部屋が片付かないのは物が多すぎるからだ。 しかもそのほとんど、8割くらいは使っていない物。 使ってないなら捨てるなり売るなりすればいいのだけど それができれば苦労はしないって話だ。
どうして処分できないかというと、それらの物が 基本的に未来に繋がっている、または繋がる可能性があるからだ。 「・・・きっと5年後に見たらもっと懐かしいだろう・・」 「いつか使える・・」(といって99.9%使わない) 「引越しのとき使うから・・」(プリンタの箱とかね)
そしておかげで部屋が狭くなっている。 未来を想うあまり、「今」が損なわれいる。
「今」だけを生きられたらどんなに部屋が広くなるんだろう。。
例えば写真の感想で 「上手いね」って言われるより 「好きだ」って言われたい。
もはや上手いとか下手とかじゃないしね。と信じてるわけで。
ついでに「おまえが好きだ」と言われたい。 もしくは「おまえを好きだ」と言われたい。
どこにも行けない。 どこにも行かない。 どこにも行けなくていい。 どこにも行かなくていい。
一枚のアルバムを何十回、何百回と聴いてソラで曲順が言えるくらいに耳になじむ、というようなことがなくなってきている気がしてならない。聴く曲数は増えたけど、一曲あたりの再生回数が少ない。というか。
これは聴く音楽の範囲が「狭く深く」から「広く浅く」なってきているのか。 どちらが良い悪いとかではなく、そういうスタイルになってきているなあと。 時間の絶対数は変わらないのだから、「広く深く」というのには限界があるわけで、よーするに追いつかないのよ。時間に追いつけない。
間違って広まったことが新たな常識になることってあるよね。 言葉とかね。 広い意味の言葉に含まれるかもしれないけどHTMLとかもね。 ALT属性タグってほんとは(もともとは)音声ブラウザや画像が表示されない環境のために 例えば[TOP]っていう画像にマウスを置くと「TOP」って出てくるように 画像の名前を記述するもので、漫画のふきだし的な使い方は"まちがって"たみたいだけど あんまり広まってしまったもんで、もはやそれもアリになって、 でもHTMLと付き合いの長いひとからすれば、 "まちがっとる!けしからんだから最近の若いもんは"的な見解と "昔は違ったんだけどなぁ、世の中変わったもんじゃ、しみじみ"的感慨と "これもいわゆるひとつの自然淘汰なんでありましょうな"的な意見とが あるだろうけど、結局のところ褒めたってけなしたってこの流れは変わらないんだろう。
っていうかうちのサイトなんて画像見えなかったら存在事由がなくなってしまう。
2005年06月06日(月) お金と幸せについての考察 |
お金はないよりあるほうがいいに決まっているけど ありすぎても必ずしも幸せにはなれなさそうだなと 貧乏人のくせに思ったりする。
資産がウン百億とか、そういう、途方もない天文学的数字になってくると 一般人の"欲しいものリスト"に挙がるような物質、たとえば 電化製品だの車だの家だの宝石だのはなんだって手に入るだろうし たぶんその一般人とは経済感覚が2桁、3桁違っていて 小銭入れは持ちませんでござーますよ、みたいな、 でも、いわゆる"どこまでいっても満たされない"状態なんじゃないだろうか。 あとは金で買えないものしか欲しいと思わない、とかね。
そう考えると一般市民があくせく働いてひとつまたひとつ望みを叶えていって小さな幸せを感じていくっていうことは、幸せを感じる回数が多くて、案外幸福なことなんじゃないかとも思えてくる。
自由さそのものを手にしているよりも、 自由なるものの象徴を手にしていることが幸福なのかもしれないように、 実際に莫大なお金を手に入れるよりも、 莫大な、途方もない額の金を、想像しきれないほどの金を、 想像しているほうが幸福なのかもしれない。
とかなんとか言ったところでほんとの金持ちにしてみれば 「想像だけでいいなんて安上がりだこと」って思うんだろうけど 幸せの価値観に絶対的なものなんてないんだし いつも100均のファイルで済ましちゃうのを400円するのを買ったくらいで 息切らしながら昨日の自分に対して優越感に浸っていたりするのが私なのだ。
あー、欲しいものがたくさんあるって幸せだなー(涙)
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