ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2009年08月31日(月) この晩夏にやっと夏になれた

とうとう8月も最後の日となってしまった。
ここ数日は残暑が厳しくいく夏を惜しむように蝉の声を聴く。

このまま静かに秋へと。自分の夏はそうして終わるのだと思っていた。
けれども土曜日の花火大会。毎年ひとりで遠くの土手から見ていたのを。
今年は思いがけないお誘いがあり。バド仲間のお宅の庭からそれを見た。
バーベキューをしながらみなほろ酔ってとてもにぎやかで楽しい夜になる。

ぽつねんと殻に閉じ篭っていたような夏が一気に輝いてくれたように思う。
間近で見る花火のなんと感動的なことだろう。そうして気さくな仲間たち。
ひとが好きだなとつくづく思った。声をかけてくれてほんとにありがとう。

白い花火。雪のようにこぼれ落ちる花火。それが夏のすべてのように思う。



明くる日の日曜日。また思いがけないことに古きよき友と再会を果たす。
娘さんが我が町に嫁いでいて花火大会を見がてら遊びに来ていたのだった。
毎年の誕生日に交わすメール。会うことは叶わずもう5年の歳月が流れていた。

会えばそんな歳月など一瞬にして埋まる。友とはほんにありがたきものだった。
昼食をともにしお互いの近況など語り合いながら昔話もまた懐かしく思える。

彼女はとても楽天家だった。もうこんな年だもの体調の悪い時だってあるよ。
でも人間だもの死ぬ時は死ぬんだからくよくよ考えたってしょうがないよと。

その笑顔にどんなにか救われた事だろう。爪の垢を煎じて飲みたい程だった。
みんなそれぞれ苦悩を抱えている。それを苦だとは思わない生き方がしたい。


南風20号。彼女が乗る列車は偶然にも去年の夏の出来事と重なり合った。
あの日も列車が見えなくなるまでホームから手を振り続けていたのだった。
また夏が巡ってきてそうして友が去って行く。あの夏は今生の別れだった。
けれども彼女にはきっとまた会える。あと何年かかろうと会わねばと思う。

千切れんばかりに手を振る。ありがとうと心が叫ぶ。とても嬉しい再会だった。


この晩夏に私はやっと夏になれた。そうしてそっと幕をとじるようにそれを終える。




2009年08月27日(木) ほれほれのめのめ

曇り日。山里ではときおり霧のような雨が降った。


朝から少し気忙しくしていてそわそわと落ち着かなかったけれど。
お昼休みになりやっと鎮まりクルマでゆっくりと文庫本を読んだ。

読んでいると書きたくなる。足元にも及ばないというのに書きたい。
書けるような気がしてくるのだけれど。とても手の届かない雲のよう。

この頃は行き詰っているなとつくづくと思うことが多くなった。
もっともっと崖っぷちに在りたい。とことん追い詰められたい。
そうして真っ逆さまに落ちながら生きるような文章を書きたい。

駄文書きのあがきだ。今夜などもひっそり酒でも浴びていれば良いものを。


うん浴びようとことん浴びてやろう。そうして陽気に歌うように書こう。
どうでも良いこと?たしかにそうだ。つまらないこと?たしかにそうだ。

ふむふむ。ついに開き直ることになったらしい。ああ好きだなこういうの。


そうそう好きなようにしているのがいい。好きなように流れていけばいい。
おならみたいなものだと言っていたじゃないか。誰にも気兼ねなくぷすっと。

ごめんなさい出ましたなんて謝らなくてもいい。出たものはしょうがない。


鈴虫ちろりん草のなか。こおろぎころりん草のなか。あたしはぷすりん夜のなか。


はぁ・・今夜も心地よく酔ってそうろう。もう一杯いくか。ほれほれのめのめ。



2009年08月26日(水) そうしていっぱい歩こうね

日が暮れると一斉に秋の虫が鳴き始める。夜風も涼しい。
窓辺にいて昨夜よりも少しふっくらとした三日月を仰ぐ。


もう例の子犬の声は聴こえない。今朝聴いたその声が最後になった。
午前中は我が家の庭に来ていてじっとおとなしく座っていたらしい。
お向かいの奥さんがその後の事を教えてくれて二人涙ぐんでしまう。

ご近所で少しいたずらをしたらしい。そうして捕まえられてしまい。
すぐに保険所に電話をされてしまったらしかった。なんと憐れな事。

犬が嫌いな人もいる。それはほんとうに仕方のない事だけれど辛い。
もう二度とこんな不憫なことがありませんようにと手を合わす思い。

ただ唯一の望みは保険所に行ってから里親が見つかる事もあるそうだ。
子犬の場合はその望みも大きいと聞く。奇跡的に救われるかもしれない。


ずっと平穏だった日々にあって今回の事ほど心を痛めたことはなかった。
飼い犬のあんずとふたり夕陽の川辺を歩きながらせつなくてならなかった。

あんず。おまえは幸せだよね。お母さんと喧嘩しても叱られても幸せだよね。

長生きしようね。そうしていっぱい歩こうね。今日の夕陽も綺麗だね。



2009年08月25日(火) どうしようもできないこと

秋空のまま日が暮れて三日月の光がほのかにあたりを染めている。

土手から子犬の声がする。帰る家がない不憫な子犬だった。
昨日。川辺の木に繋がれてそのまま捨てられてしまったようだ。
傍には水入れとドックフードの袋が置いてあったと言うけれど。
どんな事情があるにせよ置き去りにするとはなんと酷い事だろう。

今朝方。その青い首輪をした子犬は綱を千切って路地をやって来た。
とても人懐こくて可愛くて。ついつい頭を撫でてしまったのだけれど。
たちまち彼に叱られてしまう。飼ってもやれないではないかと言われて。

お向かいの奥さんが昨日の様子を教えてくれた。捨てられたのだと。
可哀想だけれどどうしてあげることも出来ない。胸が苦しくなった。

区長さんに連絡して保護して貰おうと提案したのだけれど。それも。
彼に叱られる。そんなことをしたら即刻保険所に連れていかれるぞ。

確かに彼の言う通りだと思う。野良犬のほうが幸せかもしれないのだ。
いやそれよりも誰か飼ってあげられる人がいてくれたらそれがいちばん。

不憫でならないけれどしばらく様子を見ることにする。どうかどうか。
飼ってくれる人がいてくれますように。ただただ願う事しか出来ない。


捨てたひとは今どんな気持ちでいるのだろう。可愛い盛りの子犬の事を。
ドックフードの袋は誰かが持ち去ったかのように今日は消えていたらしい。
もしもそのひとがそれをしたのなら。安心したうえの行為なのだろうか。
誰かが飼ってくれるのだとそう思ったならそれはとんでもない誤解なのに。

どんなにかお腹が空いたことだろう。今夜はいったい何処で眠ればいいのだろう。


してあげられないこと。どうしようもできないことで心が痛む夜になった。



2009年08月24日(月) 夏のページをめくりながら

とうとう夏が退く頃になったらしい。『処暑』は少しせつない。
どうしようもなくいってしまうひとのように思われてならない。


去年の夏が『動』だとすると今年は『静』としか言いようがなくて。
うずくまって膝小僧を抱えながら雨を陽を風を感じるばかりだった。

いちめんの向日葵畑のことを知らずにいた。今年も咲いただろうか。
向日葵が好きだと言ったあのひとは変わらずに元気でいるだろうか。

縁というものは時には儚い。せめて忘れずにいることで救われていく。
ただ執着を絶つということ。あとには清々しい思い出だけが残るのだ。

届かなくてもいいこと。伝えられなくてもいいことで私の夏は満ちる。




秋刀魚を焼いた。ガスレンジが壊れてしまったので鉄網で焼いたところ。
家中が火事みたいな煙になった。涙を流しながら辛抱強く耐えてみるが。
七輪が良い炭火が良いと台所でわめいていた。庭で彼に焼いてもらおう。
俺は嫌だねと笑いながら言うので。煙の中の狸みたいにポンポコうなる。

苦労したかいがあったのか秋刀魚はとても美味しかった。また食べたい。
でもガスレンジを買い換えないとまた苦しい。ロト6を買ってみようか。

働いても働いても収入が無い。我が家はどんどん貧乏になっていくのだ。
でも今日は仕事を終えた時「ありがとう」って言ってもらえて嬉しかった。

欲しがらない事だといつも思う。こころに福をささやかな恵みがきっとある。



もう陽が沈んでしまう頃。とぼとぼとふたりまたいつもの散歩道を歩いた。

ひとつひとつ夏のページをめくりながらそれを閉じていくような日々だった。






2009年08月22日(土) 風に吹かれながら

夏がそのありったけのちからを振り絞ったような残暑。
ちいさな秋を手招きしながらも誇らしげに微笑むように。

そんな夏の微笑みを心地よくおもう。好きだなと思った。


かと言って満喫するのでもなくずっと出不精のまま過ごす。
ぽつねんとしている。そこにいて感じられるものの気配や。
物憂げな時の過ごし方や。無意味としか言えない在りようや。

そうして日暮れ近くなるとむしょうに風に吹かれたくなるのだ。


土手の道を行くと川遊びをしている人達を見た。ボートみたいなもの。
あれは何と言う乗り物だろう。轟音を響かせて川面を走り抜けている。
とても爽快に見えた。怖そうだけれど一度あれに乗ってみたいと思う。

海のことも思い出した。10代を過ごした海辺の町のことが懐かしくなる。
大きなタイヤチューブを浮き輪にして友達が沖へと連れて行ってくれた。
足の着かない海は初めてだったからとても怖かったけれど楽しくもあった。
みんな泳ぎが上手だったな。カナヅチで泳げない私はみんなが頼もしかった。

私が海に浸かったのはあれが最後だと思う。ずいぶんと遠い昔になったものだ。


夕風に吹かれているとそんな懐かしさや。なんともいえない哀愁を感じる。


ふっと不思議に思うのは今まさに自分がここに存在しているということ。
ここに辿り着くまでのこれまでを思うと。なにもかもが運命のように思う。

終の棲家がある。縁深き家族がいる。私はながいながい旅をしてきたようだ。



2009年08月20日(木) きれいさっぱりと流してみよう

細かな雨がふったりやんだり。また梅雨の頃のようだった。
残暑もつかの間かもしれない。一雨ごとに秋が近くなりそう。

山里の職場には鶏頭の花が今が盛りと咲いている。炎のように。
ずっとそう感じていたけれど今年は少し心細く燃えているようだ。



母の体調が少し悪くあれこれと気遣ってみるも。よほど気丈なのだろう。
やはり素直には聞き入れてはくれない。はらはらと心配しながら過ごす。
仕事をしていないと弱気になるのだと言う。そっと見守るしかなかった。

親不孝かもしれない。私はふっと逃げ出したくてたまらなくなる。
もっと弱音を吐いて欲しいと思う。もっと甘えてくれたらと思う。

結局逃げるように職場を後にしてしまった。思い煩う事なかれ。
そう言い聞かしながら。明日はあしたの風に吹かれようと思う。



いつもの散歩道。ススキの穂が日に日に増えてきてはっとする。
雨上がりの空から微かに夕陽が見えた。風に揺れるススキの穂。
ほのかな茜色にそれが映し出される。もうどうしようもなく秋。

祈るでもなく願うでもなくお大師堂を後にする。清らかでありたい。

灰汁のようなもので汚した心なら尚更。きれいさっぱりと流してみよう。



2009年08月19日(水) ただひとつのことでいい

浜木綿の実のなんと重たげなことだろう。
その重みに耐えかねて茎が折れてしまう。

日に日にその実が多くなり見るたびに心が痛む。
花はひとの姿に似ていた。実もまたそれに似て。
力尽きて地面に倒れてしまったかのように見える。

けれどもそうして生きている。それが運命のように。
なにもかも受け止めているのだとそっと呟くように。

夏が過ぎ秋が来てまた巡り来る季節の真っ只中にいて。
その花の生き様をこの目で確かめてみたいと強く思う。

浜木綿。この夏出会えた愛しき花。ありがたき花だった。



そうして今日もお大師堂を後にする。もう薄暗くなった道。
ひとりの少年に出会った。まるで鞭打つように走っている。
日焼けした顔。滝のような汗。これでもかこれでもかと走る。

「こんにちは」と声をかけてくれた。「えらいねぼく」と。
ほんとうに感心するくらい頑張っていたのだ。石段を往復。
坂道をダッシュ。そこには新鮮なエネルギーが満ちていた。

とても清々しい気持ちになり何度も振り向きながら家路に着く。

まだあどけない少年だけれど。若さはきらきらと輝いて見えた。

しみじみと失ったことを懐かしく思う。頑張っていたのだろうか。
あの頃の自分はこれほどまでにひとつのことをやり抜いただろうか。

10代のはるか遠い日を昨日のように思い出す。もう遅いのかもしれない。

けれどもただひとつのことでいい。やり抜いて遂げられることをしたい。



2009年08月18日(火) 生まれてくれてありがとう

日暮れがほんの少し早くなったように思う。
紅い太陽がぐんぐんと落ちていくところを。
呼び止めるように縋りつくように見ていた。


あの日も夕陽を感じた。部屋中に紅が満ちていて。
私はうめき声をあげながらその時を待っていたのだ。
痛みは12時間も続きもう耐え切れずただただ苦しく。
お腹に手をあてながら何度も懇願するように呼んだ。

午後7時50分。ほんとうにあっけなくすぽんとかるく。
その子が生まれる。けれども泣き声が聴こえなかった。
一瞬パニックになってしまい大声をあげて喚き叫んだ。
ほんのつかの間の事。やがて火がついたような泣き声。

ちっちゃくてしわくちゃでほんとうにお猿さんみたいだ。
手を握ってみる。足に触れてみる。ああこの踵だと思う。

その踵の手触りは確かに私のお臍のあたりにいつもあった。
時々は蹴ってみたり。時々はとんがったまま痒くなったり。
その踵がすべてであるかのように語りかけてもみたのだった。

28年前の今日のこと。その子はそれから「さっちゃん」になる。


親は子供に育ててもらうというけれど。まさにその通りだと思う。
夏に生まれたその子は向日葵のように明るく朗らかな子供だった。

子育てが苦手だった私を助けるようにすくすくと育ってくれる。
そうしていつの間にかおとなになって今もそばにいてくれるのだ。

やがては嫁ぐ日も来るだろう。母はとても淋しくなってしまいそう。

引きとめられず縋りつけず。それも親の成長の過程かもしれない。


ちいさな秋を知らせるように虫の声が絶え間なく聴こえてくる夜。

少しだけ老いた母はサチコのことをたくさんたくさん想っています。



2009年08月17日(月) 明日がありますように

もう秋のような朝。ずいぶんと涼しさを感じた。
晴れた空にはうろこ雲。爽やかな風に吹かれる。


久しぶりの仕事だった。まるで学校に行きたくない子供のように。
胃がしくしくと痛み出す。たくさん休ませてもらったではないか。
叱咤したり宥めたり。我ながらどうしようもなく手がやけるのだ。

大好きな山里をおもう。稲刈りの後の懐かしいような藁の匂いや。
毎朝見上げていた欅の木。ひたすら前へと歩き続けるお遍路さん。

行っていればやはりそこは船の上。緑の海に浮かぶ難破船のよう。
ゆうらゆうらと漂っているといきなり大きな波がそれを揺さぶる。

見たくない渦がある。けれどもあと少しもう少しと時をついやす。
きっと些細な事なのだろう。さらりと水に流せることなのだろう。



お昼休み。携帯電話を横目で見ながらしばし迷ったことがあった。
昨夜夢に出てきた人のことがとても気掛かりに思う。中学の先輩。
ふたりクルマに乗っていて大洪水にあった。とても怖い夢だった。
その人は私を残し助けを呼びに行ったきり帰って来なかったのだ。

最後に会ったのはもう10年以上も前。変わりなく元気でいるのか。
なんだかとても不吉な夢のように思って胸が締め付けられるようだ。

けれども電話をしなかった。してはいけないような気も少しはあり。
もし何かあったのだとしても。それは仕方なくどうしようもない事。

私たちの年代というものは。突然にそれが来ても不思議ではなかった。
若き日を糧のようにしながら進むべき道をただただ老いていくばかり。

その人が男でなければ迷わず電話をした事だろう。それが現実だった。


ふっきってふっきって今日も夕暮れ。赤とんぼが飛び交う土手の道を。
沈みかけた夕陽を追い掛けるようにあんずと歩く。あれこれと思った。
そんな一日も暮れる時にはこんなにも平穏にある。ありがたいことだ。

あなたも同じ夕陽を仰いでいますように。ふたりに明日がありますように。





2009年08月15日(土) 長い夜になりそう

曇り日。昨日の暑さが嘘のように涼しくなる。

土手にはススキの穂がまだ若々しく風に揺れている。
今にも雨になりそうで早目にお散歩を済ませて来た。


空模様を気にしながら送り火を焚く。もう行ってしまうのか。
なんとあっけなくつかの間のことだろう。お見送りは寂しい。


夕食は独りぼっちだった。彼は従兄弟達と飲むのだと言い出掛ける。
サチコは隣町の納涼祭に行く。今夜は海辺で花火を楽しむ事だろう。
息子君はお盆休みというものがなく。結局帰って来れないままだった。

独りの夕食は寂しくもあるけれど。楽ちんでもありコンビニのお弁当。
一番風呂に入り心地よくビールを飲みながら独り言を言いつつ食べた。


長い夜になりそう。こうしてとりとめもなくつまらないことをまた綴る。

窓の外はすっかり暗くなり。どこからともなく秋の虫の鳴く声が聴こえる。



2009年08月14日(金) 夕風に吹かれながら

もう残暑と言うべきなのだろう。その厳しさがいちだんと増す。
けれどもじりじりと焦げるような暑さが心地よく思えるのだった。

夕方になり西陽が射す柿の木のあたりで。ツクツクボウシが鳴いた。
今年初めて聴くその声は。いく夏を惜しむようにせつなくてならない。

やはりどうしても急いでいる。さからうことの出来ないもどかしさと。
受け止めながら流されていくこころが背中を押されるように前へ進む。

秋になる。冬になる。また春がくる。そうして老いていくことだろう。



夕陽に染まる川辺の道を今日も行く。赤とんぼがたくさん飛んでいた。
夕風を心地よく浴びながら歩いていると。身も心も清々しく息をする。
真っ只中にいるということ。ぽつねんと生きていることを改めて思う。

百日紅の花がこんなところにとはっとする。桜と銀杏の木の間にあり。
川面を見下ろすように咲いているのだった。なんと愛らしい紅だろう。
お大師堂の浜木綿はいつしか重たげな実になりうなだれているというのに。


あんず。今日もおとなしく忠犬ハチ公の真似がずいぶんと上手くなった。
ちゃんとお座りをして待っていてくれるのが嬉しい。とてもほっとする。

携帯のカメラで写真を撮ろうとしたら不思議そうに首をかしげていた。






2009年08月13日(木) おかえりなさい

気持ちよく晴れて夏らしい陽射しがあふれるように降り注ぐ。
夏色の風が吹きぬける路地。蝉時雨。力強さを感じる入道雲。


昨夜の憂鬱はいったい何だったのだろうと思った。
確かにいつもとは違う一日の始まりだったけれど。
自分の身勝手さを思う。なんと不謹慎な事だろう。

お葬式を無事終え帰宅する。ほっと肩の荷を下ろす。
老いて逝ったひとを思う。避けられない儀式だった。



夕方になり迎え火を焚く。「おかえりなさい」と手を合わす。
父も弟の家に帰って来てくれただろうか。遠く離れていても。
ちょっとだけ旅をしてくれる気がする。仏壇に日本酒を祀る。

先に逝ってしまったたくさんのひとを思う。お盆というものは。
その魂がより身近に感じて懐かしさが込み上げてくるものだった。


心地よい夕風に吹かれながらいつもの道を今日も歩く。川の水が。
あの濁流がずいぶんと清くなった。落ちる夕陽を映し一際眩しい。

流されて流れて。歳月が一日がまるでひとつのようにそこに漂う。







2009年08月12日(水) ゆっくりといきたい

うす雲におおわれながらも夏らしいいちにちになった。
こんな日を待ちわびていたかのように蝉がしきりに鳴く。


山里の職場はまだお盆休みではなかったけれど。私だけ。
一日早くそれをいただく。なんだかぷつんと切れたような。
気力というものがすっかりなくなってしまった感じになる。

ある意味ずるい。けれどもそのずるさが心地よくも思える。



ご近所で不幸があった。明日はお葬式のお手伝いに行く予定。
あたふたと落ち着かない気持ちが治まらないまま夜になった。
どこか肝心なところのネジが突然外れてしまったようでもある。
ご近所づきあいは大切な事。分っているけれど受け止められない。

朝になればしゃんと出来るだろうか。とにかく眠ってみなければ。



夕方の土手はとても涼しかった。夏草が揺れて水の匂う道を歩く。
深呼吸をいっぱいする。背筋を伸ばしてすくっと前を向いて行く。

ふっともう立秋を過ぎていることを思い出す。こんなふうに風が。
日に日にそれをおしえてくれるのかもしれない。急いでいるような。

それでもいかないわけにはいかない。もっともっとゆっくりといきたい。



2009年08月10日(月) 雨上がりの川面に

一昨日の夜から降り始めていた大粒の雨がやっとやむ。
川の水が増水し濁流がうなるように轟きながら流れている。
そこに夕陽が射すのを見た。なんだかとても神秘的な光りだった。


月曜日。急遽仕事に行くのをとりやめる。
高潮のため彼は消防団の見回りに出かけ。
私は川船の管理を任されてしまったのだ。
とはいえ女手ではどうしようも出来ない。
ただ待機しているだけの留守番になった。

雨が小降りになりほっとする。彼も帰って来る。
午後はテレビで『よさこい祭り』の中継を見た。


弟から電話。昨日送ったお盆の御供え物などが。
もう着いたらしい。父の事を任せきりにしている。
今年も行けそうにない事を詫びながら電話を切る。

弟は母に似ているのかいつものほほんとしている。
あっけらかんとした言葉に救われるおもいだった。


夕方。5日ぶりの散歩。雨あがりの土手を歩いた。
濁流のうなる音が怖いのかあんずは尻込みをする。
土手の石段を下りられず仕方なく上に繋いでおく。

お大師堂の日捲りは8月6日のまま。あの朝の事。
見送ったお遍路さんのことを思い出す。酷い雨に。
その後の苦労を思うと心が痛むような気持ちになる。

お大師ノートに言葉を残してくれていたのを読んだ。
「会いたい人に会えました」とそこにはそんな一言。
きっと何度目かのお遍路なのだろう。出会った人に。
再び会うことが叶ったのだと思う。ほっとする思い。

一気に心が清々しくなった。夕陽がとてもまぶしい。

濁りながらうなりながら渦巻く流れに光りが射していた。




2009年08月08日(土) お盆には帰って来てね

昨日が立秋だったらしく暦の上ではもう秋だと言うのだろうか。
なんだかとても信じたくない。不完全燃焼のような夏の中にいる。

お盆も近くなり帰省ラッシュの様子をテレビで観る。
今年こそは父の生まれ故郷に行きたいと思っていたけれど。
いまだ彼に相談できないまま。諦めの気持ちが募ってきた。

もう30年以上になる。祖父母や叔父のお墓参りにさえ行く事が出来ない。
そのうえ父の七回忌も近いというのに未だにお墓を作ってあげられない。

とても情けないけれど。思うようにいかないことがあり過ぎるのだった。


我が家では今日お墓参りに行った。彼の父親が眠っているお墓。
お寺の裏山にありふうふういいながら彼とふたり上って行った。
春のお彼岸からそのまま。ずいぶんと荒れているように思った。
竹箒で枯葉をかき集めてから草むしり。やぶ蚊がたくさんいる。
汗だくになり掃除を済ますと。彼の次に私がとお参りを済ます。

ちょうど雨が降り始め駆け足で山を下りた。大切な事を忘れる。
「お盆には帰って来てね」とそう伝えるのを忘れてしまったのだ。
でもだいじょうぶ。彼はちゃんと忘れずに手を合わしたということ。

嫁ぐということ。その家の家族になるということ。ご先祖様を敬い。
しっかりと努めなければいけないことがある。実家のない私にとって。
終の棲家があるということはとてもありがたいことだとつくづく思う。

不憫でならない実の父のことであっても二の次にしなければならず。
かといって心の中ではいつもいちばんだとどうしても思ってしまう。

「お父ちゃんお盆には帰って来てね。私のところにも会いに来てね」



降り始めた雨はやまず。今日のお散歩も仕方なく諦めてしまった。
雨の時のあんずは犬小屋に潜り込んで気だるそうな眼をしている。

傘をさしてひとりとぼとぼとお大師堂に行きたくなってしまった。
けれども結局そうしない。そんな矛盾を打ち消すように空を仰いだ。



2009年08月06日(木) 一期一会を思うとき

いちにち雨が降ったりやんだり。時折りどしゃ降りの雨。
やまない雨はないのだもの。受け止めるように時を過ごす。


午前6時12分。朝の窓辺から昨日のお遍路さんの姿を見送る。
土手の道の高さと私の部屋の窓の高さはちょうど同じくらい。
だからとても真っ直ぐにその姿が見える。よく眠れただろうか。
早起きして今日も頑張るのだな。雨あんまり降らないといいな。
あれこれと願うように思いながら。そっとその姿に手を合わせた。


午前8時12分。出勤途中のとても長いトンネルを抜けたその時。
電話ボックスの横の木陰で再びその姿を見つける。ひと休み中。
美味しそうに煙草を吸っているその横顔がまた魅力的に見える。

ぽろぽろと小粒の雨が降り始めた。なんと情け容赦ない事だろう。
こころが締め付けられるように痛くなる。涙まで出そうになった。

けれども歩いていくのだな。雨に打たれてもそれが試練のように。

今日はいちにちその人のことを想った。なにも伝えられないけれど。
その人は勇気と希望をあたえてくれたのだなと思う。ありがたい人。

一期一会を思うとき。ささやかな出会いはいつもかけがえのないものだ。



夕方になっても雨はやまず。仕方なくお散歩を諦めてしまった。
お大師堂に置いてあるノートのことがとても気になっていたけれど。
もしかしたら何か書き残してくれているかもしれないと思ったのだ。

明日がある。うん明日があるからと宥めながら一日が暮れていった。

かの人は無事に足摺岬に着いただろうか。明日は晴れるといいな空。







2009年08月05日(水) るんるんらんらんの日

お昼前から雨。しばらく降り続きまた梅雨の頃のようになる。
またからりと晴れる日もあるだろう。好きだよっと空に伝言。

とんとんとんと今日も流れいく。水たまりがあればぴょんと。
飛び越え。石ころに躓きそうになればおっとっとと苦笑いを。

どんな日もあるからそれを楽しむような生き方をしたいと思う。



帰り道にはいつも晩御飯のおかずを考えながら帰る。
今日はハンバーグにしようかなってそう思っていたら。
合挽き肉が特売だった。やった〜ってラッキーって喜ぶ。
エノキ茸も特売だった。三杯酢の和え物にすることにした。

鼻歌を歌いながら夕食の支度。るんるんらんらんを心がける。
そうするとちっぽけな憂鬱も胡椒のようなくしゃみになるのだ。


雨やむといいな。そう思っていたら夕食後にはやんでくれた。
また降り出しそうな空。急いで行くよとふたり散歩に出掛ける。

川辺の道でふたりづれの笑顔に出会う。犬がとても好きそうな人。
おいでおいでとあんずに声をかけてくれたのだった。それなのに。
警戒心の強いあんずは尻込みをして動こうとしない。笑ってくれて。
それでもまだ諦めずに向こうからあんずのところに近寄ってくれる。
あんずが靴の匂いを嗅いだりするのを喜んでくれて私も嬉しかった。
じゃあねって言って土手に停めてあったクルマに乗って帰って行く。

ネクタイ姿のふたり。出張か何かで遠くから来たのかな。四万十川が。
雨の後でも濁ってなくて。穏やかな流れでいてくれて良かったなと思う。


お大師堂にはお遍路さんの荷物があったけれど。姿が見えなかった。
夕食の買出しに行ったのかなと思い。そっと忍び込むようにお参り。
外へ出るとちょうど帰って来たところで。ほんの少しお話しをする。

若くてすごいイケメンのお遍路さんだったので。ドキドキしてしまった。
すっかり緊張してしまいあたふたと一言三言。おやすみなさいって言って。
後ろ髪を引かれるように家路に着く。ほんとに笑顔が素敵なひとだったな。

やっぱり今日はるんるんらんの日。ありがたい一日がそうして暮れていく。



2009年08月04日(火) ほっと寛ぐ夕べに

太平洋高気圧が頑張った日。とても眩しいほどの真夏日になった。
蝉の声も元気に聴こえる。ああ夏だなあと思う。心地の良い一日。

朝の道で三人のお遍路さんを追い越す。最初はかっこいい自転車。
競輪選手のようなヘルメットを被りサングラスをかけてびゅんと。
風を切りながら白装束をなびかせていた。とても颯爽とした姿だ。

二人目は60歳くらいの男性。静かに黙々とひたすら前へ進む足取り。
三人目は20代に見える若者。短パンに日焼けした足。膝が痛いのか。
右膝にサポーターをしているのが気になる。とても重そうな荷物だ。

それぞれ頑張っているのがすごく伝わってくる。遣り遂げるという事。
目標を決めてなんとしても行くぞという勇気。その姿に元気を授かる。


私にはそんな勇気のかけらもなくて。ただ行くあてもなく彷徨うような。
平穏だけを頼りに背中を押されるように。日々を流れていくだけだった。

これでいいのかと漠然と思う時もある。けれどもこれしか術がないのだ。
何かもっと真剣ななにか。それが何なのかさえわからないまま時が過ぎる。

笑顔の一日。ほっと寛ぐ夕べ。平和だった。思い煩う事がないということ。
ついそれが当たり前のように思えてしまうけれど。決して当たり前ではない。

ときどき怖くなる。どこかに深い落とし穴があり突然に突き落とされる。
その時に嘆き悲しむことだけはしたくない。ああこれだなこれなんだと。
受け止められるこころを育てていきたい。それが覚悟であるかのような。


ありがとうございました。今日もお参りに行き感謝の気持ちを伝える。
それが今の私に出来る精一杯のことだと思う。毎日がそうでありたい。

あんず。そんな私を待っていてくれてありがとう。繋がれたリードを。
そっと手から離してみた。えっ?いいの?何度も振り向きながら帰る。

家があるって嬉しいね。だってここがあるから仕合わせがあるのだもの。



2009年08月03日(月) 贈り物をもらったような気持ち

空はずっと不安定なまま。時折り夏らしい陽射しを垣間見る。
入道雲に蝉時雨。夏が好きになった私にはそんな夏が恋しい。


月曜日の朝はやはりどうしても憂鬱でならなかった。
駄々をこねるようにぐずぐずとしながら仕方なくも。
山里へとクルマを走らす。途中の田んぼの藁の匂い。
重そうな荷物を背負ったお遍路さん。ひとつひとつ。
気持ちを宥めてくれるようにそこで待っていてくれる。

おかげで職場に着いた頃にはすっかり清々しい気分だった。

身構えている時もある。とても緊張している朝もあるけれど。
それはやはり気の持ちようなのだろう。肩のちからを抜いて。
とにかく笑顔で始められる朝が嬉しかった。ほっとする自分。

とんとんと一日が流れる。今日は少し忙しくてあっという間。
母の機嫌もよく顔色を伺う事もなかった。「ありがとう」と。
帰る時に言ってくれる。それだけで救われるように嬉しかった。

それはいつだって思いがけない。自分は当たり前のことをしていて。
感謝して欲しいなどとこれっぽっちも思ったことなどないのだから。
贈り物をもらったような気持ちになる。また恩返ししたいなと思う。




いつものお散歩。今日はいつもより少し遅くなったけれど日課だから。
夕涼みにちょうど良い風が土手に川面にそれは心地よく吹いてくれた。
あんずは例のごとくぐんぐんと先を行く。そうしてお大師堂が近くなると。
暴れ始める。その暴れようは尋常ではなくいまだ理由はよくわからない。

仕方なく少し手前の石段の手すりにあんずを繋ぐのがもう慣わしになった。
最初のうちはそこできゅんきゅん喚いていたのが最近急におとなしくなる。
まるで忠犬ハチ公みたいにお座りをしてじっと待ってくれるようになった。

お参りを済ませその場所を眺める。私の姿をじっと見つめているのが分る。
「あ〜ん」とその名を呼びながら近づいていく。嬉しそうにはしゃいでいる。

ありがとうね。今日は言い忘れた言葉。明日から毎日彼女にそれを伝えたい。



2009年08月01日(土) いまはどこだろう

昨日。やっと梅雨明けの報せがあったけれど。
夏らしい快晴とはいかず大気が不安定らしい。
時々どんよりと重くなる空にか細く蝉の鳴き声。

もう8月だというのにすこし心細さを感じてしまう。
それでもこのまま流されていくのだろう真夏の季節。



土曜日。例のごとくで怠惰に過ごしてしまった。
ごろごろと寝ころんでめったに見ないテレビや。
気がつけば眠り込んでいるというだらしなさだ。

今日は市民祭で街では踊りや提灯台が賑やかなことだろう。
人混みは苦手だけれど。やはりお祭りは好きだなと思う。
夕方になり出掛けてみたくなった。けれども動き出せず。
どんどん日が暮れていく。和太鼓の音を無性に聴きたい。

そういえばむかし。母に彼を紹介したのも市民祭の夜だった。
彼は法被を着て提灯台を担いでいた。ほらほらあのひとだよ。
26歳だった彼。お祭りの男の人ってとても眩しく見えたっけ。

ながいながい歳月が流れてしまった。つい昨日のように思い出す。
今はもう祭りの『ま』も口にせず。街に出掛けようともしなくなる。


人生ってながいようで短い。自分も母になってあらあらという間に。
子供たちはすっかりおとなになってしまった。急いでいるのだろう。
もっとゆっくりでいたいのにいろんなことが走馬灯のようにまわる。

灯りが消えたら何も見えなくなる。それはとてつもなく寂しいことだ。


いまはどこだろうとふと思うときがある。もう半分はとっくに過ぎた。
残りのことを考えるとすごく不安だった時があったけれど。今はもう。
授かれるだけだからと何もわからないまま日々を受け止めているだけ。


どどんどんどん。和太鼓の音がいま遠くから響いた気がして耳を澄ましている。


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