が面倒くさそうに言う。
そのままブルーを連れて路地裏の奥へ入って行く。
夜の街。安酒場が開き
博打、裏取り引きで賑わう場所。
女達がすれ違う。
強い香り。
ブルーのくしゃみに振り返ってけらけら笑った。
「んだよ。ケバいねーちゃん」
笑われた少年がぼやく。
「ありゃ、野郎だ」
「え」
「年喰うと素じゃ客が逃げ出すからな」
「女は?」
「街の外でいい暮らししてるさ」
男はつまらなさそうに言うと
人気のない暗く細い曲がり道へ入った。
少年にこっちだと手招く。
少年は腹が減った、とぼやきながら
狭い道に入って行く。
場末の喧噪が遠くなる。
このまま進めば街の外へ出る。
氷と荒れた潮流、荒んだ水妖が棲む
スラムの中でも指折りの廃虚へ続く。
滅多に人も通らぬ道。
やがて男は足を止め
おもむろに口を開いた。
「..お前、作業場でブッ倒れたんだってな」
「え?ああ、鉱石を運んでた時...」
「まずいねえ...」
うつむくブルー。
食糧事情がもともと良くない上に
『運悪く』ブルーは子供達の年長だった。
食事が足りないと小さな子供が夜通しで泣く。
眠る事ができない。
朝になれば力仕事に出なければならない。
たまりかねて分けるしかなかった。
それでなくとも病気になった子供は
捨てられる、そう脅され彼自身怯えてもいた。
「元締めが役に立たん、と怒ってたぜ」
「......」
「こんなヒョロヒョロじゃ、無理もねえがな」
ブルーは己の腕をじっと見ていた。
「まあ、でもお前さんは運が良かったな」
「?」
「その青い頭のこった」
男は少年の髪を顎で指した。
「そんな色、ここのどいつもいやしねえ。
噂じゃ人魚連中とそっくりな色だって言うじゃねえか。
人魚の血を持ってるなんざ大したウリだろ。
せいぜい親に感謝するんだな」
「.....皆は海ヘビの面構えだって言うよ」
少年は肩を竦めて横を向いた。
大人達は彼を海ヘビの種族だと言ってたし
今まで一度だってこれで得をした事はない。
むしろ狩りの時に目立つ色だと
囮代わりに放り出されて
死ぬような目に遭わされた事は
あったが。
「ふん。本当だかどうかは関係ねえよ。
そのお奇麗な青い頭がそれらしく見えてりゃ
どうでもいいこった。
バカはすぐ....いや、なんでもねえ」
男が黙る。
「オレ...もうここにいられないって事?」
「ん........まあ...な」
15にもなればこのスラムがどんな街なのか
大抵把握出来る。
男女ともある時期に未来を決められる街。
もう何人もの子供達が何処かへ行った。
戻って来た者はいないから、その先の事はわからない。
「嫌か?」
「わかんねえよ。そんなの。でも...
オレはいらねえ、って事なんだろ」
「まあ、力仕事ができねえんじゃ、仕方ない。
小手先仕事なんざガキで充分だからな」
少年はうつむいたまま。
「ひょろひょろなりにも役に立つって、認めさせられりゃ
また話はまた別なんだがね...」
慰めるように男が言った。
「別...って?」
少年はさっきすれ違った『女達』を
思い出して嫌そうな顔になった。
「あはは。他人の事をそう決めつけるモンでもねえだろ。
それにそうなら、お前はここから出てく事もねえだろ?」
「あ...そうか。じゃあなんだよ?」
「このオレの仕事がなんだか知ってるか?」
「旅商人だろ」
「その通り。オレはスラムから中央の都市まで幅広く
商売してるわけだ。『抜け穴のジャック』と言えば
ちったあ通りのいい名前だと思うぜ。」
「抜け穴?」
「中央はセキュリティが厳しいからな。うまい事
パイプが必要だ。物を流通させるにしても
しんどい場所と繋がってる程商売になるのさ」
「何を売るんだよ?」
男が目を細めた。
「なんでもさ...」
「で、お前に話を戻そう。
オレには中央にいろいろ融通を利かせてくれる
相棒がいてな。そいつは魔術師をやってる」
「魔術師って人魚以上の奴しかなれねえんだろ。
なんであんたの....」
言いかけて少年は口を閉ざす。
少しは礼儀をわきまえていた。
「そこが腕って奴さ」
男は気にせず続けた。
「お前には協力してほしいんだよ。
融通を利かせる相棒に多少はいい話を振らねえとな」
「協力?」
「そう。奴さんには弟子がいなくてな。
修行が厳しい、ってんで皆居着かねえのさ。
人魚なんざヤワな連中だからな。
獣人の半分も体力がねえ。
そこで、お前を放り込むってワケだ」
「え...オレが?獣人なのに?」
「いいか。その頭の色は間違いなく
奴らの血が入ってる証拠だ。
お前はこんなとこでくすぶってる身分じゃない
かもしれねえぜ....
見ろ。まわりの連中を。
お前がヤサ男なのも獣人以外の血が
入ってるせいだとしたら?
ま、どのみちだ。
師匠の下働きをしながら魔術師の勉強が出来るって
コトだな」
男はやや神妙な声色に変えて言った。
「嫌か?」
少年が顔をあげた。
男はブルーの頭を撫でながら笑った。
「ふさわしい仕事なら、きつくてもがんばれるよな」
少年の表情が明るいものに変わっていく。
礼をしどろもどろに繰り返しながら。
いいよ、と苦笑いで男は少年を黙らせた。
そしてふ、と考え込んだ。
「そうだ、お前、一度お袋さんに会ってみるか?」
「えっ...?」
男は辺りを見回し声をひそめた。
「元締から、赤ん坊のお前を持ち込んだばあさんの
話を引っ張りだしたんだけどな...」
生まれてすぐスラムに引き取られ
親の概念すらない少年。
リラを母親のようなものだと感じてはいたが。
「だって、どこにいるかもわからないってリラおばさんが..」
「そりゃ捨てたガキ...いや。
とにかく事情があったのさ。修行に行く前に一度だけでも
顔見るってのも励みになると思ってな」
「母親....。なんかよくわかんねえよ。オレ」
「まあ、知らない事は経験しな。
オレもお前が立派な魔術師になって時々
優遇してもらえりゃお互い様って奴さ」
少年は不安そうに男を見た。
人魚が住む都市は海底都市の中でも、最高ランクに
位置している。自分が入れたのもそのほんの隅の
街までだ。
そこすら歩いているだけでつまみ出される。
とても中央になんか。
「ま、会いたくなきゃ別にいいんだが」
男が素っ気なく言い放った。
あわてて少年は頭を横に振る。
「本当に?」
「オレは『抜け穴のジャック』だって言わなかったか?
こう見えても人脈は広くてね。潜り込んで顔を眺める
程度なら、問題ない。
ああ、でも手間賃は頂くぜ。
タダでうまい話ってのは世の中ナシだ」
「金なんかないよ」
「ちょっと持ち出して欲しいモンがある。
そいつさえ手に入れば何もかも
オレがうまく手配してやれるんだがね」
にこやかにウィンクして見せる男。
「持ち出す?」
「ああ、絶対誰にも言うなよ」
男が耳打ちして囁いた。
「あの飯炊き女が持ってるモノなんだけどな....」
路地裏をひとり少年が歩いて行く。
心なしか考え込むような表情と足取り。
街灯に照らされた少年の後には、長い影が伸びていた。
べろべろじいさん
冷たい雪の朝。マリンスノーと呼ばれる雪。
氷の街に降る地上のものとは異なる雪。
ひと仕事を終えた男達が街に戻って来る。
汚れたボロ布を何枚もまとった、暗灰色の男達にまじって
ひとり青い髪の少年が、勢い良く街の門を開ける。
手には抱えきれない程の荷物。
大人達の先に立ちころがった石を
蹴飛ばして駈けて行く。
「こら!ブルー!!転ぶなよ!傷が入ったら値が下がる」
後ろに続く10人程の大人。
それぞれ手には折取った珊瑚や
大きなタイマイの死体、貴石の原石をかついでいる。
少年は広場まで止まらずに走った。
息を弾ませて、氷の地面を蹴る。
広場には早朝にも関わらず、たくさんの住人が待っていた。
「リラおばさん!」
少年は一目散に、大鍋をかき回している女の傍へ駆け寄った。
「でかいナイフ貸してよ」
「勝手に持って行きな」
女は大鍋に、大量の海藻を放り込みながら汗だくになっている。
少年、ブルーはどさり、と袋をおろすと
ボロ布の厚い外套を脱ぐ。
大事そうに畳むと汚れないよう脇に置いた。
汚れたところでさほど変わらないシロ物ではあったが。
袋にはタイマイ..海ガメと
食べられる肉厚の水妖が何頭か入っていた。
イルカに似た小型で比較的おとなしめの水妖。
大きなナイフでタイマイの甲羅と肉を解体して行く。
大鍋を沸騰させる焔の石の傍は暖かい。
手はかじかむ事もなく、肉片を積み上げて行く。
「おばさんが欲しい、って言ってた奴がいたから捕まえた」
水妖の肉を大鍋に放り込みながら、素早く煮えた貝を
つまむブルー。
女はこつん!と少年をこづくと
味見をしろ、とスープを椀に注いで渡した。
「あちい...」
ブルーはスープをすすりながら辺りを眺める。
大人達の狩りに混ざったのはつい最近の事だ。
こないだまでは子供達と資源を拾い集めるのが
仕事だった。
「リラおばさん、いい味じゃねえの?」
少し得意げに椀を置く少年。
「小僧ッ子が生意気な」
女はケラケラ笑って戻って行く少年を見送った。
大人が甲羅を回収して行く。捕る事を禁じられた海ガメや
希少珊瑚、資源、貴石、宝貝...
ブルーはそんなものより、肉や内臓、皮を取るのに夢中だった。
こんな日は広場で誰にでも食事が振る舞われる。
自分達もお腹いっぱい食べられる。
狩りについて行くのは楽しかった。
珊瑚のまわりには食べられる水妖が、ウヨウヨしている。
どこを刺し貫けば、一発で仕留められるかすぐに覚えた。
タイマイは甲羅を傷つけぬよう、大人達が仕留めた。
たくさん捕れば、珊瑚も楽に採れるし、食べ物が増える。
よその街で取り引きや、盗みの手引きをするより楽しかった。
食事時。
積み上がった肉は大鍋にどんどん入れられて行く。
ブルーもたっぷりのスープにいつもより
多めに入れられた肉を手渡された。
「他の連中が来る前に喰っときな」
「おばさん、ありがとう」
半分食べると、大きな椀を外套でくるむ。
こうしておけば冷めない。
賑やかな広場を急いで出て行く。
氷の路地。暖まった体で駈けて行く。
零さないよう慎重に。
「じいさん!いるかい?」
小さなほっ立て小屋を覗く。聞こえて来る高イビキ。
「ああ、やっぱし...」
勝手に上がり込み、イビキをかく老人の耳もとで怒鳴る。
「クソじじい、起きねえか!!こらー!」
「...んあー?」
小屋の主を無理やり起こすと大きな椀を差し出す。
「広場で待ってろって言っただろ。じいさん。酒ばっか
飲んでんじゃねーよ」
まだ暖かい椀を寝ぼけ半分のまま受け取ろうとする老人。
「駄目だって、じいさん
落とすからちゃんと置いて喰え」
「もうろく呼ばわりするな、ケツの青いガキが」
「べろべろじいさんが何言ってやがる」
古いスプーンを持つ老人の手は、小刻みに揺れながら
ズルズルとスープを口に流し込んで行く。
伸び放題の口髭と震える唇に
少年が頭を振る。
「なあ、じいさん..酒やめとけよ。悪いんじゃないか?」
「うるさいわい、ひよっこ。
わしゃあこう見えても不死身の男と呼ばれて
七つの海で財宝を探した凄腕の
トレジャーハンターだったもんよ」
「...こないだはジゴロって言ったよなー」
笑いながら突っ込むが、老人の話は面白かった。
いつもなにかしか食べ物と引き換えに
物語をせがみブルーは育ってきた。
今日は特別いつもより豪華な食べ物。
老人はいつもより大冒険の話を張り切って聞かせた。
「南の島の魔法のヤシにわしは初めて登ったんじゃ。
きれいな月の姫がおってな、わしに惚れて
不死身にしてくれたんじゃ。
海に帰る時泣かれて、そりゃあ困っ....」
カーっと痰を吐く老人。
いつもの事だ。見慣れている。
だがその日は血へど、と言った方が良かった。
しかも収まらない。
「じいさん、大丈夫か?言わんこっちゃない...」
背中をさすって収まるのを待つ。
「薬ないのかよ?じいさん」
「そんなもの、不死身のわし....」
ゴフゴフと血を吐く老人。
うろたえるブルー。
汚い床に血溜まりが広がる。
苦しさに体を折り曲げた老人は、呻きながら呟いた。
ひとりごとに近い。
「...アレがあったら... 」
「え?なんだって」
「夢の薬...あれさえありゃこんな苦しまんですむ。
酔うたように楽に...眠れるのに.....」
老人はブツブツと何度も
その名前を繰り返し呟いた。
「全く..薬の金も飲んじまうからだよ。
待ってな、じいさん」
異変に急いで飛び出す。
今日はいつもよりやばそうだ。
金なんか持ってないけど、薬さえあれば盗んじまえ。
飲ませて治ればこっちのもんだ。
リラおばさんにも聞いてみよう。
薬草に詳しかったし....
広場へ駈け戻る。外套は忘れたまま。
賑やかな広場、人の間を縫って大鍋のそばに立つリラを呼ぶ。
「おばさん!大変だ、べろべろじいさんが...」
「ブルー、どこに行ったかと思ったら...」
「血が...多いんだ。いつもより!」
息を切らせて叫ぶ。早く薬を持ってかないと。
「...あのじいさんなら、薬草を持ってっても
すぐ酒代に変えちまうんだよ。放っときな」
「放っといたら死んじまうよ!
ええと..そうだ
夢の薬が欲しいってどこにあるのか知らない?」
リラの眼が釣り上がった。
「ブルー!あんた何を持ってくだって!?」
「....え...薬に決まってるだろ。
だって....じいさんが...楽になるって...」
リラの剣幕にしどろもどろで答える。
半ば育ての親に近い存在。
しかも予想すらしなかった反応。
「そんなもの、子供が持って行くもんじゃないよっ!」
彼女は続けて激しい声を少年に叩きつけた。
「じゃあ、じいさん見殺しにするのかよ!」
なんて冷たいんだろう、そう思いながら
ブルーはリラを睨む。
いつも口は悪いが優しかっただけに。
「ブルー...あんた..そうね....
知らないんだね...」
少年の剣幕に思い直したように呟く女。
この少年は薬が治す治療のものだ、と思い込んでいる
そう判断したのだ。
『夢の薬』...安楽死の為の毒。
眠るように死ぬ事ができる薬。
生きる事に耐えられなくなった者が
財産を投げ打って求める最後の『夢』
公に使えずひっそりと
裏で流通している高価な薬。
当然スラムに生きる者が使うような物ではない。
「いいよ...あたしがひとつだけ持ってる。
死んだ亭主に使うつもりだったのが。
仕方がないね...」
リラが溜め息混じりに告げた。
睨んだ眼があっという間に
安堵の色と入れ代わるブルー。
「でもね、あたしが行くよ。
これはあんたが持って行くもんじゃない。
あんたは来ない方がいいから待っておいで」
「オレ、手伝う」
先に駆け出すブルー。
その後ろ姿を見て大きな溜息をつく女。
仕方ない、と歩き出した。
元来た道を走るブルー。すぐに薬が来る、と知らせてやりたかった。
目指すほっ立て小屋。
勢い良く飛び込む。じいさん、どんなに喜ぶだろう。
「!」
路地を歩く女。家から薬を持って来た。
薬学に詳しく、若い頃は中央の都市で薬を調合して
売っていた。この薬がどんな者に必要なのか
そして、調合方法も知っている。
だが作ったのは一度だけ。
亭主が妖魔に襲われて致命的な傷を負った日。
まだ若かった。
結局使わず、手を握りしめて見送った日の事を
今でも覚えている。
「ブルー?」
老人の小屋にいるはずのブルーがいない。
だが狭い小屋。
すぐに理由がわかった。
壊れかけたベッドに横たわる老人。
口元はきれいに拭き取られていたが
胸元に大量の血痕があった。
飲んだくれて皆から
べろべろじいさんと呼ばれていた老人。
酔っぱらっていない時の方が珍しかった。
嘘話ばかり並べ続け子供以外
誰からも相手にされなかった老人。
さんざん南の海や世界中の冒険を
語り続けた挙げ句
このスラムから出る事もなく死んだ。
とうの昔に予測されていた死。
夢を語り続けた男。
最後くらい『夢』があってもと薬を持って来たが....
そのまま外へ少年を探しに出る。
少し歩いた丘の上で彼は座っていた。
「風邪をひくよ」
外套をかける。少年は呆然と座っていた。
「ブルー、あんたのせいじゃない...」
子供にこんな薬を渡して、使わせるくらいなら
こうなった方がまだ良かったんだ。
女はそう思った。
「ブルー、よくお聞き。
あんたはもうすぐ大人になる。
もっと辛い事や悲しい事がたくさんある...
男の子だから乗り越えてかなきゃならないんだよ。
でもね....今は泣いていいんだよ..」
驚く程静かに泣く少年を見ながら
いつかここの子供達が必ず迎える
厳しい未来を考えていた。
この子は乗り越えて行けるだろうか...
こんな場末のスラム街だからこそ
子供くらい笑っていてほしい。
8割方の大人はそう考えている。この子がどうか
残りの2割の大人達のようにならぬ事を祈る。
自分は、ひたすら無事戻った子供達に
暖かい夕食を用意するだけだ、そう思いながら..
もうすぐブルーは15になる。
水鈴の鳴る丘〜Blue Bell Knoll
スラム街。氷と冷たい潮流に囲まれた冬の町。
夕暮れ時、いつもよりやや寒さが
和らいだ穏やかな日。
今日は珍しく何も仕事が無かった。
子供はあちこちで遊びまくる。
少年はのんびり岩に寄り掛かって街を眺めていた。
うす汚れたゴミ箱、ボロい建物
ススけた怪し気な看板、せまい路地
濁ってゴミと混じって出来た
新しい氷。
空き缶を蹴飛ばす。
小高いその場所からコロコロからん、と軽やかな
音を響かせ転がって行く空き缶。
転がった空き缶を小さな汚ない手が拾って呼ぶ。
「ブルー!鬼ごっこ!!」
「ば〜か、ガキじゃあるまいし」
オレはもう14なんだぞ。
子供の遊びなんかやってられっか。
へっと笑い、手をしっしと振る。
チビ共は缶蹴りを始めた。
子供達の騒ぐ声に混じって何か聞こえる。
かすかに聞こえる鈴のような音。
ブルーは音の方向を覗き込んだ。
小さな丘の上。
鈴の艶やかな音を響かせて
誰かが登って来る。
長く紺色の髪に桃色の髪飾り。
ブルーより少し年上の少女。
腰に巻いた飾り帯に下げられた水鈴の音。
彼女はいつもより丁寧に髪を結い
服装も晴れやかな色に彩られていた。
唇に淡い紅。
汚い街に普段こんな姿の者はいない。
ブルーは無遠慮にじろじろ眺めた。
無意識に己の髪を整えながら。
リン、と鈴の音を響かせて
少女はうす汚いなりの少年に微笑みかけた。
「.....あんた誰だ?」
「この鈴をあげる」
「あ?」
女の子は問いかけには答えず鈴を差し出した。
「...いらねえ」
鈴なんかもらったって、どうすりゃいいんだ。
女の子じゃねえんだから。
プイッと横を向く。なんだかよくわからないけど
髪から甘い良い匂いがした。
「あたし、街に行くのよ」
「え?」
唄うように少女が告げた。
鈴が鳴る。
「街ってあの...賑やかな都市の事?」
「そう。明日行くの。だからきれいな服を着て
香油を塗って皆に見せてまわってるの」
「ふーん。べろべろじいさんとか
飲んだくれの おっさん達にも?」
「うん。でもすぐどっかへ行っちまったわ」
「...街に何しに行くんだ?」
「さあ、大人が連れてってくれるって言うから行くの」
「いいなあ..」
「あんたも、もう少し大きくなったら行けるわよ」
「....街なら仕事でたまに連れてってもらったけど
なんかずいぶん雰囲気が違うなあ....」
少女の姿をまじまじと見ながら思い出す。
仕事と言っても、平和ボケした街人から
懷のものをかすめ取ったり
大人のうしろめたい取り引きの手伝いだの
おおっぴらに街なかを歩いた事なんかありゃしない。
当然服なんか汚いいつものフード付き
ボロシャツだ。
「そりゃそうよ。あんた男の子じゃない。こういうのは
女の子だけなのよ。特別....
でもあんたの髪...青くてずいぶん変わってるのね」
「...知らねえよ。そんな事」
彼女の髪は濃い黒に近い紺色だった。
深海の暗い波の紺。
他の連中も地味な色が多かった。
尤もそれでオレはブルーって呼ばれてる。
ぞんざいな名前だ。
別に気にとめた事もない。
「おい、そろそろ戻れよ」
向こうからひとりの男が少女に声をかけた。
見覚えがある。こないだ菓子をもらったっけ。
「よお、青い坊主」
「ブルーだよ。こんちは」
少女を迎えに来た男はよく
あちこちの街をまわって仕事をしている。
そう皆が言っていた。
大抵の者はこの寒い街にとどまって
暖かい中央や遠くの街に行く事はない。
『仕事』を除けば。
少女が嬉しそうに微笑む。
鈴が鳴る。
昨日まで古い暗い色の服を着て
重い鍋や桶を運んでいた少女。
別人のように愛らしく見える。
「坊主...いや、ブルー、お前も行きたきゃそのうち
連れてってやるよ。いずれまた会おうぜ」
男はにっと笑って頭を撫でると
流木で出来た小さな玩具を放った。
「今のうちに遊んどきな。おもちゃでな」
「子供じゃないよ」
「あっはっはっは.....」
男は優しく少女の手を引いて立ち去って行った。
ブルーももらった玩具をつつきながら
ちびにでもやるか、と歩き出す。
りん。
鈴が鳴った。
「あ...」
忘れ物だ、と拾い上げて少女を目で追う。
既に丘を降りて
街のどこかへ行ってしまったか
誰もいない。
仕方ない、と無造作にポケットに押し込んだ。
「おーい!!オレにも蹴らせろよ!!」
ブルーは丘を駆けて子供達の中に飛び込んだ。
返事も待たず缶を思いきり蹴る。
「あー!!後から入ったんなら鬼だろ!」
「いいじゃん、あとでいいもんやっからよ!」
丘の上に響き渡る騒々しい声を聞きながら
ブルーは走り出した。
彼は走りながらふと思った。
今度あの女の子に会ったら、聞いてみよう。
街はどうだったかと......
小さな丘を海の夕日が赤く染める。
遠くで鈴の音が響く。
走り回る少年と共に。
Image Music/ CocteauTwins Blue Bell Knoll
一日の終わりに
北方の海。深く深く潜った場所。
地上の者の知らぬ海域。
巨大な永久氷壁と灼熱の海底火山が相殺しながら
存在する、岩と氷山ばかりの海域。
自然の猛威のみならず、火と氷の妖魔が隠れ住む危険な場所。
奇怪な形に順応した海藻。怪魚。
一定の時間おきに吹き上げ押し寄せる炎熱流。
対抗するかのように巨大な永久氷壁は
冷たい潮流をその身に纏い
絶えず衝突を繰り返す。
「おーい!石、あったかー?」
パタパタと数人の子供達が叫びながら駈けて来る。
「焔の石と氷の石、それからシビレサンゴ....ああ、もう
早くしないと熱流が来ちまうぞ!」
薄汚れたなりの子供達。
一番小さいのは7つくらいか。順番に
一番上の12歳くらいまで5〜6人。
「あった!!」
10歳くらいの子供が、赤く燃える石を氷の棒で
器用に用意した容器に入れる。
「よーし、早いとこ出るぞ」
年長の少年。青い髪に蒼い瞳。
大きな袋をひょいと抱え走り出した。
いっせいに後を追う子供達。
足元の熱を吹く穴を上手に
飛び越え氷壁の向こうを目指す。
やがて氷壁のふもとに着く。
小さな子供ひとり分の穴が外に続いている。一人、二人、と
順番にくぐらせる年長の少年。
「あれ、チビはどうした?」
荷物を足で蹴り込み穴の外へ押し出しながら叫ぶ。
ひとり足りない。
一番小さな子供がどこにも見当たらない。
「あいつ...」
来た方向へ駆け出す。
「ブルー!!どこ行くんだよ!!」
外の穴から顔を覗かせ 叫ぶ子供。
「時間がないってば!!」
次々と熱流を激しく吹き始めた地面。
とん!と跳んで一瞬で半身を変える。
人のような二本の足は魚とも蛇体ともつかない下半身に
細胞の配列が変わった事を示す瞳は
青から赤に。
遠くから熱流と氷流の衝突音が
凄まじい速度で振動をぶつけてくる。
熱流に吹き上げられて熱い焔の石が飛んで来る。
慣れた動作でかわしながらスピードを上げ
元の道を 駆け抜ける。
水の温度が急激に上がり始めた。
「いた!!」
転んで泣いている子供。
バカ!と呆れながら腕を掴みかけ、ギョッとする。
子供の足に絡み付く触手。
ズルズルと獲物を引き寄せるその先の本体は、地面に潜り
顔だけを出している。
触手状の髪。表情の無い熱でただれた顔。
少年は手を水平にまっすぐ伸ばし
それと向き合った。
顔のあどけなさは消え失せ、口元が耳まで裂ける。
次の瞬間、少年は触手を掴み大きく裂けた口で
喰いちぎった。
転がり逃れる子供。
少年の背中に隠れて息を潜めた。
地面の顔がズブズブと半身まで出て来る。
ちぎられた触手はすぐに再生を始め
少年は一歩前に進んだ。
地上の半身をぐにゃりと伸ばし軟体生物のように
のたうち迫ってくる妖魔。
少年の顔真正面まで近付けた顔がぱくり、と割れた。
中には無数の牙が覗く。悲鳴をあげる子供。
少年は妖魔を睨み付けている。
触手が少年の背後にまわった時。
少年が口をかっと開いた。
響き渡る少年の叫び声。
それは衝撃波のように
一瞬遅れて妖魔に届いた。
「急げ!時間がない」
少年は子供をひょい、と荷物のように掴んで駆け出した。
後ろには半身を吹き飛ばされた妖魔の残骸。
やがておしよせた熱流はそれを飲み込み
更に 少年達を追って来る。
氷壁のふもとにかけよる二人。
もはや穴をくぐる時間など無い。
「くっそお!!!」
さっきの叫びと共に氷壁に拳を叩き込む。
砕けて広がった穴に流れ込んで来る冷たい氷の潮流。
熱流とぶつかりあって流れを変えていく。
「...世話焼かすな」
少しヤケドをした足を砕けた氷で冷やしながら
ぼやく少年。
冷たい海流の住処へと歩き出す。
待っていた子供達も何事もなかったかのように
騒ぎながら歩いて行く。
薄汚れたスラム街が見えて来る。
街の入り口で怪し気な大人達に荷物を放って渡す。
もうすっかり暗い。
子供達は共同のせまい家にゾロゾロ入って行く。
「ごはんだよ!!」
中年女が大声で怒鳴る。口汚くとっとと喰え!と
大鍋をドンッ!!と置いた。
暖かそうに湯気をあげるシチュー。
大騒ぎで食事を始める子供達。スプーンを振り回し
駆け回り皿が飛ぶ。
少年は自分の皿を抱えてあちこちウロウロと
避難してまわった。
うっかり零せばすきっ腹で眠る事になる。
急いで彼はスプーンを口に運び腹を満たす。
傍らで中年女が目を細めてそれを見ていた。
一番年長の青い髪の少年。
彼は明日、仕事がないから遊べる、と
振り返って笑った。
女はそっと彼の皿に僅かばかりシチューを注ぎながら
頭を撫でた。
1日の終わり。
子供達がもうじき眠る夜。
窓から暖かな灯が溢れる街角。
〜星の名はレグルス〜
夢を見ていた。
幼い頃、はじめて地上の星を見た時のこと。
どうしても童話の月や星を見たくて
海上近くまで近付いた。
海流と海流の間に、ある時間抜け道が出来る事を
大人から聞いていた。
くぐれても、帰る事が難しい。
何人かが行っては戻ってこなかったと聞いていた。
少年、大人、少女、年寄。
それぞれ地上に様々な想いを馳せて海流の
流れに飛び込んで行った人々。
戻った者の話は聞かない。
死んだ、という者もいれば、戻ってなにくわぬ
顔でいる者もいるからだ、と。
あの日、べろべろじいさんが言った。
自分はかつて毎晩地上の星を眺めて育った、と。
誰も信用しない。
飲んだくれて1から99まで嘘話のじいさん。
南の島にも行ったなんて言う。
だけど毎回南にいる奴がお姫さまだったり
怪物だったり、女神だったりで一貫性がない。
子どもだって信じちゃいなかった。
そんなじいさんが話す海流の抜け道。
それだけは、いつも同じ事を繰り返していた。
おかげでオレはまるで自分が行ったみたいに
道を諳んじて言えた。
だけどじいさんは多分地上の星なんか
知らない。
なぜなら同じスラムのもっと歳をとったおばばが
証言しているから。
「奴は肝のちいせえ男だったんだよ。
間違っても地上に出てみようとか考えやしないさ。
それどこかこの街から一歩だって出てやしないんだ」
じいさんはおばばを見るとこそこそ逃げる。
おばばがじいさんの法螺話を、全部
ひっくり返しちまうからだ。
そんなじいさんが繰り返す地上への秘密の道。
おばばは言った。
多分ひいおじいさんくらいに行った者がいたらしい、と。
あのじいさんはその話を聞いて繰り返しているんだ、と。
春。
オレは決行することにした。
まだ8つくらいだった。
熱い潮流と氷の潮流の合間にできる道。
不思議なくらいじいさんの言った事は正しかった。
小さくてやせっぽちな体がやっと通る隙間を抜けた。
どっちの潮流も生き物なんかいなかった。
死の海流とも呼ばれて海上と深海を隔てていた。
オレはゆっくり用心深く海上に顔を出した。
ふう、と水から顔を出した時。
巨大な星空が広がっていた。
恐い程どこまでも大きな星の海。
「空には大きな獅子がおってな、弱い者が
顔を出すと捕って喰うんじゃ」
じいさんの言葉が頭をよぎる。
頭上の巨大な獅子。
ただ静かに瞬いて身じろぎもしなかった。
オレはそのままずっと見ていたかった。
だけど潮の流れが変わる前に戻らなきゃならない。
まあ、いいさ、毎晩来よう。
あの潮流を抜けられた者だけが
獅子の心臓を手に入れられるんだ。
オレは眼に獅子を焼きつけて元来た道を引き返した。
そして無事に戻った。
だが毎日道が狭まって行く。
ギリギリまで粘った。
そして知った。
地上へ続く道は季節の数日しか
開かない事を。
それからオレはわずかな期間
ずっと海上へ出続けた。
それでも辿り着いた夜空は、雨や雪で星達を隠して
しまう事が多かった。
獅子も春にしか現れなかった。
数度しか見れなかった獅子。
胸の奥にしまいこんだ 心臓星。
潮流は流れを変え、やがて道もどこかへ消えた。
それでも
夜の夢に瞬くのはいつも
あの満天の星空に立つ獅子の姿。
遠い昔、海の記憶。
青い男の日記の一項より
片腕の男
場末の裏路地。
街道から少しばかり奥に入った『裏』の宿場街。
猥雑な酒場から嬌声と灯が漏れる。
「くそったれ、あのガキが!!
ブッ殺してやる!!」
激しい音と共にドアを破り
血まみれの男が飛び出して来た。
道に立つ女が振り向く。
「誰か銛を寄越せ!!」
壮絶な顔で血まみれの男が喚き散らす。
片手に重そうな皮の袋。
男に傷は見当たらなかった。ごついこけた頬の中年。
隙の無い身のこなしで得物を探る。
足で門を蹴り壊して支柱をもぎ取った。
壊れたドアの奥で誰かの悲鳴が響く。
野次馬達は数秒で散った。
関わらぬ方がいいと一瞬で判断できる
その悲鳴。
喚き散らした男すら顔色を変えて物陰へ飛び込んだ。
一瞬後。
澄んだ鈴のような高い音と共に
壁、窓、ガラス、寝具
ありとあらゆる物がふっ飛んだ。
「くそったれ獣人共め。どいつもこいつも
考えなしだ」
毒付きながら男は用心深くあたりを伺った。
裏街はほんの数瞬静まり返っていたが
すぐにまたいつもの喧噪が戻っていた。
よくある出来事。
隠れた男の前にかがんだ男は
飛んで来た柱の下敷きになって弱々しく
助けを求めた。
「ジャマくせえ」
皮袋を握った男は下敷きになった男を
踏み付け唾を吐いた。
そこにあった汚い宿屋は跡形も無い。
ひとりの少年を中心に前方数メートルのものが
何もかも吹き飛んでいた。
少年の叫んだように開いた口。
小さな牙とある種の音波を増幅させる喉の
器官が覗く。
「続けてやれるモンならやってみろ!」
男が怒鳴った。
青く長い髪の少年がゆっくりと
顔を上げる。
地上の蛇が鎌首をもたげるように
異様な滑らかさを伴って。
男は思わず一歩後ろに下がった。
子供の顔ではない。
口元は耳まで裂け、双の瞳は赤く見開いて
獣のような殺気を漂わせて立っていた。
彼の後ろには小紛れの肉片が転がっている。
高価そうな縁飾りが着いた布辺が絡み付いたそれ。
血と内臓。
へし折られた骨。
少年はその一本を握って放り捨てた。
獣人。
海に生きる者の中でも最も低い層の種族。
近年までは彼等を妖魔と呼んではばからぬ者も
多かった。獣や水妖海獣と交わった外道と
嘲りろくな仕事につく事もできない。
徴兵、墓掘り、ゴミの処理、過酷な肉体労働。
拒絶すれば生きて行く糧はなく犯罪者の道を辿る。
大人も子供も老人も。
「とんだ喰わせモンだな。
オレはてっきりどこぞのアバズレ人魚のガキだと
思ったんだがな」
海人の男は用心深くもぎ取った支柱を構えた。
人買い。
下の階級から糧を得て生きて来た男。
どんなに健全に見える社会でもどこか必ず
暗い闇への入り口と橋渡し役が存在する。
少年は心非ずの表情で男を見ていた。
「食事」をすませて獲物はもういらない。
少しずつ纏った殺気が散って行く。
瞳の色を赤から青に変えながら。
裂けた口も人の風貌を取り戻して行く。
それでも全身に被った血と肉片にまみれて
とてもまともな姿とは言いがたかった。
男は少年の姿が戻って行くのを待つ。
蛇体の半身で立つ少年はつんのめって
その半身を男と同じ
二本の足に変えた。
「得意先をブっ殺しやがって」
男は倒れた少年に重く尖った支柱で
殴り掛かった。
鈍い音。
低く暗い唸り声。
「!?」
男が目を見開いた。
右の肩に熱い感触が走る。
ゆっくりとそれはスローモーションのように
彼の目に映った。
凄まじい叫び声。
何かが咬み砕かれる音に続いて
ずさり、と一本の腕が彼から離れた。
ドアを破って転げ出た時の比ではなかった。
男は何を叫んでいるかすらわからない。
失った右腕を半狂乱で探しながら転げ回った。
その探しものが少年の口にくわえられている事も
気付かぬまま。
少年はぼんやりした頭で血が流れる腕をくわえていた。
まだあどけなさの残る顔。
わずかにふっくらと子供の特徴を残した頬。
大きく走った刀傷付きではあったが。
彼はそのままふらふらと何処かへ消えて行った。
片腕の男の行方も知れず。
次回予定 〜想い出
『ブルー、旅のはじまり 』
深い海の底。
穏やかな気候の海底都市、 鮮やかな衣装の住人が暮らす
地上から隔てられた世界。
地上の者はその存在を伝え聞くのみ。 深海の住人もまた
地上を知る者は、ごく一部の者ばかり。
マーメイド、マーマン、マーライオン、海人、
海獣と海人の間に生まれた種族、獣人。
水妖、魚類、あらゆる命に溢れた海。
女神と呼ばれる海の光が、昼を太陽のように照らし
夜は眠るように翳る。
隅々まで手入れの行き届いた公共設備。
豊かな海底都市。
魚影は、珊瑚の森を飛ぶように行き交い
海獣は、地上の家畜のようにコントロールされ
人々の暮らしを支えていた。
海の光を祀った神殿が中央に聳える。
東西南北と中央に、それぞれ設置されたそれ。
遠い過去から伝わる海の焔を5つに分け、絶やさぬように
神官や司祭が護っている場所。
尤も今ではその事を正しく知る者は
わずかな聖職者のみ。
夜更け。
誰も歩いていない街並み。
街灯が、ぽつりぽつりと歩道を照らしている。
「げえっ!」
静かな夜を嘔吐のくぐもった声が破る。
荒い息を吐きながら、体をふたつに折って
少年が呻き声をあげた。
年の頃は14か15。 長い髮にやせた体。
人魚のように半身が輝く鱗と、七色のひれではなく
地上人の子供のような姿。
歩道に花のように並ぶ珊瑚。
少年は思いっきり胃の中の物をブチまけた。
全身はどす黒い汚物だか液体だかわからない
シロモノがこびりつき、顔だちもはっきりしない。
目だけが異様な青い光を放っていた。
長い髮もただ、伸ばし放題に伸びたものをくくるのみ。
そんな長い髪のシルエットすら、少女というより
悪餓鬼と言った方がふさわしかった。
美しい都市に似つかわしくない出で立ち。
汚れる前から襤褸だと知れる、シャツとズボン。
やせた手足は、ぎりぎりで生きて来た子供のそれ。
ギラギラと目だけを光らせて彼は
握り締めた汚ない皮袋を見た。
長い長い絶叫。
少年の全身にこびりついた汚れと
同じもので染まったその袋には
一本の腕がブラ下がっていた。
ズシリと重い袋。
ゆるんだ口から一枚の金貨が溢れ落ちる。
一本の右腕は、付け根から引きちぎられたように
元の誰かの体から離され
そこにあった。
金貨の袋を掴むようにブラ下がって。
少年は、もう一度叫び声をあげた。
叫びは、途中途切れて嘔吐と呻き声に変わる。
全身の返り血。
少年は、嗚咽を繰り返して胃の内容物を吐ききった。
静寂。
肩で息をしながら彼は、立ち上がった。
重い袋を腕ごと握りしめたまま。
夜明け。
海の光は、彼とまるで反対の
清潔な街並みを晒し出す。
「....」
彼は、フラフラと歩き出した。
歩きながら涙と汚物で汚れた顔を上げる。
涙が洗い流した左の頬に
まだ新しく深い刀傷が
血をにじませて腫れ上がっていた。
そびえ立つ神殿。
海流の女神像が夜明けの光を浴びて輝く。
長い髪の人魚。
海の水晶で作られた透明な女神像。
朝の光を浴び、海の花と珊瑚に彩られた台座に
そびえて立っていた。
一番美しく優秀とされる支配階級種族をかたどって。
少年は走り出した。
重い汚れた皮袋と腕を
両腕で抱え疾走した。
女神像の元へまっすぐ。
夜明けの静かな神殿。
「わあああああああああああああっ!!」
悲鳴に近い叫び声。
彼は、大きく袋を振り上げると
力まかせに女神像へ叩き付けた。
激しい音。
砕け散る女神。
膝を折る汚れた少年の上にきらきらと
光を増幅した大量の水晶片と
金貨が降りそそぐ。
少年は光の下で絶叫した。
一面の金貨。
飛び出して来る神官。
足元に転がる女神の頭部を彼は
泣きながら掴んで砕く。
散らばった金貨と
泣き叫ぶ少年の姿に戸惑う神官達。
騒ぎは、ひとりの老司祭が少年を
取り押さえるまで続いた。
少年の名は、ブルー。
北の荒野のスラムで育った海の獣人。
彼の体に何の種族が混じっているかすら
誰も知らない。
長い旅のはじまり。
次回は『傷』を予定しています。
月と椰子の木(絵と音楽付き版はこちら)
むかしむかし、南の浜に
特別な椰子の木がはえていました。
その木はまっすぐ
月に向かってはえていました。
一本だけの神様の木で
月や星をひとやすみさせるために
はえている木でした。
それはとても高く
空にむかってのびていました。
月や星はその枝に腰掛けて、こっそり
ひとやすみしては
夜空へ登っていったのです。
ある夜、ひとりの少年が月をさわりたくて
木に登ろうと思いました。
とても高い木です。なんにちもずっと
登り続けなければなりませんでした。
少年はとうとう力尽き、下に落ちました。
まっさかさまに落ちて行く少年を
風が吹き飛ばし
その体は海へ落ちて
沈みました。
海流の女神は少年のバラバラになった
かけらを拾いあつめて言ったのです。
「お前は海に住みなさい。
あの木は登ってはいけない。
お前は空で生きるものではないのです」
少年はそのまま海に住み、それが
海人のさいしょになりました。
〜海に伝わる古い話〜
2008年11/10、ようやく100本完結しました。
前半ご助力頂いた神音さんに深く感謝致します。
これはもともと、漫画制作のシナリオ練習を兼ねて始めました。
結局数年かかり、途中中断などもありました。
辛抱強く最初から追って下さった方にも深く感謝致します。
また何かの創作物でお目にかかれましたら嬉しく思っております。
この先もずっと精進を続けつつ。
まりん(bluemarin)
2009年新年追加