タイトルだけ見ると 「新しいの買っちゃった!うきうき。」的な雰囲気だけど 相も変わらず昔話です。
小学校の低学年から、お手伝いの係が決まっていた。
姉は夕食後の食器洗い。 私は洗濯物たたみ。
洗濯物をたたむのは嫌いではなかった。 すっきり乾いた洗濯物を しわの出来ないようにたたむのは心地よかった。
同じ団地の友達の家に遊びに行ったとき 友達が「洗濯物くらいたたむの手伝ってよ」と そのお母さんから言われていて (友達が遊びに来ているときにそんなことを言う そのお母さんはどうかとも思うけど) 私がそこの家の洗濯物をたたんで 驚かれたこともあった。
今思うと、結構ヤな子供だな。
平日は、学校から帰ってきて 夕方のアニメを見ながらたたんでいた。
土日も、夕飯前にやっていたと思う。
小学4年の終わりに、引越しをした。 親が県内の、別の市に家を建てたから。
そこからなぜか、事情が変わっていった。
洗濯物は、2階の、両親の寝室として使われている 和室の外のベランダに干されていた。
それを取り込んでたたむわけだけど 平日、それは問題なく行われた。
問題は土日。
昼ごはんを食べ終わると 父は寝室へ昼寝をしに行く。
昼寝から起きた父は、 「〇〇!」と大声で私を呼び
そこに行った、立っている私の足元へ 洗濯物のぶら下がったままのハンガーを ぶつけるわけではないけど ガシャーンと放り投げ 「たため!」と 低い声ですごむように言うのだ。
午後の2時とか。そんな時間。
「たため」と言われている以上、 多少湿っていてもたたんだ。 ヤケクソ気味だった。
やらないわけでもないのに。 やりたくないと言ったわけでもないのに。
「やれ!」と言われると なぜだか急にそれが嫌なことのように思えた。
そんな事態にならないために 昼食後、急いで洗濯物を取り込みに行った。
残念ながら乾ききっていないことがほとんどだった。
その後は父が昼寝から起き出したのを見計らって 寝室を通り、洗濯物を取り込もうとした。
だから私はその時間、いつもビクビクして過ごした。
そうは言っても、同じ部屋にいるわけでもない人が 起き出すのと同時に 動けることなどなかなかない。
そして、そのタイミングを外すたびに ハンガーを投げつけられることになった。
ハンガーは、ところどころ洗濯バサミが取れた。 中には劣化もあったと思うけど、 そのほとんどは投げつけた衝撃によるものだったと思う。 根元の金具ごと取れているのがほとんどだったから。
「あー。また取れてる・・・」と 取れてしまった洗濯バサミをゴミ箱に捨てていた。 自分を責める気持ち。 やるせない感じ。
母は、そんなハンガーを修繕するでもなく 洗濯バサミのないところを飛ばして 斜めにして干し、使い続けていた。
そのうち、1つのハンガーに干せる量が減っていき ハンガーの数が増えていった。
5人家族の1日の量で、角ハンガー4〜5個と 1つで5枚の上着が干せるタイプが2〜3個。
正直、多いと思っていた。 だんだん、本当に嫌いになっていった。
ちなみに、食器洗いも 「〇〇やれ」と言われることが結構あった。
「食器洗いはSちゃん(姉)のかか・・・」
「いいからお前がやれ!」
全く意味がわからなかった。 誰も止めてくれなかった。
悔しさで涙があふれるのを止められぬまま 食器を洗っていた。
一体あれは何だったんだ。
幸い、今は洗濯全般が好きです。 ハンガーは、違うタイプを使っています。
同じのはイヤ。絶対イヤ。
小学6年生のとき 父方の祖父母と半同居になった。
隣の家に住んでいた 大きな犬を飼っていた 一人暮らしのおばあちゃんが亡くなって その建物を借りて そこに祖父母が越してきた。 日中はそちらで過ごし、夕飯と就寝はこちらの家で。
遠く(当時子供だった私にとっては遠かった)にいた おじいちゃんとおばあちゃん。
父は次男だった。(男・男・女の3人兄弟。) ノイローゼ(詳しいことはわからないけど金銭的なこと) になったおばあちゃんについて 長男の妻は 「おじいちゃんだけなら引き取ってもいいけど おばあちゃんはイヤ」 と言い、 長女は 「あんな人が私の母親だということを 近所の人に知られたくない」 と言ったそうだ。
大学から実家を離れ 母親の現実(すごく後になってわかる)を知らない父が 「そんなことならオレが」 と、引き取った形だったようだ。
ようだ。と書いたのは 子供にはなんの説明もなかったからだ。
事情がわかっていない私は やはり空気が読めていなかったようで。
ここからは姉からの伝聞で 私自身は覚えていない。
引越しの日。 荷物を運ぶ親達。 事情がわからない私。 隣のおうちの中に入るのは初めてで、 しかも沢山の荷物が運び込まれる中で 見るものが珍しく、ウロウロしていたんだと思う。
父が壁に取り付けた掛け時計が 私の頭上に落ちた。
「なんでそんな所にいるんだ!」
痛い思いをした上に、怒鳴られた私。
「あなたのつけ方が悪いんじゃないの!」
母はかばってくれたようだ。
母は、父との結婚に際し祖母から 「東京の女なんて何考えてるかわからん」 「あんたの世話になんかならんから」 と言われていたそうだ。
子供(私たち)を連れて祖父母宅を訪ねたときも 「うるさいから早く連れて帰って」 「子供の面倒なんか見れない」 ってな感じだったそうで。
父は次男で、関東に出てきてしまっていたし 長男夫婦は祖父母と同じ県内に住んでいるし 祖母は長男家を頼りにしていたようで 次男の妻には徹底的に冷たかったそうだ。
しかし、この状況になった。
母の気持ちを考えると、今でもものすごくモヤモヤする。 私をかばってくれた時にも 父への苛立ちがあったのかも知れない。
この頃からが特に、「キレる父親」への変貌を遂げた 時期だったように思う。
娘の笑顔に癒される今日この頃です。
鼻がつまり気味なので、娘の強烈なウ〇チのニオイに すぐに気付けず、お尻を少し赤くしてしまいました。
すまぬ。
土曜日に夫が出張から帰ってきたので 3人でのんびり日曜を過ごしました。
娘が自分でよく動くようになってきて 夫にしがみついたりよじ登ったりするので かわいいらしく 以前とは打って変わって沢山遊んでくれています。
一時は「私一人で育てているみたい・・・」なんて 勝手に落ち込んだりしていましたが (もちろん夫が外で働いてくれているお陰なのですが) (実際に一人で育てている方たちに大変失礼な物言いですが) その時期を脱したようで嬉しいです。
過去のことを、思い出した分だけ残し始めましたが 子ども時代を妄想の中で生きてきたような感じがするので もしかしたらここに記録したことの一部(いや、半分くらい)は 本当に起こったことではなく 私の妄想なのかも知れません。
1泊保育の時の手紙だったり 1人だけワンピースで写っている写真などは そのものが残っているので 事実ですが。
ただ、一部が妄想であったとしても 子供の頃にそういったことを考えるに至った経緯としては 実際の体験となにかしら絡んでいると思います。 あれ、なんかうまく言えないな。
なので話半分な感じで。お願いします。
先日の記事に 「2つの園が合同で行うイベント」のことを1つ書いたけど もう一つ、大きな行事があった。
夏の1泊保育。
年長さん(5歳)。
隣町の園は敷地も広く、建物も大きかった。
その中の体育館のような場所に1泊する。 (恐らく教室の2階全体がだだっぴろい部屋だったのだと思う。)
前日、私は家族にあててこんな手紙を書いた。
「みんな いきて しなないでね」
って書いてある。
この手紙を書いたときのことはよく覚えている。
隣町の園に1泊して、自分が帰って来たときに 家族がいなくなっていたらどうしよう、と そんな不安でいっぱいになり ヒックヒックと泣きながら書いた。
まぁもちろん、帰って来たときには 誰も死んではいなかったのだけども。
私は自分が高校生になるまで 近親者が亡くなるという場面に出会うことなく生きたので 当時「死」ということが、どんなことをあらわすのかを わかっていたか定かではない。
でも「もう会えない」とか 「ひとりぼっちになってしまう」といった思いは確実にあった。 だから、そう間違った認識ではなかった。
5歳なら「死」のことを理解しているものかな。
いや、違うか? ミニウサギを飼っていたのはいつだったか?
お祭りで買ってきたミニウサギ。 あっという間に死んでしまったミニウサギ。 名前さえつける暇もなかった気がする。
もしかしたら、 そのことが「死の連想」を生んだのかも知れない。
そもそも、どうして過去を思い出そうとしているのか? そのきっかけになった出来事を。
今になって思えば、父は若い頃からアルコール依存で もうここ何年も、ほぼ引きこもりのような生活を送りつつ (酒を買いに、だけは外に出ているよう。) 時々私のところに電話してきていた。 最近はかかってこない。
電話の内容は愚痴だったり 人の悪口だったりするのだけど
こちらの気分が落ち着いている時は できるだけ付き合うようにしていたけれど だいぶしんどくなってきて 居留守を使ったこともある。
一緒に暮らしている母と弟は 酔って倒れ、怪我をしたり 机に突っ伏してヘロヘロしている父の姿をいつも見て イライラしながらも極力相手にしないよう 努力している現状のようだ。
そんなわけで 最近になってやっと、アルコール関連の本を何冊か読んで
「あ。私はアダルトチルドレンなのか。」と 今さらながらに気が付いたところ。
父のことを考える時間が増えたこの頃、 思い出したこと。
何年生だったかは覚えていないけど 小学2〜4年の間くらいの頃
私の本棚(って、カラボだけど)にあった本。
「びりっかすのこねこ」
「家なき子」
この2冊を強烈に覚えてる。
なぜなら。
私が部屋で、寝ようとしていた時だと思う。 (姉や弟が一緒にいた覚えがないので夜ではなかったか)
父が部屋にやってきて、枕元にすわり すぐ傍にあった本棚にある本のタイトルをもじって
「びりっかすの〇〇(当時の私のあだ名)」
「家なき〇〇」
などと、私をからかった。
それだけだったらまぁちょっとした笑い話だし (あまりいい趣味だとは思えないし、 当時の私には全く笑えなかったけど) 大人になってから実家の家族が集まった時 実際に思い出話として笑って話したこともあるのだけど
何故かその出来事は私の中で とても嫌な思い出としてひっかかっていた。
先日娘をおんぶしながら掃除機をかけていた時に その件をふと思い出して
「どうして、とても嫌な思い出として心に残っているんだろう」と 考えていた。
で、思い出した。
そのくだりの続きがあったことを。
父は私に
「本当に家なき〇〇になったらどうする?」
と聞いてきたのだ。
「家なき〇〇にしてやろうか。」
と。
『どうする?なんて、どうしたらいいの?』
『イヤだよ、そんなこと言わないでよ』
「ダメだよ。この家に入れなくするよ。」
こんなやりとりがいつまでも続き
『イヤだ、イヤだよ。』
『いい子にするから追い出さないでよー!』
大泣きするまで終わらなかった。
そしてそれは、何度も繰り返されたのだった。
あの時父は酒を飲んでいたのだろうか?
父は、酔うとしつこい性格になる。 今は末期症状、体が受けつける限りは酒びたりの生活で 「酔うと」という条件は当てはまらないわけだけど
当時は会社勤めもしていたし 恐らく勤務中には飲んでいなかっただろう。
休日だったのか?
いや、飲んでいたなら仕方ないとか そういう問題ではないのだけど
あぁ、あの時自分は傷ついていたんだなぁと思ったら 他にもいろんな、父との間の出来事がパパパと浮かんできて
今の私を形作っているものの一部には 確実にこのような傷があるんだなぁ
もしかしてそれが夫に対する、 ほんの少しギクシャクした気持ちの 一因になっていたりしやしないかい?
そう思ったら なんとなく本当に繋がっている気がして
過去を乗り越える (という表現が適切とは思ってないけど)ことが 今の、そしてこれからの私の家族と私自身にとって 必要なのかもしれないと思った。
忘れたフリして生きてきた、いろいろな出来事。 わざわざ思い起こしてみようと。
そんなわけです。
幼稚園の年中さんの時(4歳)、肺炎にかかった。
その肺炎はわりと重い状態だったようで 両親は医師から「覚悟してください」と言われたそうだ。
入院期間はどのくらいだったのか 母と父が交代で私と一緒に1つのベッドで眠ったそうだ。 母は当時弟の妊娠中だったはず。
1日2回(だったかな)の点滴の前に お尻に注射を受けなければならず
看護婦さん(当時)が押す、注射の乗った台の キャスターの音が聞こえてくると 誰からともなく、同室の子ども全員が泣いた。
クラスのお友達が寄せ書きのように 「はやくげんきになってね」と沢山書いてくれた手紙の束。
暗く、寒かった病院のトイレ。
姉がお菓子の空き箱で作ってくれた工作。
母方の祖母がくれた 赤いエプロンをつけた女の子の人形。
入院中の記憶は特に断片的のようだ。
退院してからも私は体が弱かった。 1日の中で一番嫌いな時間は食事の時間だった。 少ししか食べることができないのに 茶碗と箸を持たされたまま 「食べきるまで」と玄関の外に出され、鍵をかけられた。
「許してください」と泣くことしかできなかった。
(母はその後、「当時は肺炎で死にかけたあなたを 丈夫にしてやりたい一心だった」と言っていた。)
当時は団地の1階に住んでいたので 上の階のおじさんやおばさんが通りかかり 泣いている私を自宅に招きいれてくれた後 母に注意したそうだ。
私はその時、おばさんちのオカメインコと遊べて嬉しかった。
外に出されなくなってからも 食べ終わるまで一人ダイニングテーブルに残され 隣の部屋でみんながテレビを見ている声が 背中の向こうから聞こえていた。
私の視界には、濃いオレンジ色の、楕円形のランチョンマット。
母の目を盗んでご飯をゴミ箱に捨てた。
もちろんそんなことはすぐにばれて また怒られた。
ご飯を食べないで済む世界に行きたかった。
弟はいつもこちらに背中を向けて 冷蔵庫の壁に並んだ数字やアルファベットのマグネットで 楽しそうに遊びながら食事していた。 「もういらないの?じゃぁいいよ」と言われていた。
私は、喋っていると余計に食べないからと 口をきくことも許されず ただ黙々と、オレンジのランチョンマットを見つめながら 永遠とも思える長い時間を過ごした。
弟とは年齢が離れているし 健康だったので仕方がなかったのだろうけど 当時は「この差はなんだろう」と思っていた。 恨めしい気持ちだった。
豚の脂身。 口に入ると吐き気がするので 食べることができなかった。
そこだけを残し、やっとの思いで他のものを食べ終わると 父が「子どもは脂身を食べなきゃいかん!口を開けろ!」と言って 残ったそれだけを口に突っ込んできた。
無理して噛んで飲み込もうとしたけれど 吐き気が襲ってきて トイレまで急いで行こうとして間に合わず カーペットの床にもどした。
「何やってんだ!拭いとけ!」
泣きながら自分で拭いた。
そしてその後も同じことを何度か繰り返した。
くすんだオレンジ色のカーペットには 黒い染みがいくつも残されていた。
部分的に曖昧な記憶が多すぎて「たぶん」とか「らしい」とか 今後もずっとそんなのばっかりになりそう。
通っていた幼稚園には、隣町に同経営者の園がもう一つあり 年に何度か合同で行うイベントがあった。
その中の一つ、夏の「ホニャララ(覚えてない)祭り」。 事前に園で盆踊りを練習していた(らしい)。
母と2人(だったか、5歳下の弟もいたか)で出掛けた。
そして、着いてびっくり。 子ども達は全員浴衣を着ていた。
私はと言えば、ノースリーブのワンピースに麦わら帽子。
どうしてそうなったのか。 私が園からの連絡を伝え漏らしたのか それとも母が気付いていなかったのか はたまた虚弱気味で、休みがちだったために 園からの連絡が漏れたのか。
不明。
ともかく、慌てふためいた母は、「ここで待ってて!」と 朝礼台の側(良くも悪くも一番目立つ場所)に私を置いて 浴衣を取りに自宅に戻った。
「瑛ちゃん、浴衣は?」
「瑛ちゃん、お母さんは?」
いろんな人に、何度も聞かれた。
説明するたび泣きそうになるのをこらえながら 聞いてくる人たちにいちいち答えた。 (ここはものすごく良く覚えている)
恐らく本気で急いでくれたであろう母は、間に合わなかった。
アルバムに残されていた 園の屋上から撮られた写真(園の関係者が撮ったのだろう)に 整列し、背の順で一番小さかった私が 所在なさげに後ろ(全員浴衣)を見ている姿が写っている。
そしてアルバムの次の写真には、 浴衣を着て盆踊りを踊る私がいる。
顔は笑っていない。
できるだけ時系列に書けたらいいななんて思っていたけど いろいろな時期の記憶がバラバラと思い出されるし 残しておきたいことが今はまだ沢山溜まっているので 思いついた順にすることにした。
中学生。何年だったかは覚えていない。
眼鏡をかけるようになる前だから、1年生かな。
父にグーで殴られた。 回数も思い出せない。
その後目を開けていると 視界がグルグルグニャグニャと回って 吐き気が止まらなくなったので ベッドに横になり、頭を手で押さえながら目をつぶっていた。 呼吸は荒いまま、なかなか落ち着かなかった。
涙が止まらなかった。
しばらくして母が様子を見に来た。 横になっていた私を見て母も怒ったようだった。
だから 「これはフテ寝をしているのではなく、 目を開けていると吐き気がするからだ」と 息継ぎが大変だったけどなんとか説明した。
その後、私は少しだけ斜視になった。 視力はガタ落ちし、眼鏡が必要になった。
右目が1.2から0.04 左目が1.5から0.06
そこで不思議なのが、何故殴られたのか、ということ。
思い出せない。 何か生意気な口でもきいたのかもしれない。
でも、当時既に、突然スイッチが入ったかのように怒り出し 怒鳴るより先に手が出る父だったので 恐らく今確認しても、向こうも覚えていないかも知れない。
聞く事はないだろうけど。
2010年11月10日(水) |
小さすぎて覚えていないこと |
21歳の時、父と大喧嘩して家を出て行くことになった時 (このことについてはそのうち書くことになるでしょう)
母から渡された1冊のノート。 前の方は母の手料理のレシピが沢山書き写してあり 一番後ろには小さかった私との思い出が3ページに渡り 細かい字でびっしりと書かれていた。
その中にあった、自分では覚えていないこと。
「あなたが2歳の時。 いつも折り紙のきれいな色を おねえちゃんが先にとってしまうのが気になっていて 瑛ちゃん(私のこと)に『先に好きな色をとっていいよ』と 言った時のこと。 一束の折り紙の中から瑛ちゃんは 黒と茶色とグレー等を選び、 赤やピンクやオレンジや空色を みんな『これ、Sちゃん(姉)の・・・』と言って おねえちゃんの方に押しやったのです。
(中略)たった2歳で、華やかなきれいな色を 自分には所属しないものと判断してしまっている・・・ 折り紙の束を、いつも2人に一束ずつ与えていれば あんな風にはならなかったはずだし 今現在のあなた自身の人生の色合いに対する認識も 変わっていたのかもしれない・・・
(中略)もし、私の責任だとしたら、救われない気持ちです」
いや、まさかとは思う。違うな、思いたい。
わからない。
2010年11月09日(火) |
ブログより転載します |
近頃「生きづらさ」を感じることが多くなり 私の素人考えで 「過去の出来事(記憶の断片)」や 「過去の自分」と正面から向き合う必要性を感じ 少しずつでも記録をしていきたいと思うようになりました。
「生きづらさ」について
・夫との関係 夫に対する必要以上な(もしかしたら不必要な)遠慮、怖れ、不安感 思い込みによる気持ちのすれ違い 妊娠以降続くレス状態 ↑にも拘らず、「男子を産まなければいけないのではないか」というこだわり 等
・娘への思い 死の不安 依存、寄りかかり イライラしてしまうことの後悔、罪悪感 等
・その他もろもろ アルコール タバコ コミュニケーションの下手さ 破壊願望 見捨てられ不安 性依存 等
とりあえずパッと思いつくだけでもこのようなものがあり アプローチの方法として間違っているかも知れないけれど 過去と向き合うことが必要なのではないかと 思い至ったのです。
何もかも勉強不足で 却って精神的に負担が掛かることの心配もありますが とりあえずやってみようと思います。
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