遠くに行こうと思うだけで疲れてしまう。郵便局に行かなきゃいけないし
図書館に本を返しにいかなきゃいけないし、郵便局も図書館も5時までだし
レンタルしていたCDやDVDも返さなきゃいけない。地元の用事が満載だった。
遠くというのはそこを思い浮かべるときに路線図がでてくるようなとこ、
例えば今日行く予定だったライブとか。
わりと都心に近いほうの千葉県に住んでるけどやっぱり遠い。
いろいろあってめんどくさくなってしまったので、
近いところの用事だけを済ますことにしたのだ。
用事を済まして重い荷物をぶら下げて
(結局また図書館でたくさん借りてしまった)
ぶらぶらした。
公園で逆上がりを1回した。
童心に返って巣穴から出てくる蟻を眺めた。
まるで小学生のころのゴールデンウィークみたいな日だ。
蟻をレンズで追いかけた。
そういえば最近接写モードをつかってなかった。
近くでものを見るという行為は、案外世界を広げ得る。
というわけで黄金週間が幕を上げた。
ライブに行く予定が2本。
のみ。
他の予定はこれから考えることにしようと思う。
2005年04月28日(木) 記憶のインプット・アウトプット |
記憶を保存するとき、人はその出来事や体験を断片的な映像にして残しているのかもしれない。
そして、思い出すとき、記憶を取り出すときには、その映像をまた言語化しながら。
アメリカにいた幼い頃の記憶はなぜか日本語に変換されて覚えている。
学校の先生が言ってたこととか、友達と遊んだこととか、
場面場面の映像の中に日本語の音声がついている。
これもまた英語→映像→日本語へと変換されたということだろうか。
インプットするときは映像化して、アウトプットのときは言語化。
数字って色とかのイメージあるよね。
1は白っぽいとか
2はオレンジっぽいとか
3は緑っぽいとか
4は紫っぽいとか
5は青っぽいとか
6は水色っぽいとか
7は黄色っぽいとか
8は赤っぽいとか
9は茶色っぽいとか
0は黒っぽいとか。
あとそういや子どものころは数字の大きさに関係なく、
数字によって強そうとか弱そうっていうイメージがあったなぁ。
今も思い出せるけどあんまり感じなくなってきた。
例えば1と2だったら数字的には2のほうが大きいけど
なんとなく2は弱いイメージなのよとか。
2はぐにゃりとしてる感じで
3はわりとしゃきっとしてる感じで
4は柔らかいけどシャープな感じとか。
5はずしんと重たい感じとか。
というかこれは言葉の響きの印象なのかな。
「よん」っていうと柔らかい感じだし
「し」って言えば硬い感じとか。
言葉といえば、
簡単な英語を聞くと、ふむふむ、って聞くと同時に理解できるのに
それを日本語に訳せってなると、えーっと、ってなる。
これも英語を覚えるときにイメージで覚えてるのかしら。
appleを「りんご」として覚える前にりんごの絵で覚える感じ。
というかapple→りんごの絵→「りんご」みたいな。
言語間に無意識に付加情報を入れて覚えちゃってる。
だからappleと聞くと、「りんご」っていう言葉より、
「赤い」とか「丸い」っていう情報(というかりんごそのもの)が思い浮かぶ気がする。
まぁ「りんご」くらいなら瞬時に日本語になって出てくるけれども。
そんなわけで言葉や記号(言葉も記号だけど)にはイメージがあるなあと思ったわけです。
入学以来、毎年配布されるMAU手帳を使っている。
内側のポケットのところに
大事なレシートやら記念にとチケットやらを挟んでいくもんだから、
最後のほうになるとちょっぴり分厚くなっている。
そして愛着も沸いているもんだ。
この手帳は4月から翌年の4月まで使えるようになっているので、
いつも翌年の4月まで使い切り、5月になってから新しいものへ移行している。
別に5月を待たずに移行してもよいのだけれど、
なんだかそのまっさらの手帳は心もとなくて、
なかなか子離れできない親のような心境で古いほうの手帳を使い倒している。
使い慣れ、使い古したものを手放して、まっさらなところへ飛び込むのは
いつでも大変なことだ。
手垢でよごれたページの側面とか、使う内に折れてしまったページの端っことか、
汚れたりぼろぼろになっていても、この一年の間に自分の手になじんできたのだ。
たったの一年、されど一年である。
だれにも平等に与えられた一年を、「私」が過ごした一年が凝縮されている。
ぐーたらに過ごしてしまった空白も、あわただしく過ごした安心も、
その一年に満足だろうとなかろうと、とにかく全部つまっている。
もう少ししたら、世間より少し遅れて新年度がはじまる。
そんなわけで、まだもう少しだけすがりついている。
2005年04月16日(土) クリック繰り行くパチン |
クリッククリックで写真をどんどん進めていく見せ方。
歩きながら次々とシャッターを押す感覚。
空間を突き進みながらその断片を採集する感覚。
点と点を拾い集めながら再構築。
クリッククリッククリックパチン
風船に針を刺して割れるみたいに消える最後の画像
布団に入って目を閉じたときにまぶたに浮かぶその日の残像
パチンと消えたあとの残像
写真、映像、画像、パチン、残像、記憶、記録
一連の流れをまるごと記録すること。
買ったもの、読んだ本、日付、考え、出来事、今。
消去しなくとも忘却していくことへの恐れ?
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話し言葉と書き言葉。口語と文語。自分で書いた文章で内容も頭に入っているのに
それを見ながら読み上げずに口語に変換するのは意外と難しい読んでいた小説のラ
ストが気にいらなかったというか前にも読んだことがあったのを忘れて昨日図書館
で借りてしまったのをまた読み返してみてこれ読んだことあるじゃんと思ったけど
意外と内容も覚えていたけど最後まで読んでやっぱり最後が納得いかなかったとい
うか尻切れトンボみたいだったからじゃあ自分で続きを書けばいいんだと思ったか
らあとで少し書いてみよう。
2005年04月15日(金) 時間の伸縮、距離の伸縮 |
今週2度目の通学。
今のリズムだと絶対起きれる自信がなかったので寝ずの登校。
朝から起きてると日が長いね!むしろ夜から起きてますがね。
しかも気持ちよく晴れてたからさらに日が長く感じるね。
日が長いもんだから調子に乗って図書館で10冊も借りてしまったよ。
よく考えてみると悪くない環境に住んでることに気づく。
家から徒歩5分圏内に(しょぼいけど)図書館、コンビニ2軒、レンタル屋がある。
3限までなら地元の図書館の閉館時刻にも間に合うのがうれしい。
通学4年目にもなると時間を縮められるようになった。
実際に時間の短縮ができるわけではもちろんないのだけれど、
電車で本を読んだりすれば体感的には短くなるのですよ、時間が!
というか、時間を圧縮してる感覚かしら。
その代わりなのかはわからんけども、わざと時間を伸ばして楽しむことも覚えた。
それは歩くこと。
原始的な徒歩という超低速な移動手段がもたらしてくれるのですよ、近くて遠い世界を!
「世界」なんて使うととたんに陳腐に聞こえてくるけれど。(↑おまけに倒置法)
同じ1時間を歩くのと電車に乗るのとでは、
実際的な距離はたしかに徒歩なんてたかが知れてるのだけれど
遥かに多くの情報に触れられると思うんですよ、徒歩のほうが。(またもや倒置法)
歩かなくなった現代人が交通手段の発展とともに手に入れた遠いのに近い世界と
徒歩や馬しかなかった時代の近いのに遠い世界とでは、
どちらがほんとうの意味で広いんでしょうかねなんて考えちゃいますね。
4月に入ってのこの更新状況からもわかるとおり、
やる気低下週間に突入中。
今朝も明け方まで小説を読んでしまったため昼過ぎ起床。
めしを食らってから昼寝して、起きたら日が暮れていた。
久々にマシューと正直しんどいを見た。なまり亭が面白すぎる。
寝すぎたのでまたリズムが狂う。
去年は学校に週3しかいかなかったため、軽くひっきーだったのだけれど、
今年は最低限しか授業とらないと週1になってしまう。
重度のひっきー生活まっしぐら。
こ、これはいかんぜよ。
リズムなんてあったもんじゃない。
と見せかけてあとで振り返ったらあれは変拍子だったんだ
ってことになるといい。
単調なリズムからの逸脱。
そしてぎりぎりついていける気持ちよい変拍子へと。
ケーキのバイキングに行ってまず皿にのっかる分だけのっけてそれを食べ終えたら、
次並ぶときは、もし最初に食べた中で気にいったのがあっても、
ほかのまだ食べてない種類のケーキを食べようとする。
それでようやく最後に並ぶときに締めとして一番気にいったものをもう一度食べよう。
また今度来たときに新しい種類が増えてなければ、そのときはこのお気に入りを何個も食べよう。
新しくて、おいしそうで、そんなに高いやつでないのがあったら、それも食べてみよう。
という性格なのだ。
好奇心旺盛?よくばり?優柔不断?広く浅く?臨機応変?
あと偏見はないほうだと思う。噂話に翻弄されることもあまりない。
つまり自分の目や耳で確かめたい、と思うんだろうなぁ。
となると人の意見は信じない?いやーそうでもない。
頑固?いやー、人が有用なアドバイスをくれたら素直に受け入れるよ。
あーでもあんまり直接相談とかしないほうかも。
とりあえずあんま凹まない。ゆえに反省してないのかも。
ってことは自分が一番正しい、って思ってるのかしら。
んーでもでも、おみゃぁそりゃぁ違うよ、
これこれこういうわけでこっちの方が正しいと思わない?って言われて
そっちのほうが確かにいいって思ったらすぐそっち行くしなー。
そこは切り替え早い?立ち直り早い?
けど自分の中であーでもないこーでもないって迷ってる時間はけっこうあったりするしなー
そこは優柔不断?
けど迷うってことは考えるってことでもあるから、それはそれで大切だしなーとも思ったり。
そう、決め付けない。
あらゆる角度からものごとを検証して、それから判断をするようにはしてるつもり。
うーん。
うーん。
一つの要素を良くも悪くも言えるからなー。
一概に短所だ長所だって言えない。
ここにきて、リズムが乱れている。夕方起きた。
明日から学校だというのに。
目が覚めても外が暗いと、軽く混乱する。
いま何時なのかわからなくなる。時計を見てもどっちの6時かわからなかったりする。
そして小さい頃、目覚めたら外が薄暗く、家がしんと静まり返っていて、
台所の灯りだけがついていて、母がいる、という光景を思い出す。
外のほのかな青と、台所のオレンジの白熱灯のコントラストが印象的だった。
いまになって思い返しても、それが夕方だったのか早朝だったのか
よくわからないままである。
たぶん、起きて外が明るくないと、脳や体が一日を認識できない感じだ。
だから今日もたいしたことはなにもできずに今日が終わりそうだし、
あの日も、夕方なんだか早朝なんだかわからないまま、記憶の隙間にあるような気がする。
夕方早足新宿ライブ大会
marzとmarble行ったり来たり。
好きなバンドばかりでおなかいっぱい。
お得はお得。
終了後、新宿は夜の雨。
2005年04月02日(土) 無駄などない、はず。 |
日暮里てくてく銀座
アッポーストアにて修理待ち
1時間半待ったあげく、2秒で修理完了。
2日かかってぬけなかったケーブルが、
かよわそうな店員によって、一瞬にして、抜けた。
素直に喜べないなぁ。
「まぁこういうのはビンのふたみたいなもんですから」
とがっくし来ているわたしをなぐさめる店員。
銀座てくてく新橋
新橋ゴトゴト渋谷
坂道はらごしらえMOOG
無駄なことなんてない、はず。
夕方、いまの時期だと5時に鳴る、「よいこのチャイム」というものが
むかしからこの街には流れていた。
夏は6時、冬は4時半、春秋は5時に流れるそのチャイムを、
私はここに越してきた小学校低学年の頃から聞いて育った。
「ちゃんちゃらんちゃらら♪外で遊んでいる、よい子のみなさん♪
もう、おうちに帰る時間ですよ♪ちゃんちゃらららら
事故などにあわないよう、みんなで気をつけて帰りましょう♪ちゃららら
あしたもまた、元気に遊びましょう♪ちゃんちゃらら・・・」
こどもや親はこのチャイムを目安にしていたし、
小学校高学年にもなると、「悪い子だからまだ帰らない♪」
なんて言いながら、夕方と夜に挟まれた貴重な時間を過ごした。
もっと大きくなると、その時間に地元にいることも少なくなったりして、
こんな春休みなんかに週に何度も聞いたりして、
あぁ、もう少ししてこの家や街を出て行ったら、たまに帰ってきたとき
こんななんでもないチャイムなんかが、とてつもなく懐かしかったりするんだろうな、
なんて思ったりしていた。
ほんとうに2、3日まえにそんなことを思っていたもんだから、非常に驚いた。
そのチャイムの音楽が今日から変わってしまったのだ。
驚きのあまり部屋を飛び出して母に知らせに行ってしまったくらいだ。
もうあのひび割れたような音質で、
近くにあるスピーカーと遠くのスピーカーからディレイして聴こえてくる、
「あの」チャイムは、聴けなくなってしまうのだ。
聴けなくなってしまったのだ。
新しいチャイムは、まるみを帯びたような音質で、確かに聞き取りやすくなったかもしれない
けれど、耳慣れない新しいメロディの、よその物、という感じはこの先もぬぐえないだろうな。
にこにこぷん世代が、ドレミファドーナツを懐かしめないように。
(ドレミファドーナツは中学生のころ部活がない日なんかに見たりもした
から、ある意味懐かしくもあるけれど)
チャイムひとつでこんなに衝撃だったことに衝撃である。
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