ぶらんこ
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2005年07月28日(木) 均衡

一週間ほど前のこと。仕事帰り、大きな白い鳥が飛んでいるのを見つけた。
白鷺のような。。。名前はわからないけれど、とにかく大きな鳥だった。
夕暮れのせまる、陽射しがようやくやわらぎ始める頃だった。
昼間の熱はそこかしこにまだ残っていたけれど、水色の空に引かれた長く薄い雲が涼しげな空気を連れてくるように見えた。
そんな空に、鳥のくっきりとした白がとても美しく映えた。
わたしはすっかりと心うばわれてしまい、歩きながら、じっとその鳥を見上げ眺めていた。

彼は一羽だけで悠々と空を飛んでいた。
そのうち、高い杉の木に近づき(何本かの杉が群となって立っていた)・・・なんと一本の杉の木の梢にとまった。
てっぺんのてっぺん。先っちょの先。まさしく三角の頂点。しかも細長い三角の。
木は一瞬しなり、鳥はぶるぶるっとその体を奮わせた(ように見えた)。
そして、ほんの少し羽を拡げかけ、それをゆっくりと収めた。

鳥が杉の木の梢にとまっている。
どれくらいの大きさなのだろう。遠くからはよくわからない。
でも、あの杉の木の高さからすると、相当な大きさだと思う。
なのに彼は、静かにそこにとまっている。
そして木もまた、静かにそこに立っている。

わたしはただただ、感嘆してしまう。
どうしてあんなことが起こるのだろう。
あんなに大きな鳥なのだから、重量もそれなりにあるだろう。なのに、あの細い梢にどうやってとまっているのだろう。
あの梢はどうして折れてしまわないのだろう。ましてや、揺れることもないのだ。
すごい、すごい、すごいー!

鳥が飛び去ってからも、わたしはずっとあの光景を思い浮かべた。
きっとあの鳥と杉の木とは、うまい具合いに均衡がとれていたのだろう、と思う。
鳥のもつ「気」(エネルギー)と、木の持つエネルギーとが合わさり、ふたつではなくひとつの「気」となったような。。。。
お互いの「気」がそれぞれでなく、全体に流れていたような。。。。
うまく言えないけれど、それはイエスが水の上を歩いたよな感じなのかも。
それから、「気配を消す」というのにも似ているような気もする。



今日、職場で手にした本のなかでこんな言葉を見つけた。

  「古式術的な発想」
  筋力をつけるのではなく、もともとある『チカラ』を有効活用することをめざす。
  『もともとあるチカラ』とは、重力だったり、身体の「形」がもたらすものだったり、いろいろ。
  つまり、筋力をアップさせるのではなく、効率的なチカラの使い方を工夫する、ということ。


著者はこれを『構造の力』=力の分散なのだ、と言っていた。
  あえて局所的な力を使わないことにより、身体全身の力を引き出すことが出来る。
というもの。

これは介護の場面で、たとえば寝たきりのおばあちゃんを起こすときや、車椅子に乗せるときなどに活用される。
実際、この方法で面白い実験がなされ、体重40kgにも満たない小学生の女の子たちが92kgの大人を持ち上げたらしい。
  (*わたしも真似して同僚ナースを持ち上げてみたら・・・・たぶんやりかったがマズかったのか、すごく重かった。笑)


もしかしたら、鳥が木の梢にとまっていたのも、この「構造の力」というものの成り立ちなのかもしれない。
わたしがぼんやりと考えていたことの正体を教えてもらったような、そんな気がして嬉しくなってしまった。
でも、同僚にあの鳥の話をしたところ、彼女は笑い転げ、話が出来ないほどだった。
「だって突拍子もないこと言うんだもん。」と。
わたしは大発見だーーー!と思っているのに。



2005年07月22日(金) 無心

暑い。
夏まっさかりにはまだまだ遠いはず。。。と思うのだけれど、暑い。
暑いと、あー夏だなぁ・・・と思う。(あたりまえ)
わたしは夏が好きだ。
暑い夏は尚のこと大好き。


訪問先でケアをしていると、汗が滴り落ちてくる。
自分は汗をあまりかかないほうだと思っていたのだけれど、ところがどっこい。
(エアコンのないお宅がまだまだ多いのだ)
訪問先からステーションに戻るとまずユニフォームを着替える、ということも少なくない。


ケア中、汗が目に入ると滲みて痛い。
手洗いするまでは汗を拭うことも出来ないので、目をパチパチさせて痛みが通り過ぎるのを待つ。
そんなとき、なんだか幼い頃の記憶が呼び起こされる感じがする。
何かに、無心に、ただ没頭しているような。そんな気持ち。
「躍動」でありながら「静」でもあり。
それは、一種の「瞑想」のようなものなのかもしれない。




それにしても毎日こんなに汗をかいて・・・この夏は痩せるような気も・・・しなくはない。。。。かも。



2005年07月21日(木) 静寂

お月見しながらぷーちゃんと散歩。
今夜は満月。
月の辺縁が眩しいくらいに輝いている。
そしてその周りに虹色の光が放たれている。
なんて綺麗なんだろう。
すっかり見とれてしまう。ずっと眺めていても、ちっとも飽きない。


風が吹いている。
葉摺れの音が心地よい。
虫が涼しげに鳴いている。

よーく見ると星がたくさん。
雲が薄く流れて、光が消えたりまた灯ったりしている。
ちいさな光も合わせて、50くらいまで数えてみた。
見え隠れする星たちに祝福を受けているような気分。自然に笑みがこぼれる。

ぷーちゃんが駆けてくる音がする。
はっはっはっと彼の吐く息も近づいてくる。

地面にはまだ昼間の熱が残っている。

飛行機が遠い空の彼方へと飛んでいく。

黒い畑の影が夜の海のように見える。


静かだなぁ・・・と思う。
わたしはこんな静けさが好きなんだなぁ・・・と、思う。

世界は澄んでいる。心からそう感じる。
嬉しい。そして、とっても満ち足りた気持ち。



2005年07月19日(火) ぽえむ

このところ仕事がハードになってきた。
というのは、イコール患者さんの具合いがあまりよろしくない、ということでもある。
患者さんと向かい合っているときはさほど感じないのだけれど、家に帰ってくる頃には「ちかれたー。。。」とバテ気味。


そんなとき、こころからのめーるが届いていたりするとにっこりしてしまう。
今日のめーるなんか、おもろい出来事がたくさん書かれてて、わはははわははは大笑いしてしまった。
そして、疲れまでぴゅーっと飛んでっちゃった感じ。
なかなか文才があるじゃないか、と思ったりする。
その場面・情景が目に浮かぶような、ともに体験してるような、それくらい生き生きと表現している。(身内ネタということもあるのだけれどネ)


こころからのめーるは英語で送られてくる。
日本語が入力できないわけではなく、面倒だからそのまま英語で書いているらしい。
で、それが読みづらいかというと、そんなことはなくて、実を言うとわたしは彼女の英語で書かれた文章を読むのが好きだ。
日本語で書いているやつだと、ノリが軽いというか、ちゃらちゃらした言葉の羅列のように見えて、何が言いたいんだかよくわからない。
でも、英語だと主題がはっきりしている。
それは「英語」という言語のもつ特性でもあるのだろうし、彼女のなかの「アメリカ」的アイデンティティーの表れでもあるのかもしれない。
よくわからないけれど。
ま、なんとなくシャープな感じがする、というだけかもしれない。

それにしても、こころからの英語のめーるを読んでいると、アメリカ人なんだなぁ・・・と、ちょっぴり不思議な気分になる。
でも、頼もしく思うし、素直に嬉しい。なんだか素敵な気持ちになるのだ。
それは彼女の言葉が生きているからなのだろうと思う。
で、さぁわたしも英語で返信をば!と思ったりもするのだけれど(一瞬)、もちろんそんなことはなく。
わたしは、いつものわたしの(生きた)言葉で返事を書くのだった。
言い訳かな???笑


ところでこの前、彼女はこんなことを書いてきた。
Thanks for the lovely poem.
なんのこっちゃ?という感じ。わたしは彼女にぽえむなんか送っていないもの。
で、早速そのことを尋ねてみたところ、このような返事。
p.s. "poem" wa, tada mommy no mail ga poem ppokatta tte koto yo!!!
しかもなぜかこの部分だけ日本語(ローマ字表記)。
わたしのめーるのどこがぽえむっぽかったのか????
母ちゃんにはまったくわからん。
それに、ぽえむって、一体なんぞや?

心のなかから湧き出る言葉を紡ぐこと。かなぁ。。。。。
んーーーーー。またゆっくり考えてみよう。いつか。



2005年07月16日(土) ハゴロモ

夜になるのを待ってから、ぷーちゃんと一緒に散歩へ。
星がとっても綺麗な夜だ。
トウモロコシが黒く太く長い影となって空へ伸びている。
たぶん飼料用だろう。そういえば去年とは違った場所に植えられている。


この地へ越してきて、ちょうど一年が過ぎた。
思い起こせばいろんなことがあったなぁ・・・と、思う。

変わりたいとか、変わりたくないとか、自分が意識しようがしまいが、いろいろなことが変化していくものなんだな、と、思う。
それはすごいことだと思う。
それはとても神聖なことだと思えてくる。
どこかへちゃんと向かっている。
きっとすべてが良い方向へ。


半月が浮かんでいる。
こころも飛行機の中から見てるといいなぁ。。。と思う。


                   (でも見えないだろうな。。。
                    今頃はどのあたりを飛んでるんだろ?
                    ひとりで退屈してないかなぁ。
                    隣のひとが良いひとだといいな。
                    ぐっすりと眠れていますように。。。。)



2005年07月14日(木) 答え

『そなたの中には夜叉がいる』と、アシタカは言った。
なんて的を得た表現だろう、と思う。いつ聞いても、はっとさせられる。

すべてのひとの心の中に夜叉がいる。
夜叉。悪の芽。暴力。闇。。。。
それで良いのだと思う。というか、それが自然の姿なのだと思う。
それらは否定されるものではなく、ましてや排斥されるものでもない。


「じゃぁどうすれば良い?」
ひとはいつも『答え』を欲しがる。
どちらか一方を「よし」とし、もう一方を「悪しき」とする。
どちらかは「必要」で、他方は「不要」と。
そして、たぶん「待つ」ことを嫌う。

本当は誰もがその答えを知っている筈なのに。
でもそれはあまりにも単純で容易で、馬鹿げているように思えるの?
だから知らんふりしてる?
それとも、それが答えだとはもう思えなくなってしまった?




「いろんなことをはっきりと言うの、どぉ思う?」
この前、こころが聞いてきた。
「良いんじゃないの?」
わたしがそう答えると、彼女はしばし考えてからこう言い直した。
「いろんなことはっきり言うとき、どんな風にしたら良いと思う?」

ふむ。なかなか良い質問だ。。。
さて、どうしたら良いんだろうね?



2005年07月10日(日) ナンセンス

「すべてのことには意味がある」
と、イルカが言ったらしい。
確かにそうかもしれないなぁ。。。と、思う。

この言葉は、体力がやや回復しつつあるときに読んだ本のなかで見つけた。
「犬と話す」とかなんとかいうタイトルの本だったと思う。
身体が衰弱していると心まで弱っちくなってしまうものだが、この本を読んで、病気になったこと、しかもこんなにも重症になったこと、
なんかについてをちょこっと離れた(冷めた)視線で見ることが出来たみたい。
ま、たいした考察はしてないけどね。

すべてのことには意味がある。
そうだそうだ。そうかもしらん。

けど、だからこそわたしはナンセンスも求めたいのだ。きっと。







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