泡沫の記
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2004年10月30日(土) 後退なのかも、わからない


どうしようもない 私がいる


「自分で自分の面倒を見てあげることがヘタ」
「だから他人に依存しようとする(その方がてっとり早いから)」
「だがそれでは本質は何も解決しない」
「まずは 自分で自分のご機嫌をとってあげよう」

少し、わかりかけていたような心持ちでいたのに
突然、なにもかもわからなくなる
哀しいのか辛いのかさえ、よくわからない
なんだろう、この感覚は


「神様はサイコロを振らない」
アインシュタイン



2004年10月29日(金) わりとすっきりした一日

カウンターをみたら、偶然「777」でした。

何かいいことがあるかもしれません。

今日はよい秋晴れの一日でした。

さぁ、まだまだ散らかった部屋の書類、郵便物、本などの
片づけです。

今夜はチキンライスの予定。

※ 今日から個人輸入で入手したダイエット薬を飲みはじめる。
  冬服はごまかしが効かないし、太って見えるのは醜い。


2004年10月26日(火) 立ち止まって考える

今日はメンタルクリニックと歯科医院に行く。

クリニックの先生に、求職活動もやっている最近の前向きな私について
聞いてみた。「これでいいんですよね?」と。
先生は「もちろん、前向きはいいのですが、一足飛びに行こうとする
から、しくじることも多いので、まずは一歩一歩前進して下さい」と
言われて、ハッとした。
勿論、生活はラクではなく、私の心も少し前よりは良くなってきたと
思う。しかし、クリニックに通ってもう6年以上たつ。
その間に心の動きも、上がったり下がったり。

ハローワークで、ここいいかな?と考えている内に
その求人は終わってしまった。
だからなおさら、焦りも感じていた。
迷っていると、とられてしまう・・、選んでいる暇はない・・と。
もちろん、それはそれで大切なことかもしれないが、
ちょっと焦って急ぎ過ぎているようにも思った。
それほど多くはないが、今日明日の問題でもない。
じっくり腰を落ち着けて、絶えず情報収集を心がけながらも
やっと、父がうちに来なくなってある程度束縛されない
時間も持つことができたのだ。
家の中でやらなければならないことが、実は沢山溜まっている。
そういうことをすこしづつやりながら、自分にとってしっくりくる
環境を整えながら、求職活動も続ければいいのだと思った。

今は突っ走っていても、きっとこのペースで行くと息が上がってしまう。
苦手な寒い季節、しっくりくる環境をまずは整えたい。

そんなことに気がついた日だった。


2004年10月24日(日) お墓参りに行く

午前中に予定通り墓参りに行く。
花が枯れてそのままになっているものをいくつも見た。
あんな状態なら、私だったら花なんていらない。
まして造花を備えてある家もあって呆れる。
枯れきった根元の腐った花も嫌だが、白々しい安っぽい
造花も私なら御免被りたい。
花も線香もいいから、墓やその回りをこぎれいに
掃除してくれた方がよっぽどいい。
まぁ墓に入れなくても散骨してくれていいんだけど、
出来ることなら、私の骨をいくつかに分けて、
親や、子供たちがいづれ入る墓(もしくは散骨した場所)に
ほんの少し置いてもらえれば嬉しい。
葬式も不要だし、年忌もほとんど無用。
一番近い家族(身内だけ)で最低限のことをしてくれるだけで充分、
年忌も身内だけ集まって、私の悪口でも言いながら
美味しいものを食べてくれれば最高だ)
形式をなぞるより、残った身内にはできるだけ迷惑や面倒を
かけたくない。(よっぽどやりたくてたまらないなら、勝手に
やってくれてもいいが)
悲しまれるのも最低限にさせたい。
だから、あっさりと済ませて欲しい。
時々もし思い出してくれるのなら湿っぽくなって欲しくない。

        @ @ @ @ @

今日はその他、こまめに何件もの用事をこなす。

昨日あまり寝ていないので今日はだるい。

新潟の地震の被害で現地の人たちはかなり困っている様子が
報道されている。
命かながら逃げて避難所に集まっている人たち、さぞ途方に
暮れているだろう。
相変わらず余震も続いているらしい。
自分の身にふりかかったことだったら、と思うと
胸が痛む。

役にたつかどうかはわからなくても、いざという時に
困らないよう災害時の最低限の荷物の準備をもう一度
確認しよう。

今日こそ早く寝て身体の疲れをとりたいと思う。


2004年10月23日(土) 身勝手だが幸せな晩年

新潟で直下型の大地震。まだ余震も続いている。
テレビではつぎつぎと被害情報が報道されている。

今年は夏の高気温や台風、地震と天災が続く。


野菜の高値が続いている。

大根もキャベツもほぼ500円だ。
魚屋がぼやいていた。(ツマの大根やネギなどの高騰で)
きっと、お代り自由のとんかつ屋も泣きが入っているだろう。


ずっと前、災害ニュースを会社の昼休みに見ていたら
同僚の若い女の子が「いい加減、飽きた。もう(報道を)止めて
欲しいよね〜」と言っていた。
自分にリアルな被害がなければ、関係ないと思っている。
選挙もそう、自分が行ったって世の中は変わらないと
平然と言ってのける。
確かに世の中はそう簡単には変わらない。
でもそのことと、選挙に行かないことは別次元だ。
棄権は権利の放棄なのだから、税金が上がろうと景気が
回復しなかろうと文句を言う権利はない。


本家の伯母の痴呆が、すでに始まっていることを
今日初めて知った。
いろんな記憶が一緒になってしまったり、
久しぶりにあった孫(30才過ぎ)と3時間も話した挙げ句
その孫が帰ってから「いまの娘は誰だね?」と家族に
聞いたらしい。
伯父の介護で散々苦労した家族はたまらないだろう。

ただ、回りへの迷惑を抜きにして思うと、
忘れていくというのはなんと幸せなんだろう。
少しづつ、少しづつ、新しい記憶から忘れていく。
生きてきた分だけの苦しい哀しい記憶を
全て生々しく引きずったまま死ぬのはいかにも辛すぎる。
死を強く意識することもなく、静かに老いていけるとしたら
こんなに幸せなことはない。
父も最近、物忘れがひどくなってきた。
最初のうちは娘の私も嘆いたものだが、
父にとっては、幸せな晩年を送ってほしい。
虚弱だが、身体にいま問題もなく無理をしなければ
普通に日常を送っている。
以前から言ってはいたが、ここのところオーロラを
見に行きたくなって思いは募っているらしい。
子供の頃からの友達に一緒に行かないか、と声をかけてみる
つもりだと今日も言っていた。
身体が動くうちに、やりたいことはやっておいて欲しいと
思うし、父に残された時間はそうないだろう。
(海外旅行はかなりのエネルギーが必要だから)

明日は、墓参りに行く予定。









2004年10月22日(金) ラジオから・・

車のカーラジオから流れていた曲には、確かに
かつて聴いた記憶がある。
歌詞の途中でハタと気がついた。
「プレシャス ラプ」15歳だった頃に
好きだったボブ・ウェルチの曲だ。
私は確か彼のレコードを持っていたはずだ。
フリートウッドマックから独立したボプ・ウェルチは
数曲のヒット曲は出したがあまりパッとしなかった。

先日、70年代の洋楽ヒット曲集のCDを買った。
つまらない曲も多数あったが、
スージー・クワトロの「キャン・ザ・キャン」や
ヴァン・マッコイの「ハッスル」、
キャプテン&テニールの「愛ある限り」、
ナタリーコールの「ミスター・メロディ」、
サンタナの「哀愁のヨーロッパ」、
ドナ・サマー「バッド・ガール」
ミニー・リパートン「ラヴィン・ユー」etc・・・

でもジャニス・イアンは「17歳の頃」を選んで欲しかったし
ブロンディは「Xオフェンダー」ではないだろうか。
クイーンだって「ボヘミアンラプソディ」でないのはなぜ?
アバだってポルナレフだってなぜ?という選曲。

まぁ〜、いろいろ事情があったと思いたい。
文句を言うのは簡単だが、シロウトにはわからないことが
あるんだろう。


2004年10月21日(木) 高額アルバイト

新薬高額アルバイトに登録だけしてある。
情報が更新される度に見るのだが、たいていが男子ばかり。
場所が東京の場合が多いので、1泊や2泊の短期間バイトでは
交通費がバカにならない。

捨て身のバイトも、需要がなければ金にはならない。

自分では意識していなかったが、少しネット中毒かもしれない。
気がつくと日に数時間もPCの前にいたりする。


2004年10月18日(月) 禍、多し

1日に2度も車をぶつけてしまった。
バックしよう思ったら後方注意で軽く接触。
先方の塗装代が約5万、保険を使うしかない。
私の愛車はボロボロである。

その他にも多数のトホホ事件が多発した一日。
不幸のドミノ倒しだ。


2004年10月17日(日) 後ろ向きにならないために


眠れない。
長い夜になる。

自殺には理屈などない。
ただ「死」に向かって進むのを願うのみ。

どんなに自分を不幸だと、惨めだと思っても
死を選んだ瞬間、
残りの人生で、生きて幸せになるチャンスを
永遠に失うのだ、と自分に言い聞かせる。

悲しい過去はなるべく思い出さないようにしよう。
苦しい現実も、深刻に考えないようにしよう。
努力すれば、何かしらのチャンスは必ずあると信じよう。

少々、刹那的に生きても後悔しない生き方をしよう。

誰も私を守ってはくれないのだから、自分のことは自分で守ろう。

自分のことは、自分で面倒みてあげよう・・・


2004年10月12日(火) もがき気味


朝、メンタルクリニックに行く。
メチャ混み状態。座るところがなくて立ってる人も数人。
私は早く行ったので9番だったけど、2〜3時間待ちだろう。

親兄弟に対しての依存についての話を先生とする。
「まだ、依存してたんですか?」と言われ、
あらためて、自立について考える。

職安に行き、2時間近く職探し。
日給制だったり、経験者が条件となると
なかなか、当てはまるものがない。
私の経験なんて、出版社勤務だけだもんね。
それも昔すぎて、今の時代にはついて行けない。
かろうじて?資格のある秘書の仕事も、
だいたい20代を募集している。

寒暖の差が激しい今日このごろ・・。
憂鬱な寒い季節が、すぐそこまでやってきている。

集団自殺が多発しているらしい。
死ぬということは、
生きて幸せを感じるチャンスを失うということ。
それが理屈でわかっていても、例えば好きな人となら
一緒に死ねるかも。その時は何もかも感じないよう
心を閉ざして、その人と一緒に行動するという思いだけで
死ぬんだろう。
でも、余命わずかと医師に宣告されたら、そのような死は
ものすごく怖い。
生きている限り、きっと幸せのチャンスがあると信じて
頑張ろうと思っている、いまは。


2004年10月11日(月) 神経質なのに無神経の身の上


歯の痛みが深刻で救急センターで診てもらう。
もう神経を抜くしかないと言われ、がっくり・・。
何回も麻酔の注射をしたが、
あまりの痛みに悲鳴をあげたほどだった。
今日は応急処置なので、これから通院するかと
思うと(場所が遠いので)気が重い。
神経の無い歯はどんどん弱くなっていく運命にある。
何のために3年もかかって矯正しているのか
わからなくなる。(虚しい・・)

その直後、一旦停止無視?で警官に呼び止められる。
かなり注意していたつもりだったのに、
とにかく完全には止まらなかったということで
注意を受ける。スピードは落としていて、左右の確認と
かなりゆっくりで、急に飛び出して行った(右折)のでは
ないということで、ギリギリ切符は切られなかった。
しっかり注意しないと、本当に事故になったら
悔やみきれないと、肝に命じる。

部屋がかなり散らかってきた。
お天気が良くなってきたら、大掃除だ。
明日はメンタルクリニックと職安に行く。
憂鬱だ。

「訃報」
クリストファー・リーブが心不全で死去。



2004年10月10日(日) 大河「新撰組!」から

ドラマにおける役者の格は、そのドラマの字幕の序列でおおよそわかる。

前から皮肉に思っていたのが、歌舞伎では名門の長男で、
いづれは父(現・勘九郎)や祖父(勘三郎)の後を
継ぐであろう、中村勘太郎と
成駒屋、音羽屋、高麗屋ほか名門中の名門の家とは言い難い?
萬屋の、しかも父は役者にならなかったという
中村獅童の格が、家柄とはうらはらに勘太郎より高いということだ。
勘太郎は、新撰組の主要登場人物の一人という扱いだが
獅童は少し間をあけた、中留めに近い別格。

そして今日の留めには、な、なんと伊原剛志だった。
(まぁ、伊原も三谷組系ではある)
今日みたいな日は、土方が留めになってしかるべきだと思うが
肝心の土方はホリプロ・藤原竜也より下の扱いである以上
土方を「留め」には出来ないということか。

15年以上前になるが仕事で、あるドラマの取材で
まだ無名に近かった伊原の隣で、私は撮影を見ていた。
伊原は出番待ち(チョイ役に近い)で、
私は背の高い人だな、でも誰?と思いながらそれでも10分ぐらいは
隣(すぐ近く)にいた。
なんだか気になって、名前を調べたら伊原だったのである。
その後、折りあるごとに気にかけていたが、彼はJACを
辞めてから、芽が出て知名度が上がってきた。
同じ頃に同じくJACを退団した堤真一より、
大物になったのかもしれない。
こんなに有名になる前だけど、その当時の伊原や堤も登場している
写真集を持っている。(というか、私がいた会社で作った)
会社はなくなったが、実際に撮影に使ったフィルムは、
今でも存在する。

        ********

どうにもやりきれない日々が、まだ続いている。
今月末には、死にたくなるぐらいの請求書の束が届くだろう。
怖くて、とても全額を把握していない。
医療ボランティアと称するいわゆる薬の人体実験のバイト、
いま募集がかかっているのは、全部男子のみである。
早く私が参加できるようなものが募集をかけてくれないものか。

心も意識もなにもかも、閉ざしてしまいたい。


2004年10月02日(土) 最後の思い出

昨年100周年を向かえた母校の女子校が
来年から共学になる。

昨日、数年ぶりに友人から電話をもらい、明日最後の体育祭を
見に行かないか?と誘われた。
少し躊躇したが、共通の友人とも連絡をとり、行くことにする。

体育祭の締めに行われる、母校名物?の伝統行事、
変形行進(マスゲーム)を見るためである。
多数のOGや友人数人と見た、最後の変形行進。
もう二度と見られないし、母校に行くことも多分ないだろう。
共学になってしまったら、もう母校とは思えない。

わずかに残っていた 古い校舎の階段と廊下・・
かつて 牛乳とヨーグルトの自動販売機が置かれていた、
小さなスペース・・

ちょっとだけセンチメンタルになってしまった。

   **********

昨日から 十何時間かけただろう
いったい 何十回、打ち直しただろう
せっかちな私が、できる限り慎重に言葉を選び
Jへの最後のメールを送信する。
後悔はないが、どうしてこういう運命になるのか。
わたしの原罪はそんなに深いのか。

移りゆく時間の中で生きている今、
すべては、思い出のなかへ・・・


2004年10月01日(金) senseの欠如


ドトールでコーヒーを飲みながら、知人への手紙を書く。
フジ子・ヘミングのCDを聞きながら。

私の書くものはどれも長く要領を得ない。
簡潔にまとめたいのだが、どうしてもデティールを多く書き過ぎる癖がある。2時間近くかけて、ろくでもない手紙を書き終えて、郵便局にて投函。

昔、仕事の原稿を書くときからの癖だが、まずは一通り書いてしまう。途中にうまく表現できていないところがあっても、とにかく進める。当然、脇道が無駄に多く、文章も一貫していない。

それから、最初に戻って読み直し、書き直したり 付け足したり 勿論、削除もする。
それを何度も繰り返す。時間と根気のある範囲で。その作業は果てし無く続き、終わりというものがない。結局、いつもどこかで自分に妥協しながら書くことになる。

完璧なものなど ありはしない。
それでも、私には決定的なものが欠けている。
いわゆる文才、senseがないのである。それどころか、まわりくどい分だけ 読みにくい文章になってしまっている。
それがわかりながら、自分の能力ではどうすることもできないのは 本当に残念だと思う。


昨日から、知人宛のメールを送るために、悪戦苦闘している。
Eメールアドレスを知らないのだが、同じ会社のものなので1回につき 128文字以内でメールが送れる。思いつめた内容なので、どうしても長くなる。最初に全部書き終えた時は計8通分になった。いつもより、より言葉を選んでいるので 一通り書く(打つ)だけでも2時間近くかかった。そこから何十回も、校正を重ねる。かかった時間は4時間を超えた。夜が明けそうになり、一旦、保存して休む。

それから3時間後、今朝になって読み直して また直し。
用事をすませては、時折書き直し、結局最初の半分、4通分のメールにまで縮小した。言い直しもあれば、散々書き直したのに大幅にカットしたところも随分あった。でも多分、あと数時間かけて ひたすら校正を繰り返すことだろう。

根がせっかちなので、こんなに迷い 時間をかけるのは私としては珍しい。

私に与えられた ささやかな切り札は たった1度しか使えない。
チャンスはたった 1度だ、たった1度。
たった1度で 最大限の効果をあげなければならない。
おぼろげな[的]を 外してはならない。

携帯メールという狭いフィールドの中では 1文字の無駄も許されず より削ぎ落とした中で 完成度をあげなければならない。
最終的には私の負けは決まっているので、私の文章は一矢報いたのか どのぐらい有効であったのか または全くもって無効であったのかすら 知ることはない、たぶん。


波ちどり |MAIL

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