死んでしまったらすべてが無になってしまうとしたら、 この今の苦しみに耐える必要があるのだろうか、と思ってしまう。 生活保護でも貰って、怠惰に生きて、と思ってしまう。 神様がいて、死後に裁きがあるということであれば、苦しみに耐える理由もできる。 けれど。 現実には、神様がたくさんいる、という問題もある。 神様という架空の存在を利用して、誰かが得をしているんではないか、という懐疑もある。
生きているこの現実世界だけで物事を考えるとすると、 明日、交通事故で死ぬかもしれないけれども、死なないことを前提として未来の為に今の苦しみに耐えることは、家族なり友人たちなり自分の所属する共同体へのメッセージになるということで、意味があるだろう。 神様の替わりに共同体がある。 自分が死んでも、自分の分身である共同体が残る。 共同体は自分の苦しみを無駄にしない。 今度は、共同体への疑問が出てくる。 共同体、あるいは人類、あるいは地球なり宇宙も、永遠に存在するのかどうか。
僕は生きている。 親がいて、血縁者がいて、友人がいて、他人がいる。 誰も死後の世界を知らない。 宇宙の外に何があるのかも。 この世界そのものが、夢であるという仮説も成り立つ。 誰も解き明かせない謎。 死んでみなければわからないけれど、 死んでしまったら、そもそも、わかるのかわからないのかもわからない。 とても不思議だ。 それでもみんな平然と生きている。 とても不思議だ。
常識は変わる。 科学がいろんな現象を解き明かせば、 存在という謎も解けるのだろうか。 創造主がいるとして、 創造主を創造したのは?
解き明かすことはできるのだろうか。 試みることは良いことなのだと思う。
少なくとも、今、僕は存在している。 夢なのかもしれないけれど。 この共同体の中で。 この共同体の中で生きている。 生きていく。
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