誰かの幸せのこと。 - 2010年06月27日(日) 某バラエティ番組で、「人生の終わりついて考えるSP」というテーマで、 「親が死ぬまでにやっておきたい55のこと」として、 視聴者から募集したエピソードを紹介するという特集が放送されていた。 その一つ一つを吟味するつもりはないし、 その中の具体的な話について何か共感とかそういうことを、 書くつもりも特にはない。 ただ、思うところは、ある。 私には父親が、もう居ない。去年の3月に亡くなってしまった。 そういう、人生の終わりについて、なにか思う。 私は、まだ今、生きているけれど、父は、もう居ないこと。 それは、父の人生が終わってしまったということ。 人生が終わってしまった事実を見ることができるのは、 きっと、まだ人生が終わっていない人だけがそうできると思う。 だから私は、その人生の終わりに関して考えることができる。 思うに。一体、人が生きる意味って、何があるんだろう。 はっきり言って、そういう哲学的な命題はどうでもいい。 どうでもいいけれど、きっと人が生きていることというのは、 誰かしら何かしらに影響を与えていることなのだろうな、と思う。 父は、私を育ててくれて、その影響を受けて、私はここまで生きてきた。 もしかしたら、父も、私の影響を受け、 その途中の人生を作った部分もあったかもしれない。 ただ、その事実を知ることは、もうできない。 だけど、大事なのは、そこじゃない。事実を知ることじゃない。 生前の父からそういうことを訊けば良かった、という後悔でもない。 大事なことは、 これからの自分も、誰か周りに影響を与えていく、ということだ。 自分が生きている限り、そういう宿命というか原理があるはず。 影響を与えるだけなら、それでいい。 でも、本当に望むのは、少なくとも私が望むのは、 その影響がその人に「良い(善い)」ものであって、 そしてそのことでその人が幸せになることだ。 私は、父の息子に生まれて、父に「幸せ」を与えられたのだろうか。 亭主に先立たれた母は、私を息子に持って、「幸せ」があるか。 弟は、どうだ。就職活動中とのことだが、私は何かしてやれているのか。 恋人は、私と一緒に居てくれて、「一緒に居て幸せだ」と言ってくれる。 こちらこそ、そう思う。本当に幸せだ。ありがとう。本当に。感謝。 「親」という意識と少し離れてしまったかもしれない。 だけど、もしこれから自分が親になるなら、家族を持っていくなら、 きっとそういうことを考えるのだろうな、と思った。 別に人生の終わりについて考えたわけじゃない。 自分の人生の終わりについて、ふと空想することはあるが、 正直そんなことは考えない。考えることはできない。 想像がつかないんじゃない。考えても意味がないことだと思っているから。 ただ、この土日、人の温かさに触れ、 彼女と一緒に居て、夕方に彼女を家に送って、 そして一人で帰宅してふと思った。 幸せなこの気持ちが、とても、なんというかもどかしくて。 誰かと一緒に居るのが、自分の本当に愚かしいエゴだとしても、 それでも、誰かが一緒に居てくれてそして「一緒に居たい」と言ってくれて、 そして「幸せ」だと言ってくれるのなら、本当に一緒に生きていこうと思う。 一方で、この自分の生命の短さが怖くなって、 また、どうしようもない気持ちになる。 正直言って、どうしたらいいか、分からない。落ち着かない。 外見ではそう見えないかもしれない。でも臆病で、いつも怯えている。 こんな自分は嫌いだけれど、そこは今、問題じゃない。 大切なのは、私は、私の生き方をして、 そして、誰かのために生きられるなら、 そしてその人が自分にとって大切な人で、 その人が「幸せだ」と言ってくれるなら、 きっとそんなに幸せなことはない。 生きていて良かった。 瞬間瞬間、いつもそう思えるように、生きたいと思います。 自分の幸せ。あなたの幸せ。 あなたが居てくれて、本当に良かった、と思う。幸せです。 *** 2010/06/27 22:08 ...
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