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20101007

 というわけでけいおん2期番外編25話と26話。


 けいおんはきつい。このきつさについて、ちょっとうまい説明が思いつかない。このきつさの一部についてはすでにどこかに書いたとおりなんだけど、どうにもそれだけじゃない。
 とりあえず現象だけ説明すると、見ているときはそんなにきつくない。見終わった瞬間がものすごくきつい。それからずっと引きずる。簡単に説明をつけるとしたら、まぎれもなく俺がけいおんの作品世界を「ひとつの世界」として把握しているということだ。つまり「ここではないどこかには、確実にあるもの」というように。このことにきつさを覚えなるなんざ、俺も年とったもんだなーとは思うものの、こればっかりはどうしようもない。
 ほんというと、言葉にするのすら物憂い。この物憂さっていうのは、たぶんいままで俺がほとんど感じたことがなかったものだ。なにはともあれ文章にしなければ気が済まないのが俺だからだ。
 なんていうんだろ。ほんとにもう「どうしようもない」んだよね、これ。

 まだブログの更新する気があったころに、ちょこっと「ネット中毒」について書こうと思ってた。わりとホッテントリ狙いの内容で、要は、ネットとリアルの二項対立って、もはや一定以下の世代ではほとんど意味をなくしていて、ネットってものをインフラ化させることにきちんと成功してる。それがインフラならば、ディスプレーのこっちと向こうにそれぞれの人間がいるだけで、仮に「ネット中毒」というものがあるとして、それはつまり「リアル中毒」とそのまま換言することができるよね、っていうもの。ただこの場合の「リアル」って、俺らの周囲にそのままある「現実」とはちょっと位相が違ってて、少なくとも生身ではない。俺が生身を知っている何人かの人たちは、ネットでもそのまま生身であるかというと決してそうではない。自分を表現する手段が、いまのところはテキスト以外にない方法では、どうしても生身の人間は捨象されざるを得なくて、そこのところでは「リアル」そのものとはいえない部分がある。
 なんでこんな話をとつぜん持ち出したかというと、俺がけいおんを好きな構造っていうのは、これによく似ていると思ったからだ。ただしこの場合「ディスプレーの向こう側」は存在しない。古くてなじみのある構造がここに出現しているわけなんだけど、いままではただキャラの不在に耐えればよかった。ここで「耐える」という言葉を使うのは俺らしくないが、やっぱり本質的にそれは「耐える」ということだと思うんだ。その「耐える」ということ自体も、こうした構造を温存するためには必須の要素ではあるものの、でも「いてくれたらな」っていう願いだけは絶対に消えない。このへんって「それを願った」時間がものを言う。いいかげん40歳になったら、この願った時間の長さってのは磨り減ってもいいようなもんなんだけども、別に思春期だけに願ったわけじゃないもんな。ずっと継続して、時には強く、別のときにはそうでもなかったにせよ、ずっと不断に願い続けてきて、それで現在がある。だから、それだけ願いは先鋭化してて、いまさら現実とやらにそれを満たせるとも思わないし、それになによりも、すでに俺は「夢見るころを遠く過ぎて」の場所にいる。可能性の有無を夢の世界に持ち込むのは不純だろうが、おっさんにはこのけいおんの世界が実現不可能だということは絶対の現実で、そこに距離が発生する。
 距離ってのは……あー旅に出てーとかしにてーとか、あのへんの距離と一緒。その距離そのものが、かえって作品世界を際立たせる。しかもけいおんって、特に二期はそうだけど、このへんの距離をいやらしいくらい演出しにきてるでしょう。きらきらしてるっていう。きらきらっていうのは「一瞬」だよね。限定性。学校っていう箱庭のなかに、モラトリアムを詰め込みましたっていうアレ。書いててどんどんしにたくなってきた。俺はなんでこの年になってまでもこのへん突き詰めて考えようとするんですかね。答えなんかわかりきってるってのに。
 こういう心境にある人にさ、あのけいおんの描写のリアルさってありえねーだろ、と思うわけ。特に終盤になってどうにもならないくらい際立ってきたんだけど、唯の行動のリアルさったらないよね。戯画化されたアホの子なんだけど、確かにああいう子っていそう。律と澪の関係もそうだし。あれは26話だったかな、卒業アルバムを教師のうちに持ってったときの、律に対する澪の強気な態度。あれってつまり、澪は律に許されてるからできるわけじゃない。甘やかされてるっていうか。自分ひとりじゃなんにもできない、でも「いい子」っていう路線は踏み外さない澪がさ、世間的には「いい子」じゃない律のことを「どうしようもないヤツ」っていう目線で見ることが可能だから、それを許されてるから、澪はあんなに律に対して強気になれる。その機微っていうのが、別に律澪だけじゃなく、あずにゃんにしろムギ(カタカナで表記するとダーティペア思い出して微妙な気分になるんですが)にしろ、相当の精度で描写される。そしてそれを補強する絵の力だよね。あの解像度はおかしい。今木さんにいわせればこれは怠慢なんだろうけど、いちいち例は挙げない。とにかくしぐさのあれこれが「ああ、確かにそこにいるな」って思わせてくれる。人が演じるんじゃない「どこにもいないけど、確かにここに存在する」っていうものとしてね。
 だからまあ、そういう要素のすべてが「きつい」わけ。

 妄想はねー、ほんとにしなくなったと思う。それだけ現実が重たいってのもあるし、その現実を背負って生きてかなきゃもうどうしようもないってのもある。だからいまの俺はパートタイム妄想erくらいなんだけども、その事実すらもが、いざ画面に唯たちがいるのを見たときには、この「きつさ」の補強材料になってしまう。少女マンガで始まって、鍵ゲーを経由して、いまここにいるわけじゃん。んでけいおんみたいな「求めていたものそのもの」の方法論で、しかも絶対に俺の手の届かない世界を描写する作品が出てきた。これってもう、俺にはどこにも行き場はありませんよ、ここから先はありませんよっていう最後通牒のようにすら思える。存在しない思い出というものがあるとして、そのものずばりを与えられたわけですよ。もうそれは記憶なんですよ、夏は過ぎたんですよ。追憶に浸って生きなさいね、という。それもまたよし、なのかもしんないけどさ。
 あー、だめだ。まだ書ききらねーなー。全解放できてねえ。そうそう、結局最近の煮詰まり感って、これなんですわね。なまじ文章書くのうまくなっちゃって、効率も上がっちゃって、いまの「しにてー」を全解放する手段がなくなっちゃったんですわ。そりゃ煮詰まりもする。あとはねー、作品と自分のあいだに夾雑物を入れないってのは俺の本質であり、かつポリシーでもあったわけですが、いまとなっては作品と自分のあいだに自分のハンドルがが挟まりすぎた気はしますね。名前がでかくなるのはけっこうだけど、ほかならぬ俺自身だけはそれに引きずられちゃいけなかった。それ自体が自分を損なうことになるんだから。ネット上での別人格を作るほど器用な人間じゃなかったっすわ。ほんと。
 それにしても今木さんのリリカルさってすげえよなあ、あれ。見た瞬間には俺も理解したけど、イカ娘って作品の本質的な「かわいそうさ」に気づける人間ってそうはいねえぞ。今木さんが今木さんたる所以って、あの参照範囲の広さは当然なんだけども、やっぱり根底にああいうリリカルさがあるからだよね。そのリリカルさに自覚的で、それを絶対に損なわないから。あらためて今木さん大好き(どんだけファンなんだよ)。



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