自己肯定感について

2010年01月24日(日) 死生観

死んでしまったらすべてが無になってしまうとしたら、
この今の苦しみに耐える必要があるのだろうか、と思ってしまう。
生活保護でも貰って、怠惰に生きて、と思ってしまう。
神様がいて、死後に裁きがあるということであれば、苦しみに耐える理由もできる。
けれど。
現実には、神様がたくさんいる、という問題もある。
神様という架空の存在を利用して、誰かが得をしているんではないか、という懐疑もある。

生きているこの現実世界だけで物事を考えるとすると、
明日、交通事故で死ぬかもしれないけれども、死なないことを前提として未来の為に今の苦しみに耐えることは、家族なり友人たちなり自分の所属する共同体へのメッセージになるということで、意味があるだろう。
神様の替わりに共同体がある。
自分が死んでも、自分の分身である共同体が残る。
共同体は自分の苦しみを無駄にしない。
今度は、共同体への疑問が出てくる。
共同体、あるいは人類、あるいは地球なり宇宙も、永遠に存在するのかどうか。

僕は生きている。
親がいて、血縁者がいて、友人がいて、他人がいる。
誰も死後の世界を知らない。
宇宙の外に何があるのかも。
この世界そのものが、夢であるという仮説も成り立つ。
誰も解き明かせない謎。
死んでみなければわからないけれど、
死んでしまったら、そもそも、わかるのかわからないのかもわからない。
とても不思議だ。
それでもみんな平然と生きている。
とても不思議だ。

常識は変わる。
科学がいろんな現象を解き明かせば、
存在という謎も解けるのだろうか。
創造主がいるとして、
創造主を創造したのは?

解き明かすことはできるのだろうか。
試みることは良いことなのだと思う。

少なくとも、今、僕は存在している。
夢なのかもしれないけれど。
この共同体の中で。
この共同体の中で生きている。
生きていく。


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猫目 虎三

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