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20101008

 店で「新規テキストドキュメント」を開いたら最後のホッテントリがそのまま残ってて死んだ。美森さんの忠告はようやく俺の体内にしみこみ、俺はブラウザで直接文章を書くのではなく、ちゃんとローカルでテキスト書いてバックアップ取るようになったんだけど、いつまで経ってもデスクトップには「新規テキストドキュメント」ひとつきりで、それ以上のバックアップを取る気はない。
 昔はテキストに手打ちでHTML、それをFTPでアップロードという手順でやっていたので、その影響でテキストは手元に残っていたのだけれど、一定期間が経つと発作的に「俺の文章はダメだ!」とか思って全消去。その流れを繰り返しているうちに、いつしかバックアップを取っておく習慣そのものがなくなった。いまやHDDもギガどころではなくテラの世界になっちまってるっていうのに、たかだかキロ単位のテキストが食う容量なんて知れてる。それをあえて保存しないでいるのは、要は青くさい反抗心の名残だろう。
 とばかりもいえないものがあって、俺には強度に「一度ネットに放流した文章は、もう自分のものではない」という考えがある。自分のものでない以上、自分の手元にあってもしかたあるまい、ということだ。もうひとつは、そもそも自分の書いたものなんて覚えていたくもない。俺は、どんなクソつまらない文章でも、かならずだれかの娯楽にはなるに違いないと考える人間だけれど、それは「だれか」であって、決して自分の娯楽にはならない。俺の娯楽は書くところまでだ。そう思わないとやってられないような文章をたくさん書いてきた。

 しかし、いまこうやってほとんど読む人のいない状況で書いていると、自分の原風景がよく見える。俺は本当に「みんな」のために書く書き手ではなかったと思う。もともと自分を切り売りするようなスタイルだ。切って売る相手が少数であるうちはいいが、一定数を越えればそこはもうオナニーショーにしかならない。残念ながらオナニーショーそのものが自分にとって娯楽になるほどには、俺は露出体質の人間ではなかった。だから「装って」書くことになるし、どうやらその程度のことはできたらしい。そのようなものをして人は資質と呼ぶのかもしれないが、資質の有無とやりたいことは別っていうのが、人間のめんどくせえところだ。めんどくさいという以上に、たまに悲しい。
 ある人は、俺があの路線を継続して、より「多くの人」のための書き手であることを望んでいただろう。
 でも、無理。無理だった。ブログをメインにしていた一時期は、たぶん俺が富士通のワープロを手にして以来、もっとも文章量の少ない時期だったと思う。あ、例外は結婚したころかな。うちの奥さまは基本的に俺が多くの人に向けて文章を書くことに、あまり肯定的じゃないから。ま、このオチが見えていただけって話かもしれないが。
 とりあえず1ヵ月なりなんなり、いまの状況を継続してみようと思う。さんざん迷走したこの1年の俺なりの結論がここだ。そのうえで自分がなにを書くのかは、1ヵ月後の自分に任せようと思う。
 それにしても、読んでいる人の少ないことのなんと気楽なことよ。これは数字というものを捨ててなお過ぎた余慶だ。人はそれを退化と呼ぶかもしれんけどね。じゃあ進化ってなんなんだ、という話になる。もとより成長なんざどうでもいいのよ。いかに文章というツールを自分のために最適化するかという問題であって、そのためには俺にとっては他者の視線というのは邪魔だった。ごく少数だけいてくれるという確信(という名の幻想)を俺が持てれば、それだけで最低限のモチベーションは成立する。というより、成立することは証明された。
 もっともこのことは、一度はある程度の力を入れて「読まれること」を目的とした後だから言えることかもしれない。自分の力が通用するかどうか、という疑念は常にあった。そして通用した。そう断言してもいいと思う。少なくとも、なにか「本当に」伝えたいことがあって、それを入念に書いたとき、俺の文章は「伝わる」。もちろん原理的に真意なんてのは伝わらないものだとは思うが、多くの人からの反響があるならば、それは伝わったことに準じると考えていい。そのようなやりかたでしか計測できない。
 おそらくは、俺が考えているよりも「多くの人に読まれること」は困難なことであるのだろう。努力らしい努力もなしにそこに辿りついてしまったのは、幸運なのかどうか。とかゆったら多くの人のやっかみを買うことになるだろう。でも、この方向に、もうこれ以上の努力はない。これ以上の「多く」を望むのであれば、その方法はすでに理解した。そこに夢はない。
 ……てゆうようなことを、たぶん死ぬまで繰り返してるわけさ。でもその過程で、より自分自身に最適化した文章というものには近づけるはずだ。10年前より俺はうまくなった。5年前でも現在のほうがうまい。失ったものはあるか。あるだろう。変質もするだろう。てゆうか現に変質した。

 かつて、自分の文章に可能な限り強力な力を与えたいと思ったことがある。力というのは影響力であり、支配力でもある。まるで邪悪なもののように、読む人を支配したいと願った。しかしそれですらも実質は技術だ。もちろん「俺」という人格にこの技術が搭載されたからこそ、そのことは可能になったのかもしれない。だけど、一定ラインを越えて、大きく強いものになろうとするならば、そこから先にはおそらく迎合しかない。ある人はそれを迎合とは呼ばないだろうが、俺は感じる。真実に自分のためでないようなものはすべて迎合であり、そこに他人が価値を見出すかどうかは、俺にとってはまったく別の問題だ。他人がいかに称賛したとしても、そこに自分にとっての真実がなければ、すべては迎合にしかならない。
 たぶん、そういうやりかたでしか、最終的には書けない。



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