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20100106

 このデザインはなかなか気に入った。といっても実はこの日記サービスは以前(もう10年も前の話だ)にも使っていて、そのときも似たようなデザインにしていた。してみると、俺はこういうデザインが好きなものであるらしい。なにより驚いたのは、カスタマイズの方法が10年前とまったく変化がないことだ。web界隈のスクリプト言語にはまったく知識がないが、あれだけ純然たるHTMLでカスタマイズするサービスってもうほとんど残ってないんじゃないだろうか。だからこそ俺みたいな素人のクソ錆びついた知識でもカスタマイズできたわけだが。
 つい最近まで別のブログをやっていた。ネット界隈でもなかなか活発なほうのサービスで、そのサービスの内部においては相当の知名度を持っていたと思う。というより、なんらかの議論をする人や、いわゆるライフハック系のブログを読む人ならかなりの確率で俺のブログのことを知っているんじゃないかと思う。まあネットの自称なんてあてにならないものだから、俺の文章がそれに価するものであるかどうかは、読む人が判断してくれればいい。
 アルファブロガーとまではいわないが、半分はそのへんに足を突っ込みつつあったのは確かだ。あと1年も似たようなペースで進めていけば、なんらかの書籍化の話も舞い込んだかもしれない。しかし、そうした状態を続けてきて、ずっと違和感が拡大しつづけていた。
 俺はなんのために書いてるんだろう、ということだ。
 いい年をしたおっさんが「本当の僕」とか探すのはちょっといただけない。というか、ありていにいって爆笑ものだ。しかし本当にそういうことで悩んでいたのだからしかたない。
 「なんのために」というのは、そのままで「だれのために」ということだと断言してもいい。ネットで文章を公表するようになってから、もう10年以上が経過した。最初は、まぎれもなく自分のために書いていたと思う。自分のためだけに書いたものを公表したら、たまたまだれかが読んでくれた。そして俺が「まったく自分以外のだれの役にも立たない」と思っていたものは、どうやら自分以外の人間を楽しませる可能性があるらしい。そう気づいたことは、自分にとって革命的なことですらあったと思う。
 それをさらに進めて「より積極的に読む人を楽しませよう」と思ったのは、たぶん2年前のことだ。そう思って、ちょっとした努力を重ねてから、瞬く間にアクセスが増えた。少なくとも俺の「人を楽しませる能力」は、数字だけを見れば本物だったといっていい。
 アクセスが増えるのは楽しい。影響力が増すことは自尊心を満足させてくれる。頭の悪いヒップポップではないが、天下取ったような気分にもなれる。ツイッターでもミクシィでもいい、知名度のある人が降臨したとなればありがたがってくれる人は一定数いる。どこに行っても特別扱いしてもらえる。ネットの世界はフラットだというが、それは機会とシステムにおいてそうなのであり、影響力というものは金以上の力を持つ。
 もちろんそこには裏があるわけで、どこでなにをやってもかならず注目される。些細な言動のひとつひとつが取り上げられ、批判され、あるいは評価される。一定以上の反応の大きさというものは、それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、こちらの真意から離れているという点では似たようなものだ。そりゃ叩かれるよりは肯定されたほうが気は楽だが、それが本来こちらが意図していた文脈とかけ離れたものとして賞賛された場合に、人が感じる違和感はなかなかのものだ。
 その状況でブログを書きつづけ、俺はある日気づいた。自分は文章がうまくなっている。悪い意味で。ブログでどうやってアクセスを伸ばすか、読まれるためにはどうしたらいいか、なんていう文章はネットの世界には腐るほどある。実際俺も書いたような気がするんだが、これは実は内容の問題ではない。まったく箸にも棒にもかからないような内容ではどうしようもないが、自分の意見なんて一般論程度でかまわないのだ。それはおそらく、受験の小論文の書きかたで指導されるものとよく似ている。発想において奇抜すぎるもの、だれも辿りつけないほど深くまで穿たれた視点は、むしろ多くの人には読まれない。そうした意味では俺程度の知識の浅さは「ちょうどよかった」のだといえる。あとは構成とレトリックの問題だ。捻るのは「ほんの少し」でいい。そしてそれを「多くの人が欲している意見」に沿って展開する。その展開自体は文章力の問題なのだが、これは読まれるエントリとそうでないものを注意深く自分で見守れば「どういう展開がベストなのか」というのは自ずと体感される。その体感を得てしまえばしめたもので、あとはネタさえあればだいたいのエントリは伸びる。その典型例として俺はひとつのブログを知っているが、ここで名前を出すことはしない。
 俺は、それでもよかった。そういう方法論に則って書かれた内容でも、だれかを楽しませる可能性はある。より多くの人に届くように、より広い範囲に。書いている以上読まれたいというのは、願望というよりはもう本能みたいなものだ。そもそも書く人は、その内容がいかに「自分のためだけ」に存在していたにせよ、かならずや「読まれたい」のだ。なぜならば、それは一度出力されたからだ。出力された動機は、その内容を自分ひとりで抱えていることができなかったからだ。俺は文章書きの本能に従って、読まれようとした。努力というほどの努力をせずそれが可能だったのは、それが自分の資質だったのだろう。
 しかし、あるとき気づいてしまった。だれかって、だれだ、ということに。多くの人に奉仕するということは、必然的にそこに自分のいるスペースがなくなるということだ。たとえば俺個人が殺人を許容していたにせよ、それは多くの人にとっては許容できないものだ。このときに殺人を肯定する思想を多くの人に読ませるためには、煽りに近い手法を選ぶしかなくなる。もし真摯にその思想を追って文章を書いたときに、それは多くの人にとって理解できないものとなる。
 このとき俺は、自分のブログが「そのへんによくある人気ブログ」になってしまったことを知った。それを書くのは俺でなくてもかまわない。なるほど月間のPVは30万くらいはある。文章だけでここまで増やしたのは大したものだ。だが、だからなんだというのだ? 常に「大衆」とやらに準じた存在に気をつかって、ウケそうなエントリを書く。そんなことを繰り返しているうちになにが起こった? 自分のブログには一種の公共性が必要だと考えるようになった。完全な自縄自縛だ。俺が文章を書く本来の光景はなんだったのか。それは深夜、ひとりでいる部屋のなかで、だれが読むともわからない文章をただ自分のためだけにキーボードに叩きつけているような光景だ。それをしているとき、俺はたとえようもなく充実していたのではなかったか。はてなブックマークを眺めていてよさそうな題材を探して、それをネタにするようなことではなかったのではないか。


 いろいろ考えた。その結果、一度すべてを捨ててみようと思った。過去にも類似のことは何度かやった。しかしそのたびに結局は元に戻った。「完全に」切り捨てることはしていなかったのだと思う。ハンドルまで変えたのはたぶん今回が初めてだ。
 だれに向けて書こう。
 かつてそうしていたように、深夜にPCの前で、特に行くあてもなく、やることもなく、だらだらとネットを回っている「あなた」だろう。しかし俺がこれから書いていくだろう文章はあなたの「ため」に存在するのではない。俺が書きたいことを書きたいように書いたそれが、ひょっとしたら「あなた」にとっては娯楽になりうるかもしれない。その「ひょっとして」のために俺は書こうと思う。どのみち筆を折るという選択肢は俺にはない。書くことは俺にとって病のひとつだ。それを欠かしては自分が成立しないような、根本的な要件のひとつだ。
 そうだ。深夜の「あなた」が、この文章を読んでくれれば、俺はそれでいい。



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